「ごちそうさん」
クレープを食べ終わった三浦は満足げに嘆息し、夕焼けの空を見上げる。
「おそまつさまでした」
「別にあんたが作ったわけじゃないでしょ」
「それでもお前、俺の親が稼いだ金だぞ」
「それ威張るとこじゃないし……」
非難するような目で見られるが、恥じることではない。俺の将来の夢に照らし合わせるのであれば。専業主夫であれば妻の稼いだ金は誇りだろうが!まあ僕は親の脛かじってるだけなんですけどね。
「バレンタイン、か」
三浦はクレープを包んでいた紙をいじりながら、声を落としてうつむく。
「あんたちなみに、バレンタイン貰ったことあんの?」
「おう、毎年貰ってるぞ」
「は、はぁ!?それ誰から!?」
三浦の剣幕に思わず身を引く。いや、俺がチョコをもらう相手など一人しかいないだろう。
「いや、毎年貰ってるけど……小町から」
「……は?小町?お米?」
「だから米じゃなくて妹だ。お前も正月に会っただろ」
三浦は思案気に顎に指を当て、ああ、と軽く手を叩く。
「ああ、あの子……。つーか家族からのチョコは数に入らないっしょ」
「は?妹からのチョコ以外物の数ではないだろうが何言ってんだバカかお前」
「いやおかしいのあんただから。普通数に入れないから。……パパがあーしのチョコ数に入れてたら、それこそキモイし」
「パパ?高校生のくせにそういう不健全な行為をするのは八幡どうかと……」
「黙れ死ねセクハラ野郎」
意味がわかる方もどうかと思うんですけど。こいつ相手だと反応が返ってくる分、ついその手の軽口が出てきてしまう。由比ヶ浜と雪ノ下はガチでドン引きするだけだからね!
「で」
三浦は俺に白い目を向けたまま問う。
「バレンタインイベント明日だけど……あんたあの修学旅行の時みたいに、余計なことする気じゃないだろうね」
修学旅行での俺のした余計なこと。彼女は俺が戸部の告白を止めようとした、あのことを言っているのだろう。あれは未遂ということで許してほしかったんですが。
「依頼もされてねえのに、何で好き好んで下らねえイベントに付き合わなきゃいけないんだよ。俺から動くことはねえよ」
「普段の信用の問題っしょ。それに」
三浦は視線を手元に落とす。
「あーしにとっては、くだらなくなんてない。……バレンタインは」
「……そうだったな」
そうだろう。彼女にとっては、それこそが重要であるはずだ。
葉山を想う、彼女であれば。
「ちがう。隼人のことだけじゃない」
しかしほんの小さく、彼女はそう呟く。
見透かされているのだろうか。はっきりと聞こえたそのつぶやきを、彼女は説明もせず、続ける。
「あーし、あんたに聞いたよね。どっちにすればいいかわからないって」
「……」
思い出されるのは、保健室での彼女のうるんだ瞳。彼女は迷っている。大して他人のことをわかるわけでもないが、今俺はそれを確信していた。
ディスティニーランドの帰りの彼女の迷い、俺が彼女に誕生日プレゼントを渡したあの日の笑顔、保健室での彼女の涙。
彼女が、三浦優美子が何かについて悩んでいることは、俺でもわかった。
しかし、その何かを問い詰める気も思い詰める気も、俺にはさらさらなかった。
「あんたは、どう思う。あーしはどっちにすればいいと思う。……保健室の続き、聞いてなかったから」
「俺がどう思おうと、どう考えようと、お前には関係ねえだろ。つーか」
問いに対する答えは出ていなかったが、その質問に対する返答は既に決まっていた。
「関係したくねえよ、他人の人生の岐路なんかに」
関係したくない。それは紛れもなく俺の本音だと思う。今まで三浦優美子の抱える問題に少しばかり口を出し、アドバイスをしてきたが、これは質が違う。今回の問題は、進路についてだ。
他人の、彼女の人生に口を出す権利など、俺にあるはずがない。
「……言わなきゃわかんないほど馬鹿じゃないっしょ、あんた」
拒絶する俺に、三浦は顔を歪める。
「それとも、他人のことは分かっても、自分に関係することはわかんないか?」
彼女は平然と、痛いところを突く。
「隼人が理系であんたが文系。……そう言ったでしょ、あーし」
その目を、揺れる瞳を見ることができない。見てしまえば期待してしまう。そしてまた自己嫌悪の波に呑まれる。
「――ヒキオ」
押し黙る俺と三浦の距離が、不意に縮まる。
なにか、温かいものが重なった。
ベンチに座る彼女の手は、軽く、ほんの触れる程度に、俺の手に重ねられていた。
「あーしは、あんたに――」
その、えーっと。迷いながら、つっかえながら、それでも彼女は俺が言えない言葉を口にする。
「関係したい。無関係じゃない。……これはあんたと、あーしの問題だって言ってんの」
重ねられた手は、今度は優しく包み込まれる。
「はっきり聞くね、ヒキオ」
その温度に、つい身を任せたくなってしまう。
「あんたはあーしが隼人にまた告白しても、何も思わない?止めない?あーしが理系に行くって言っても、それでも干渉しない?……いや、違うし。これじゃまたあんたは逃げるか」
三浦は小さく息を吐き、短く、しかし大きく吸う。
「あんたは、あーしのこと、好き?」
考えないようにしていた問いは、唐突に突き付けられた。
いや、唐突に見えるだけで、多分俺の中でも彼女の中でも、既に答えは出ていた。それを表に出すことをためらっていただけだ。
三浦優美子に振り回され、引っ張りまわされ、そして彼女の弱い部分を知って、数カ月。口では面倒だ面倒だと言いながら、俺はそれを、いつでも曲がらず、間違えない彼女を、どこか好ましく思っていたのだと思う。
それは俺にも、雪ノ下にも、由比ヶ浜にもない強さだったから。俺はそうは生きられない。だから正直に言えば、その生き方が眩しかったし、羨ましかったし、妬ましかった。
最近の葉山や三浦、自分への憤りも、それが理由になっている気がする。彼女に応えない彼に、そんな彼を想う彼女に、そして何もできない俺に、苛ついていただけなのだろう。
だかららしくないことをしてまで、葉山に勝負を挑んだ。彼の意思を聞き出そうとした。
理解できなかったのだ、俺は。なぜ彼が彼女を拒むか、彼女が彼を想うか。
葉山隼人の立場に俺がいたら。何度もそんなことを思ってしまった。
彼女と俺の関係は、想いは、諍いは、常にそれを、葉山隼人を介していた。彼女は彼を想っていた。そして。
俺はそれを、真っすぐに彼を見つめる彼女を、綺麗だと思った。
ならばやはり、曲がらず間違えない彼女に、俺が言えることは一つなのだろう。
「三浦」
「うん」
隣に座る彼女を見る。俺が迷う間も、その手は俺の手に重ねられていた。何かを確かめるように、そっと、優しくのせられていた。
陽は傾き、公園に残されたのは俺と彼女の二人だけだ。風は切るように冷たいし、座ったベンチからは冷気が直接伝わり、既に体は芯から冷えている。でも。
心地いい。重なった温もりを確かに感じ、俺は素直にそう思った。
だから俺は正しく、比企谷八幡が考え、出した結論を口にすることができた。
「お前は、理系に行くべきだと思う」
その答えは正しいはずだ。しかしなぜか、彼女の顔を見ることができない。今度はすぐ近くの彼女の息遣いさえ聞こえない。彼女がそこに居る証左は、もうその手の温度だけだ。
それすら、少し冷たくなった気がする。
「葉山のことを好ましく思うお前の心は、本物なんだろう。多少傲慢なことを言うなら、たかだか数カ月、近くで見ただけの俺でもそう思う」
だから。
「お前が本気であの男を、面倒な葉山隼人を離したくないなら、お前はあいつの近くに居るべきだ」
俺は彼女の気持ちを本物だと思う。だから微力ながら、いままで彼女に協力してきた。
その中で俺が彼女に惹かれているのも、多分事実だ。
しかし、だからこそ、俺はそれを口にすべきではない。俺が綺麗だと思ったのは一人を想い続ける三浦優美子であり、一つのことに向かっていける三浦優美子だ。その姿に憧れ、焦がれた。
俺は決して、「俺の隣に居る彼女」を想ったわけではない。そのために彼女を見て、彼女の近くにいたわけではない。
俺は、どこまでも「葉山隼人を想う三浦優美子」を、本物だと思った。
その強い彼女を、俺が焦がれた彼女を、今まで俺が三浦と話した、葉山隼人への彼女の想いを、嘘にしたくない。……いや、より正確に言えば。
葉山を想う彼女の話を聞き、試行錯誤した俺と彼女の時間。それによってつながり、過ごした俺と彼女の時間を、嘘にしたくない。
だから俺は、三浦優美子が好きではない。
言葉にできる気はしない。しかし、この気持ちに嘘はない。
「……そっか」
重ねられた手は、静かに外される。
「それが、あんたの答えなんだ」
「そうだ」
今度こそ、俺はその問いにはっきりと答える。
決心が鈍る前に。
「あーしは、あんたのこと――」
三浦は何か言いかけ、しかし小さく困ったように笑い、頬をかき、ため息を吐き、そして、宣言する。
「あーし、明日隼人に告白する。……これで、最後」
その笑顔は彼女らしくなく諦観に満ちていて、しかし満足気でもあり、吹っ切れたようにも見えた。
だから、俺も安心して返すことができた。
「おう、頑張れ」
「頑張っても結果は隼人次第じゃない?あんたならそう言うっしょ」
「そりゃそうかもしれんが、頑張らんことにはどうしようもねえだろ、あいつの相手は」
あの面倒な男の相手は。
「そっだね」
三浦は神妙にうなずき、うん、うんと何かをかみ砕くように、何度も首を縦に振る。
そして、暮れた空に向かって軽く吠える。
「うん、あーしはバレンタインに隼人にもう一回告白する。あんたもチョコくらいは試食させてやるから、楽しみにしとけし」
「おう。変なもん入れないでくれると助かる」
「は?それは失礼っしょ。結衣じゃないんだから」
「お前の方が失礼なんだよなぁ……」
ひとしきり笑い合い、ふと腕時計を見ると、もういい時間になっていた。どちらからともなくベンチから腰を浮かす。
「じゃ、あーしそろそろ帰るから」
「じゃ行くか」
「ううん」
軽く駅に行くことを促すと、彼女ははっきりと首を振る。
「ここでいいから」
迷いたくないから。寒さからか震える彼女の唇は、そう動いた気がした。
「……そうか」
「うん、そうだし」
また、彼女は笑う。
そんな乾いた笑いを、らしくない笑いを聞きたいわけではなかった。
しかし、どうしようもないのだろう。
「じゃあね、ヒキオ。……バイバイ」
「おう、まあ、しっかりやれ」
これでいい。
振り向くことはなく俺は自転車にまたがる。いくらかペダルを漕ぎ、脚がだるくなってきたところで信号に捕まる。寒さに手をこすり、何とは無しに来た道を振り返る。
そこにはもう、当然彼女の姿はなかった。
バッドエンドは嫌いなのよ!(コルワ)