ポンデリングが、美味しくない。
食べかけのそれを眺めて、あーしはいつものような幸せな気分になれなかった。
甘いものは好きだ。甘いものは人を幸せにする。食べても太らないあーしだからそう思うだけかもしれないけど、甘いものならいくらでも食べれる。ミスドだって好きで、ポンデリングはその中でも大好物だ。
でも、今日はおいしくない。なんか甘く感じられない。パパがたまに、今日はビールがうまいとかまずいとか言ってるのは、もしかしたらこういうことなのかもしれない。一回パパにねだって飲んだことがある。あんなのいつ飲んでもクソまずいと思うけど。
でも、だとすれば。
甘いものじゃ満足できないなら、あーしはなにで満たされればいいのだろう。
「優美子……優美子?……優美子!」
ぼーっとそんなことを考えていると、目の前に海老名の顔があった。
「ひゃっ!?な、なんだし海老名」
「何だってこっちの台詞だよ。どしたの、さっきからボーっとして」
「あ、ああ、別になんでもないし」
まさかあんな恥ずいこと考えてたなんて言えない。あーしはテーブルに置いてある飲み物をとっさに飲み、それを誤魔化す。
隼人と話した後は特に問題もなく、バレンタインイベントは終了した。結衣も川崎の妹もちゃんとチョコ作れてたみたいだし、海浜総合も楽しんでたみたいで成功して良かった。あーしと隼人が戻った時、一色があーしのことひたすら睨んでたけど。
イベントが終わっても、外はまだそんなに暗くなってなかった。明日が高校受験の影響で下校時間が早く、イベントのスタートが早かったからだ。
帰るには早い時間ということもあり、あーしは海老名を誘ってミスドにきた。
海老名はあーしの飲んだものを見て、苦笑する。
「それ、私が頼んだコーヒーなんだけど」
「あ、あれ?……って苦っ!なにこれ苦っ!海老名、あんたよくこんなの飲めんね。人間の飲み物じゃないっしょ、これ」
「まさか勝手にコーヒー飲まれた上に、人間であることを疑われるとは思ってなかったよ」
あーしは急いで自分で頼んだ牛乳で口直しする。飲めるかっての、あんなの。海老名はそんなあーしをいつものように笑い、何でもないように言う。
「でも優美子、隼人君に合わせてコーヒーとか無糖の紅茶とか飲むの、止めたんだね」
「……別に、そんなんじゃないけど。ただの気分だし」
「あっそ」
こいつは何も知らないような顔をして、急に核心をつく。ぷはー、とわざとらしく息を吐き、海老名はこっちに向き直る。
「まあいいや。そろそろ聞かせてもらえる?なんで私をミスドに誘ったか」
「どうってわけじゃないし。ただミスド食べたかっただけ」
「さっきまでチョコレート飽きるほど試食したのに?」
まずったし。マックとかにしとけばよかった。海老名は自分のチーズドッグを一口かじる。ミスドでチーズドッグ。甘いもの食い飽きたとはいえ、やっぱりこいつ、変。
「ふふ。隼人君と戻ってきてから――ううん、今日朝会った時から、ずっと上の空だよ。優美子。もしかして」
海老名は悪戯っぽく笑う。
「ヒキタニ君と、なんかあった?」
「……隼人はともかく、ヒキオは関係ない」
「えー、とてもそうは見えないけどなぁ。最近はあんだけ仲よさそうだったし、ずっと近くに居たのに」
「違う」
「嘘だよ。今日なんてあからさまにヒキタニ君のこと避けてたし」
「違うし」
「違う?なにが違うの?優美子はどう見てもヒキタニ君に――」「だから、違うって!」
思ったより、大きな声が出た。店内に居る客が一斉にこちらを見る。でも今は、そんなことどうでもいい。
「違う。あーしとヒキオはそんなんじゃなくて、ただの生徒会の会長と庶務。クラスメイト。接点はそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない」
「ふーん、そっか」
海老名は一転、興味なさげに視線を外し、苦い、苦いコーヒーに口をつける。あーしもつられて自分の牛乳を飲む。
五分、ほどだろうか。無言で時が流れ、それが妙に居心地を悪くさせる。
思えばあーしはは海老名と居る時、海老名と結衣と居る時、無言になることはあまりない。彼女たちは常に何か話している。海老名は勝手に自分の趣味の話を、結衣はあの性格だから、いろんな話を。
何も話そうとしない海老名は、珍しく暇そうにケータイをいじっている。こうしてみると普通の女子高生みたいに……いや、かなりかわいい女子高生に見える。これを海老名に言うと無言で怒るから言わないけど。
見ていたことに気づいたのだろう。下を向いたままの海老名は、上目遣いでこっちを見て、ようやく切り出す。
「じゃあ、べつのことを話そうか。さっきは、隼人君にチョコ受け取ってもらえた?」
「……ううん、受け取ってくれなかった」
「なんで?」
「なんでって、あーしに聞かれたって――」
考える間もなく、海老名は聞いてくる。
「そのためにこのイベントを企画して、雪ノ下さんにチョコの作り方教えてもらったんじゃないの?」
「それは……そうだけど」
「だけど、なに?」
おかしい。あーしはさっきからの海老名の態度を見て、そう思う。家に帰るのも一人になるのも嫌で、海老名をミスドに誘ったのはあーしだ。海老名なら何にも肩入れせず、あーしの味方にだってならないで、話を聞いてくれると思ってたから。こいつのそういうとこは嫌いではあるけど、ありがたくもある。
悩んでる時、辛い時、苦しい時。海老名は上から目線の同情を押し付けたりは、絶対にしないから。こっちを勝手に惨めな奴にしないから。こいつならただ聞いて、ただ頷いてくれる。ひとりごとを聞かせるにはこいつが一番いい。
だから、海老名がここまで人の事情に首を突っ込むとは思わなかった。
「まただんまり、か。優美子は適当に話聞かせようと思って私を誘ったんだろうけど、私も優美子に話があるんだ」
海老名はふー、と大きく息を吐き、いつもかけてる眼鏡を外す。それに度が入ってないことは知ってる。だからあーしは、海老名に何度か眼鏡を止めるように言ったことがある。でも海老名は、絶対外さなかった。
あーしは今、見たことのない瞳に見つめられている。海老名は深く、暗く、あーしを見ている。
「私、怒ってるの」
そして、耳を疑った。
怒る?誰が?誰に?
海老名は眼鏡を外したまま、あーしから視線をそらさない。
「私、怒ってるよ。珍しく怒ってる。自分でも何でこんな腹が立つか理解できないけど、本当に怒ってる。怒髪天をつくよ、逆鱗に触れたよ、仏の顔も三度までだよ、激おこでぷんぷんだよ」
「ちょ、海老名、落ち着いて落ち着いて」
「言われるまでもなく落ち着いてる、私は」
海老名の顔は、穏やかだった。むしろいつもより優しく笑っているくらいだ。
でもなぜか、その暗い瞳に、背筋が寒くなった。
「……あの、え、海老名?」
「なに?」
「何で怒ってるか、聞いてもいい?」
つい声が小さくなる。海老名は笑ったまま続ける。
「別に、なんてことはないよ。そもそも優美子が悪いわけじゃない。それでも、優美子に怒りたいんだよ、私は」
「あ、あーしに!?なんで?」
海老名が怒ってるのは、あーしに対してらしい。海老名はあーしが聞き返した瞬間、深くため息を吐く。呆れたというように、付き合いきれないというように。そんなにあーし、海老名になんかしたっけ。
「修学旅行、覚えてるよね」
「……まあ、うん。それがどうしたし」
忘れるわけがない。皆で色んな所に行って、色んなものを見て、色んなものを食べて。それで――あーしが、隼人に振られた。
「私多分、本当はあの竹林で、ヒキタニ――ううん、もういいか。比企谷君に告白されてたと思う」
「あー、そんなこともあったっけ……って、えぇ!?」
意味がわかんないし。ヒキオがなんか小賢しいことやろうとしてたのは知ってたし、ヒキオが飛び出した時嫌な予感したからあーしも動いちゃった。それは確かなことで、間違いない。
でも、なんでそんなこと。
「私は戸部君に告白されたくなかったからね。今のグループが大事で、それを守ろうと、維持しようとした。多分あの時比企谷君は私に告白して、私に比企谷くんを振らせて、私が誰も好きにならないことを、戸部君に伝えようとした」
少し前のあーしなら、その意味が解らなかっただろう。くだらないと一蹴してたと思う。でもあいつと話して、あいつに助けられて、あいつの考えてることを少し知った今なら。
「……そっか、あの時のヒキオのやり方って、そういうことだったんだ」
あのバカは、そういうこと平気でしちゃう奴だ。自分が傷つくのなんて気にしちゃいない。そうやって、あーしのことも守ってくれたから。
だから、そのくらいならわかる。
「うん、多分そうだっと思う。でもね、そんな嘘だらけの茶番を、全部根っからひっくり返しちゃった人が居たの」
あ。
考えてみれば、思い当たる節はあり過ぎた。
「私が私なりに悩んで、隼人君に迷惑かけて、奉仕部の皆にも旅行中まで気を遣わせて、比企谷くんにいらない決心までさせた。私の事情で周りを振り回すのは、結構しんどかった」
ヤバ、そういうことか。
「で、さっき言ったようにその全部をものの見事にぶっ壊してくれた女の子がいて、私は無事、戸部君の告白を正面から断ることになったんだ」
聞いたことある話だし。
「その女の子は、自分の気持ちを伝えることに私たちを巻き込んだ。『友達の恋路に興味ないのか』って、私は言われた。
で、その女の子は好きな男の子に一回振られたの。でも彼女は後悔してなかったんだと思うんだ、その時は」
そうだし、あーしは後悔なんてしてない。
「なのにね、今になってね、その子が、私の未来を変えちゃったような子がね。私に向き合うことを強制した子が、自分のそれから目を背けてるんだ。見ない振りしてるんだ」
いよいよ、わからない振りもきつくなってきた。
「今日なんてどう見ても半端な気持ちで揺れてるくせに、告白する「振り」して一人ですっきりしようとしてた。向き合わなくて何も言わないことが、自分の選択だと思い込もうとしてるんだよ。……私たちに向き合うことを強制したのは、その子なのにね」
もうあーしは、海老名の顔を見れなかった。
「ふざけんじゃねえよこのアマって感じだよね」
「ご、ごごっ、ごめんなさぃ……」
思えばあーしに悪い所はないような気もするが、謝らずにはいられなかった。マジで怖い。海老名マジで怖い。普段怒らないやつを怒らせちゃいけないって、こういうことか。らしくない、情けない声まで出てしまった。
「ん?別にいいんだよ?謝らなくて。最初に言ったよね、これは正しい怒りじゃない。部外者の私が優美子を責める権利なんてない。だから、優美子が悪いと思う必要なんてない」
「そ、そう、だし」
「ただ、無性に腹が立って、腹が立って、腹が立って、それで……がっかりしただけ」
怒りに任せた言葉はいきなりしぼんで、海老名はうつむく。その髪が海老名の顔を隠す。
「がっかり、した?」
腹が立つのはなんとなくわかる。あーしだってこんなウジウジしてる自分自身に、一番腹立ってるから。
でも、がっかり、とはどういうことだろう。
「優美子のやり方って、きっとそんなんじゃないから。だから、がっかりした」
「あーしの、やり方」
繰り返しても、なかなかしっくりこない。昔のあーしに見えてたはずで、今は見えてないものがある。それは分かる。多分海老名は……隼人も、それのことを言ってる。
でもあーしにはそれが何か、やっぱりわからない。
「私は修学旅行までのグループの関係を壊したくなかった。それは本当。あのまま変化せず、何事もなく残り半年が過ぎても、良かったと思う。たぶんそれはそれでとても楽しくて、綺麗な終わり方だったと思う」
あーしも、そう思う。でもそれを台無しにしたのは、あーしだ。考えてみれば、あーしはなんでそんなことをしたのだろう。
「それからはね、関係が変化してからは、結構きつかった。もう戸部君の気持ちに気づかない振りはできないし、たまにそれが重く感じることもあった。告白しようとしてくる男子が増えたり、そういうことに巻き込まれやすくなった。私が面倒で近づきたくなかったことが、私に近づいてきた」
それもあーしの責任だ。海老名に重いものを背負わせてしまった。海老名が遠ざけてたものを目の前に突き付けてしまった。
「でも、それでもね、優美子」
不意に、その手が重なった。海老名の手はとても冷たい。あーしは体温高いから、余計それを感じる。
でも、あったかい。そう思った。
「私、楽になった。見ない振りをして、気持ちを向けられることに怯えるだけだった時より、全然楽になった。それも本当のこと。戸部君と話すことに、笑うことに、胸を痛めることもなくなった。無理しなくても自然に笑えるようになった。もっと言っちゃえば」
そっか。その彼女らしくない顔に、あーしはようやく理解する。
「戸部君にチョコ渡すときなんか、体温が上がった」
チョコっとね。海老名姫菜は、普通の女の子のように、頬を軽く染め、笑う。
「全部優美子のおかげだよ。怒ってるのは本当。がっかりしたのも本当。でも、これも本当の気持ちだから。今更だけど、言わせて」
海老名は握った手をほどき、深く、深く、頭を下げる。
「ありがとう」
どうすればいいのだろう。
頭を下げる海老名をみて、あーしはそう思う。
あーしは今まで、自分がやりたいことをやって、やりたいように生きてきた。多分その途中で色んな人間に迷惑かけてるし、あーしのこと嫌いな人間も大勢いる。
でもあーしは正直、それを気にしたことがなかった。人は誰かに迷惑かけずに生きてくことなんてできないし、あーしが誰かに迷惑かけられることだってある。あーしにだって嫌いな奴なんて山ほどいる。他人にとっての嫌な部分もあーしだし、あーしにとって嫌な部分もそいつ自身。いちいち気にしてたら、生きるのが面倒になるだけだ。
だから、自分のしたことを振り返ることもなかった。やりたいようにやって、その責任は自分で取る。それでその問題は終わり。その結果が修学旅行での隼人への公開告白で、あーしが生徒会長になった理由。
想像もしてなかったんだ、あーしは。自分のしたことが、他人にどれだけの影響を与えてるかなんて。
大切な友達を、あーしがどう変えたかなんて。
気持ちに向き合ってなかったのは、海老名じゃない。目の前の女の子は、もうそれを知ってる。それを認めてる。
目を背けてたのは、きっと、あーしだ。いや、あーしだけじゃない。
あーしと、あいつだけだ。
隼人はきっと、そういうことを言ってたんだ。
あーしは隼人にチョコを渡す時、体温が上がっただろうか。
「海老名」
「なに?優美子」
「だめだ、やっぱり抑えられないわ、あーし」
「私が知ってる優美子は、抑えようとすらしてなかったよ」
気づけばうつむいていた顔を、必死に上げる。そこにあるのはいつもの何を考えてるかわかんない、深くて暗い瞳。そして人を食ったような笑み。とても器用なくせに、不器用な生き方しかできない女の子。
この子になら、安心して言える。
「あーし、やっぱヒキオのこと好きだ」
「うん、そっか」
二人で笑い合う。初めて海老名と、ちゃんと話をした気がした。楽しいと、そう思った。あーしはほんとはまだ全然、この子のことなんて知らなかったんだ。同じクラスでいられるのもあとちょっと。時間が惜しい。知るには時間が足りないかもしれない。
でもあーしには、その前にやらなきゃいけないことがある。
「ごめん、海老名。あーし行かなきゃ」
「おうよ、早く行ってこい。ここの支払いは私が持つ!」
出世払いか、なんなら今度池袋でなんかおごってくれても……ぐ腐腐。いつものように海老名はわけのわからないことで一人、笑う。いや、もう払ってるから。雰囲気で会話するなし。
でも多分、それはこいつなりの気遣いだろう。
「海老名」
「うん?」
あーしは海老名に背を向けたまま、自然と口は開いた。
やっと、戻ってきた気がする。
「あーしこそ、ありがと」
返答はない。しかし無言で背中を叩かれた。それが何よりも心強い。それに押されるようにして、店を飛び出した。
あーしには、好きな人がいる。