「はぁ」
深いため息によって沈黙が破られる。黙る俺にため息を吐いたのは、雪ノ下だった。
「由比ヶ浜さん、彼いくら考えても答えが出そうにないから、先に私の話をしてもいいかしら」
「うん、別にいいよ。ていうかごめんね、待たせちゃって」
由比ヶ浜と雪ノ下が俺に白い目を向ける。いやだって、急にあんなこと言われたら無理じゃん。焦るじゃん。
心の中で言い訳を並べる俺に、雪ノ下はまたため息を吐き、俺を見る。
「さて、比企谷くん。私もこの機会にちゃんと告白しておこうかしら」
止める間もなく、彼女は言った。
「私は、あなたのことが、嫌いよ」
瞬時に決めた覚悟。それは一瞬で水泡に帰す。
「は?」
言葉が出てこない俺に、雪ノ下は滔々と続ける。
「その腐った目も、背骨がへし折られたような猫背も、ぱっぱらぱーな髪型と頭の中身も、全部嫌い」
「ねえ、唐突に人の外見的特徴を取り上げてディスるのやめてくんない?」
「外見にこそ性格がにじみ出るものよ。あなたのそのどうしようもない性格はもう治らないのかしら」
「ほっとけ」
まったく何が言いたいのだろう。一通りのやり取りに雪ノ下は少し頬を緩め、懐かしむように夜の空を見る。
「ところで比企谷君。ディスティニーランドで私が言ったこと、覚えてるかしら」
「……ああ」
彼女は言った。姉のようはなれない、あんなふうに強く生きることはできない。弱みを見せようとしなかった女の子は、自分にはできないと言いきった。
そして、彼女には目的がある。
「人ごとこの世界を変える」
雪ノ下と初めて会った時も、彼女はそう言った。
「今思えばずいぶん傲慢な考え方ね。何も知らない一人ぼっちの人間が、他者と関わらないための言い訳にさえ聞こえるわ」
彼女は自嘲気味に言う。しかしそこに蔑んだ色は薄い。
「でも、その信念はまちがっていなかったと、今なら言える」
だって。雪ノ下は穏やかに微笑む。
「変わったもの。私も、あなたも、由比ヶ浜さんも」
人は簡単には変わらない。俺はそう思っていたはずだ。
「奉仕部にあなたと由比ヶ浜さんが入って、三浦さんが来て、一色さんの依頼を受けて、生徒会が発足した。思えば結構いろんなことがあった一年だったわ。特にここ数ヶ月は」
「……まあ、そうだな」
「三浦さんには随分振り回された。修学旅行の時も、その後も、生徒会のことも。好き勝手にやられたわ。……まったく」
「でも存外、そんなのも悪くなかった。
私は自分が本当は弱いと知って、でも信念が正しいとわかった。最初はあんなに周りのことばかり考えていた由比ヶ浜さんが、こんなにはっきりと思いを口にできるということを知った。あなたは否定するでしょうけど、そんな中であなたも確かに変わった。あの選挙の演説は、正直驚かされた。
彼女との学校生活で、私たちは少しずつ変わった。私と由比ヶ浜さんはその自分を認めてるし、実際私はそう悪くないと思ってる」
雪ノ下は俺の目を見て、彼女と、由比ヶ浜のようなことを言う。
「足踏みしてるのはあなただけ……いえ、あなたたちだけよ。向き合えないことを相手のせいにしているのは、あなたたちだけ」
「逃げることはそんなに悪いことか?」
「逃げる?目をそむけて見ない振りをしてることを、逃げていると言うの?」
雪ノ下は、俺は逃げてすらいないと、それも否定する。
「あなたは逃げてさえいない。逃げたいならさっさと逃げればいい。
私はあなたが由比ヶ浜さんの告白を断る理由にも納得してない。彼女の告白にきちんと答えることができないのなら、今すぐにでも由比ヶ浜さんの想いに応えてあげればいい。その想いに逃避すればいい。逃げるってそういうことじゃないの?
あなたは傷つきたくなくて、傷つけたくないから、目を閉じてるだけよ」
雪ノ下は俺の目だけを見て、言い放つ。
「その腐った目、いい加減開きなさい」
「……はぁ。お前は変わってなんかねえよ。最初から冷たすぎて、厳しすぎる」
「あら、それは褒め言葉かしら」
クスリと雪ノ下は口に手を当てて笑う。
「私はあなたのことが嫌い。この期に及んでどうしようもなく情けないあなたが、大嫌いよ」
「もういいから。もう八幡のライフはゼロだから」
「でも」
柔らかく微笑み、彼女もそれを口にする。俺があいつに言えなかった言葉を口にする。
「友達になら、なってあげてもいいわ……その程度には、好きだから」
「あ、あたしは友達で終わる気ないからね!……いや、今は友達だけど!」
焦るように言う由比ヶ浜に、思わず笑みが漏れる。
俺には勿体ない友人たちだろう。
「さて、比企谷君」
雪ノ下は咳払いをひとつ、俺に向き直る。
「ただでさえ不幸が服を着て歩いているような矮小な存在のくせに、自分から不幸になろうとするなんて、あなたいったい何様なのかしら」
「人の幸不幸を勝手に決め付けないでもらえますかね……」
「不幸じゃないというなら、いい加減その辛気臭い面どうにかしなさい」
「この面はデフォルトなんだよ」
だから外見的特徴を内面と結び付けるんじゃない。雪ノ下は肩にかかる髪を振り払い、俺を見据える。
「あなたの友人として、忠告しておくわ。私の友人が自分から不幸になることを、私は絶対に許さない。せいぜい必死に、みっともなく、あなたは幸せを望みなさい。
私はそうすると決めたから」
「忠告、痛み入る」
俺は素直に、雪ノ下に頭を下げる。
由比ヶ浜は優しいだけではなくなった。周りに流されるだけではなくなった。自分の気持ちを伝えるために、他人の心に踏み入れるほど強い。彼女は正解のない問いに、自らの気持ちに従い、それでも間違えることは無い。自分の気持ちに嘘を吐くことは無い。
雪ノ下は強いだけではなくなった。完璧故に脆く、誰かに依存するだけではなくなった。自分の行く末を見据え、他者を、自分を赦せるようになった。彼女は迷い、立ち止まり、一人でも、誰かとでも歩いていける。そんなしなやかな女の子になった。
なら、俺はどうだろう。気持ちよりも義務を、全体にとっての正解を求めるだけだった比企谷八幡は。
変わってもいいのだろうか。
「由比ヶ浜」
「うん」
迷って出なかった言葉。横にいる一人の友人を見る。彼女からは笑みが返ってきた。そして目の前の、もう一人の友人を見る。俺なんかにそれを伝えた、もう一人の大切な友人を見る。
彼女には、言いたい。優しく正直な彼女に、俺の口は今度こそ自然と開く。
「俺には、好きなやつがいる」
「うん」
「くそわがままで、傲慢極まりなく、いつでも自分が一番じゃないと気がすまない。そのくせおかしなところで他人のことばかり考えて、それを必死で隠して、でも周りには筒抜けだ。世話焼きの癖に自分のことになると抜けてて」
そう。そんな奴だった。そんなのといる時間も悪くないと、俺は思っていた。気づいてしまえば、閉じた目を開けば簡単にわかる。
「なにがあっても自分を曲げない。どうしようもねえ頑固者だ」
「うん、知ってる」
「由比ヶ浜」
「うん」
だから、俺は。
「俺は、三浦優美子が好きだ」
「あたしより、優美子の方が好き?」
「誰よりも、好きだ」
「うっ……」
はっきりと言うと、由比ヶ浜は頬を朱に染め、顔を背ける。
「そんな顔で言われたら、納得しちゃうよ」
「まあそのために言ったからな」
「ひっど、そんなはっきり言わなくてもいいじゃん!」
憤慨する由比ヶ浜に、慌てて付け足す。
「はっきり言わないと、雪ノ下に生涯恨まれそうだからな」
「比企谷くん?何か言ったかしら?」
「いえ、何も」
ひとしきり笑い合い、穏やかに時間が流れる。
友人というのも、存外悪くない。
ふと公園の時計を見ると、まだ遅すぎるという時間でもなかった。
まだ帰るには、少し早い。
「やりのこした仕事あるから、さき帰っててくれ」
「あら、進んで残業とは珍しいこともあるものね。明日は槍でも降るのかしら」
「専業主夫しぼーのヒッキーらしくないね」
「ほっとけ。……まあ、いってくるわ」
笑う二人に、俺も笑って返す。自転車にまたがると、後ろから声がかかる。
『いってらっしゃい』
重なった言葉とともに、俺は思いきりペダルを踏んだ。