その言葉に真っ先に反応を見せた男がいた。
「なぁ―――聞き間違いか?」
──その短い言葉が戦地に落ちると、まるで弾かれた糸のように、隊列の息づかいが一斉に変わった。
その言葉を発したのはリヴァイである。
そう発した直後にはもう彼は動いていた。
立体機動のワイヤーの音も、風を切る羽音もなく、ただ一歩──無駄なく、確かな足取りでエルヴィンの前を横切り、目の前の男の方へと出る。彼の動きは音を立てないが、そこにいる者たちの視線を無条件に引き寄せる。刃を収めた右手はほんの僅かに前へ出て、鋭い視線だけが相手を貫いた。
その視線の先で胡坐をかいた男は、ただただ静かにこちらを見上げていた。
砂埃が踵の辺りでくすぶり、陽光が彼の顎のラインを、その蓄えられた髭をわずかに照らす。まだあの男と兵団の間には距離がある。死地と定めたラインを意図も容易くリヴァイは超え―――2人のその空間に、冷たい緊張が滞った。
ある程度まで近づくと、エルヴィンが声を上げようとするが、まるでそれを読んでいたかの様にリヴァイは止まり、そして声は低く、硬質で、静かに響かせた。
「……俺の耳には、「殺してくれ」としか聞こえなかったが。そもそも、お前があの馬鹿を飼えると本気で信じてるのか? だとするなら巨人並みに低能な頭の持ち主なようだ」
その一言は針のように鋭く、しかし直接的だった。
言外にあるのは、憐れみでも、ましてや怒号でもない――。リヴァイにとって珍しい感情、と言えなくもない抑えきれぬ感情の音符であった。
それが故に、リヴァイはエルヴィンの指示を待たずに、前へと出たのだ。嘗てなく感情が揺さぶられたが故に、先に出たのだ。
アキラを捕らえる、御する。そんなものは出来るとは到底思えない。リヴァイの言葉に嘘はない。
あの男が仮にアキラを手中に収めたとして、その抑えきれない強大な力はその内側で怒りと共に爆発を起こさせて、そして粉砕されるだけだ。
あの超大型の巨人の爆発が可愛く見える程に、残酷で無慈悲に……それ以外無い筈なのだ。
だが、目の前の男の目の奥は濁ってたりはしない。
どこまでも本気な様だった。
その後ろに控える調査兵団の面々も表情は一斉に変わっていた。
眉根を寄せ、唇を強く噛む者。頬がこわばる者。刃を握りしめる手の甲が白くなっているのが見える。
感情が前に出させたリヴァイと同じ。同等に彼らも感情を揺さぶられたのだ。
兵団の英雄。彼がいなければ、今ここに命は無い。
彼がいなければ―――壁の中で、帰りを待つ家族は平和で、幸せに暮らす事が出来なかっただろう。
途方もなく、どうしようもなく、返しようも無い多大なる恩義がある。
人類の希望だから渡せないのではない。
この場に居る、あの拳で、あの足で、……あの身体で、助けられた全員が等しく思っている事だった。
「と言うより、私以上に彼を扱えるって言うなら、是非傍で見てみたい気はするけどね」
軽口を飛ばすハンジ。
リヴァイや他のメンツとはやや異なる心持ちな様子。怒りよりも好奇心が全面に出てしまっている様だ。
悪魔を、アキラを渡した後一体どうすると言うのか? 何をどうすれば、あの人外を御する事が出来るのか? と。
渡すつもりは毛頭ない。でも、巨人の力はまだまだ解らない所がある。
自分達の知らない何かが、アキラを縛る鎖になる可能性だって決して否定できないのだ。
「――――待てハンジ」
エルヴィンはハンジを制した。
リヴァイに関しては……そのままの体勢で。何も指示をしない。つまりは自分の直感を信じて動け、と言う事。
こういう時、指示をしないと言う事は全て委ねる時である、と事前にリヴァイとは話をしていたのだ。
全員の視線が一点に集中する。後方警戒していたメンバーも、この時ばかりは目の前の男へと意識を集中させてしまった。
「……はははっ」
その視線を一身に浴びた胡坐をかいた男は小さく笑う。
それは嘲笑でも挑発でもない、むしろ自嘲に近い声だ。身体が僅かに震え、砂の粒が彼の肩に落ちては消える。
「なるほど。
その声音は、周囲の誰よりも冷たく、しかし奇妙に哀れに響く。兵士たちの背筋が一度、ザッと寒くなるのが分かった。
男はゆっくりと身を起こす。
立ち上がるその所作は、荒々しさとは無縁で、どこか覚悟を含んでいる。彼の目は遠くを見るようでありながら、同時にここにいる者たちを一人ひとり確かめるようだった。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「まぁ、オレは多分ここで死ぬだろうな」
空を見上げた。
良い――ー天気じゃないか、と小さく呟く。
何処までも蒼く……雲一つない晴天の空。
「死ぬには良い日―――か」
ふっ、と含み笑いを続ける。
「…………」
エルヴィンの胸中で、思考の歯車が無数に廻り始める。彼はじっと、言葉と、言葉の裏にある沈黙を聴く。交渉か、挑発か、罠か。胡坐をかき、わざわざ丸腰で来た意味は? 情報を突きつけ、こちらの出方を試しているのか。それとも、時間を稼ぎ、他の準備を進めさせるための偽装か。
「(丸腰で歩み寄る。そこには意味がある。名を明かして交渉の余地を見せることで、こちらに“選択”を迫る。選択させることで、奴は何を得ようとしている?)」
考えられるのは幾つもある。
アキラを除くなら、エレンの奪還。アニ・レオンハートの事も忘れてはいけないだろう。
彼女は明確にこちら側へと寝返る姿勢を見せてはいるが、だからと言って諦めると思える程単純な話ではないだろう。
そして、もう1つ懸念しているのは、エレンの家の地下室。
そこに世界の秘密が隠されている。
その秘密を得る事が最大の任務の1つに分類されているのだ。
敵側が、あの男がその情報を持ち、そしてあのベルトルトを使って全てを灰塵にする可能性。
アキラが【防ぐ事は出来る】と断言してくれた故に、懸念は払拭出来たのだが、この男の介入が加わると話は変わってくるのだ。
如何に強大な力を有していたとしても、アキラの身体は1つしかない。分散し、その間に攻勢に転じ、全てを吹き飛ばそうと言う策であるなら。
「(アキラが壁上に居る状況は僥倖だと言える……な)」
空を一望できる場所。
ベルトルトが爆発すると言うのなら、ある程度宙に浮く必要があるだろう。
空に浮くということは――爆発が「点」ではなく「球」になる。
地で起こる爆発は、地表という巨大な壁にぶつかり、そこからの反射や乱流が生まれる。要するに、地面にぶつかった衝撃は一部分で乱れ、ある方向へ偏りやすい。だが空中で炸裂すれば、爆心は地上から離れ、衝撃波は四方八方へ均等に伸びる。結果として、より広い範囲に同じ強さで“叩きつける”ことができるのだ。
遮蔽物の限界もある。建物や塀、堀や窪み──地面にある障害物は局所的な防護にはなるが、それらが多く重なる都市空間を完全に守りきることはできない。だが上空で起こる光熱とその圧力は、屋根の上から屋根の下へ、隙間を縫って侵入する。屋根や壁は、直撃を受ければ剥がれ落ち、反射は生じるにせよ、それが被害を減じるわけではない。むしろ、上方で破裂した火球と破片は、下方へと落ちることで二次的に広く被害を撒き散らす。空中から落ちてくる破片は、すでに高エネルギーで運動している。地表での破壊に比べ、被害の波及が格段に大きい。
目視ではあるが、ベルトルトの爆発は視認している。故にシガンシナの大規模破壊を目論むとするならば、ある程度の跳躍が必要となってくる。
それを見逃すアキラではない。
だからこそ―――この場に呼ぶべきではない。我ながら良い判断だと初めて自画自賛をしたい気分でもあった。
エルヴィンは短く吐息をつき、言葉を濁さずに真っ直ぐに相手を見る。
これ以上無駄に回りくどくする時間は必要ない。ここで曖昧に取り繕えば、取り返しのつかない代償が生じるかもしれない。だからこそ、即座に核心を突く方が得策だと判断したのだ。
その冷徹な判断が、ゆっくりと口を結ぶ。
「我々が彼を渡すなどという道はあり得ない。お前もそれくらいは理解しているはずだ。そもそも、なぜここまでして丸腰で来た? わざわざ知らせる意味は何だ。何が狙いか、率直に答えたらどうだ。―――自棄になったと言うなら、それくらい言えるだろう?」
空気がまた一度、深く飲み込まれる。兵士たちの視線がいっせいにエルヴィンに集まり、彼の言葉に期待と恐れが混ざる。
「なに、簡単なことさ。―――いきなり、
「……なに?」
軽く笑う。胡坐のまま、砂を指で掻き落とすようなしぐさをする。眼鏡の奥の瞳はどこか遠くを見ているようでいて、同時にここにいるすべてを寸分違わず見据えていた。
その笑いは、嘲りでも誘いでもない。むしろ、諦めに近い響きを帯びている。兵士たちの肩が一斉に固まる。言葉の端に滲むのは、彼らにとって受け入れがたい“事実”だ。エルヴィンの額に、冷たい汗が一粒伝うように見えた。
胡坐をかいていた男は立ち上がる。動作はゆっくりで、無駄がない。
彼は言葉を選びながら、しかし躊躇なく続けた。
「例え死んだとしても、死が決まっていたとしても引けない理由が、こっちにはあるんでね」
その短い句が、砂埃の向こうの空気を切り裂いた。
言葉の後に続くのは説明だ。口の中で膨らんだ言葉を、彼は丁寧に吐き出すように構える。兵士たちは息を詰め、耳を澄ます。エルヴィンは冷たくも速い思考を巡らせる――引けない理由。自分達には解る筈もない【外の世界】の事情。
「これから、何をするか―――もうわかると思うが
声は静かだが、その内容はまるで火薬庫に火をつけるようなものだった。
「あの悪魔を見た瞬間から、ここから生きて帰れるなんて、思ってやしない。だが、ただし一つだけ望みがある。――― 一人でも多く、連れていくって事」
言葉が落ちると同時に、場内の温度が変わった。『連れていく』という言葉の重みが、兵士たちの胸を抉る。連れていく――それは“奪い去る”ことを意味する。家族も、仲間も、町も、未来も―― 一緒に連れていくという宣言だ。
「(彼らは、同時に行うつもりだったのか。それも生存を前提としてない超大型の爆発と獣の投擲――二つの破壊が綜合して初めて“致命的”になる。……それにこの思考は)」
アキラの唯一にして最大の弱点が解っている。
彼は、誰一人として見捨てる事が出来ない事。
仲間がもう死ぬと決まっていたとしても、それでも動きを止める事は無い。
全てを護ろうとする。……そして、選ぶ事なんて出来る訳がないのだ。
エルヴィンの頭の中で、アキラの事、そして数字と地図と時間が鋭く擦り合わされる。被害想定、避難可能領域、アキラがその瞬間に到達しうる範囲、兵力の配置。どれも答えは冷酷だ。アキラは一人。アキラの拳は強大だが、時間と空間の制約がある。全方位を同時に守ることなどできない。
「なら、脅威になる前に、てめぇの髭面をその胴体と別れさせてやるとするか」
リヴァイも瞬時に悟った。
情けない程に……どうしようもない程に……アイツは選べない。命を捨てると言う選択を、命の餞別を選べない。
そこに付け込んだ考え。自分の命をも使った手法は、凡そ人間が考えるソレではない。
「ああ、うん。それも良いかもね。……だけど、彼は……悪魔は覚悟が出来てるのかい? ――自分が与り知らぬ内に、命が失われる最悪の光景を目にする事が」
下手に動けば、仲間が何人も死ぬ。
あの後方へ戻っていった巨人も、知らぬ内に潜伏し、周囲の建物に同化していたとしたら? 離脱しつつ、退避する事も出来るかもしれない。獣の最大の脅威はその投擲術にある。
「だから、最初で最後の交渉の真似事をしただけだよ。慈悲って言うのかな? 何も知らない内に全部が終わった~~なんて……気の毒だろう?
男はそういうと背を向けた。その次の瞬間だ。
『うおおおおおおおお!!!』
叫び声が轟くと同時に、周囲の建物を粉砕させながら、そこから無垢の巨人が姿を現した。
「十分に熟考してくれよ。調査兵団諸君。―――オレらの特攻を受けて、諸共互いの屍の山を築き上げるか……悪魔が