次に目指すのは溝の溜まり池と呼ばれる場所である。
中央広場の西に行き、その端に舗装の無い、下へ降りる細い坂道を見付ける。湿った土で足を滑らせないよう気を払いながら坂を降り、すると道の横に土の壁を掘ったような空間があり、そこに灰色の頭巾を被った老婆が鎮座していた。
「おや、お客さんか。久しぶりだねえ」
見れば老婆の足元には布が広げて敷かれており、その上に香草と思しき草の束や、雫石、少数ながら武具の類と、他にもおそらく子供が遊ぶための虹に光る石ころや、石畳に落書きが出来る蝋石が陳列していた。
「この先に行くなら香草を買っていきな。橙の香りがするこれは毒消しの効き目があるんだよ」
老婆の指したそれを手に取り、試しに匂いを嗅ぐが橙とやらの香りはせず、偽物を掴まされる可能性が脳裏に浮ぶ。
「溝の溜まり池なんて、誰が言ったか知らないけど、本当はこの場所に名前なんて無いんだよ。昔からあった所じゃなくて、道として無理矢理に作られたからさ」
その語りは商いの一環としての老婆の無償の待遇なのだろう。有益となり得る情報に、黙って耳を傾ける。
「溜まった水はどこへも流れ出さす、淀んでいく一方さ。底は浅く、僅かに足を取られるくらいだけど、どこからか漏れた毒が水に混ざり、ずっと居れば身体を悪くするよ」
騎士らしき風貌の男もまた、溝の溜まり池のことを毒池と言い表していたため、香草が効くかどうかは別としても、ここを通る際に毒への備えが必要であるのは真実なのだろう。不死人は香草を購入する意志を伝え、老婆に硬貨を差し出す。
「舐めてるのかい? そんなものと引き換えに、売り物をくれてやるわけがないだろう」
老婆が悪態を見せ、だがその反応は鍛冶屋のマサイアスに覚えがあり、予想出来た事であったが、予想したとして他に渡す物も無い。
こちらとしては香草だけでも手に入れておきたいが、硬貨の他に価値がありそうなものと言えば暴力くらいしか持ち合わせが無い。だが滅びた世で倫理と向き合うような白けた真似はさて置くとして、鍛冶屋などの協力者が居る事を考えれば、暴力の行使は短絡的な行動だろう。その行使の用意があることを匂わせるのも同じ、得策とは言い難い。
そうして不死人が考え込んでいると、老婆は大きく溜息を吐いた。
「仕方の無い子だね。香草だけは硬貨で売ってやる。他はダメだよ」
それが単純な善意なのかどうかは分からないが、ともあれ何かするより先に状況が好転し、不死人は老婆に硬貨を渡すと、代わりに手に入れた毒消しの香草を懐に仕舞う。
用は済んだため老婆の前から去り、坂道を下っていくと段々と木々が広がると、これによって周囲に影が多く生まれ、失ったランタンを惜しむほどには視界が悪くなった頃、剥き出しの土の先に紫の水が広がる。広大な水溜りの中では土くれが所々盛り上がっていくつもの小さな島を作り、まさにこの毒々しさを見れば毒に対する備えが必要であることは疑うべくもなかった。
この溝の溜まり池は川のように、あるいは道のようにある程度の幅を保ったまま南東から北西にかけて伸びており、しかし北西の方面はすぐに先が途切れている。池自体は続いているものの、何故か檻の付いた馬車のようなものが大量に水の中に沈み、堆く積まれてそれが北西へ向けての道を塞いでおり、またそれ以外にもこの檻は溝の溜まり池の所々に転がっているのを遠目から見ることが出来た。
当然これを動かすことは叶わず、ただどの道不死人が目指すのは溝の溜まり池を南東に向かった先、つまり王城が座する方角である。
黒と紫が混ざって渦巻く水に一歩、二歩と足を着け、その感触を確かめながら不死人は進んで行く。
見た目の割にあまり泥が体積していないのか、今のところ足を取られるような感覚は無く、だが淀んだ水の底は起伏があり、唐突に水深が増す箇所もあるため、自然と歩みが遅くなる。
のた打ち回って飛び出したような木の根を避けながら水の中を進み、それと進行方向である南西への警戒も怠らず、ふと振り返って北西の行き止まりを見た時、遠くでそれは動いていた。
道を塞ぐ檻の馬車が大量に積まれたその遥か向こう側に、ぼやける巨大な姿の輪郭があった。
距離が遠く、不死人の位置からでは詳細な姿を捉えることは出来ないが、巨体の規模が中央広場で出会った真っ青な肌の巨人と同じくらいのものであることと、長い首を巡らせ、こちらを観察しているらしいことは窺い知れた。
その怪物は大きな胴体を道の脇に押し込むように隠し、異様に長い首を垂れさせ、ぐりぐりと動かしてはいるがそれ以外には特に何もしようとせず、近付いてこようとすらしないままに、まるで柱の影で大人の様子を盗み見る幼子の如く、ずっと不死人に視線を注いでいた。
そのような怪奇に取り付かれては身動きが取れず、不死人は一先ず土くれで出来た島の一つに上がり、巨大な影に注視し、相手の出方を待ち続ける。
大きな実を付けた植物が茎を曲げ、風に揺れているような刑貌の怪物は、おそらくずっと不死人を見詰め、不死人もまた怪物を見詰め続け、遠い距離を挟んだ両者は動き出さず、そうしてしばらくの時が経つと、一方が片膝を突きそうになる。
鳩尾に強い痛みが走り、不死人は身体を折る。
腹部の他にも身体全体が満遍なく熱を持ち、つまり不死人は毒に当てられ、体調を崩し始めていた。睨み合いを始める前、土くれの島に上がってはいたが、その程度では毒の水と近過ぎたと見るべきか。
直ちに懐から毒消しの香草をひと房取り出し、そのまま飲み込むと、驚くべき速さで体調が回復し、それ自体は喜ばしいことだが、香草はあと数回分しか残っていない。溝の溜まり池を渡りたいのなら素早い移動が肝要であり、即ちずっとあの怪物にかかずらってはいられない、ということだ。