第16章 中央広場Ⅲ 3
それは黒く、だが褐色がかったような色をして蠢いており、単なる闇ではない。そして緩やかに飛び続けて中央広場の上空にまでやって来ると、その中から地上を覗き込む、黒く、巨大な顔を見付ける。大きめの目玉や顎、鋭く並んだ牙などは邪悪な面構えではあれど普遍的な魚類のそれであり、やがて巨大なその魚は滑り出るように暗雲から抜け、その全体が露になる。
黒い部分は顔周辺のみであったらしく、蛇のように長い胴は半透明であり、しかしもう一度顔の方に目を向けると、それ以外の全てが些事であったことに気付く。魚類の顔の、そのまた上にも顔の上半分が乗っており、太い眉と、白髪に覚えがあった。
そちらの部分にはまだ正気が残っているのか、哀れなクリスティアンは心底戸惑っているかのように忙しなく両の眼を動かし、そのうち不死人とジークドルフの姿を見付けると、何度も眉根を寄せ上げ、助けを訴える。
「これは。元より逃げるつもりもなかったが」
捨て置くことは出来ない。言外のそれに同意を示すまでもなく、不死人は武器を構え、騎士もまたツヴァイヘンダーを握り直す。
一方、哀れなクリスティアンは暗雲の下、青ざめた血の中を悠々と泳ぎ、回遊していた。互いの距離がこれでは近接攻撃どころか魔法すら届くか疑わしいものであったが、この敵はおそらく二人に仕向けられた者。自ら行動に出る理由があり、待ち続けていると突如として顔を不死人の方へ向け、激しく身体を波打たせては急激に加速した。
大きく開かれた顎は勿論のこと、長い舌の上にさえも鋭い歯が隙間無く伸びており、喰らいつかれるにせよ飲み込まれるにせよ、敵の思い通りとなっては助かる見込みは無い。凄まじい勢いで迫る巨大質量を持った深海魚の顔面は比類無き威圧を見せ、不死人はこれを十分な距離にまで引き付けた後、急に横合いに飛び、躱す。
クリスティアンは摩擦する地面を削りながら石塊の飛沫を上げ、だが突進は外して脇を通過していく。またその際、至近距離にて半透明の身体を見ることになった不死人の目に奇妙なものが留まり、それは人間と同じ大きさ、色形の手と足であったが、枯葉のように千切れそうに巨大な胴に結びついているだけで、彼自身の役に立つとは思えなかった。
哀れなクリスティアンはそのまま上昇し、一旦は遠くまで泳ぐものの、宙で身を踊らせると反転して再度加速し、今度はジークドルフの方へと狙いを定めていた。騎士の鎧は大きく、丸く、まるで太っているように見えるためどうにも鈍重な印象が残り、このままでは突進を凌ぐことが出来るかどうか疑問ではあったものの、不死人はまだ何の用意もしておらず、今からでは援護が間に合いそうに無い。
「フッ」
しかしいざ衝突の瞬間が訪れると、カタリナの騎士は機敏に動き、どころか余裕を込めた微笑をその直前に置き、クリスティアンの突進を躱してみせていた。人を見かけで判断すれば大事に至ることがある、とは、最近では三頭蛇の魔人で痛感した不死人であったが、それにしてもジークドルフの素早さはまるでちぐはぐであった。
ともあれ、まだ相手が本来の速度を見せていない可能性は残ってはいるものの、一先ずあの突進は対応が可能なものであると判断し、であればそろそろ反撃を、と思い始めた頃、それは起こった。
「ひきいいいいぃぃっ! いいいいいっ!」
頭上を回遊していたクリスティアンの鳴き声であった。鳥類のようなそれが広く空に響き渡ると、褐色がかった暗雲が呼応し、一層蠢き、そして何かを降らし始める。
「むむっ! 貴公、避けろ!」
言われるよりも前に不死人は動き出し、落下する何かの塊を注視するが、暗雲は広範囲であり、そして数も多い。まさに雨を遮るかのように二人は頭を守りながら広場を走りまわり、やがて地上に落ちたそれが何であるのか、その正体が判明する。
褐色がかったその色味は、腐敗が故のものであった。腐ったその塊、人の胴ほどに膨れ上がった魚達は、しかし生きているらしく身を震わせ、また半ばまではみ出した目玉が不死人を見詰める。
次の瞬間、魚は破裂していた。内部から大量の黄色い粘液を撒き散らし、咄嗟のことに避け切れず、右手の先にそれが付着する。
「うおっ!」
同じような目に遭ったのか、ジークドルフから当惑の声が上がる。見れば鎧の関節の一部が固まってしまっているらしく、不死人の方も右手の指などが強い粘性で動きが阻害されており、幸いにもそれは拭えば取れる程度のものであったが、危機が迫った場合には致命的な遅れに繋がるだろう。
二人は家屋の影に隠れるなどして破裂する魚の雨をやり過ごし、それが止むのを見計らって広場に戻ると、だがそうして下にばかり意識を取られていたからか、いつの間にか哀れなクリスティアンの姿を見失ってしまっていた。
敵が姿を消した、ということは奇襲を恐れるべきであり、だがあの巨体では隠れる場所など限られている。暗雲、腐った魚の群れにしかその居場所は無く、そのままでいると敵はやはりそこから滑り落ち、またゆったりとした動きで泳ぎ始めていた。
突進を警戒していつでも動きだせるよう身を屈め、しかしそうしたのは不死人だけ。ジークドルフはどこか呆けたように棒立ちのまま、揺らめく黒い巨体を眺めていた。
「うーむ、何か変ではないか?」
呟きを向けられ、だがすぐには答えられなかった。確かに、今のクリスティアンは若干低い位置を泳いでおり、そこから突進したところであまり速度は得られそうにないが、それは明確な差異と言う程のことでもなく、ならばこの騎士は他の要素に違和感を見たのだろうか。しかし結果的には二人ともにそれを明確に出来ず、すると巨大な魚の顔が段々と地上を向き、その半透明な体内で無数の影が激しく舞う。
それこそが今までに無い何かであると、気付いたのも束の間。顎を大きく開いた哀れなクリスティアンは、身体の内に溜め込んでいた魚達を勢い良く放出する。
「うおっ、おおおおう!?」
腐った魚達はその生涯の最期をただの濁流として利用され、だが従属する者としては本懐なのだろうか。次々に殺到するそれから逃れようと騎士と二手に別れて走り出したが、どうも狙われたのは不死人であったらしい。散々に引っくり返された石畳を乗り越えながら駆ける最中、延々と背の方で魚達が弾ける音が響き、せめてこれの役割が逆であれば魔法でクリスティアンを牽制出来ようものだと考えるものの、あれだけの筋力を誇るジークドルフにまでそれを期待するのは酷というもの。文句一つ漏らさず、走り続けた。
暗雲は無尽蔵のように見えたが、流石に一度に胎に収める分には限りがあったのか、魚の濁流は勢いに少し衰えを見せ始めるとそこからすぐに止まった。不死人もまた立ち止まって振り返ると、中央広場は茶の肉片と黄色い粘液で埋め尽くされ、汚れている、というより占領、浸食されている、と言った方が適切だろうか。
「すっ、すまん。何も出来なかった。ガッ、ガハハハハー、ハー」
この丸い鎧は、叩けばさぞ良い音が出るに違い無い。唐突に去来した妄念を拭い去り、哀れなクリスティアンに向き直る。敵はまた頭上を旋回しており、こちらの隙を探しているか、様子を窺っているため、対策を講じるならこの時間にすべきだろう。
思い返せば、この怪異は多彩な攻撃手段を持っているらしいが、いずれも決定力に欠けており、腐った魚の体液で動きを止め、突進などで止めを刺すという流れを実現するにはもう少し命中の精度が必要である。つまりここまでで相手の手札が殆ど出ているなら地上に居る二人がやるべきは諸々の攻撃を耐え続け、痺れを切らした敵が突進を仕掛けた際に、これを迎え撃つことである。
そのように出した結論はこれ以上無く理解し易いものであり、またジークドルフの気質とも合っている。この案を選択するとして敵を迎えるつもりとなり、だが手札が尽きていたのなら、という前提は甘く、それについてもう少し掘り下げるべきだったろうか。