第16章 中央広場Ⅲ 4
身体を真っ直ぐにして泳ぐクリスティアンに異変が現れていた。何をする訳でもなく宙に停滞し、しかし微かに身を震わせ始めたかと思うとその動きは徐々に大きく、くねらせる程になり、そしてその胴から何かが剥がれる。
数十枚にも及ぶそれは胴と同じく半透明かつ、輪郭からして楕円形であるらしく、抵抗を受けてゆらゆらと落ちていく様は水中ならではの出来事であったが、次の瞬間には水中どころか、この異界と化した世界にさえ存在しないような強い光が生まれ、不死人と騎士を刺した。
「はぐっ!」
物理的な負傷は無い。だがそうであっても何ら不思議ではないというほどの圧力に騎士は呻き声を上げ、不死人は塔のカイトシールドで身を守ろうとし、だが翳した直後にふっとそれは消え失せ、今度は二人の周囲で泡のような虹色の光球が無数に生まれては弾けを繰り返していた。
どこからでも生まれてどこへともなく消えていく光たちはまた酷く歪み、捻れ、半ばから絞られ、或いは刺すように一直線に走ってその形を自在に変え続け、そしてその後ろにある景色までをも巻き込んでいた。遠くに聳える王城の尖塔も、渦巻く紫の空も、近くにある家屋でさえ掻き混ぜられ、目に映る一切が正常な形をしていない。
人の理の外にある、異次元の空間が生まれていた。
「なっ、なんだこれはっ! 撹乱かっ!?」
ジークドルフはおそらく正しい。これはクリスティアンが撒いた鱗が生み出している光景であり、実際に異次元となった訳ではなく、よくよく足元を確かめてみればそこは瓦礫こそあれ、基本的には平坦である。影響が及ぶのは今のところ視覚のみであり、そしてこれを仕掛けてきたのが敵であるなら、あの魚の目玉はこれを見分ける能を持っている。
脇腹の左が微かに引き攣れる。ともすれば錯覚のような曖昧なその感覚を信じて右方向に身体を投げ出し、するとその直後、不死人の側を哀れなクリスティアンが通り抜けていく。地面を抉るようにして勢い良く泳ぎ、その後撒き上げた瓦礫諸共、巨体は虹色の光の泡の中へと消えていく。
懸念していたことであった。鱗が生み出した光の狂宴、強力な撹乱の最中にあってはクリスティアンの位置が掴めず、どのような攻撃をどこからやって来るつもりであるのかまるで見当がつかない。先の突進は迫る圧力か何かを感知して躱せたものの、それでさえ確かな感覚による行動であったとは言い難く、他の攻撃方法になった場合、回避の難度は跳ね上がると見るべきである。
「ひきいいいいぃぃっ! いいいいいっ!」
鳴き声が劈き、暗雲の内側が揺れる。反撃の隙を与えないつもりか、先の突進から間を置かずにクリスティアンは次の行動を取り、一方の不死人達はまだ何の対策の手掛かりも見出せずに追い立てられるしかなかった。やがて降り始める腐敗した魚の肉をどうにか避けながら走り、しかしそれを凌ぐための家屋は踊り狂う光によって歪められるため所在が判然とせず、またどれだけ時が経っても落ちた鱗から発生している光が絶える気配は無い。
「ぐむっ! ぷおあっ!」
結果、時折二人は魚の直撃を受け、一時的に身体の動きを止められてはその効果を齎す魚の内臓液を拭い去り、を繰り返していた。魚の雨を落とす位置は無作為であるらしく、足を止めても破裂する魚自体が集中することはなかったが、クリスティアン本体がこの隙を見逃す訳も無い。
「むっ!?」
ジークドルフが何かを探知していた。が、彼の全身は今、黄色い粘液に包まれており、このまま身動きが取れないようではただの標的と化すが、それとは対照的に不死人の身体は今ほぼ自由であり、よって魔術師のロングソードに魔力が流れ込む。
間に合うかどうか、正しいかどうかは定かではなく、だが短く詠唱され、放たれたソウルの矢は宙を走り、丸みを帯びた甲冑、その足に直撃していた。
「むおおっ!」
粘液が剥がれ、足が自由になったジークドルフが石畳を転がり、鎧の内部で奇妙な反響の仕方をした音が転がり出たその直後、彼の側をクリスティアンの突進が通過していく。足を自由にするため足を攻撃し、万が一使いものにならなくなれば本末転倒であったが、流石の頑強さ、或いは鎧の優れた防御性能、といったところだろうか。見るに滑稽な造型だが。
「た、助かったぞ貴公、この借りは必ず」
言葉の後半は、殺到する魚の群れに押し流された。胎に溜め込んだ魚を一気に放出したのだろう、クリスティアンの砲は不死人に直撃し、全身は茶褐色の肉片と黄色の液体に塗れながらどこかへと連れて行かれ、そしてその勢いは強く、抵抗出来るものではない。辛うじて片手で地面を探り、天の方へと目を向けるも、そこにあるのは歪む光と空間であり、己の位置は勿論、距離が離れてしまったためにジークドルフの居場所も不明であった。
程無くして後頭部を強かに打ち付けながらどこかに止まり、腐敗した魚の波も引いていくと、そこに身動きの全く取れない身体一つが取り残される。この後に訪れるであろうクリスティアンの突撃に対して極めて無防備な状態であり、どころか粘液で顔が塞がれているため呼吸すらままならず、しかし開かれた瞳は重なりながら互いに干渉し合って歪みを増し、際限無く奥行きが広がっていく虹色の光の中に真っ直ぐに泳ぐ半透明の巨躯を見付ける。
「ウワアアアアアアアアアアっ!」
眼前に踊り出た騎士が咆哮し、特大剣を振り上げる。ジークドルフは不死人を庇うように哀れなクリスティアンの前に立ち、それは愚行のようでいて、その背に映る自負には一片の曇りも無い。やがて猛烈な速度で巨体は迫り、だが衝突の刹那、右斜め上から振り降ろされたツヴァイヘンダーが巨大な魚の頭部を打ち据え、その軌道を左に逸らしていた。
通り過ぎていくクリスティアンを尻目に、ジークドルフは一度息をついた後、不死人から黄色い粘液を剥ぎ取り、いつか小屋であったように手を取って引き起こす。
「早速返した、と言いたいが。これではきりが無いだろうな」
念の為身体の無事を確かめつつ、だが魚の液が体内にまで及んでしまったかのように、内心では彼の言葉が、まさにまとわりつくように蟠りを作っていた。
常に宙に浮いている相手に、この光の撹乱では対処が出来ない。攻撃を避けるも防ぐも難しく、何より反撃が届かないため、騎士の言う通り、この先何度も同じような危機を乗り越えなければならず、そして何度も乗り越えられるとは限らない。
やおら、背筋に悪寒が走る。迫り来るクリスティアンの突進を躱し、遠ざかっていく魚の背が激しく屈折する光に覆われる様子を見ながら、また途切れた思考を再び繋ぎ合わせていく。
解の手掛かりは既に見えている。それは即ち音であり、これを味方にすることが出来れば、と考えるも、哀れなクリスティアンは泳ぐ際に音を立てることなどなく、位置を掴む手掛かりとはならない。ならば音が出るものを半透明の胴にでも打ち込めればと、所持品を漁ったところで音を出すに適したものは聖職者のウォーハンマーとそれに付随する聖鈴しか持ち合わせが無く、これを敵の身体に突き刺すには鉤爪の部分が短いため、とても実行に移せそうもない。
「うおあっ!」
ジークドルフが驚きの声を上げながらも、敵の突進を凌いでいた。それを見て味方との協力によって何か音を出す工夫を出来ないものかという方向に考えが移るものの、いっそあの騎士をクリスティアンに丸呑みさせ、鎧を常に叩かせることで腹の中から音を出させるという危険且つ残酷極まりない案しか出ず、仮にそれが最善の選択であったとして、申し出るにはまだ親密さが足りていないだろう。
ジークドルフと協力して状況を打開する、という方向性ではそこで行き詰まり、だが果たして、この戦いの場に味方は一人しか居ないだろうか。それが閃きとなって不死人を突き動かし、右手の武器を聖職者のウォーハンマーに持ち替えると、周囲の気配に意識を凝らす。
そのやり方で察知出来る範囲はあまりに短く、出来ることと言えば突進を紙一重で躱すことだけであったが、この企図を成就させるにはそれで十分であった。瞼を閉じて騒ぐ光を意識野から排し、かつての大気と同じように遍在する青ざめた血の流れを全身の肌で感じ取る。
首筋に視線。些細な針を突き立てられているかのようなその感覚に、振り返らず、身体の向きはそのままにして横合いに身を投げ出し、同時に右手を翳す。すると予想通り現れた哀れなクリスティアンは突進を当てられずにまた通り過ぎ、無限に反射する光の中へと消えていった。