リボン・オブ・ザ・デプス   作:アザトリデ

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第17章 1

 第17章 アリーナⅡ 1

 小さな白い猫の話は、最後の方になるとまるで託宣めいていた。しかしどんな内容であれ、以前までの膠も無い態度からすれば大きな変化であり、またそうなるに至った原因は不死人が地下からあの指輪を持ち帰ったことにある。つまり流石の彼女も藁をも縋る気持ちであったのかもしれない。

 不死人はその後篝火で身体を休め、中央広場から出ると溝の溜まり池の上に架かる橋を渡り、そこからアリーナの牢舎の前にまで赴いていた。以前に通った際の梯子や鉄格子の扉などは解錠された状態であり、そのまま通行出来るようであったが、空の向こうから漂う雑多なざわめきに一度足を止め、耳を澄ませる。

 数多くの声が重なったそれは人々から発せられた、ということは万が一にも無いだろう。良くて正気を失った亡者達のものであり、だが今のこの世界ではそれすらすっかり見掛けることはなく、つまりは怪異の類と思しい。明確に敵対する者達が大勢となって待ち構えているとなれば正面切って進む愚を避けるべきであったが、また長い地下牢獄都市を降り、その最中に延々と刺客を贈られるよりはこの歓待を受ける方が双方にとって話が早く済むだろう。不死人は二つの牢舎を通り抜けると地下道に入り、その正面にある門を開けて円形闘技場へ出る。

 喝采か、歓声か。今にもその様なもので場が沸き返りそうな光景がそこにはあった。広大な観客席には様々な者達が犇き合い、その大部分は頭部の膨れ上がった亡者達であったが、注目すべきは虜囚の騎士や老人貴族の亡者など、かつてこの上なく互いを憎み合った者同士が混ざり合っていた点である。リングレイの人々も、エルミューロクの虜囚達も、皆一様に天に向かって手を伸ばしたような格好のまま、円形闘技場を見下ろしている。

 そして不死人の歩く先、円形闘技場の中央ではいつかのように、鎮座する小高い何かの影があった。

 「おおーっ! おおーっ! おおおーっ!」

 俄かに呻きのような声が強まり、観客席の上で重い響きを残す。するとそれに応えるように、重厚な鉄が互いを長く掻き合うような音を立てながら、その巨大な影が起き上がった。

 おそらく元は紺碧であったのだろう。だが今やそれは裏返ったまま血に黒く汚れ、こびり付いた肉には筋の繊維が千切れて出来た肉芽が群生し、またその表面では細長い虫達が蠢き、未だ食い荒らし続けている。

 場所柄からして、明らかに見覚えのあるその厚い甲殻は砕け散って多数に分かれ、そしてそれで全身を覆い、身を守る鎧とするのは、黒く太った巨大な芋虫であった。かつて殻の内側に潜むだけであった寄生虫。その内の一匹は成長を遂げ、中から食い破り、元の宿主たるアリーナの王の面影と言えるものは引き摺られる手足や頭部の断片のみであった。

 「周りを見てご覧なさい」

 恍惚とした声が上から降る。見上げると、小高い丘のような図体の怪虫の上には一つ人影があり、それは赤黒く豪華なドレスを纏っているようだが、距離が離れているためそれ以上のことは見て取れなかった。

 「あなたは一人、取り残されるつもりなのかしら? 折角彼にさえ比肩し得るような、ソウルの器の持ち主なのにね」

 言葉の端々や態度に酒に浸かったような虚栄心が滲んでいたが、隠すつもりもないのだろう。観客席に詰め寄せた人々の視線を浴びているからか、自身の優位を確信しているからか。

 「ふふふっ。王の器としては彼の方が遥かに上だけど。それに私、あなたが嫌いよ。だからそうして、拒み続けてくれると嬉しいわ」

 観衆の呻きが高まり、調子を合わせ、重苦しい賛美歌になっていく。そしてそれを受けたドレスの女は巨大な怪虫の上で手を翳し、その途端長い刃物を研ぐような音が響いた。

 不死人は弾かれるように横に飛び、その残影を虹色の怪光線が薙ぎ払う。聞き慣れた音に身体が良く反応したからか、直撃を免れることに成功し、ドレスの女が発した攻撃の跡を見ると、どうやらそれは貫通性のものであったらしく付近の地面には深い溝が刻み込まれていた。それどころか、敵の光線は観客席にまで及んで多数の被害者を出し、だが亡者達は逃げ出そうというような素振りは見せない。そうまでして歌い続ける彼等の胸の裡には、どのような意志が宿っているのだろうか。

 破裂音が鳴り渡る。ドレスの女は闇術によって形成した黒い塊を五つ、一度自分の回りに並べ、次にはわざわざ指で標的を示すと、それは緩やかに飛び始める。おそらくは追尾能力と、攻撃力に優れた術である。またその見通しが正しいのであれば、と予測した先から彼女は手を翳し、まだ五つの黒い塊が届いていないにも関わらず、怪光線の予備動作を取っていた。

 遅延を利用した、間隙を埋めた攻撃である。これを見た不死人は即座に敵とは逆方向に駆け出し、距離を取ることで怪光線の命中精度を下げようとし、するとその試みが功を奏したか、迫り来る虹色の光は歪むような軌道で行く先を薙ぐ。

 と、その刹那、虹色の線に撫でられた地面が光を孕んでいた。つまり敵は全く狙いを過たず、不死人の行く手を小爆発を起こす光線で阻み、そして背後に迫っているのは五つの黒い塊である。退路は無く、だがそれならば突き進むのみである。

 瞬時にして身を翻し、後背で地面が小爆発を起こすと同時、仮初めの意思を与え、放たれた五つの黒い塊に向かって踏み込む。そして激突の寸前にその下に滑り込むと、執拗に目標を追おうとする五つの意思は、だが不死人の急激な動きに追従し切れず、地面に当たって最期を迎えていた。

 追尾する闇術に対してはこれか遮蔽物を利用する方法が最適であるという答えが出ており、実践したところ今回も上手く凌げたようだが、そのような些細な勝利を噛み締めている場合ではない。ドレスの女は再び手を前に出して怪光線を放ち、上からの一方的なその攻撃は避ける以外の選択肢が無かった。

 足元の地面を深く激しく抉る光線が過ぎ去り、遠くの観客席の方にまで伸びる。この隙であれば敵への接近はそう難しいものではなく、だがドレスの女は巨大な怪虫の上に乗っているため、近付いたとしてもすぐに接近戦に移れるという訳ではない。甲殻と虫だらけの肌を登らなくてはならず、それはやってみるまでもなく不可であるという限りなく確信に近いものがありはしたものの、それで得られる情報も一つや二つ、転がっている可能性もある。

 怪虫に対して並行に走っていた足の向きを急に変え、唐突な挙動によってその巨体へと近付き、だが芋虫は身体を激しくのたうち回らせる。その動きは明らかに不死人を遠ざけようとするものであり、圧倒的な質量差のある物体の運動を前にしてはしがみつくどころか、それ以上の接近もままならず、加えて、甲殻の隙間から数匹、人の腕の太さほどもある黒い虫が顔を覗かせており、それもまた人の接近に対する反応なのだろう。

 「ふふ」

 上からの冷笑は、速やかに闇術の詠唱の音で掻き消された。ドレスの女は絶対の守りを得た上で遠距離攻撃を続けるらしく、不死人は五つの黒い塊に身を追われながらも急ぎその場から離れようと駆け出し、だが再び小爆発を起こす光線が逃げる先を潰しに掛かっていた。

 虹色の光から身を引き、追尾する闇術を潜り抜け、だが二度目となれば僅かながら見付ける間が存在し、魔術師のロングソードが青白く光る。その詠唱はごく短く、しかし威力は至強。槍のような身体に多数の輝きを含んで飛翔するそれは亡国の狂気の象徴、ソウルの結晶槍である。

 手書きの魔術書をコネリーに渡すことによって習得した魔法であり、強い貫通能力を有するこれであれば鎧を貫き、怪虫本体に負傷を、と脳内で描いた絵図は、だが紺碧が挫く。あの甲殻は厚く、だがおそらくそれだけではない。深い海に属するがために生来、魔術に対する強い耐性を持っており、最高威力のそれですら無効化したのだと考えられる。

 「ふっ。ふふふふっ」

 ドレスの女が両の手を突き出していた。またその顔は遠目からにも見て取れるほど、はっきりと喜悦に歪んでおり、だが確かに、今の全く成す術を得られていない不死人はさぞ嗜虐心を擽る獲物であることだろう。

 右手から放たれた貫通性の怪光線が円形闘技場を走り、左手がそれに続く。また観客席までもが大いに巻き込まれ、アリーナ全域は阿鼻叫喚の地獄と化していたが、駆ける不死人はまだ健在であり、否、おそらく健在でいさせられている。彼女の攻撃は適当と言うよりもあまり狙いを付けておらず、優位を笠に着て相手を苦しめることに熱中しているようであった。

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