《多くを奪われ、心を失っていく我々の前で、彼女だけは気丈に振舞っていた。確かに、残された者達の為には、まだやらなければならないことはある》
文字はその一行のみであった。羊皮紙を裏返す。
《夜が深まる度、隣室から呻きが聞こえる。私にはどうすることも出来ない。誰に話したとしても同じだろう。彼女のために出来ることは何も無い》
書かれている文字はそれで全てであった。前後が欠落しているのか、それの意味するところを捉えられず、ただし日記のような趣があった。
不死人は手にした羊皮紙を戻そうとし、その際机の上に鍵が一つ置いてあるのを見付ける。どうやら元は羊皮紙の下に置かれていたものであるらしいその鍵は、草花と鳥の彫刻が掘り込まれた大きめのものであった。
鍵を懐に仕舞い、その部屋の中で特に目を引く物は調べ終えたため、他の場所へ移ることに決める。幅広の廊下にまで戻り、すると周囲が再び明るくなった。
そこから更に廊下の一番奥を目指して歩くと、その突き当たりに厚めの木で作られた扉を発見する。延焼すら防いでしまいそうな頑丈なそれに触れたところ、鍵は掛かっておらず、開いた扉の中には下に続くらせん状の階段が収まっていた。
この階段を降りると、上の階と同じような間取りの幅広の廊下が現れる。また階段から降りてすぐの右手には内側から閂がされた扉が一つあり、解錠して開いたところ、そこは王城で最初に入った廊下へと繋がっていた。また一つ通行出来なかった扉を反対側から開くことに成功したらしい。
だが今更そちらに用は無いため、不死人は幅広の廊下に戻り、周囲を歩いて調べるも、しかし目に入る扉の殆どは施錠されたままで強い衝撃を受けたのか、いずれも歪んでしまっており、開閉出来ない状態にあった。
その中でらせん階段への扉以外で無事なものは一つのみ残っており、幅広の廊下の丁度中央の左手にあるその鉄製の扉は、しかし動く気配はなく、鍵で閉ざされているようだ。鍵穴に先程拾った草花と鳥の鍵を使うも、大きさは合わず、また鍵穴の上には飛び上がる鳥の模様が刻まれていた。
その階では他の行く先も無くなったため、不死人はらせん階段へと戻ると、それを上がって二階の幅広の廊下に入り、次に姿鏡が並んでいた部屋の方へもう一度向かう。そして草花と鳥の彫刻が刻まれた大きめの鍵を取り出すと、それを豪華な扉の鍵穴に差し込み、回せば内部で鉄と鉄とが噛み合って軽快な音を鳴らす。
解錠されたと思しき扉に触れ、物々しいが故に重いそれに力を込めて押していくと、僅かずつではあるが扉同士に隙間が生まれ、そうして踏ん張り続け、何とか一人分が通れるだけの幅を確保し、そこから中へと入り込む。
広大な部屋であった。それは千人ほどを収容しても尚、余裕があるような大きな広間であり、また三階や四階部分も吹き抜けになっているため、屋内であるにも関わらず、そうとは考えられないほど広い空間を有していた。
床はやはり大理石であり、天井、柱や壁には美しい彫刻やらが刻まれ、大量に使われた蝋燭が広間を余すことなく照らし、隅の方までをも見渡すことが出来た。そして歌声はここでも止むことなく、壮大な景観の中で響き続けている。
おそらくこの場所は式典や祭事に使用されるものであり、またそのような用途に合わせて誂えたものか、広間の一番奥には見るからに壮麗を誇る椅子が一つ、何段か高くなっている先に置かれていた。
付近には召使や騎士達の姿は見えず、しかし一応周囲を警戒しながら不死人はその壮麗な椅子の方へ歩き、やがて広間の中央にまでやって来る頃、椅子の陰から人が現れる。
まるでその人物そのものが影であるかのように、闇色のドレスを纏い、頭部もまた同じ色の帽子と、そこから垂れたベールによって顔まで覆われていた。召使の服に通じる装いであるようだが、それよりも凝った意匠が見受けられ、彼女らよりも格の高さが窺える。
また、その黒い影のような女性は、手に何かの細長い棒を持っていた。まるで火かき棒のように先が少しだけ曲がっているが、火かき棒よりも少し長めである。武器には見えず、しかし道具にしても何の目的で使用するものなのかは茫然としている。
やがてその女、王城の侍従長エスメラルダは、靴の高い踵で床を鳴らしながら、こちらに向かってゆっくりと歩き出し、歩きつつもドレスの裾から何かの液体を出し始める。透明な液体は床に大きく広がり、次にまたドレスの裾の内から紫の、紐状のものがいくつも落ちていく。
それはステンドグラスの箱の中で歌っていたものと同じ、海綿動物達であった。それを床に何十匹と落しながら、王城の侍従長は不死人に向かって歩き続け、その距離を詰めようとしている。
彼女の歩みは遅く、両者の間合いはまだ遠いものだが、しかし大理石の上の海綿動物達の数が増える一方であった。数十を越え、百を越え、数え上げるのが不可能な数に達し、そして紫の広がりが大きなものになっていくと、海綿動物達から生じたのか、徐々に黒い瘴気が溢れ出しつつあった。
王城の侍従長は時が経つにつれ、眷属を増やすことで空間を侵しながら、おぞましさもまた増していく。それがどれだけの規模と化すのか不明であり、飲み込まれたくなければ後退するべきかもしれないが、だが逃げ続ける一方であったために敵側の勢力によって室内を埋め尽くされる、などという事態は避けなければならない。
今のところ王城の侍従長は魔法を使おうとせず、海綿動物達に囲まれないよう立ち回りにさえ気を付けていれば直ちに危険は無い様子であったため、不死人はまず紫の群れの端が近付くのを待つ。
そしてブロードソードの間合いに入った瞬間、何か言いたげに唇を動かす海綿動物達を纏めて斬りつけるが、誰も悲鳴を上げず、ただほんの数匹が切断されただけに留まる。あまり効果は無いと見るべきか。
様子を見る為、再び距離を取るべく海綿動物達の前から後退しようとすると、その気配を察してか、紫の群れの一部分が盛り上がり、そこから不死人に向かって黄緑の液体を飛ばす。
こちらの頭の高さにまで飛び上がったそれを反射的に躱し、事なきを得るが、黄緑の液体を被った床を見れば、そこは軽く溶け出しているようであった。酸か何かの特性を持ったものだったのだろうか。いずれにしろ、攻撃ではある。
そしてそれが切欠となったのか、後退するこちらに応じて蠢く海綿動物達は群れ全体で伸び縮みを始め、不死人の走る速度にまでは及ばないまでも、回り込み、そして追い詰めようとするような動きを見せ始めた。
一方、王城の侍従長は未だ悠然とした足取りで不死人に向かって歩きながらも、海綿動物の放出を続け、その様子には出し惜しむような気配は無く、また黒い瘴気も広間に堆積し始めている。
全てが手遅れになるまでどれだけの時間が残されているか、それは分からないが、気付いた時には差し迫った状況に陥っているのだろう。何か試すのであれば、早くに行動するべきであった。
まずは紫の海綿動物達の前に立ち、これらの攻撃を誘うため、不死人は前後に動いて見せる。すると予想通り彼等は黄緑の液体を吐き出したため、余裕を持ってこれを躱した後、尚もこちらへ追い縋ろうと群れの形を伸ばす海綿動物達の前で、移動速度を調節しながら後退を続ける。
そのうち群れの形は段々と長く伸び、その先端と王城の侍従長の間に長い距離が出来た時、不死人は走り出し、海綿動物達を迂回して守りが手薄になった侍従長に近付くと、黒いドレスに斬りかかる。
近付いた瞬間こそ手にした棒でこちらを迎え撃つ素振りを見せたものの、それを躱してブロードソードの斬撃を浴びせると、王城の侍従長は大きく怯んだため、不死人は立て続けに剣を振りかぶり、そのまま一方的に斬り続ける。
しかし、剣から伝わる手応えには違和感を覚えていた。人間を斬っているというより水を吸った多孔質の何か、まさに海綿動物そのものを叩いているような感触であり、また出血も伴わず、何度斬り付けられようと怯むだけで倒れることはなく、悲鳴も上げなかった。
五回ほど斬り付けたところで、伸び切った部分の海綿動物達が戻りつつあるのを目にしたため、不死人は王城の侍従長の元を離れ、大きく距離を取ると、程無くして彼女を中心とした紫の群れが再び形成されていた。
攻撃自体は成功したが、試みは成功とはならなかったようだ。王城の侍従長には剣による物理攻撃の効果が乏しいと見られ、しかし手持ちの武器と言えばそれしか無いため、他の攻撃手段は無いに等しい。
敵本体への攻撃を続けるべきであるのか、甚だ疑問ではあったが、他に選択肢が無いため、止むを得ず、そして様子を見るつもりで、不死人は同じ戦法を繰り返すことに決める。
踵を鳴らしながら歩く王城の侍従長とは遠く距離を取りつつ、その周囲で蠕動を続ける海綿動物達を挑発するように目の前で動き回る。そうしてこちらに釣られ、群れの形が伸び始め、侍従長の周りの海綿動物達の層が薄くなったのを認めると、その場を放り、本体へ向かって走り出す。
紫の群れを迂回し、王城の侍従長に近付くや否や、彼女はまるで家令としての厳かさを失っていないかのような、典雅な身振りによってこちらを打擲しようと手にした棒を振るい、しかしそれは塔のカイトシールドで易々と弾かれ、間髪入れずに不死人は斬り込む。
その際の手応えはやはり奇妙なものではあったが、斬られる度に王城の侍従長は怯んだため、軟体動物達の群れが戻ってくる前にと、そのまま何度もブロードソードが翻り、彼女の黒いドレスは無残にも切り刻まれていく。
そして不意に、王城の侍従長は身体を大きく仰け反らせ、天を仰いだ。