「ひああああっ! ひぃあああああっ!」
追撃があるかと思えば、王城の侍従長はこちらが居る位置とは全く別の場所で叫び声を上げ、前足によってがむしゃらに瘴気の中を叩いているようであった。彼女にしてみればその直前がこちらの息を止める絶好の機会であったため、頭に血が上り、闇雲な攻撃をしているのではないだろうか。
雫石による治癒は完全ではなかったが、この機を逃すべきではないだろう。喚きながら床を叩き続ける王城の侍従長の横を回り込んだ上で、自身を黒い瘴気に紛れさせ、巨体の正面に来るように位置を取る。
そして荒々しい攻撃が落ち着いたとき、不死人は剣を上段に構えた姿勢のまま床を蹴るようにして走り出すと、王城の侍従長の真正面、縦に割れた口から覗く鮮やかな赤の肉の部分を狙い、そこを深く斬り付ける。
「げうっ!」
真っ赤な血が噴出し、獣の身体がよろける。その反応を見るに今の一撃が敵に効いたことは定かだが、その上斬った際の手応えも今までと違い、肉がしっかりと詰っているような感触と音があり、また深い裂傷が生まれたにも関わらず、そこから女性の手が生えてくることもなかった。
正対して攻撃しなければならないという危険を呑むことさえ出来るのであれば、この赤い口の部分が弱点であると言えるのか、彼女は今なお怯むような仕草を見せており、しかし流石にそれ以上の追撃を許すつもりは無いらしく、直に姿勢を取り戻すと、一度前足を引いてから上体を起こし、直後に身体全体を力強く床に叩き付ける。
「ひいああああああああああああああああああぅっ!!」
後ろに飛び退くことで叩き付け自体の直撃からは逃れたものの、その際の風圧と、巨体の肺活量に相応しい桁外れの叫声が合わさったものを至近距離で食らい、吹き荒ぶ風に成す術なく襲われ、その場に釘付けにされるが、しかしそれの脅威は凄まじい勢力の風のみならず、王城の侍従長の口から酸性の液体が飛び出ることにより、それが風に混じって不死人を打ち、身体の至る所に焼けるような負傷を与えていた。
この状況において、逆らわず、長く続く叫び声に押される形で一度退くのも一つの手。しかし、やや無謀だが、決定的な攻撃力を持たない相手のこの行動の最中にこそ罷り出るのも一つの手である。
風に負けず、飛び散る黄緑の液体に負けず、そして怨念篭る叫びにも負けず、押し返すつもりでその中を突き進み、王城の侍従長の口元目掛けて渾身の斬撃を放つ。
「ぐぇうっ!」
大量の血液が撒き散らされ、彼女は大きくよろけながらたたらを踏んだ後、一歩、二歩と後ろに下がり始め、そのまま後退するのかと思いきや、三歩目で王城の侍従長は一旦止まり、大きく開いた口を不死人に差し向ける。
「ぐぅわうっ!!」
短距離を一瞬で踏破し、王城の侍従長は鮮やかな赤い色の口内を剥き出しにしてこちらに食らい付こうとするが、寸前で後ろへ飛び退くことで辛くもその噛み付き攻撃を躱す事に成功し、だが危機を脱したつもりになるのも束の間、種はそれだけでは尽きていなかった。
「あぁ、ぁ」
眼前で開かれた口の中に、数人の女性が生えていた。下半身は王城の侍従長の口内に埋まったまま、優美な姿で上半身を伸ばし、不死人の身体に手で触れ、そして優しく撫でる。
その姿は、いずれも血の赤で染まりきっていた。
「ずっとずっと」「いつまでも」「呪ってやる」
彼女たちの手も腕も肌の全ても、皮を剥がされ、肉を露にした人体そのものの赤さであった。やがて不死人を掴む手に力が込められる。
「ああぁ」
吐息が耳朶に甘い感触を残す。
ブロードソードを両手で構え、それを上へ下へ、右へ左へ、力一杯振り回し、王城の侍従長の口から伸びる、赤い女性達を斬り裂いていく。
「決して終わらない」「全部あなたのせい」「もう誰も助からない」
彼女らは血飛沫を上げ、腕や首を落しながらも、最後まで呪詛を唱え続けていた。そしてその女性達が息絶えたように動かなくなると、徐々に王城の侍従長自身もその巨体を揺らし、震わせ、程無くしてふと糸が切れたように動かなくなり、床の上に倒れ込む。
紫の海綿動物達もまた、絡み合った部分がほつれ、そこから滲んだ真っ赤な血と黄緑の液体が混ざり合い、黒い水溜りとなって床に広がっていく。
苦しみを溜め込み、獣と化した彼女と、その配下にあった者達の悪夢は、果たしてこれで終わったのだろうか。
力尽きた王城の侍従長の身体は、ドレスを纏っていた頃の面影など微塵も無く、死んだ海綿動物達が堆く積まれてそこにあるだけであった。
やがて瘴気も薄れ、広間が明かりを得ようとし、そのように変遷していく周囲の様子を目にしながら、不死人は歩き出す。広間の中央にある、最も尊い者のみが使うことを許された、壮麗な椅子の元を目指して。
そうして段々と近付けばそれは背凭れや肘掛など、あらゆる部分において細かく丁寧な装飾が施されており、布の部分は触るまでもなくごく滑らかな素材が使われているのが見て取れるが、しかしそれ以上のことはなかった。
ただ、それだけのことであった。横から眺めても後ろに回り込んでみても、その椅子はただ尊いだけであった。仕掛けが施されているようには見受けられず、不死人は試しにそこへ座ってはみたものの、何か変化が起こるというようなことはない。
玉座を目指す。この旅における当初の目的は果たしたが、そこに意味はあったのだろうか。
玉座から視線を移し、周囲を見ると、玉座から見て右方向へ直進した先の壁に、一面が金色で出来た扉があった。広間や玉座の装飾に劣らず絢爛なものであり、この国の象徴なのか、草花と魚の模様が細かく描かれていた。
この扉に近付き、動かすと、やはり手入れは怠っていないのか、埃が舞うようなことはなく静かにそれは開き、室内の薄暗がりに出迎えられ、不死人はその中へと踏み込んでいく。
目が次第に慣れると、存外に広い部屋の中に数々の美しい調度品を見付け、またその中でも大きな天蓋の付いたベッドが目を引いた。ここは寝室であったのだろうか。
窓は締め切られ、寂然とした空気が漂っていたが、しかし忽然と鉄が揺れ、軋むような音がどこかで鳴る。それが発せられた方角と思しい部屋の隅の方に目をやると、鳥かごのような形状の、しかしそれよりも遥かに大きな檻がそこに据えられ、またこれの内側にはぼろきれに身を包み、薄汚れた茶色い長髪の女が一人、囚われて尚、鎖に縛りつけられていた。
「あぁ。はっ、はははっ、はははは。はぁ、ご苦労なことね」
近付いた際の気配を感じ取ったのか、不死人が話し掛けもしない内に肩を揺らしてその女は嗤い、顔を上げる。卑しく唇を歪ませ、泥か灰にでも塗れ、惨めに汚れた顔は、しかし造型そのものには美しいような印象もあった。