第9章 礼拝堂 5
「ふわぁあああああああぁぁぁぁあっ!」
何かを踏んだ感触を覚えたときには既に叫び声が上がり、次に水槽の一つが内側から弾け、浮ぶ内臓が出現する。相手が意図したことかどうかは分からないが、こちらが視認する事が出来る内臓部分だけを水槽に浸し、隠れていたか。
不死人は直ちに剣と盾を構えると詠唱を始め、塔のカイトシールドに闇の盾を付与するも、後ろの方でどこかの扉が力強く開け放たれた音を聞く。
慌てず、しかし大急ぎで不死人はカイトシールドで透明な触手を防ぎつつ浮ぶ内臓に接近すると、ロングソードでそれを斬り捨てざまに、直後足音のした背後に振り返った。
「うごうっ」
迫っていたのはやはり看護師の亡者であった。短く発した声と共に振り下ろされた警棒を躱すと、そこにあった水槽が砕け、不潔な水が零れる。
その様子を見れば急襲を凌げたことに安堵している場合では無く、まだ他の浮ぶ内臓が水槽に潜んで居る可能性があり、あまりこの場で看護師の亡者を暴れさせるべきではないことに考えが及ぶ。
だが闇の盾等を使おうにも双方の距離が至近にあるため、詠唱するだけの時間を設けることが出来ず、また入ってきた扉は看護師の亡者が背にしており、通り抜けることは出来ないだろう。
進退極まる事態に陥りつつあるが、要は敵の注意を一瞬逸らしてさえしまえば、距離も時間も得ることが出来る。敵の動きに注視しながら要点に集中して思案するも、所持品に投げナイフや火炎壺はなく、役に立ちそうにない。代わりに投げ付けるものとして盾と剣が挙げられるが、これを手放してはその次の行動に支障が出る。
他に使えそうなものは無いか、室内を見回し、すると目に留まる物があったが、更にそれを利用する為の手ごろな容器を探したところ、そう都合良く見付かる筈も無い。
看護師の亡者はいよいよこちらに向かって歩き出す。あの警棒を振り回すまで時間の猶予は少なく、已む無く不死人は手近な水槽に駆け寄ると、口から汚水を吸い込み、振り返ってそれを吹き出し、敵の顔に浴びせ掛けた。
すると看護師の亡者は一瞬だけ目を瞑り、たったそれだけではこちらから攻撃するための隙としてはあまりに少ないが、しかし脇を駆け抜けるための間としては十分であり、不死人はそのまま扉を潜ると廊下に逃れ、距離を確保してから立ち止まる。
そして魔術師のロングソードで詠唱を始め、塔のカイトシールドに闇の盾を付与すると、その頃こちらを追って廊下に出てきた看護師の亡者が到着し、手にした警棒を大きく横に薙ぎ払う。
敵は先に魔法を阻害する術を使うべきであった。そうしなかったために警棒は闇の盾の反発力により、それを持った腕と肩ごと弾き飛ばされるようにして身体全体の姿勢を崩し、対敵の眼前にて無防備を晒す。そして不死人は抵抗のしようがない敵の首目掛けて、両手で持ったロングソードの斬撃を放った。
まるでそこに骨など入っていなかったかのように、剣は看護師の亡者の首を切り離し、鮮血を噴き出す胴は床の上に崩れ落ちる。
魔術師のロングソードから軽く血を払う。次に水槽の水を含んだ口を洗いたいところではあるが、生憎と真水などは無く、だがそのままでは思いも寄らない病を患ってしまいそうであったため、唾を口内に溜め、吐き出す行為を繰り返す。
せめて不死が故に、味覚が死んでいることが幸いであった。常人であればあの急場であっても無意識に忌避し、濁った水を口に含むという発想には至らなかったかもしれない。
五回ほど唾を吐き出したあと、不死人は水槽のある部屋にまで戻る。
一応脅威は取り除かれたが、先程懸念したようにまだ他に水槽に浸かった浮ぶ内臓が居る可能性は捨て切れず、出来るだけ並ぶ水槽から距離を取り、部屋の奥へ向かって歩いていく。
そこにはまた扉があり、少し開いた隙間から向こうの様子を窺い、何者の気配も無い事を確認すると、あまり音を立てないよう気を付けながら開き、次の部屋に入る。
そこはあまり広くない個室の中央に、ベルト付きのベッドが一つ置かれているのみであった。その上で何かが寝息を立てている、というようなこともなく、周囲は閑散としている。何を目的とした部屋なのだろうか。
このベッドの向こうにはまた新たに一つ扉があり、別の部屋に繋がっているそれに近付き、先程と同じように向こう側を一度警戒してから開いていくと、中に踏み込んだ不死人は、まるで月明かりのような、淡い光に出迎えられる。
その根源に目を向け、正体を確かめると、それは大きな窓から注ぐ、弱い陽光であった。この部屋には他に低い長机や、ソファと、隅に小さな机とその上に花瓶が置かれているが、目を引くのはやはり窓であり、ガラスはよく磨かれているのか、向こう側を観察するにあたり十分な透明度を持っていた。
外には青々とした木が立ち並んでいる。周壁の影であるためか、薄暗くはあるものの特に不気味な様相とはならず、また窓から見る限り外の空間には広さに余裕があり、綺麗に手入れされた植物達が植えられたその場所は、中庭のような場所であるのかもしれない。
そして窓からの景色や、置かれた家具の佇まいから察するに、この部屋は訪れた者に穏やかな心地を与えるために作られたものであるのだろう。
医療など、せいぜいが瀉血であり、それより上等なものともなれば、施されるのは余程富のある者達のみである。よって平民達に出来ることは、心を癒すことだけとなり、だがそれとて、この施設は十分に贅沢である。
机の下、椅子の下にまで隈なく部屋を調べるも、特に有用と成り得るものを見付けることは叶わず、不死人は入ってきた扉とは反対側にあったもう一つの扉に近付き、この部屋を後にする。
扉を開いた先に待っていたのは長く先の見えない廊下であり、それは今までに通ってきたものと何ら変わるところは無いが、右手にあるのはベルト付きのベッドが積まれ、通行を不可能にしている場所であった。要するに三つの部屋を通り抜けることにより、その地点を迂回することが出来たらしい。
不死人の身体は自然と左に向き、そのまま廊下をしばらく直進していると、やがて奥に壁が見え、先は左に折れていた。曲がり角に近付き、耳を澄ますも、向こうから物音がするようなことはなく、さらに首から上だけ突き出して見てみるや、すぐ近くで浮ぶ内臓が一匹、廊下を歩いている様子であった。
こちらの方向に向かって歩いているらしく、また青い臓器の前には銀色のトレイのようなものが浮んでおり、それはつまり、浮ぶ内臓が透明な手でそれを持ち上げ、運んでいるということなのだろうか。
その行為の意味は不明だが、廊下の幅は十分にあるため、気を付けていれば浮ぶ内臓の横を通ることは出来るだろう。不死人は曲がり角から姿を出し、廊下の端を歩いていく。
浮ぶ内臓は、二つの目玉をこちらに向け、歩きながらじっと見詰め続けていた。その眼差しは奇異であり、また相手の特徴に鑑みれば、この状況は極めて気味の悪いものだが、特に何かしてくるような気配は無い。
そうして横を通り過ぎると、その瞬間に足の裏に透明な何かを踏んでしまうような感触を覚えるようなことも無く、両者は廊下をすれ違った。しかしそこで安堵し、大きく息をつくようなことはせず、もとい、出来る状況ではなかった。
銀のトレイを持った浮ぶ内臓とすれ違った直後、廊下の先に別の浮ぶ内臓の姿を見付けたためであった。今度のものは長い花瓶のようなものを青い臓器の前に浮かせ、つまりは持ち運んでいるらしい。
幸いにも道の幅を狭めるような物は廊下に無く、先程のように脇を抜けることは可能だろうが、あの浮ぶ内臓が暴れ出した場合、手にしているのが花瓶であるため、落として割れば余計に音を大きくし、遠くまで届かせるのだろう。
まるで遠慮なく向けられる視線を不死人は半ば無視し、廊下の隅に寄って歩き始める。どのような状況に陥ったとしても柔軟に即応するため、敢えて剣と盾は構えず、両手を空けたままゆっくりと歩き続けていると、不意に横を通る花瓶の柄が目に入った。描かれているのは草の蔓か、或いは海底の生物だろうか。
そのように細心の注意を払って歩いた結果、無事に浮ぶ内臓の横を通り抜けることに成功し、だが廊下の先にはまたしても浮ぶ内臓が歩いていた。この廊下では三匹目となるその浮かぶ内臓は陶器の皿を十枚近く重ね、どこかへ運んでいるようだ。落して割った際、花瓶とどちらがより大きい音を生むのだろうか。
先の二体の横を通り抜けた際と同じように、廊下の壁に張り付くようにして歩きながら、今さらになって床の上に埃でも積もっていればそれで透明な触手があるかどうか分かるのではないかと閃くが、どちらにせよ無い物ねだりである。
浮ぶ内臓の真横を通過する緊張の一瞬を越え、叫び声が上がることはなく廊下をすれ違う。そしてまた出会った次の浮ぶ内臓は、左右にバケツを下げて歩いていた。
今度の持ち物は嫌がらせのように大きな音を出しそうな部類ではないが、そもそも暴れ出しさえしなければ何を持っていようと同じことである。左の壁に寄り添ってゆっくりと歩き、いよいよ浮ぶ内臓とすれ違うかという箇所に差し掛かると、そこには木の板で封じられた扉があり、その部分は他の壁よりも内側に凹んでいるため、より距離を離して浮ぶ内臓の横を通り抜けることが出来るようであった。
扉から少しだけ突き出たドアノブに引っ掛かってしまわないよう気を付けながら、不死人はバケツを下げた浮ぶ内臓の横を、いくらか余裕を持って通り過ぎていく。
すると扉の向こうで、聖鈴の音が一つ鳴るのを耳が捉える。
不死人はほぼ条件反射で扉から飛び退き、その瞬間足が透明な何かを踏んでしまっていた。