第9章 礼拝堂 7
「やぁはじめまして」
語りかけてきたのは浮ぶ内臓なのだろうか。この場に第三者は見えないが、唇が不可視であるため、その認識で合っているかどうかは定かではない。
「気味が悪いかな? 非道な実験を施されたと? いやいや、我々はこれで心安らかに過ごせるようになったんだ。何せ長い時間存在するということは、それだけ狂う確率を増していく訳で、それなら理性も感情はある程度制限するべきなんだよ。そう、これからの時代、愚鈍は美徳だ」
こちらが聞いているかどうかに構うような様子は見せず、それは一方的に喋り続けていた。
「まぁこの身体じゃ今は外に出られないのが窮屈に感じるときもあるが、その問題もいずれ解決するよ」
浮ぶ内臓はその言葉を最後とし、目玉の後ろにある、光る虹色の細い線を走らせる臓器を自身から分離してベッドの上に置くと、やおら立ち上がり、部屋の扉を開けて廊下へと去って行った。
ベッドの上で細い線を虹色に光らせる内臓。形状からして脳みそであるそれは本体から切り離されても発光し続け、内臓として活きている様子であった。つまりこれがこの病院における具体的な治療方法であり、患者本人の話によればこれは全く狂った行為ではないそうだ。
その話の是非はさて置き浮ぶ内臓の後を追ってみると、彼はまだ廊下を出て間も無いため、扉から近い場所を歩いており、そしてその向こう側には、礼拝堂から病院へ入る際に通り抜けた窓が見えていた。同じ場所に戻ってきたということなのだろう。
そちらを調べたところで今更見付かる物は無いため、不死人は部屋の中に引き返すと奥にまで歩き、窓を跨いで中庭へ伸びている梯子に足を掛け、それを下っていく。
降りた先は日陰で水気が多く、だが不浄な虫の気配は見られずその息吹を清涼なものとしており、また幽かな灯りが木々を照らし、或いは窓を映しては奥の闇を浮き上がらせていた。
虚像の園。深刻な心の傷を癒すには現実のおぞましい風景を遠ざける必要があり、そういった目的の為にと作られた場所を不死人は中心へ向かって歩いていくと、不意に後ろの方で草木が揺れ、葉の擦れ合う音が出る。
そちらに顔を向け、しかしその直後には視線を向けた真反対の方向、つまり先程まで前方であった位置でも草の茂みで物音が鳴り、次いで左右両側で生木が少ししなるような音が響く。
最低でも四箇所。またはそれ以上に分散した場所にて同時に音が鳴り、だがどれだけ首を巡らせたところで、音が鳴った場所には何者の姿も無い。木の陰にでも隠れているのであれば相手が見えないのも分かるが、そこに足首までの高さの草しかないような場所であってもそれは同じであった。
理に適わない現象ではあったものの、思い当たるものが全く無いかと言えば浮ぶ内臓が挙がり、それがこの中庭に何体も存在し、それぞれが音を立てている可能性が考えられる。しかしながら、仮にその通りであったとして、彼等の青い臓器すら目に入らないのは妙である。
いつしか、草の揺れる音は止まっていた。直前まで音を出していた位置から予想するに、不死人は四方を何かに囲まれている状態である。
また脈絡無く、背後から音が鳴る。だがこの音は先程と違い、何かが移動した際に草木から発するものではなく、水に浸けた長く鋭い刃物を、端から端まで一息に、且つ優しげに研いでいるかのような音であった。
そして音の発した方角より飛来する、光の弾によって胸を殴打される。高速であったために回避が間に合わず、衝撃によって肺の中の空気が無理矢理に喉と口を通って外へ追い出され、中庭の土の上に不死人は倒れる。
今のは魔法による攻撃なのだろうか。ソウルの矢のように一直線に飛ぶそれはとても鋭く、また威力もそれなりに高いものであった。すぐに起き上がり、一応追撃の気配が無いらしいことを確認し、エストを飲む。
雫石での回復と違い、エスト瓶は瞬く間に傷を治癒し、態勢を整えた不死人はもう一度、光弾が放たれた方向を見るも、やはりそこには何も無く、木々が佇んでいるだけであった。だが透明な何かが存在しているのは明白であり、速やかにそれの正体を確かめなければならないが、具体的な手段を考案するより先に再び不死人の周囲で草木が揺れ動く。中庭を何かが移動しているようだ。
後手であり、自身の身に起きている状況に対して傍観していれば、姿の見えない相手に一方的に嬲り殺されるだろう。よってまだ碌に策も無いが、少しでも状況を変えるべく、不死人は草木の揺れた場所に近付き、その辺りを魔術師のロングソードで斬りかかる。
しかし手応えは無かった。銀色の刀身は小さく風を起こすのみに留まり、そして反撃があるかと思い、念の為塔のカイトシールドを構えてみるが、衝撃が訪れるようなこともなく、やがて草木の揺れる音も止まる。
そうして生まれるのは無音の間であったが、それが中庭の隅々にまで染み渡るかと思えば、ここから少し距離のある方角より、長い刃物を研ぐような音が鳴る。反射的にそちらを向くが間に合わず、またしても光弾の餌食となり、不死人は仰向けに打ち倒された。
だが天を仰ぎ見たのは一瞬、不死人は跳ね起きると、エスト瓶で回復よりも先に魔術師のロングソードを構えて詠唱し、剣の先を中庭の端の方へ向け、ソウルの矢を放つ。
真っ直ぐに飛んでいく青い光は透明な何かに衝突し、しかし効果が無かったのか、まるで阻まれたかのように霧散して終わる。魔法の効きにくい手合いなのだろうか。もしかすればこの特性は、魔法が盛んに使われている地ではさして珍しいものではないのかもしれない。
ともあれこれ以上の攻撃を行う機ではない。ひとまず構えを解き、エストを飲んで身体の傷を癒していると、またどこかで葉が地面に沈み込む。そしてそれは不死人の周囲に集まるかのように移動し、まるで取り囲もうとしていた。
その時勘が何かを告げたのか、ふと上を見た瞬間、窓の黒さの上に重なることで僅かに鮮明になったそれの姿を目が捉える。頭上よりさらに高く、二階建ての病院の屋根すら越す程の高さの宙で、数本の虹色の細い線が光り、まるで脈動していているかのようであった。
偶然発見したこの光の線はすぐにどこかに消え失せ、だが思い返すに浮ぶ内臓の脳みそで走っていたものと酷似しており、これも脳みそであるのかもしれない。しかし宙に浮いている場所が高過ぎることに加え、線の長さから推し量るに、人間の脳みその数十倍の堆積があると予測される。
つまりそれは、一匹の巨大生物である可能性の示唆であった。この透明な巨大生物は長い足を使って不死人の上を跨ぐように移動し、それ故に複数個所で同時に物音がしていたのだろう。それだけで敵の正体が判明したとは言い難いが、戦い方を選ぶ上では重要な手掛かりになり、だがそれ以上の思索に耽る暇は無かった。
刃物を研ぐような音が鳴る。間髪入れずに盾を構え、敵の遠距離攻撃を防ごうとするも、しかし光弾が襲い掛かったのは低い位置であり、塔のカイトシールドを抜けて足を打ち、地面へ転ばされる。
数度目になるが慣れず、対応の難しい攻撃であった。速く、またどこから撃ち出されるかが不明であるため、振り向いてから身構えては間に合わず、避けるにせよ防ぐにせよ、せめて敵の位置を把握しなければ成功し得ない。
起き上がり、残りが半分を切ったエストを飲んで傷を治し、態勢を整えると、その直後に草木の揺れる音を耳にする。どうやら透明な巨大生物が移動を開始したらしく、今度こそは見失うまいと宙に目を凝らし、すると虹色に光る細い線が見付かったためそれを目で追うと、光る線はこちらの頭上から中庭の隅の方へ向かい、本体の部分を下に降ろしていた。
敵の攻撃が発生する位置は掴むことが出来ていた。故に次に光弾が撃たれても対応することは出来るが、それは消極的過ぎる選択だろう。相手がまだ自分の位置を知られていないという優位にあると思わせるには、光弾に対応する所を見せてはならず、だがそう何度も傷を負ってはいられないため、ここで仕掛けるべきであり、不死人は魔術師のロングソードを構える。