第10章 牢獄都市 潮打ち 2
「沢山買ってくれたから、今度も色々教えようかねぇ。アンタ、溝の溜まり池の先にある、洞窟を塞ぐ門の先にあるものが何なのか、知っているかい?」
そこへ向かうことを、この老婆は察していたのだろう。一言たりとも聞き逃さぬよう耳を澄まし、また皺だらけの口の動きにも注視する。
「そこにあるのは深い、とてつもなく深い牢。あまりに深く巨大で、きっと王城よりも広いその場所は、牢獄都市だなんて呼ばれているのさ。そして毒池と同じで、昔からあった訳ではなく、ある時を境に生まれたそうだけど、一体どうやってそんなにも大きなものが地下に出来上がったのか、殆ど誰も知らない。私も知らないよ」
老婆は一度語りを止めると、次第に顔を陰らせる。
「そこに居る者達が罰を受ける事は当然の成り行きさ。アンタは彼等に入れ込まず、不死の使命である、闇へ挑むことだけに専念した方がいい。だけどね」
この瞬間、彼女の濁った眼が得体の知れない力で不死人を捉えて離さず、よって否応無く次の言葉が鼓膜から深くまで流れ込むこととなった。
「あの門より奥は、踏み込む者の人間性を試すということを、アンタは覚悟しておかなくちゃいけないよ。隠された地でする行いは、誰にも知られないのだから」
心無い選択をしていけば、それは己に返ってくる。それが言わんとしている所なのだろうが、老婆の話は門の奥に待ち受けるものの不吉さをも思わせるものであった。
老婆との取引を終えたのち、不死人は坂を上がり、一度中央広場にまで戻ってアリーナ方面へと直通する跳ね橋を渡ると、そこから礼拝堂にもアリーナにも向かわず、橋の付近にあった細い道を通って溝の溜まり池へ入る。
そうして溝の溜まり池の終点に聳える鉄の門の前へ行くと、その脇にある粗い鉄で造られた扉へ近付く。その隙間には未だ何かの棒が入り込んだまま、開閉の妨げとなっていた。
不死人は泥に汚れた楕円形の飾りを取り出し、これの穴の部分を扉から伸びる棒の先に被せ、右に回すと双方の螺旋状の溝が合致したらしく、二つの品は連結し一つとなる。そして飾りの部分をしっかりと握り、力一杯引くと、ついに棒は引き抜かれ、扉もまた開放される。
その一方、連結し、全容を露にしたそれは、おそらく錫杖の類であった。だが飾り部分を含む、全体もまた青みがかった泥に汚れており、拭い去る事も出来ないため、模様などの判別は困難であったが、聖鈴が付いていることから奇跡の触媒と思しい。
嵩張るため錫杖はその辺りに捨て置くと、不死人は粗い鉄の扉に向かい、それを押す。扉は歪んでしまっているのか、重い異音を響かせながらも、しかし徐に開き、いよいよ牢獄都市と呼ばれる地へ踏み込む。
中は洞窟そのものの暗所であった。
だが至る所に松明の灯りが置かれており、削り出された岩の肌を照らしている。この壁は王城にあったような大理石で造られたものに比べれば遥かに雑に切られていたが、少し視点を上げて周囲を遠くまで見た所、その削り出された範囲が尋常ではないものでと知ることとなる。
それは巨大な空洞であった。ピラミッドを逆さにしたような形で下へと階層が続いているため、この区画の大半は何も無い空間が占めており、また外縁部分の幅の広い道は四角形となって一周し、その一辺の長さたるや王城の敷地の全長に匹敵する程である。
そして通路の端にまで寄り、空洞を見下ろすも、そこで咲く闇によって底は覆われ、結局この場所の全容を知ることは叶わなかった。老婆の言う通り、ここは途方も無く広大な地下空間なのだろう。
どうやら内部にまで毒の水は達しておらず、その点で苦労することはないのだろうが、こうも空間自体が広ければ歩くだけで一苦労であり、もしも階層を一つ一つ降りていかなければならないとなれば、一体どれだけの時間を必要とするのだろうか。
闇雲に進むのは避けたいところであった。かと言って付近に親切な地図や道標が置かれている訳も無く、道案内を頼めるような人も居ない。理解した上で不死人は諦め悪く周囲を見回し、何か無いか探していると、少し離れた地面に奇妙なものを見付ける。
地面から浮き上がり、仄かに白く光る文字。誰かの名前が書かれたものであるらしいこと以外に正体が分からず、不死人はこれに近付き、調べるために指で触れようとすると、途端に文字は薄くなり、程無くして消え失せる。
不可解な現象であったため迂闊に動けず、しばらくそのままでいると、何の前触れも無く文字の消えた辺りから真っ白な光に包まれたような人間がゆっくりと起き上がり、そしてその人物は不死人を見る。
彼の顔には見覚えがあった。出会ったのはアリーナの地下道であり、剣闘士の彼は縛りつけられ、それを不死人が助け出したのだ。彼は何かのジェスチャーでこちらに挨拶をしてみせると、グラディウスを鞘から抜き、警戒するように周囲を見回す。
この場所を探索する上で、助けとなるつもりなのだろうか。本当であれば心強いが、彼は今喋ることが出来ないらしく、不死人を助勢することによって得る利を知ることが出来ない。
そのような状態では何を任せるにしても信用ならず、だがこの場所の探索は骨が折れることが予想されることに加え、こちらには一度この剣闘士を助けた貸しがあり、彼の善意を深く疑う必要は無い。熟慮した結果、不死人は彼を頼ることに決める。
そういえばこの男性は縄の戒めを解かれたとき《仲間を助けに行く》と言っていたが、この牢獄都市に彼の仲間が居るのだろうか。牢獄都市は広大ではあるが、もし他に味方が見付かるのであればそれほど苦労はせずに済むかもしれない。
暗がりで生まれかけた光明。だがそれを踏み付け、躙り潰すような悪意の篭もった視線がどこからか生まれ、不死人と剣闘士に突き刺さる。
それはまるで背筋に大きな百足が飛び付いたかのような、はっきりとした悪寒を二人に与えた。どちらも周囲への警戒を強めることとなり、前後左右に首を巡らせ、或いはまさか上か、と見上げるも、流石にそこには水滴を垂らす暗然とした天井しかなく、悪意の元は見付からなかった。
しばしの間そのようにして周囲の気配を探るも、何者かによる襲撃は訪れず、であればこの場所を探索したいこちら側から区切りを付ける必要がある。不死人は剣闘士に合図し、先に進むことを伝えた。
まず向かう先は、牢獄都市入り口から見て右に伸びる通路である。先んじて剣闘士が進み、その後ろを不死人が付いて行く形を取る。
二人が歩く地面は、壁と同じく削り出された岩で出来ていた。また洞窟という場の特性か、乾燥せず湿っており、それどころか水溜りが随所に見られる。苔などが繁殖するには適した環境であるため、足を滑らせ易くなっている箇所もあるかもしれない。
自然と歩みは遅々としたものになり、だが剣闘士と二人、通路を奥へ進めば確実に入り口は遠ざかり、もう間も無くで外からの光は途切れ、あとは各所に設けられた松明の灯りだけが頼りとなるだろう。無意識に陽光が惜しくなったか、不死人は一瞬背後に目を向け、松明の灯りを横切る影が壁に映るのを目撃する。
振り向きざまに盾を翳す。目視するよりも先に取ったその行動は功を奏し、敵対者が突き出した鋭利なナイフを防いでみせた。
音に反応した剣闘士がこちらを向き、それと同時に敵対者はナイフを引き戻し、後ろに飛んでこちらとの距離を取ると、その姿の全体を観察する余裕が生まれる。
足、腕、胸に着込んだ鎧は古く、リングレイの亡者兵士と同じ物を使っているようだが、しかし兜は一対の大きな牙が伸びた猪を模して作られたものであり、兵士が被るようなものではない。
また全身が血のような赤色に染まり、仄かに光っている。光の感触そのものは剣闘士の白い光と似通っているものの、彼等が纏い、滲み出す意志は対照的である。
悪意の敵対者。牙猪の戦士は、右手にナイフを持ち、腰にモーニングスターを下げ、背にパルチザンを担ぎ、左手に不死人と同じ塔のカイトシールドを携えていた。身に着けているものが多く、しかし先程見せた身のこなしは軽やかであり、錬度か、或いは体幹に宿る力の桁は、常人の尺度で測るべきではないだろう。
観察を終え、間が残る。
異様なことであった。敵は運悪く奇襲の機を失し、すればそこに残るのは二対一の状況であり、次の行動は逃走が定石だろう。だが牙猪の戦士はこちらを睨むような視線を送りながらナイフを仕舞い、パルチザンを構えると、信じ難いことに不死人へ向かって走りながら突きを繰り出した。
やや強めの突きではあったがそれでも人の膂力の内。不死人は塔のカイトシールドで難なくそれを防ぎ、その間に剣闘士は回り込むような軌道で駆ける。
明らかに背面を取ろうと動いている剣闘士に対応するかと思いきや、予想に反して牙猪の戦士は身体の向きを変えないまま、二度目の突きを不死人に向かって放つ。鋭く、油断していれば膝を貫いていたかもしれない一撃は、しかしまたしてもこちらの塔のカイトシールドが阻み、そしてとうとう剣闘士は牙猪の戦士を背後から襲う。