第10章 牢獄都市 潮打ち 12
その時、一筋の風が背後から通り抜けた。
牢獄都市のような密閉された空間では自然の風など感じようも無い。つまりそれはあからさまに不吉の予兆であり、だからこそ不死人は走ってその場からの離脱を試みるが、そのように意識を向けた時には既に転倒していた。
背後から何かの液体を浴びせられた直後の出来事であった。身体の背面、特に足の腱の辺りに焼けるような感覚があり、これが転倒の要因となったのだろう。周囲の岩や武器防具には異変が見られないことから、どうやらこの液体は生物の皮膚等に反応する毒の類であるらしく、不死人の身体の一部が爛れ、特に多くこの液を被った足には力が入らず、立ち上がることすらままならなかった。
片や三匹の闇を削る者達は遂に生命の残滓から解放されていた。それぞれが傷を負ってはいるものの攻撃力は残しており、しかし足を負傷し、格好の獲物たる不死人との距離をすぐには詰めようとはせず、うち一匹がいつの間にか高く積まれていた黄ばんだ泡の山の後ろに立つと、細く窄めた口で短く、勢良く息を吹き掛けた。
表面に血管のような黒い筋を浮ばせ、蠢かせるいくつもの黄ばんだ泡は吹き掛けられた息に乗って高く舞い上がる。そしてその中の特に大きい泡が一つ飛んでくると、避ける足も防ぐ盾も無い不死人に覆い被さろうとしていた。
それを頭から受ければいくら感覚の乏しい身とて、耐え難い苦痛に晒され、なによりエストを用いても回復出来ないほど負傷する可能性があった。だが事ここに至っては最早出来る事は無い。不死人はせめて体内への侵入だけは避けようと、鼻や口を手で守り、身を強張らせながら泡が到来する瞬間を見詰めていた。
しかし不死人が次に目にしたものは、視界を上下に切り裂くような軌道で飛んでいく黒い円盤、否、塔のカイトシールドであった。
牙猪の戦士が鋭く投擲したそれは空中の黄ばんだ泡を打ち破り、またしても助けられた格好になった不死人はこの機を逃さず先にエスト瓶を飲み、足の傷を回復させていくが、丁度その時一匹の闇を削る者がこちらに向かって走り出した。
一の矢である泡による遠距離攻撃が失敗し、即座に二の矢たる突進を仕掛けるは、まるで知性とは無縁のような怪物としての外見にはそぐわない優れた判断であり、事実不死人の足は完治したものの、起き上がる為の一瞬の時間を消費するのは致命的な遅れとなりかねなかった。
襲い来る白い巨躯に磨り潰されるのが先か、立ち上がり逃げ出すのが先か。タイミングは際どく、だが唐突に掴まれた手が上に引かれ、助け起こされたことによって僅かに時間が短縮された。
「ぐもっ!」
鳴き声の直後、不死人と、それを助けた牙猪の戦士目掛けて闇を削る者は頭から突っ込み、しかしその際お互いの身体を弾くようにして左右に散り、両者共に無傷にて敵の突進をやり過ごすと、二人の間に差し込んだ形で、突進が空振りに終わったばかりの無防備な白い巨躯があった。
牙猪の戦士はモーニングスターで、それに合わせて不死人は聖職者のウォーハンマーで、それぞれが闇を削る者の身体の側面を、同じ瞬間に殴打する。胴の白く薄い皮膚は両側の端から波打ち、それが中央で衝突すると行き場を失った力は体内の臓器を破裂させ、闇を削る者は大量に喀血し、間も無く息絶える。
敵は残り二匹。だが遠く離れた位置に居る筈の闇を削る者の姿は一匹のみであり、もう一方の姿を探して首を巡らせると、上の階を移動してこちらの視線を逃れていたのか、白い巨躯が一つ、牙猪の戦士の背後に忍び寄っていた。
これに応じて真っ直ぐに構えた左手のロングソードから速度を重視したソウルの矢が放たれた時、既に牙猪の戦士への不信感は霧散し、より連帯しようという意識が生まれていたことを自覚する。青く迸る光は闇を削る者の頭部に直撃して牽制としての効果を上げ、またこの一撃により牙猪の戦士も自身の背後に敵が迫っていたことに気付く。
彼は振り返り、敵の方を向くと横に薙ぎ払われた白く細長い腕の攻撃を掻い潜り、そのまま闇を削る者の胸元に滑り込むと両手でモーニングスターを振り上げ、渾身の力を込めて敵の頭部を殴打した。
頭蓋を砕かれでもしたのか、歯茎を剥き出しの口から鳴き声ではない、生木が割れるような音が漏れ出ると闇を削る者は倒れ伏すが、これをした牙猪の戦士は休む間も無く不死人に向かって走り出す。
それの意味するところが一瞬分からず、不死人は動かずにいたが、しかし横から近付きつつある足音が耳に入ると、まだ遠くに居ると認識していた闇を削る者がいつの間にか至近距離にまで来ていたことを理解した。
即座に敵の方へ向き、武器を構えるが、同時に牙猪の戦士は不死人との間に横たわる死体を駆け上がると、高さを得たその場から跳躍し、空中でモーニングスターの一撃を闇を削る者の頬に見舞う。
不死人に襲い掛かろうとしていた闇を削る者は勢いの乗った攻撃によって大きく怯んで隙を晒し、牙猪の戦士もまた勢い余って地面を転がる。そうして、三者の中で唯一無事な者が動き出す。
不死人は即座に闇を削る者の頭部付近にまで踏み込むと、最初に左手のロングソードの切っ先を敵の首深くに刺し込み、それで出来た裂傷に右手のウォーハンマーの槌頭を無理矢理ねじ込むと、力一杯両手を広げ、首の傷を引き裂く。
まるで水の入った桶をひっくり返したような血の失われ方であった。一瞬にして身体中の血液を損ない、立ちあがりようも無くなった闇を削る者は、地面に倒れたまま、最期の息すらせずに死に絶えることとなった。
合計十匹。ついに全ての闇を削る者達は斃れた。
やおら立ち上がった牙猪の戦士と目が合うが、何かを伝えようという気にはならなかった。それは出会った時に彼がダークレイスであったからなのか、それとも伝えるまでもなかったからなのだろうか。
牙猪の戦士もまた、こちらを眺めるばかりで何かしようともせず、無言のまま時が過ぎていく。そして役目を終えたからか、彼の身体が薄く透け始め、やがて完全にその姿が掻き消えた。
もしもまた出会うことがあるのなら、その時はどのような関係でいるのだろうか。
協力者を見送った後、不死人は身体を休めるべく、白い死体が散乱する牢獄都市の底で篝火を探しに歩き始める。すると篝火ではないが、鈍く光るものが地面の上に置かれているのを見付ける。
近付いて見てみると、それは塔のカイトシールドであった。木の板の道の上で看守を倒す際に紛失したものがここまで落ちてきたのかと言えば、おそらくそうではないだろう。
何にせよ有用な物である。不死人は塔のカイトシールドを拾い上げると、それを左手に携えた。