第11章 牢獄都市 拷問館 5
ともあれ周囲に敵対する者の気配は無くなったため、不死人は聖職者のウォーハンマーを拾い上げてから動かなくなった獄吏の脇を抜け、通路の奥の新たな部屋へと進み出る。
通路よりも遥かに広い造りのその部屋は、しかし床中に折り重なる人肉や汚物が歩く足を柔らかに抱擁するため、むしろ通路よりも狭く、また中央には大型の拷問器具が置かれており、空間を圧迫する大きな要因となっていた。
その器具はレバーの付いた数本の丸太と、そこから伸びる四本の鎖を主としたものであった。おそらくは鎖を被害者の四肢に巻き付け、レバーを引くことでそれを限界以上に引き伸ばし、引き千切るための仕掛けであり、現にこの拷問器具の二本の鎖には鎧を着けたままの腕がそれぞれから吊り下がっていた。元の持ち主はすぐ近くで斃れている者の他には居ないだろう。
見るに惨たらしいその拷問器具の横を通り過ぎ、不死人は次の部屋へと入る。
扉も無く、区切りの曖昧な出入り口を通り抜けた先はまた大きな部屋ではあった。しかしそこに設置されていた厚い木の板で作られた水槽は部屋の殆どを占めるほど巨大なため、決して広い部屋ではなく、実際に移動出来る場所はごく限られたものであった。
水槽に近付き、中を覗き込む。
不死人の首と同じ程の高さまである水槽は、赤黒い汚物を満杯に溜め込み、微かにたゆたう。面積の大きさを考えれば、想像を絶する内容量であり、これを拷問後に肉片を捨てる場として使っているのであれば、如何ほどの人体を必要とするのか、それもまた想像は及ばない。或いはこれをも拷問の一種で利用していたのなら、憐れな騎士達は仲間の臓物で溺れ苦しんだのだろう。
背徳極まりないものであったからか、無意識の働きで不死人の足は水槽から遠ざかり、そうなれば殊更近付く理由も無くなる筈であった。だがその場から部屋の中をよく見回したところ、水槽を挟んで向こう側に上へ向かう梯子が一つと、その脇に扉らしきものがあるのを見付け、そちらに行くにはどうやら壁と水槽との間の細い道を通り抜ける以外に選択肢が無く、再度赤黒い汚物と距離を接しなければならなかった。
人間として、または生物として根源的な嫌悪感を覚えるその細い道の上へ、不死人は一つずつ足を乗せ、時折立ち止まっては異変に備え、何も起こらないと見るやまた足を動かし、数歩分進んでから止まり、その繰り返しで道の半ばにまで至る。
「ぶばっ!」
その音に全身が強張り、出所を確かめるべく首が動くが、それらを同時に見ることは叶わなかった。汚物の水槽から飛び出した、四肢がいくらか欠けた虜囚の騎士。それが一匹ずつ通路の先と、通路の後ろに落ち、不死人の前後を挟んでいた。
どちらを先に対処すべきか、一瞬の逡巡で間が開いたのは命取りとなったか、前方の虜囚の騎士が地面に寝転がったまま右手のロングソードを掲げて何かを呟き始め、しかし即座にそこへ駆け寄った不死人は敵の剣を蹴り上げて放り捨てさせ、そのまま横に伏せる鎧の継ぎ目を狙って魔術師のロングソードを突き立てる。
上から掛かった力が伝わった剣は存分に敵の身体を貫き、これが致命傷になった虜囚の騎士は斃れたようだが、休む間も無く不死人は振り返ってもう一方の騎士と正対し、走り出そうとしたところでそれに気付き、意気が収まっていく。
その虜囚の騎士は千切れかかった片腕のみで水槽から這い出した際、全ての体力を使い果たしたのか、今は浅い呼吸に応じて胸を上下させる以外の動きを見せず、ただ汚物に塗れて横たわっているだけであった。
憐憫を喚起する姿であり、また完全に脅威から除外出来る訳でも無い。故に不死人はその騎士の元に歩み寄ると、先程と同じく鎧の継ぎ目に剣の先を当て、一息に押し込んだ。
これが束の間とて、彼は苦痛から解放された。だがリングレイは不死を生む亡者の地。ここに死の安らぎなどあろう筈も無く、この者達も再び動き出すのだろう。
やがて障害の無くなった水槽と壁との間の道を通り抜け、不死人は梯子と幅の広い扉のある場所にまで出る。
二つのうち目を引くのは梯子の方であった。奇妙な事に、上に向かって伸びるこの梯子の先にあるのは出入り口ではなく、天井の壁である。本当にただの壁であるならここに梯子を設ける意味は皆無だが、試しに梯子を登って天井を手で押したところ、そこの壁の一部分が正方形の形に持ち上がり、やはり蓋であったそれは完全に開く。
蓋から上の階を覗くと、場所としては不死人に話し掛けてきた亡者が居た付近であり、これで退路に直通する道を拓いたことになるようだ。その後は梯子を降りて戻り、これの横にあった幅の広い鉄の扉の方を向く。
鍵の無い扉を開いた先にあったものは、これまでと違って灯りの無い、地下空間の暗闇がありのまま横たわる通路であった。
触れてはならぬもの、見てはならぬものがその奥に存在している。そのような予感を裏付ける証拠はこれまでに目撃した数々の凄惨な拷問の現場であり、疑うべくも無いが、それでも退く道は無い。
灯りに背を向けた不死人は、やがて一歩ずつ歩き出し、闇の中へと浸かっていく。
視界は黒く染まり、眼が映すものは多くない。壁や天井ともなればどのような様相であるのか、全く見て取ることは出来ず、せいぜいが足元にまでしか目は届かないため、歩く際の視線は落としがちになり、よってそれを見付けたのはごく自然なことであった。
通路の床を走る、大きな白い傷。幾条にもなるこの線はまるで重い何かを引き摺って運んだ跡のようであり、不死人の行く先へと伸びている。となれば自ずとその線を追うようにして通路を歩く事になるが、ある程度の束になっていた線は進むうち解け、横に広く拡散していた。
それを目で追っていくと、いつの間にか通路が終わり、自らが広い空間に立っていることに気付く。暗いためやはり全容は分からないが、空気の流れや滴る水滴の反響音等から察するに、天井や壁までの距離は相当なものであるのだろう。
こうなってしまっては、何に拠って進めば良いのか。しかしその程度の憂慮は、見えぬ闇の先で脈動する巨大な何かを前にして消え去る。
錆びた鉄のような土気色の肌の巨体は、粘着質の音を出しながらそこに居るが、全体像が不確かであり、そして唐突に身体を起こす。
「んぎいいぃぃいぃいぃっ! うぅぅうぅうぅーっ」
それはまるで激昂したように急に動き出すと、地面に横たわっていたらしい亡者数人を長い手で掴み上げ、それを下に叩き付けては地面と拳の間で轢き潰し、それでも気は収まらないのか、今度は亡者の肉塊を自分の顔に押し付け、咀嚼し始める。
肉の繊維が引き千切れ、骨が裂けて割れていくが、それは摂食行動ではなかったのだろう。そうして混ざり合っていく赤黒い者達は殆どが巨体の中には入らず、血と共に地面へと零れ落ちていった。
不意に土気色の巨体は動きを止める。そして徐に顔の正面を不死人の方へと向けるが、果たしてそれは本当に顔と言えるものであったのか。まず顔の下の部分は血肉で汚れてはいるものの、咀嚼していたはずの口が無く、目や鼻、耳などの部位も見受けられない。
目が暗闇に慣れたか、段々と見えるようになってきた身体の方もおかしい。膨れたような胴は首や頭部の区分が無く、そこから長く伸びている筈の腕は口と同様、何時の間にか消えており、自重を支える脚は木の根のようなものが大量に腰から下に生え、それぞれが自由に蠢いていた。
「ぶびいぃいぃ、ぶびびびっ、ぎっ、ぎひぃっ、ぎっっっひひひひひひひひひひぃっ!」
怪異を体現したかのような形貌。まさに拷問館の主たるに相応しいその化け物は、不死人を見据えながら血液か涎かを垂らし、豚の啼き声のような汚らしい嗤いを響かせていた。