第12章 牢獄都市 最奥部 1
暗い広間。不死人は篝火を前に身体を休めていた。
シャンデリアからは火が落ち、微かに通り抜ける風に混ざる音も無く、周囲は至って静穏そのものであった。だがこの部屋の闇が覆い隠しているものの正体を知っては気を落ち着けることも出来ず、不死人は早々に立ち上がり、先へ進むことに決める。
一度明るい状態を見た経験もあり、また暗がりとは言え空間全体の構造をぼんやりと把握出来る程度には目が慣れ、見当を付けた不死人はこの広間に足を踏み込んだ際に通った出入り口から見て真正面となる方へ向かって歩き出した。
視線の先は漏れなく光りを拒む黒檀の色をしているため、聴覚もそうだが、特に足の裏の感覚が周辺の状況を知るための重要な手掛かりとなり、その結果足にばかり意識を捉えられることになるが、凹凸が伝わるものの多くは恐らく、人体由来の何かであった。
右足はやけに粘性の高い水溜りを踏み、左足が踏んだ膨らみは柔らかく、体重が乗って沈み込むにつれ小さな破砕音を発する。足を交互に差し出す度そのような出来事があったが、真相を調べることなどせず、否応無く味わった感触を出来るだけ無視しながら歩き続け、だが不意に落ちた雫が遠くの地面で弾ける音が足元から昇って耳に入り、その奇妙さに歩みが止まる。
下を見れば、足が踏んでいた地面の一部には頑丈な鉄格子が嵌められており、隙間から見る限りどうやら向こう側はそれなりに高さのある空間となっているようだ。鉄格子の面積が不足し、階下となるその場所の奥行き、横幅までは観察出来なかったが、そこに立ち留まっているらしい白い人の姿を一つ見付ける。
血の汚れが無いその白さは、おそらく高貴な者だけが纏うドレスによるものなのだろう。距離があるためあまり詳しいことは分からなかったが、裾の広がり方などを見るに、少なくとも形状においてはそういった部類の衣服のように見受けられた。
この人物が虜囚達の姫とやらであるのだろうか。この場からは確かめることが叶わず、助け出すにせよ放置するにせよ、もっと近くにまで行ってから判断を下すべきだろう。この光景を記憶の片隅に留め、不死人は歩みを再開する。
そうして辿り着いた壁には、小さな穴ぐらのような通路が開いていた。武器を振り回せば確実に壁に弾かれるほど狭いという点が足を踏み入れることを一度躊躇させ、しかし入ってさえしまえばその通路はほんの数歩分ですぐに終わり、拓けた空間に出るように見える。
不死人は自然と壁に手をつきながら穴の中に入り込み、進めば程無くして洞窟のような様相の場所に降り立つこととなった。
この洞窟の始めには三叉の、金細工にも近しい繊細な燭台が一つ置かれており、だが先を見通すに灯りは他に一切無い。まさかこのようにすぐに掻き消えたり、或いは破損したりしそうな火では持ち運ぶに不適切であり、よってこの先に進むのであれば闇に飲まれる覚悟が必要であった。
ただどちらにせよ、闇の中では光を避けるというのは鉄則に等しく、そういった意味でも頼るべきではないのだろう。不死人は燭台から遠ざかろうとし、だがふと目に入った自身の身体の一部分に目が留まり、動きを止める。
気に掛かったのは、身体に付着していた汚れであった。真っ黒な墨のようなそれは暗がりでは発見が難しく、今まで見えなかったのも別段おかしなことではないが、まず一つに具体的に何の汚れであるか判然とせず、次にいつ、どこで身体に付着したのかも不明である点などは不可解である。
「ぎゃあああああああああああっ! ああっ、うああああああああっ!」
「ああああっ! ああっ! あああああああああああああっ!」
突然の叫びは洞窟の奥から響いたものであった。亡者の絶叫にしては女性のような印象が強く残り、また複数人のものが重なったように聞こえる。またここでも拷問が繰り広げられているのだろうか。
「ひっ、ひっ、ひっ、あ、ひ、ひ、ひ、ひ、ひひひ」
「うっ、ふふふ、ふふふふ」
しかし荒い呼吸音が笑い声のように変遷するのを聞けば、そのように単純なものではないと直感が告げる。襲撃の可能性を懸念して剣と盾を構え、すると闇の奥から真っ白な人の影が二つ、急に現れた。
まるで靄で作られたような人影は実体が定かではなく、だが確かな歩みで不死人の方へと近付きつつあり、如何なる対応に出るか、早急に判断を下さなければならなかった。対話可能かを見るか、迎撃に出るか。
そのように選択肢が浮き彫りになることで、対話などは相手から話し掛けてこないか、理性の宿る眼差しを見付けない限りは試すことすら危険で愚かしい、という結論に却って早く達することになった。魔術師のロングソードを構え、ソウルの矢を放って白い人影を迎え撃つ。
青い光は一直線に飛んで人影の頭部に命中し、そして通り抜けていた。魔法の無力化、と解釈するにしてはあまりに抵抗無くそれは突き抜け、まるで本当に実在しない靄か何かを攻撃したかのような印象を抱く。
「あっ、それはきっと、幻影じゃないかしら。よく見てみて」
流麗ながら、花が弾むかのような愛嬌のある音声が俄かに漂う。状況に即した内容だがまるで場違いであり、油断を誘っているのではないのかと疑ったのも束の間、歩いていた白い二つの人影は次第に透け始め、間も無く暗い背景との輪郭が完全に消滅していた。
その声の言ったことが真実であったのだろうか。念の為しばらくの間その場に留まり、周囲を警戒するが何も起こらず、次に不死人は先程の声が聞こえてきた場所に足を向ける。
その女性は、壁を刳り貫き柵を嵌め込んで作られた牢の中で座り込んでいた。スカートの部分が長い服、おそらく元はそれなりに高価であったドレスを着ているあたり、かつて身分のある人物であったのかもしれないが、当然のように今は見る影も無く荒んだ身形をしている。
「あら、やっぱりあなたはここに始めて来た人なのね? ええと、何から話したら良いのかしら」
愛想の良い口調には、どこか幼さが含まれていた。幼いまま、歳を重ねたのだろう。
「ここは見ての通り牢獄だけど、時折奥から甘い香りが流れてくるの。その香りが、私達にかつての幸せな思い出を体験させるわ。けれど、目覚めた時には全てを失ったことを理解しながら暗いこの牢に引き戻されるの。その落差は本当に苦しくて、騎士達が羨ましいくらいよ。私の牢はまだ手前にあるから楽な方なのだけれどね」
精神的な拷問を強いる場所ということなのだろう。また、騎士達への責苦が行われていた場所と違い、この洞窟に居るだけで苦痛に苛まれるともなれば、今後の探索に支障が出るかもしれない。
「ところで、お願いがあるの。この牢獄の先へ行くなら、鍵を持ってきてくれないかしら。青ざめた血の池の向こうにそれはあるわ。この牢の隣にある扉を開ける為の鍵で、あのお方を助け出すには絶対に必要なの。どうか、お願いよ。勿論お礼はするわ」
お礼とやらも、助け出す云々のことよりも、捨て置けない単語が彼女の話の中にあった。
青ざめた血。探求の徒、ノルベルトが探しているものに相違無いだろう。彼によればリングレイの秘密を紐解くにはこれを求めることが重要であるらしく、この女性の言う鍵だとかは事のついでに解決すれば良い。
不死人は虜囚の女性に承諾の旨を伝える。
「ああっ! ありがとう! じゃあ今からちゃんとお礼の品は用意するから、あなたも頑張ってきてね! 待ってるわ!」
女性の高揚ぶりようはやや狂態を呈している感があり、やはり狂ってしまっていると見るべきか。この有様では彼女の用意するお礼とやらに過度な期待を寄せるべきではなく、またそもそもが檻の中で準備出来る品などたかが知れている。
それはさて置き、不死人はまず彼女の居る檻の隣の扉に向き合った。歪んだ鉄格子の扉は確かに鍵が掛かっており、開けることは出来ず、そして奥には下に向かって昏い階段が伸びているようだ。
それを確認した後、洞窟の奥へ向かって歩き始めた。そこから見える限り洞窟は一本道であり、迷うことはないだろうが、とにかく暗いため全体は茫洋としている。そうなれば足運びは慎重になるものだが、その要素が無くとも粘着質な何かが足の裏で潰れる感触もあったため、どの道滑らないようにと歩みは遅々としたものになっていただろう。
「おあああああっ! ああああっ! あああああっ!」
「ひぃっ! ひいいいっ! わあああああああああっ!」
時折、左の壁に連なる牢から叫喚が木霊する。その仕組みを知っているため身構える必要は特に無いが、あまりに突発的なため、思考と肉体の間で齟齬が生じ、結果身体はやはり一瞬強張る。それ自体は害が無くとも、集中と緩和の波が交互に襲ってくるこの場所では周囲に対する警戒が疎かになりやすく、それが重い憂慮として不死人の臓腑の底に静かに横たわっていた。