第12章 牢獄都市 最奥部 2
歩き続ける内、やがて先程白い人影が現れた箇所に差し掛かる。あの幻影は左の壁からの方から現れたと記憶しており、見てみると実際に壁と牢は左に曲がり、だが道が広がっているのか、右の方の壁は先程と同じく真っ直ぐ続いているようであった。不死人はひとまず直進することに決め、だが危うく足を踏み外しかけて身体のバランスを崩しながら背後へと後ずさる。
一体いつからそうであったのか、よく見ればそこに地面は存在せず、それどころか右の壁そのものが消え、先にあるのは切り立った崖である。これも幻影の一つで、目を離した隙にでも消失することで誘い込むつもりであったのだろうか。一度はそのような考えが頭を掠めるが、しかしさらに観察を深めると、その仕組みはもっと単純なものであった。
地面を軽く撫で、その指を見ると、先が黒く汚れていた。この洞窟は暗闇が全てを染めているが、さらに壁などをも塗料か何かによって黒く塗り潰されているのだろう。もしこれを何者かが意図的に行ったのであれば、黒の上に黒を重ねるなど、執拗に過ぎるようにも思えるものの、実際には光をごく吸収してしまうこの汚れが発揮する効果は厄介かつ実用的であり、これがために先程不死人は遠近感を錯覚したのだろう。
とは言え、まさか侵入者を落下させるためだけにこのような仕掛けを施したとも考えにくい。何らかの理由で意図せずこうなったのか、或いは幸福な記憶から戻ってきた囚人達がより底の無い暗闇の中に居るように感じさせるためのものなのだろうか。
「ぎひぃああっ! あああああっ! ぎゃあああああああっ!」
虜囚の金切り声が牢から飛び出し、それを柵の前に無言で聳える黒い壁が受け止める。つまり、先の問いは後者が正解なのだろう。周囲の牢をよく見ればその前には必ず黒い壁があった。
そうまでして囚人達を苦しめる姿勢は過剰なものであるのかもしれないが、所詮は部外者、加えて不死人は所詮心を失った身であるため、閉口するしかない。実際的な注意事項だけを念頭に入れ、他は余計と断じることでその場に捨て去って歩き出そうとし、だが不意に目に飛び込んだ崖下の光がそれを思い留まらせた。
遥か遠い闇の底で、青、赤、白、黄色など、色とりどりの光が輝きを放っていた。流石に周囲を照らすほどの光量は無いらしく、その周囲の地形までは見通せなかったが、光そのものは黒によく映えるため、不死人の現在地よりももっと遠い場所からでもこれを発見することが出来る筈である。
正体は七色石だろうか。溝の溜まり池入り口の老婆なども取り扱っている、ごくありふれた道具の一つであり、あのように目印を付ける際には役立つが、簡単に砕けるため攻撃などでは使える物では無く、亡者などが用いるとは考えにくい。
即ち、あの光はそれを投げた者が付近に居る可能性を示しているのだろう。それが味方になれば良いが、牢獄都市の入り口で起こった戦いを思い返すに、その逆であることも有り得る。
しかし移動の際には現時点で最大に警戒しているため、これ以上は備える術も無く、この洞窟に潜む何者かのことは頭の片隅に置き留める程度に捉えるべきだろう。不死人は気を新たに、今度こそ探索を再開した。
「ぎゃああああああああああああっ!」
地面はやはり濡れているようであった。左の牢から劈く悲鳴が水溜りに小さくさざなみを立たせ、その存在を不死人に訴える。
「ひっ、ひぃっ、ひひひっ、ひいぃっ!」
引き攣った笑い声がまた、閉ざされた牢の奥から這い出ていた。中を少し覗くと、虜囚の女が地面の一点を凝視しながら口の前で手を結び、凍て付く冷気に晒されているかのように震える歯を打ち鳴らしている。
洞窟内は、常にこういった狂気が蔓延していた。虜囚達を苦しめるその甘い香りの効能とやらはまだ不死人を襲ってはいないが、このまま進めばいつかは直面するのだろう。情報が不足しており、対策を立てられる段階ではなかったためこのように先へと進んでいるが、彼等の苦しみ方を見る度、それが少し早計であったのではないかという考えが脳裏に去来しては、拭って歩き続けていた。
やがて不死人は道が二股に別れているのを見て一旦足を止める。一方は右手に急に現れたまるで切り立った崖のような壁に沿って進む道であり、またこれを少し歩いた先には梯子が上に向かって架けられているため、そちらを行くのであればこの崖の上を越えるような進路を取ることになると予測される。
もう一方はこれまで同様左の壁に沿った、下に向かう坂道であった。傾斜がある以外には何ら特徴を見出せるものではない。
観察を終えれば次は思案の時間である。一見すればリスクが高い道は右の道となる。高低差があるため、落下の危険が常に付き纏い、また仮に高所での戦闘ともなればそれを利用した戦法を恐れる必要も出て来るだろう。
だが熟慮した結果、不死人が選んだのは右の道であった。転落する危険を呑んでもそうした理由は、左の道を進んだ場合、右の道の先にある崖の上に当たる部分を敵に陣取られればそこから一方的に攻撃されるという懸念がより勝る、という、高低差を意識した探索の定石に照らし合わせたためであった。
やや細まっている道に足を乗せ、滑らせることなく梯子の元まで運ぶ。この位置にまで来た頃には早くも左の道との間に決して低くない落差が生じており、先の方では更に坂が続いているため、崖の方からは一方的に真上から見下ろすような地形なのだろう。
まだ先のこととは言え、そこから落ちればひとたまりもないことは明白であり、不死人は落下しないよう今一度足元を確認しながらいざ梯子に手を伸ばし、だが気付いた時には宙に投げ出されていた。
地面に背を打ち付け、そして状況を把握する前に拳が到来する。
顎を打たれて脳を揺らし、胸を打たれて肺の空気を逃すが、三発目は許さず、割り込ませた塔のカイトシールドで防ぎ、相手がそれの縁を握り込んだ瞬間、こちらは手を離しながら背を地の上で滑らせ、盾を置き去りにその場を脱する。
馬乗りの状態から抜け出した直後、とにかく不死人は突如襲い掛かって来たその敵から距離を取ろうとし、だが長身痩躯の黒い人影は一瞬で距離を詰めるとまた徒手にて殴打を繰り出す。剣の間合いよりも内側に密着された状態では腹を打たれるがままであり、当然魔術も剣術も使い物にならないが、武器はそれだけではない。背を後ろにしならせて勢いをつけ、打撃を堪えながら相手の顔面に自らの額を打ち込む。
頭蓋に痛烈な衝撃が突き抜ける。その際の負債は攻撃した側とて意識が飛び掛ける程であったが、心の準備も無く受け止めた方が被害は甚大であったのか、相手はたたらを踏み、大きくよろけていた。
そして瞬時にエスト瓶に手を伸ばしかけ、しかし途中でそれを止めると魔術師のロングソードの柄を両手で握る。この手合いには時間を与えるべきではないのだろう。不死人は自身の攻撃方法で最も素早く繰り出せる、単純な斬撃を敵に浴びせると、それによって更に相手は更に怯んだため、間髪入れずに突きの一撃で畳み掛ける。
その一閃を、相手は一切声を漏らさずに胸で受け入れていた。直剣を深々と刺し入れ、すると距離が近くなったためか、また敵の拳が暴れ、不死人の喉を打つ。
痛みというよりは生理的な反射によって思わずロングソードの柄から手を離し、だが今更掴み直そうとはせず、下がって聖職者のウォーハンマーを取る。この素早い敵に対して、重さによって打撃を与える武器が不向きであることは理解していたが、まさか無手を真似たところで匹敵する筈も無い。
ウォーハンマーを手に構えを取り、敵の出方を待ち、そしてそのまま時が流れると、やがて黒い影のようなそれは横倒しになって地に伏せる。
先のロングソードによる攻撃が効いたのだろうか。この敵は既に動きを止めているようだが、油断も容赦も不要である。聖職者のウォーハンマーを高く掲げ、振り落とした槌頭で頭部を砕いた。