第12章 牢獄都市 最奥部 3
これで差し当たりここでの危機は去ったようだ。周囲を見回し、他に潜む者が居ないことを確認してから塔のカイトシールドを探して拾い、エスト瓶で身体を治癒すると、次に腰を屈め、この襲撃者の姿に目を凝らす。
一目見た時には黒い人影としか認識できなかったが、そうなる理由としてまず皮膚の黒さが挙げられる。まさに岩肌に溶け込むためのようなこの色合いでは発見は困難を極めると予想され、仮にこれと同じ敵がこの先の洞窟に潜んでいるのであれば、相手よりも先に姿を見付け出すことは有り得ないだろう。またそれとは対照的に腹は色素が抜け落ちたような白さをしており、擬態の際には伏せるような姿勢になると思われる。
そういった体色もこの敵の特徴としては大きいものであったが、視線が身体の上の方にまで行き着くと、それらは比較的瑣末な要素であったと知ることになる。
まず奇妙であったのは二つの目であった。頭部が潰れかけているため定かではないが、どうにも目玉は両方とも顔の右側面に存在しているように見受けられる。ウォーハンマーの直撃を受けて目が飛び出した可能性も考え、一応左側面を見たものの、そちらにはそもそも眼窩が無い。
また口と鼻の部分を覆うようにして節を持った太い管がそこから長く垂れ下っており、こちらに至っては口から飛び出した臓器とも思えず、全く想像がつかない代物であった。
総じて正体不明を極める敵であり、痩せた胴からして呼称を痩せぎすの亡者とするが、本当に亡者に分類される者なのかどうか、確かではなかった。
納得のいく結果を得られはしなかったが一通り痩せぎすの亡者の検分を終え、不死人は腰を上げてまた歩き出す。道を戻って梯子の所にまで来ると、長いそれを伝って上にまで登り、崖の頂に至った。
そこからの眺めは、暗がりに適性がある眼を備えている訳でもないため、それまでと同じ黒一色であった。この洞窟の先を見通し、情報を収集出来れば幸いであったが、出来ないことにはすぐに見切りを付けた方が良いだろう。不死人は宛ても無く遠くの暗闇を彷徨っていた視線を足元の地面へと移し、程無くして登ってきたものとは別の、下に向かって架かる梯子を発見する。
崖の頂には他に続く道が無く、この梯子を降りていくべきなのだろう。一応梯子の下を見通して潜んでいる者が居ないか確かめ、それから足や手を掛け、登ってきた際と同じくらいの高さのそれをゆっくりと降りていく。
そうして面倒な事態に遭うことも無く梯子を降り、地を足に着けて周囲を観察するや否や、ふとその姿が目に入った瞬間には全身の血が活性化して滾り、身体は反射的に構えを取ろうとするが、何とか逸る気を抑え、音を立てずに済ます。
見付けたのは、梯子からそう遠くない場所で左右に揺れる、痩せぎすの亡者の背中であった。洞窟の道の途上で棒立ちになっているようだが、彼の前には球状の岩が鎮座しており、これは人の背丈を遥かに越える巨大なものであった。
それらが向いている方向は崖から見て左方向であり、つまり先の別れ道で崖を登らずに左を進んでいた場合、待ち伏せによって坂道に大岩が転がり込み、それで轢き潰される末路を辿っていたのだと思われる。道を選んだ際はこのような罠など予想しておらず、まさかこうも重要度の高い選択肢だとは捉えていなかったが、何にせよ拾った幸運は最後まで活用したい。
日頃から出来るだけ物音を立てずに移動する習慣があったため、梯子の昇降の音も痩せぎすの亡者に聞き咎められることなく、その背は無防備なものであった。故にここが奇襲の好機であり、それを無為なものにしないよう、不死人は細心の注意を払って黒い背に忍び寄り、やがて銀の剣が一瞬煌いた後、敵の背を貫いた。
貫通して腹を内側から突き破った瞬間には剣を引き抜き、崩れていく背に向け、更に肩口から降り下ろした斬撃が敵を斬り裂く。すると呆気なく痩せぎすの亡者はその場に倒れ、勢い良く吹き出る血が身体を染め、光沢を与えていた。
やはり隠密に特化した身体は耐久性においては劣るのだろうか。奇襲が成ったとは言え、聊か肩透かしの終わりであった。不死人は敵が最早動き出さないことを確認すると踵を返してその場を立ち去ろうと歩き出し、そして掴まれた首を強く締め上げられる。
呼吸出来ないどころか、血管が締め付けられることによって脳への血液供給が滞り、意識を失いそうになるほどの圧力がかかるが、それを齎す者自体の重量が無く、身体は自由の下にある。
では首に縄でも掛けられているのかと思えば、その想像は当たらずとも遠からず、力の作用としては似たようなものであった。
「みぃいいいいいいっ!」
節を持った太い管のような生物が、今まさに顔の前で奇妙な鳴き声を上げていた。更には細長い触腕とその間にある口のような器官で粘膜を大きく広げながら剥がそうとする不死人の腕の抵抗をものともせず迫り、このままではいずれ顔面を覆われてしまうだろう。
その真意は定かでなくとも、好きなようにやらせてはならないことは一目瞭然であり、だが両手で相手の身体を抑えている以上、手を離せば忽ち均衡は崩れ去るため、現状を維持する以上の事は出来ず、剣を取るなど論外であった。しかしながらそうこうしている間にも首への圧迫は強まりつつあり、意識は弱まる一方にある。
最早形振り構う余裕など無かった。不死人はその場に蹲ると、陳謝する姿勢のように頭を深く垂れ、そして弾みを付けて地面に叩き付ける。
手加減などしようものなら敵に有利に働くことも懸念されたため、不死人は全力で繰り返し頭部を地面に打ち、またそれによって身体に巻き付く敵は勿論、押し留めている自身の腕や額にも大きなダメージを与えていく。
これを十ほど行った頃、意識が途切れていたのか、いつの間にか不死人の身体の動きは止まっていたが、それは潰れかけた敵も同じであった。しな垂れた身体を打ち捨て、ウォーハンマーで叩き潰し、止めを刺した。
その後、まだ衝撃で漠然とした感覚の中、エスト瓶を口に運んで中身を喉に流し込み、そうしながらもその生物の残骸に目をやる。
それは最初の痩せぎすの亡者が顔から垂れさせていたものと同じであった。よく見ればつい今しがた奇襲にて斃した亡者の方にはこれが無く、先が欠けたような形状の鼻と鋭い歯を並べた口を覗かせている。
これが意味するところは、彼らは寄生する者、される者の関係にある、ということになるのだろうか。それにしては寄生する側が妙に身体を曝け出しており、これでは外傷を負いやすいように見えるが。また、最初の痩せぎすの亡者を斃した際には分離せず、こちらだけが分離して襲ってきた理由についても不明であった。
生物としてはおそらく水棲の蠕虫などに類すると思われるが、それは外見だけで判断した話であり、そのごく奇怪な生態に鑑みれば、そういった先入観は却ってこちらの足元を掬う要因になることも有り得るか。
それ以上のことは最早未知の存在である、と断じて思索を打ち切り、不死人は歩き出す。球状の大岩などがある方角とは反対側である、梯子の架かった崖から見て右の方向に向かって。
この通り道は天井が深く、入り込む風が多彩に変化して音に奥行きを持たせ、滴る雫が出す清涼な水音も相まって不可思議ながら聞く者に安穏とした印象を与えるものであった。歩きながらこれを聞く不死人ですらその例外ではなく、心を失いかけていても尚そのような心地になれるような空間であったのか、或いは心を失いかけているからこそ、そのような心地になれる空間であったのか。
「あああああああああぁぁ、あ、あ、あ、ああぁぁぁぁ」
「うっ、うううっ、ひうっ、うううっ、うううううっ! う”う”う”う”っ!」
獣と化した女性が喉を鳴らしながら出すような呻き声と、すすり泣きが昂じ、喚き出す間際の如き唸り声が暗がりに流し込まれる。これさえ無ければ、と言っても仕方がないことなのだろう。左の壁にはやはり牢が続いており、通り抜ける風にこの虜囚達の声が溶け込み、まるで岩の冷たさそのものであった空間に、人の業の生暖かさが加えられていた。
比率に偏りがあるのか、女性ばかりの虜囚らの目が全身に突き刺さるのを感じながら歩き続け、やがて差し掛かった坂道の先に異変を認める。
下り道の先には、真っ白な群集が立ち尽くしていた。どれも人影、幻影らしく、靄で出来た身体には実体などありはしないが、道を埋め尽くすほどの数は計るのも容易ではなく、また視界を占拠されているため奇襲に対する備えの大きな妨げとなり、脅威として大きいものであった。
道そのものについては横幅が膨らんでいる他、檻が両側の壁に並んでいる点が慣例から外れているが、その間には下から巨大な岩が突き上げて聳えて視線を遮っており、やはり鉄格子の正面は黒く塗り潰されているようだ。
当然この場における一番の問題は白い人影の群集だが、これを解決する策は無く、しかし一つ思い当たるものがあった。可能な限り闇であろうとするこの洞窟での責苦は、ルドウイークがそうしていたような個別に与えられるものではなく、対象を選ばずに作用を起こす幻覚の類らしい。その内容は幸福であった頃の夢だそうだが、果たして記憶を失った不死人にそれが齎された際、引き出されるものは何であるのか。
それがこの白い幻影なのだろう。霞んだ記憶が呼び出す面影はやはり霞んでおり、喪失の恐怖は衰えている。これも失った心と引き換えに得た不死人の強みの一つだが、なんとも後ろ向きな話であった。