第12章 牢獄都市 最奥部 6
通常、水の中を歩こうとすれば足に抵抗が掛かり、歩みは遅くなるものだが、この青ざめた血の中においてはそれが全く無かった。重さを全く感じさせないのであれば、液体に見えるだけの全く別の何かであるのかと、試しに自身の頭髪の一部を切り取り、水に落としたところ、それは浮かび、仮説が打ち消される。
秘密となるだけあって、得体の知れない特性を抱えているようだ。そしてこの要素そのものは歩く上で不利に働くことはなく、むしろ通常通りの歩行速度を確保出来るため、普通の水の中を進むよりは危険の度合いが低い。それなりの距離があった中州と対岸だが、そういった条件の下であれば、到着までの時間は大きく短縮されて当然であった。
岩肌に足を乗せ、中洲に上がればそこは既に牢の目と鼻の先であった。まるで円柱のような形のこの牢は鉄格子が等間隔で一周しており、隙間から中を覗き見るに下へ向かう階段があるようだが、肝心の出入り口が無い。稼動しそうなものは一つ、枝木を束ねたような彫刻の入った、厚い鉄の板があったが、これも取っ手どころか鍵穴すら存在せず、触れてみたところで動く気配は無い上、周囲に開閉装置らしきものも見当たらなかった。
無駄足であったと断じるにはまだ早いだろう。ここを通るには何らかの仕掛けが必要であると思しく、それはこの場に留まって調査を続けても解を得られず、ならば先に他の場所を見るべきか。
よくよく見れば中州を中間地点として、そこより奥の池の端にはもう一つの出入り口が存在しており、そこに手掛かりがあるかどうかはまだ分からないが、ひとまずの調査対象として定めるのも良いだろう。不死人は中州を降り、入ってきた通路を背にするような進路で歩き出し、あまり時も経ずにそこへと辿り着いた。
入り口を潜って数歩、最初に出迎えたのは濃密な白い幻影達であった。独り言か、呟きのような声を時折発する彼等はこの場では隙間無く密集しており、以前通った坂の間の窪みに見た時よりも厚みが増している。粒子が停滞し易い場所に集中する、と仮説を立てていたが、それが全く的外れだっただのろうか。或いは。
「おおぉ、おおぉ」
呻き声を聞き付け、即座に構えを取る。弱々しいそれはともすれば幻影の声と聞き紛うが、独特の枯れたような調子は不死の亡者にこそ覚えがあり、白い影の中に目を凝らしていると、そこに座り込んでいた者を見付ける。
それは農民の亡者であった。リングレイの周辺地域等に多く見られるものと同じような格好をしている彼は、足を広げて地べたにだらしなく座したまま、視線は宙を行き来している。
リングレイの民に過ぎないこの亡者が牢獄都市に居る点も奇妙であったが、その動作や雰囲気も不審であり、これが他の者と同様、襲い掛かってくるとは考えにくい。試しに剣と盾を打ち鳴らして音を発し、或いは目の前に来て手を振ってみても、彼はやはり反応を示さなかった。
大方この農民は、夢に没頭しているのだろう。壁の方を見ると付近には牢が一切存在せず、虜囚の姿も無いことから、おそらくこの場所では甘い香りとやらが絶えず漂い、夢から現実へと引き戻されるということが無い。ならばそれは責苦にはならず、鎖にすら繋がれていない目の前の亡者が穏やかに過ごしているのも納得がいく。
ここで斃しておくべきか、という考えが一度脳裏を過ぎり、だが剣を納めて先へ進む。それが不毛な行為になると知っていたためであった。
次には老人貴族の亡者が目に留まった。彼が赤子にするように愛しげに撫でていたのは、遺骨の入った壺であった。
その次には王城の召使の姿があった。身体を一定の間隔で左右に揺り動かす彼女は、まるで心地良い音楽に身を任せているかのようであった。
兵士、騎士、看護師に獄吏でさえも、この通路を歩けばそこかしこに見付かり、また彼等は皆一様に夢に耽っている様子であった。おそらくは、彼等にとってここはそういう溜まり場なのだろう。
不意に天井から雫が落ち、上から下に向かっていくそれが、脈絡も無く右から左へとゆっくり流れを変えていく。その現象は重力の法則を無視しており、だが観測した者の捉え方に異変が生じて起こったものであった。
横合いから脇腹に突き刺さった衝撃に吹き飛ばされ、地面を大きく転がったあと、壁に衝突して止まる。敵の奇襲は見事に成功し、大きなダメージを負った不死人はすぐに起き上がるも、目の前に広がる白い幻影の群れに視線を妨げられ、襲撃者の姿を捉えられずに居た。
ここから回復しようとしても手遅れだろう。確たる根拠は無いが、この敵、痩せぎすの亡者なのだろうが、今この瞬間にも標的が隙を見せるのを待っており、不死人に出来ることと言えば剣を構え、背中を岩肌に貼り付けることで相手が姿を見せる方角を一定の角度内に収めようとすることのみであった。
ただ、それもどれほどの効果を上げるのか、あまり期待出来たものではない。視界を遮る幻影達は眼前に居座っており、これでは敵の接近に気付いたとしても、剣も振れないような至近距離にて相対することになる。
幻影を打ち払うことが出来ればそれが一番良いが、具体的な手段の発想には至らず、他に索敵の手段が無いか検討するも、そもそも呼吸音も足音も聞かせない者が相手ではまず見付からないだろう。
有効な策は浮かばないまま時が流れ、いよいよ敵の再来が間近と見るや、不死人は徐に魔術師のロングソードを鞘に納め、塔のカイトシールドもまた静かに地面に置く。
そうして、痩せぎすの亡者は白い幻影を割りながら飛び出し、彼我の距離を一息に詰め、しかし詰め切るよりも一拍早いタイミングで不死人から両腕が伸びる。
死地においては、自ら踏み出すことで見出せる活路は多く、今回も不死人は敵の接近を感知した直後、自身も前に飛び込んで痩せぎすの亡者に滾っていた攻撃の意を崩し、密着した状態にてその身体のどこかを強引に掴み、そのまま力任せに放り投げた。
長身痩躯は地面に打たれ、長く転がってまた幻影の中に消え、一方で不死人の右手の中には妙な感触が残っていた。見てみるとそれは亡者の顔から垂れていた筈の蠕虫であり、掴み所と投げ方の具合によって取れたのか、まだ生きているらしく蠢いており、そして生かしておく理由は特に無い。
岩肌に叩き付けて潰すと放り捨て、間を空けず、転がっていった痩せぎすの亡者の方に向き直る。
出来れば今の時間でエスト瓶による回復を行いたかったものだが、面倒事とは往々にして当人の都合に関係なくやって来るものであり、今更失ったものを嘆いてもどうにもならない。同じ手が通用するかは限りなく怪しいが、不死人は無手にて敵を待ち構え、待ち構え続けて、待ち惚ける。
いつからか、痩せぎすの亡者の気配が消えて無くなっていた。それこそ罠を疑い、始めは周囲を警戒し続けるもやはり敵がやって来ることはなく、試しにエストで回復してもそれは同じであったため、塔のカイトシールドを拾い上げ、原因を探りに前に踏み出す。
すると数歩先にて、痩せぎすの亡者は右側に寄った両目を天井に向け、口は半開きのまま呆けたような顔をして座り込み、それは他の亡者と同じく、夢の中を泳ぐ者の表情であった。
今まで幻影の中でも平然と活動していた痩せぎすの亡者だったが、それが唐突にこの状態に陥ったのにはそれなりに理由が存在する筈であり、見当を付けるとすれば先程まで付着していた蠕虫だろう。あの生物を身体の中に入れ、特に気管を覆うことで甘い香りに染まった空気を濾過し、夢に翻弄されることを未然に防ぐ、といったところか。
怪異と化すことでその場に馴染もうとする者の先例は特に牢獄都市の入り口付近の看守が挙げられるが、この二者がとても引き返せないような身体の変異を受け入れたのは、ルドウイークや獄吏と同様、虜囚達が苦しむ様を間近で愉しむためであったのだろうか。そのような疑いが強い。
魔術師のロングソードを構え、痩せぎすの亡者の首に狙いを付ける。他の亡者ならともかく、この敵は幻影への耐性を付ける術を持っており、放置して進めば後背から襲われることも在り得る。無抵抗な者を、となれば抵抗もあるが、命とりとなる前に決着させなければならなかった。
やがて振り降ろされた剣が亡者の首を跳ね飛ばし、地面に落とされた黒い血溜まりが夕闇に生まれた影のように長く尾を引くと、その上を忘れてしまった誰かの面影が踏み付けて去っていった。