第13章 変態の祭祀場 1
極めて慮外の事態に陥っていた。
青ざめた血の中に沈み、浮き上がれなくなり、そうなれば息継ぎを堪え切れずに勝手に口が開いてしまったが、しかし不死人が溺れることはなかった。
当然肺の中は青ざめた血で満たされたものの、まるでそれが空気の代わりに働いていると言わんばかりに身体は正常に機能し、また池などは一見して黒い泥のようであった筈が、不死人の視界はよく透き通っており、その上液体の中であるにも関わらず身体の動きも重くならなかった。
明らかに通常の液体とは隔絶した特性を持っており、しかしリングレイの怪異の秘密と云われていることを思えば、一応の納得は出来るというもの。不死人はこのまま進むことに決め、螺旋階段の崩落している一部を乗り越え、そこから更に長い距離を降りていくと、その先にある出口へと向かう。
そうして見たものは、赤と青、或いは紫の色が渦巻く空であった。
牢獄都市の階層を大まかに別けて三つ降りてここに至った訳だが、不死人が今見ている景色は屋外のそれであり、あまりに広大な空間は天井や壁などが見当たらず、降りてきた階段塔も天空に向かって伸びているようにしか見えない。
見上げた渦巻く空模様は刻々と変化し、それを背景にする巨大な岩々が、全く重力の法則を無視して空中に、或いは水中に浮び、迷い込み、一人丘に立ち尽くす不死人を見下ろしていた。何一つ取っても、常識では測れないものばかりである。理解など及びようもなく、だがそれこそが、怪異の真実に近付いている証である。
ともあれこの付近を調べるにはある程度の目処を付ける必要があり、まずはこの小高い丘から周囲を観察しようと、目や首を様々な方角へ向ける。
最初に注目したのは、ここへ降りるのに使った階段の側にある、同じく天に向かってどこまでも伸びる巨大な円筒であった。それの根元には巨人すら出入りが可能なほど大きな扉が取り付けられており、また周囲にはバリスタの発射装置のようなものがいくつか乱雑に置かれているようだ。
近付いて調べたところ、扉はその大きさのために人の手で開閉出来る類ではなく、また下の方に取り付けられた人間が出入りするのに適した扉の方も内側から鍵が掛けられており、開くことはない。ただ、この扉の取っ手の上には小さな紋章が刻印されており、うねる水流を表現したかのような、しかし神秘を通り越して怪しげな印象のそれは、どこか見覚えのあるものであった。
だからと言ってその場では何もすることが出来ないため、不死人は巨大な円筒の前を離れ、次に巨大な鉄か何かの塊が大量に置かれている方向へと身体を向ける。
その鉄塊の諸々には、また巨大な鎖が付けられていた。半ば地面に埋まるようにして佇んでおり、それらは棄てられているような趣の、錨のように見受けられる。仮にこれを使う船舶があるとすれば、普通の大きさでは錨の重さに耐えられずに転覆するため、相応の巨大さが求められるのだろうが、果たしてその規模は空前絶後の巨大船舶、などという次元で済むのか、怪しいところである。
第一、その巨大な錨は屋外のように広いこの周辺の地面を埋め尽くすほど無数に存在しており、仮に製造過程で出た失敗作をここに廃棄したとしても異常な数であると言えるため、やはり単に船舶に使ったものではないのだろう。常識的な考えでは真相に触れることが叶わないのなら、とそこで思考を打ち切り、不死人の目は錨の群れの奥で聳える、何かの建物へと向けられる。
青みがかった灰色をしたその建造物は、だが遠目から見て取れるのは、無数に窓が作られているらしい、ということのみであった。それ以上調べるのなら近くまで行く必要があり、また丘から見下ろす限りでは、地面に犇く錨は一本の道を作り出すかの如く空間を確保しており、それは方角的に建造物の方へと向いている。
ならば進むべきはそこであるのだろう。闇に挑む覚悟はとうに終えていたが、生と死を超越したような命運に沈み込むかもしれないという想像は新たな決意を求め、それを飲み込んだ不死人は鉄の森の中へと入る。
一歩踏み出し、二歩目を踏み出し、それらが乗り上げるものは、ただの砂である。歩く感触などからしてもそれはほぼ間違い無かったが、地面の砂自体に異変が無くとも、それが動く度に気泡が浮く、という様子を地上で見ることは有り得ない。例え息が出来たとしても、ゆらゆらと光っては天へと昇っていく泡が示す通り、ここはあくまで青ざめた血の中である。
この奇妙な特性について、当然のように考えが巡るが、それはさて置き差し迫った憂慮が一つあることに遅まきながら気付く。どこか遠くからでも、歩いている場所を特定され易くなってしまっているのである。
ならば猿のように錨から突出した枝を伝って移動するべきか、と案が無い訳でも無いが、その際に多少の重量が錨に加われば下敷きになっている地面から気泡が出る事は十分に考えられる上、むしろ普通に歩くよりも大量に出ることになれば目も当てられない。諦めて通常通りの歩き方をする他無く、そのようにして錨の間の道を進んでいくと、先の憂慮が現実のものになろうとしていた。
群がった錨の奥から、いくつかの気泡の列が上に向かって伸びていた。
数は四つ。四方から不死人へと近付きつつあり、この者達との戦闘は最早避けられない、と悟ったとき、潜めるような嗤い声が水を伝って鼓膜に届く。或いは身体を掻くような音だろうか。それらから察するに、位置は既に近い。
正体の不明な敵と、それも複数を相手取って戦う。昇っていく気泡を端とするこの戦闘はこの上なく不利な状況下で始まろうとしているが、同じく敵が出した気泡によってせめて早い段階で接近を察知出来たことについては、魔法の備えを用意する時間を得られただけ好条件である。
右手の武器を聖職者のウォーハンマーに持ち替え詠唱、武器そのものに付与を行い、それを完了させると、あとは動かず、ただその機を待つ。そしていよいよ嗤い声が近付き、遂に四つの気配が錨の影から飛び出した瞬間、ウォーハンマーは地面を叩き、そこから白い小さな文字が飛び散る。
それらは地面を這い回り、結果として一時的な平和は全ての敵を捕らえていた。ならば即座に次の行動に移らなければならないが、その刹那、露になった彼等の姿は、不死人に僅かな躊躇いを覚えさせるに足る怪しげなものであった。
それは人に近しい骨格を基礎とし、だが異様に長い腕の肘を上げ、そこから下を垂れされるという奇妙な姿勢のまま、大きく肥大した頭部の、ささくれたった間にある瘤のような赤い眼球でこちらを見やっていた。
僅かに巻き付いている服の布などから、彼等がおそらく亡者の類であったことはそれとなく理解出来るが、それ以上の、例えばどのような意志の下の変態であるのかまでは見出すことは叶わず、またこの場でそうする必要は無い。
硬直したままの四匹のうち、まずは前面に居る一匹の頭部に狙いを定めてウォーハンマーを叩き込み、潰れたそれが赤い血を吹き零すと同時に武器をもう一度振りかぶり、横に居たもう一匹の肥大した頭部の亡者を殴り倒す。
そうして敵の半数を排除し、後背の二匹の方に振り向いたときには一時的な平和の効果は切れてしまっていた。動き出す敵の一方に塔のカイトシールドを投げ付け、それを相手が腕で防いでいる間にもう一方の亡者の方に詰め寄り、担いだような状態からの聖職者のウォーハンマーを振り抜き、上からの打撃を見舞う。
「かぁっ」
喉に絡まった痰を吐き出すような掠れた声を発しながら、肥大した頭部の亡者は自身に向かって下された槌の一撃を、上に掲げた長い腕を交差させて受け止めていた。攻撃の手が一つ不発に終わり、しかしそれを用いていたのは右手のみである。盾を捨てていた左手は既に鞘に仕舞われている魔術師のロングソードの柄に伸びており、そして不死人の腰から銀光が煌くと、腹を無防備にさせていた亡者は瞬く間にそこを深く貫かれた。
その亡者は音も無く崩れ落ち、腹に剣を残したまま地に倒れると、両手で握られ、身体を旋回させながら振るわれた聖職者のウォーハンマーが向かってきた最後の肥大した頭部の亡者の横腹を襲う。牽制され、出遅れたことが気の焦りに繋がったか、防御を蔑ろにしていた亡者は打撃によって大いに怯み、またその隙を不死人は見逃さなかった。更に槌を打ち込み、倒れ、頭部が砕けて完全に動かなくなるまでそれを続ける。
その場の制圧を終え、だが常のように血を拭う必要は無かった。出血したときなどは大半が霧のように流れるため、そもそも付着すらせず、したとしても軽く払うだけで済むのだろう。
膝を折り、念の為この亡者達の躯を漁る。しかし得られるものは何も無く、それでも何か手掛かりを求めるなら、彼等が手枷をしていないことくらいがそれに当たるのだろうか。虜囚ではなく、リングレイの民であるのなら、この変貌は礼拝堂の患者達同様、彼等に異存があって起こったことではないのかもしれない。あくまで可能性の話でしかないが。