第15章 漁港 1
人でさえあれば、死に際の慎ましやかな夢だったろうか。
天も地も無く、深い海に身体は漂い、求めることも貪ることも忘れれば、それはそれで一つの在り方なのだろう。そうなってしまえばもう何も心配することなど無く、また皆がそうなることを不死人に望んでいるようだが、腕は無意識に伸び、何かを掴む。
まだ醒め切っていない眼に映ったそれは、故も知らぬ亡者の手であった。雑多に網に収められた者達からはみ出た一つであり、水に浸かっても尚、乾いている。
否、それは海水である。網の中で身動ぎする亡者達同様、不死人も波に揺れており、だが装備の重量の関係から、今にもまた沈みそうな具合である。
そこにまた伸びる、一つの腕があった。頭上から寄越され、粗暴に不死人の襟首を掴み、そして海から引き揚げた身体を岩の上に乗せる。片腕でそれを成し遂げるなど尋常な膂力ではなく、当然警戒を向けるものだが、そういった意志に反して身体は全く動かなかった。
ノルベルトの背後からの致命の一撃に斃れ、その後棄てられた身体が海中を巡ったのか、その身は弱り切っているためとても抵抗出来る状態に無く、しかし首の後ろを掴んでいた手は離され、その人物はどこかに向かって歩いて行く。敵対する者でないのなら、と、まずは落ち着きを払うべく口内の海水を吐き出すなどして身を整え、次にゆっくりと起き上がり、付近に見付けた篝火の元へと足を向けた。
それは青ざめた血の中で見たものと同様、火があまりに小さく、容易に掻き消えてしまいそうではあったが、回復の効果は健在であるらしく、不死人の身体を万全のものへと戻した。それから自身が置かれている状況をしようと周囲に視線を巡らせ、しかしそこに全く辻褄が合わず、理にそぐわない光景が広がっていることに気付く。
まず空は渦巻く紫色をしており、それは青ざめた血の中で見たものと同じであったが、不死人が今立っている場所は積まれた岩で造られた堤防の岬であり、そこから広がる海は真実、海そのものである。また遠景に王城があることからもここは地上、野外であるようだが、太陽は歪んで映り、足元からは時折水泡が昇り、つまり見渡す限りのあらゆるものが、青ざめた血の中に没していた。
それとて、まだ景色がそうであるという程度の話である。不死人は遠く、水平線を眺め、だがそれは覆い隠されていた。果てのない筈の海は、溝の溜まり池であったようにクラゲ達が浮んで犇いており、瞼を揺らし、触手を宙に踊らせ、また離れた距離にあってもそういった仕草が見て取れるほど、一匹一匹が巨大である。
或いは既に手遅れなのだろう。今や雌伏の季節は終わり、怪異は潜むことをやめ、地上に溢れて全てを飲み込み、そして自分達のものへと変えようとしていた。
この景色はその到来が間近である証であり、不死人はそれを眺めながらしばらくの間、立ち尽くしていた。
「あんたは、奴らと戦うんだろう?」
しわがれたような声が横から掛かる。そこに居たのは、岩の上に座り込んだ一人の老人であった。精悍な身体つきの彼は、先程不死人を助け出した人物でもある。
「人の世界の側に立ってる。見てそうだと思ったから手を出したんだが、無駄だったか?」
呆然とした様に見えたのだろうか。まるで漁師の身なりをしたその老人は鼻で嗤うような音声で問いを投げ、だがそれに対しては首を横に振るしかない。出来るか出来ないかではなく、他に何も無いのだ。
「そうか。あぁ、いや、あれを見て、驚かない方がどうかしてるというものか。それはそうだな」
漁師の老人は一人で納得しながら、座ったまま海の方へと顔を向ける。碌な景色ではないが。
「連中がこの国に来てからだ。ほら、そこにもあるだろう?」
彼が指し示したのは、岩の縁から吊り下げられ、また海に浸かった漁網であった。中には大きなクラゲばかりが絡まっており、しかしまさか、これを獲ることを生業としていたわけではあるまい。
「これが段々と増えていった。そのせいで漁が出来なくなったんだが、極めつけがあの化け物共だ。あんな訳の分からないものが増えて、この先、どうなってしまうんだか」
死という結末が無いものとなった上、異形の者達が海の向こうから訪れる。そしてどうにも彼等は参加を望む性質を持っているようだが、そこから先は人の身で想像の及ぶものではない。この逞しい老人とて、それを恐怖せずにはいられないのだろう。
「ただ、訳の分からないというのは、今更かもしれないがな。元々、海とは恐ろしいものだ」
足元の波間を見詰めながら、老人は呟く。
「漁では時折、海の深いところから揚げた網に、おぞましいものがかかる事がある。きっと海に底なんて無いから、だからあんなに、得体の知れないものが出る」
黒い海をずっと眺め、だが老人は不意に顔を上げる。その表情は強張っており、またそれを自覚してか、彼は自身の両頬を叩く。
「だからって俺じゃ何も出来ないから、あんたみたいなのに頼るしかないんだ。悪いとは思うけどな」
この漁師の老人がどのようなつもりであっても不死人は成すべきを成しに行くため、そのように謝意を見せる必要は無いのだが、このような事態にまでなってしまっては身一つで出来ることなどたかが知れている。果たして彼の願った通りになるかどうか、客観的に考えるなら極めて怪しいものであった。
それから漁師の語りは途切れ、であればそろそろ行かなくてならないが、その前に一度周囲をよく観察する。
現在地は漁港の最も端にあたる東の岬の先であり、ここから王城方面へと戻るなら堤防か桟橋を渡って西の端へと辿り着かなければならなかった。そこは中央広場に隣接する居住区の付近となり、境にある出入り口を一度見た時は積まれた荷物などで閉ざされていたものの、別に扉の類がある可能性も捨て切れない。
「目に付くよな。あの船は」
添えるような一言であった。しかし漁師の老人が想像した通りにはまだ意識は向いておらず、言われて始めて不死人はその大きな船舶に視線を向ける。
桟橋の一つに寄り添う、ガレー船。多数のオールを備え、また船首に衝角があることからも海戦を想定したものであるようだが、無論それは漁港には相容れず、老人の言は尤もである。
「あんな船でこの海を渡るのは、さぞ苦労したろうな。あぁ、この辺りは荒れることがあるからな、あの図体じゃ漕ぐのは向かないんだ。だからこの土地のものじゃないし、いや、いつここへ辿り着いたのか、もう忘れてしまったが、おそらくは王の帰還からずっと後のことだ」
その言葉を信じるなら、遠くで停泊しているあのガレー船は異国のものであり、本来であればこの地で起こった出来事とは無関係である可能性が高いと言えた。しかしながら、王の帰還、つまりエルミューロクの滅亡の後は既に怪異が始まっており、その者達はそれを知りながらリングレイにやって来た、ということも在り得る。青ざめた血を求めた者にしてやられた身としては、それは警戒すべき事項であった。
そうしてひとしきりその場からの観察を終え、出発の気配を漂わせると、漁師の老人は改めて不死人へと顔を向ける。
「飲まれるなよ。何にもな」
その言葉を背に受けながら、堤防を歩き始めた。
漁港には幅の広く、沖へ長く伸びる桟橋が三つ、向きを揃えて存在しており、だが今のところそれを渡る必要性は無い。不死人の歩く岩で積まれた堤防は真っ直ぐに陸地の方へと続いており、海中へ落下し易い橋へ行くよりはそちらへ向かった方が安全である上、そもそもこの岬と三つの桟橋は並行にそれぞれが伸びており、これらを繋ぐ道は無く、独立している。
桟橋へ行くこと自体に無理があり、例えばどうしてもガレー船の方へ行きたいのであればそこらの海に浮んで繋ぎ留められている漁の小船を渡らなければならないが、それこそ落下の危険が高く、またそれを選ぶ理由も無い。
故にまずは安全な陸へ着こうと足を動かし続け、だが、思えば何故あの漁師の老人はこの堤防に留まっていたのか、その理由をすっかり聞かずにいたが、崩れ、陸地と分断された箇所を見て納得するに至る。
近付いて観察したところで問題は解決せず、崩れた箇所の距離は長く、跳躍しても届きはしないだろう。そこに居ても意味はないため踵を返す他なく、だがそうした折、背後で潜めるような嗤い声が上がる。