第15章 漁港 4
背筋に、悪意の篭もった視線が刺さる。直感よりも遥かに明確なその感覚に振り返り、直後、船の縁から飛びあがった人影が、大剣を振り被りながら落下する。狙いは頭蓋を割ることか。危うくそのような末路を辿りかけるも横合いに飛んで躱し、そのまま距離を取って甲板の上に降り立った敵対者の姿を見定める。
片手で握られた大剣は鋸のような細かい歯を並べ、他方、その巨大さは、特に今の落下攻撃などであれば人体を真っ二つにすることすら容易いだろう。拷問にしろ処刑にしろ、どのような用途の下であれ作らせた者の残虐な嗜好が窺えるが、武器としては実用性の他にも重きを置いている部分があり、それは使い手についても同じ事が言える。
その兜は蛇の頭を精巧に模り、また鎧にも両肩から蛇の頭部を生やしたかのような意匠が施されていた。籠手と足甲に豪奢な飾りを着け、またそれら全てに肌理細やかな鱗状の紋様が彫られており、血に染まったが如く赤い光を滲ませるダークレイス、三頭蛇の魔人は、異形の相貌を不死人に差し向ける。
彼はおそらく、異国の王であったのだろう。本来戦いには不要である巧みな装飾はその身分の面影であり、だが彼の持つ武器と、そしてこのリングレイに乗り込んでいることから、彼自身は地位に執着しておらず、それ以上のものを求めていると思われる。人智を越えた力か、それが齎す深みの愉楽か。
やがて大剣を振り上げ、力強く、且つまるで無思慮に三頭蛇の魔人が踏み込む。武器を上から下へ、または左右へと振り回し、薙ぐ風か、水流などに大きく煽られることから威力は高く、ましてそれを片手のみでやってのけているとなれば信じ難いほどの膂力の持ち主であるようだが、いずれの斬撃もやや間合いが遠いため、避けるに難しいものではない。
鈍色の一閃が二度、三度と放たれ、四度、五度と重なり、それを後ろに下がり続けていなす不死人に比べ、敵はスタミナを減少させる一方である。児戯に等しいやりとりを続けただけで勝利が見えはじめ、そこから察するにこの闇霊は異国の王本人ではなく、武器と鎧を拾っただけの何者かの可能性があり、それこそ嗜虐を味わいたいのでなければこれを長引かせる意味など無い。
六度目。三頭蛇の魔人が担いだ大剣は上段から大きな動きで振り下され、打ち込まれた木の床が割れながら刃を深く飲み込んでいた。
その明確な隙を、魔術師のロングソードが狙った。全く間を置かず、鋭く放たれた突きは三頭蛇の魔人に吸い込まれ、だが直撃の寸前で相手が肩を捻ることで剣はその上を掠り、同時に、大量の木片を巻き上げながら残虐な大剣が斬り上げられる。
誘い込まれた形となり、不死人は身を捩って大剣を躱そうとするものの、細かな歯によって胸を軽く撫で上げられ、そこから吐き出された血が赤い靄を生む。
どうにも、一連の敵の動作はまやかしであったらしい。三頭蛇の魔人はまるで猛者を気取る愚者を演じ、真実愚者であった者が傷を負う結果となり、だが直撃とまではいかなかったことは幸いであったか。飛び下がり、エストを掴もうと手が動くも、それを期待する蛇の双眸に気付く。今隙を晒せば、確実にそこで終わる。
傷の放置も已む無しと判断し、得物を構えて敵と見合うと、三頭蛇の魔人もまた、こちらの出方を待っているようであった。あのような芝居を打ったことを考えても、どちらかと言えば慎重に行動する部類であると見るべきか。
それ故に両者の足運びは横へ横へと向き、大きくは動き出さず、互いに睨み合ったままでいると、不意に視界の端に影が映る。目線の動きなどから思考を読まれることのないよう気に留めながらその影に意識を向けたところ、それは甲板に横たわる巨大なマストと帆であった。半ばから折れて落ちたらしく、上手くすればこの影に飛び込み、両者の間に隔てるものが置かれることになるが、そう上手く事が運ぶかどうか、やや疑問が残る。
しかしながら、ここで迷っている時間が長ければ長いほど企図が読まれる可能性は高まり、出来るものも出来なくなる。決断した不死人は敵対者との睨み合いを放棄してマストの影に駆け込み、急ぎ詠唱を始め、それが完了すると直剣で盾の縁を軽く叩き、魔力を受け渡した。
その次には身体を回復するべきではあるが、既に闇の盾の付与だけで時間を多く割いており、これ以上は敵対者も大目に見られなかったらしい。大剣が帆を貫き、横に裂きながら身を隠していた不死人へと迫り、凶刃から逃れるべくそこから転がるようにして出ると、距離を取り、構えを整え敵を見据える。
闇の盾がある以上、また大剣で襲い掛かってきたのなら、それでほぼ勝敗は決する。しかしただの亡者ならいざ知らず、この三頭蛇の魔人が迂闊な真似をする筈も無く、浅い考えの下に張られた罠など現実のものとはならないだろうと踏んでいたところ、敵対者はやはり大剣は振らずに、代わりにその場に留まったまま自身の籠手を胸元に引き寄せ、表面を不死人に見せる。
鱗のような紋様が波打つ。その錯覚は、青みがかった暗い泥が籠手から染み出したことによって起ったものであり、またこの直後、泥は黒い霧のように広がり、あるいは風のような緩やかさで不死人に向かって流れ始めた。
その色合いからして闇術に類するようだが、移動速度はあまりに遅く、逃げ続けることもさして苦労は無い。ただそれは、この術が単体で使用されるのであれば、という前提が必要な話である。
再び籠手の表面に、青ざめた血によく似た泥が浮く。その直後、澱のようなソウルの塊が右の籠手から放たれ、左の籠手もそれに続く。順にゆるゆると飛んで不死人の方へ迫り、それは先の黒い霧と同様、魔法、とりわけ闇術の様相を呈しており、試しに身体を左右へ動かしてみると、やはり追尾する気配がある。
飛翔の速度が遅く、また牢獄都市の看守が用いたものほど執拗に追い駆けては来ないため、難なくその二つを回避し、だが三頭蛇の魔人はまだ、先程と同じ構えを取ったままでいた。
澱のような塊は次々に放たれる。それを左右に、または潜り抜けて避け続けるものの、三頭蛇の魔人は闇術の行使を止めようとしない。その術自体が決定打とならずとも、速度の遅さがむしろ不死人を踊らせる時間を長引かせ、疲労を招き、なにより注意力の低下を招き、気付いた時には左半身が黒い霧に包まれていた。
いつから忍び寄っていたのか、生命に惹かれる黒い霧は触れた直後、皮膚に細かく、弾けるような感触を与えていた。それは霧となった人間性が引き起こしたごく些細な悲劇であり、微弱なダメージを与えているようではあるが、あまりに微弱に過ぎるため、これが負傷と呼べるものになるまでにはどれほどの時間を要することか。
ただ、複数の性質を持っている場合や組み合わせなどで豹変することも考えられるため、あまり身を晒し続けるべきでもないだろう。黒い霧から脱し、また敵対者が放ち続ける澱のようなソウルをも躱すべく、不死人は船上を駆ける。巨大な外見に違わずガレー船は内部も広く、よって逃げる先に事欠かかず、しかしずっと続けていれば動きを見切られるのも当然の成り行きであったか。
三頭蛇の魔人が不死人の行き先に狙いを定め、鋭い歯を並べた大剣が振り翳される。長い影を落とすほど巨大なそれを前にして、踏み込むことに逡巡しかけるが、事前の備えは怠っていない。やがて振り下された大剣の前に塔のカイトシールドを前に出し、闇の盾で迎え撃った。
戦いの流れをそのように脳内で捉え、それ故に現実との齟齬が生じ、理解が遅れる。凄まじい力を源とする大剣はカイトシールドを奥へと押し込み、続く一振りによって隙を晒した胴に裂傷を負わせていた。赤い靄が昇り、身体は怯み、意識は断絶しかけ、しかしこのままでいれば敵の追撃に斃れるは必定であり、傷を堪えて飛び退がり、距離を取る。
用意した筈の闇の盾が、何故そこに無かったのか。今回の失敗はそれに尽きる。事前にあった異変としては黒い霧の件があり、あれが闇の盾に何らかの作用を齎したと考えられるが、今後これに留意する機会が果たしてあるのか。闇の盾を詠唱する時間がまた得られるとは思えず、敵が同じ罠を利用する愚を侵すとは期待出来ず、まして三頭蛇の魔人の優位は最早、不死人への止めを検討する段階にある。
やがて籠手の鱗模様はまた、青みがかった泥を滲ませていた。そして間断なく澱のようなソウルの塊を放ち、不死人を追い詰めていく。回復の隙など無く、大きな負傷を残したままの身体で右に避け、左に避け、潜り抜け、だがそうして時を重ねていればこの状況に光明が差すどころか、悪化の兆しが俄かに香る。
澱の塊が飛び交う最中、唐突に薙ぎ払われた大剣が不死人の肩を掠め、肉の一部を削り取っていた。その一振りは確かに早いものではあったが、常であれば躱せないものではなく、そうならなかったのはやはり、負傷によって足が鈍っていることや、敵の遠距離攻撃によって翻弄されていることなどが影響しているのだろう。
最早勝利する術は無いと、断じる他ない。このダークレイスもまた牙猪の戦士と同様強力であり、不死人の手に余る。匹敵など夢にも見れたものではなく、ならばこの敵に対する方針を大きく転換するべきであり、少なくとも、船上で対峙するこの状況は速やかに変えなければならず、その為なら多少先の見通しが立っていないことなどには目を瞑るべきか。
迫る澱のようなソウルの塊を避けながら、位置取りを調整し始める。また演じているのでなければ三頭蛇の魔人は不死人のその行動の意図を察知しておらず、それを好機と読み、そして頃合を見計らうと船の縁から身を踊らせ、桟橋の上に着地した。