第16章 中央広場Ⅲ 1
完全には水没せずに、半端な状態で海に浮ぶ死骸となった巨大クラゲの横を通り抜け、護岸の南端に辿り着いた不死人はそこに地下道への入り口を発見する。それは扉も窓も歪み、半壊しており、所々道を狭くはしていたものの、通行の妨げになるような箇所は無く、暗くなった足元に一応気を払いながら歩き続けると、程無くして鎖で吊るされたリフトがあり、そこが行き止まりであった。
その上に乗ってスイッチを押し、稼動したリフトで登った後、近くにあった扉の内鍵を外して潜り抜けると、そこは何度も通った場所、牢に閉じ篭もる男が居る付近であった。どうやら、漁港を経由して周壁の中に入り込んでいたらしい。
この様変わりした世界ではどうか、という懸念はあったが、牢に近付いてみたところ男は少なくとも姿形に変わりは無いらしく、不死人は牢獄都市よりも下の階層で見付けた、黒い皮で装丁が作られた本を荷物の中から取り出し、鉄柵の内側に差し入れた。
それに気付いた男は一度不死人を見やるも、やはり何も言わずにまずは本を手に取る。項をめくる顔などは何を思わせる表情でもなかったが、目にはどこか瑞々しさがあり、それは出会った頃には見られないものであった。
「躊躇無く踏み込むのだな」
本に視線を落としたまま、男は空笑う。
「恐ろしくはなかったのか? いや、愚問か。それに、所詮人は闇。それを知ってさえいれば、か」
まるでそこに篝火か、或いは昏い穴でも存在しているかのように、男は足元を見詰めたまま呟きを続ける。
「それは、あの闇の魔術書を渡されてから、ずっと考えていたことでもある。人間性とはどう付き合っていけば良いのか、恐ろしくともしがみ付くべきかと。結局、その問いについての何も答えは出なかったがな。ただおそらく、人の理性、感性、創造性、そして矛盾などはあまりに奥深く、それは海に似て底無しが故に暗く、よって人間性は闇なのだろう」
顔を上げた男の瞳には、何らかの意志が入り込んでいるように見受けられた。その正体までもをそう易々と計り知ることは出来なかったが、口の端を吊り上げただけの笑みは皮肉が込められながらも、どこか穏やかな印象があった。
「内容はまた伝えよう、ただし、引き返せるとは思うなよ」
その言葉に不死人が頷いた後、男は深い海の物語を語り始めた。そして一定量のソウルと引き換えにいくつかの術を得たあと、中央広場へ降りる為のリフトへと足を向ける。
「闇に触れることが契機になるとは、聊か不穏ではあるが、私は、何かを取り戻せたのだと思う」
返事などはせず、リフトは降りていく。人によっては、男の言を下らぬ諧謔と笑うだろう。何故なら引き返せないと言った本人もそれは同じことであり、やれることと言えばせいぜいが取り戻したものを抱え、忘れぬ内に死ぬことだろうが、それさえ世界が怪異に飲まれてしまった今では望めるものではない。それでも前向きに捉えるなら、まだ何かが間に合うかもしれないと、そのような希望が込められていたのだろうか。
間も無くリフトが下まで降りると、正面にある扉を開けて石畳の中央広場に出る。
「るう”お”お”お” お”お”お” お”ぅっ!」
「う”お”お”ぅっ!」
「るう”お”っ!」
「う”お”お”お” お” お”ぅっ!」
「るう”お”お”お” お”お”お” お” お”お” お”ぅっ!」
いくつもの家屋が砕かれ、蹴り飛ばされ、昏迷の空の下、壮絶な咆哮が重なる。
真っ青な、青ざめた肌の巨人達。深い海に適応した形貌の彼等は、巨大な錨のような武器を手に中央広場へ入り込み、同じくそこに到着したばかりの不死人を見付ける。その巨躯は五つ。これを見ては最早、疑うべくもない。
この世界は今、終わろうとしていた。
「るう”お”ぅっ!」
先頭の一匹が駆け出すと同時、不死人が手に取った得物は聖職者のウォーハンマーであった。この媒体で扱える術の殆どは詠唱に時間を要するものばかりであり、即応が求められるこの状況には不向きだが、それはこれまでの話。今しがた牢に閉じ篭もる元聖職者の男から得たものがあり、その中の一つを詠唱し始めると、それは瞬時にして黒い塊を飛び立たせ、敵に命中して気勢を削いだ。
ソウルの共鳴。特に獄吏たちが多用する、奇跡の触媒によって行使する闇術であり、威力、衝撃力、詠唱速度、そして飛翔の速度に優れるこれは闇の玉の上位となる術と言える。
不死人はこれを敵集団へと連続で飛ばし、牽制とダメージの蓄積を狙う。が、少し強い程度の術を使えるようになったからと言って、青ざめた肌の巨人は五匹。押し留められるような暴威ではなく、嘲笑うかのように彼らの口が伸縮し、歪むと錨を前に翳しながら、ソウルの共鳴を防ぎつつ一斉に走り出した。
「こ”あ”あ”あ”あ”ぉ”っ!」
唾液を撒き散らしながら叫び、青ざめた肌の巨人達は飛び掛る。剥き出しのピンクの歯茎たちが視界を押し潰さんと迫るその刹那はまさしく悪夢であり、しかし立ち向かう不死人はそこへ向けて駆け、互いの距離が消失した瞬間に股下に滑り込むと足の横や石畳を粉砕する錨の側を通り抜けながらそのまま走り続け、背後に抜けて敵集団との距離を取る。
間一髪、命脈を保ち、だがそれは意味のあることだったのだろうか。彼らのごく単純かつ圧倒的な暴力の前では策や立ち回りに工夫を凝らした所で踏み潰されるのが目に見えており、またこの場からの逃走を計ろうにも相手の方が足が早く、首尾良く狭い家屋に逃げ込んだとして穿り返されるだけだろう。
それでも不死人は隙を見ては詠唱し、ソウルの共鳴による攻撃の手を休めなかったが、周壁の正門の方に五匹一箇所に集まり、その場に押し留まっている青ざめた肌の巨人達はやはり錨を防御に使っているため負傷は無く、直に敗北がやって来る、という命運に綻びなどは見出せなかった。
そしてまた、巨人達の口が歪む。一様に錨の先を石畳に深く打ち込み、足を踏み締めたかと思うと次には得物を持ったままの腕を力一杯振り抜き、その瞬間勢い良く覆った地面から無数の石塊が生まれ、不死人に向けて飛び散った。
回避など、それが可能な空間はこの中央広場のどこにも存在しなかった。足を固めて両手で盾を支え、横殴りの石の雨に耐えるも、塔のカイトシールドが音を奏でたのはせいぜいが二度か三度。それ以降はめくられ、吹き飛ばされながら家屋の壁に打ち付けられる。
自分自身がどういった有様であるのか、認識出来る状態に無かった。様々な角度から全身を石塊に打たれ、或いは転倒を繰り返して意識は判然とせず、どころか砕けた頭蓋から脳が零れ落ちているのかもしれないが、やるべきは一つ。エスト瓶を口につけて傾け、瞬間的に活力を取り戻すと即座に立ち上がり、そしてそれを待っていた者達の姿が目に映る。青ざめた肌の巨人達はまた、錨の先を地面に突き刺していた。
抗いようの無い石塊の砲弾にまた晒され、身体が折れ、砕け、どこかが吹き飛び、その背にあった家屋までもが倒壊し、瓦礫が降り注でいく。壁が下半身を潰し、木片が眼球に突き刺さり、食い込んだ石塊が右肩の筋を破裂させていたが、それでも尚心折れず、冷たい鉄の棒になってしまったかのように感覚の無い左手でエスト瓶を掴み、しかし出来たのはそこまで。腕を持ち上げようにも力が入らず、口元にまでは届かなかった。
「るう”お”お”お” お”お”お” お”ぅっ!」
「るく”お”お”お”お”お”ぉ”っ!」
異界の空に雄叫びが木霊する。やがて勝利を確信した青ざめた肌の巨人達は歩き出し、身動きの取れない不死人を踏み潰すだろう。戦いのための意志をまだ失っておらず、どうにか瓦礫から抜け出すか、それか先にエストで身体を治癒させようとするも、現実に出来ることは皆無であり、許されることと言えば祈ることか、呪うことくらいのものであろうか。