授業中の静まり返った教室に突然、けたたましい電子音が響き渡った。
携帯電話のアラームのような甲高いその音は、隣の教室からでも聞こえる程の大音量だった。しかし、それに驚く生徒は一人もいない。
それも当然だ。この電子音は、
関数の解法を黒板に書き連ねていく教師を見て、私はため息をついた。この教師、私のことを嫌っている節があるから、解説した直後に当てられるかもしれない。そして私なら簡単に解ける数学の問題が、私の改造魂魄に解けるとも限らない。というより、間違いなく解けない。
「何よりここで途中式は省かないこと! 慣れてきたからと言ってケアレスミスがなくなる訳じゃないからな」
しかしこのやかましい電子音も虚自体も、都合がつかないからと放置していいものでは決してない。
私はポケットから小さな巾着を取り出すと、その中に入れていた義魂丸を教師がこちらに背を向けた隙を突いて口に放り込んだ。
「あーもう、うるさいなぁこれ」
義骸から抜け出した私は、無機質な音を立て続ける携帯電話を死覇装の懐にねじ込んで、開け放たれた窓から飛び出した。
季節は秋も半ば頃。時には舞い落ちる黄色い葉の下をくぐり抜け、時には赤い葉をまとった木の枝を足場にして、私は駆ける。
せっかくのきれいな景色なのに、懐で激しく自己主張する携帯電話のせいで台無しだ。音量をもう少し小さくしてもらえないか、後で喜助さんに掛け合ってみよう。
「……お、いたいた」
学校から西に1キロの場所。ちょうど空座町と鳴木市との間に位置する公園に、原因の虚はいた。幸いにもこの近辺にはまだ、
私は音もなくソイツに近寄ると、背後から仮面ごとその身体を両断した。虚が断末魔を上げて消滅していく。
「よっと……」
さて帰ろうかと、私は浅打を軽く振って収めた――その瞬間、携帯電話が再びやかましい音を立て始めた。
「次は……うわ、うちの学校だ」
画面に虚を示す点が浮かび上がる。その点は紛れもなく、私の通う馬芝中学校の校庭を指し示していた。
反応の大きさからして長い時を生きた虚か、
これは急がないと不味いかもしれない。私の中学校には霊力の高い一護がいるんだから。
私は夜一さん直伝の瞬歩を発動して学校へと戻った。
携帯電話を確認した数秒後には、私は校舎の屋上から静かに校庭を見下ろしていた。
「……来た」
風が吹いた。空間が揺れて、ねじれて……そして、黒に裂けた。
現れたのは、芋虫のような姿をした巨大虚だった。
「グオオオォォ!!!」
鼓膜がビリビリと痺れるような大音響で、ソイツは吠えた。相当な手練なんだろう、咆哮と共に周囲に撒き散らされた霊圧はただの巨大虚とは思えないほど重い。これを抵抗のない者が浴びれば、命を落とすとまではいかなくとも気を失ってしまうに違いない。
「あー……これ面倒なやつだ」
ここは霊力を持たない普通の人間がわんさかいる学校で、その周りにはたくさんの民家が並んでいる。つまり、霊障で気絶する人間がボロボロ出てくるということになる。
とりあえず、抑えておくか。
私は巨大虚が未だ私の存在に気づいていないことを確認して、それから屋上のコンクリートを蹴った。
「"縛道の五十三・
頭から自由落下しながら、生徒達のいる校舎を向いて唱える。
その途端、構えた手のひらを中心として私と巨大虚を閉じ込めるように、ゆるゆると薄水色の膜が伸び始める。
そして私が体勢を立て直して着地する頃には、校庭にドーム型の結界が完成していた。
これで、私と巨大虚の霊圧は一時的にこの膜の中だけに限定された。
しかしこれは応急処置、それも詠唱破棄だ。これでは保って三分といったところか。
「私、虫ってあんまり好きじゃないんだよなぁ」
「オマエ、誰だ……? 殺す、殺してヤル……」
「お、やっと気づいたか」
この巨大虚、一番近いのはアゲハ蝶の幼虫だ。それを長さ15メートルくらいまで巨大化させて、頭に虚の仮面をくっつけたらコイツになる。
制限時間は三分……三分クッキング? 芋虫の?
あ、駄目だ。気持ち悪くなってきた。さっさと退治してしまおう。
「殺す……殺す、殺ス、コロス、コロスコロスコロス――」
「っ!」
唐突に飛んできた糸を浅打で叩き落とした。
"魄閉"は霊圧は閉じ込めても攻撃は閉じ込めない。こんなものが人のいる方へ飛んでいっては大変なことになる。
芋虫の姿をしている割に、この巨大虚は足が速いらしい。短い足を器用に動かして、凄まじいスピードで私を追いかけてくる。あの身体のどこから出しているのかわからないが……飛んでくる糸は数え切れないほどで、一々叩き落としていては反撃の隙もない。
残り時間はあとわずか、それなのにこんな状況では、多少時間の掛かる"魄閉"を再度放つこともできない。厄介な相手だ。
しかし、手がない訳ではない。
「"縛道の二十六・曲光"」
"曲光"は、二十番台という手軽さに反して便利な縛道だ。どうして皆使わないのか。こんなに使いやすいのに。
「どこだ……どこにイル?!」
想定していた通り、戸惑った巨大虚は一瞬だけ糸を飛ばすのを止めて静止した。
私はその間を利用して巨大虚の背後に回る。そして小さく呟いた。
「――こっちだよ」
「なっ?!!」
慌てて振り向いた瞬間の敵は、大きな隙と共に、弱点である顔をこちらに晒すことになる。
私は、これを狙っていたんだ。
「じゃあね」
迷わず一閃。巨大虚の悲鳴が上がる。
今の私の斬術では、巨大虚を相手に全身を一刀両断なんてことはできない。けれど、虚の命でもある仮面は真っ二つに斬った。虚を退治するにはこれで十分足りる。
「"縛道の五十三・魄閉"」
私は崩れるように消えていく巨大虚を横目に、消えかけていた"魄閉"を掛け直した。それから携帯電話を懐から取り出して通話回線を繋ぐ。
『ハイ、父さんっスよ! どうしまし――』
「…………」
速攻で切ってやった。
しかし、すぐに向こうから電話が掛かってきた。
「……もしもし」
『はははっ、すいませんってば』
電話の向こうで喜助さんが明るく笑っている。
……楽しそうで何より。
『それより巨大虚、倒したみたいっスね』
「……あぁうん。そのことだけど、霊障で何人かやられてるだろうからフォローお願いして良い? 一応"魄閉"は張ったんだけど、出た瞬間にぶっ放してきた分は間に合わなくて」
『了解っス。じゃあ被害者の治療は任せますね』
「はーい」
業務連絡を終えて、巨大虚がいた場所に残留している霊圧の濃度を確かめる。
――特に問題はなし。このまま放置しておけば、"魄閉"が消える頃には正常に戻っているだろう。
さて、後始末だ。フォローと銘打って喜助さんにぶん投げた記憶置換の作業よりはマシだけれど、それでもこれから一つ一つ教室を回って治療していくと考えると気が滅入る。果たして私は数学の授業が終わるまでに教室に戻れるのか、と大きく息をついた。
◇ ◇ ◇
全ての後始末が終わる頃には、授業の終わりを告げる鐘の音は鳴り終わってしまっていた。
私が教室に戻ってくると、改造魂魄入りの私の義骸が机に突っ伏して凹んでいた。何だ、何があった。
「そんなに凹まなくたって大丈夫よ。ほら、チョコあげるから」
「うん……ありが――っ!」
「え? 何、どうしたの?」
ガバッと顔を上げた義骸が、私を見て申し訳なさそうな表情をした。
「先生に怒られちゃったよぉ……」
「あー……事情は分かったけど、そうやってあからさまに反応するの止めなって。今の私は、他の人には見えてないんだから」
「あ、そっか」
「はぁ……反応するなってのに……」
「あ。そうだった」
「もう駄目だこの子」
「桜花? どうしたの、さっきから一人でブツブツ」
さっきまで私を励ましてくれていた由衣が、怪訝そうに義骸の私を凝視している。駄目だ、由衣は鋭いから早いところ義骸に戻らなければ。
椅子に座った義骸に近づくと、私は吸い込まれるようにその中に潜り込んだ。代わりに口から飛び出しそうになった義魂丸を冷静に舌で押さえて止める。
「いや、ちょっとした考え事をね……」
「ふーん。お悩みなら私が聞いてあげなくもないわよ」
「聞くって言うけどさぁ、由衣の場合はただゴシップ集めたいだけでしょ」
「失礼な。私のこれは、正当で健全な情報収集だってば」
「はいはい」
「いい? 何かあったら私に言いなさいよ。恋愛でも進路でも、サンプルは山ほどあるんだから」
「サンプルねぇ……」
「お、言う気になった?」
「例えば恋愛ならどんなサンプルがあるの?」
「そうね、それこそ純粋な片想いから赤ちゃんのつく――」
「はいストップ! それでも健全と言い張るかっ!」
この子ホントに女子中学生か。この年齢で眉一つ動かさず、真顔でその手の話題を持ってくるなんて……
「具体的なワードを出さなければ何事も健全なのよ。桜花は子どもね」
「大人だよ! 少なくとも由衣よりはね!」
「具体的に、どこが?」
「うぐっ……」
精神年齢なんて証明しようがないし、身長は私の方が15cmくらい低いし、顔は私より大人びているし。
それに、何より……
「か、完敗だ……」
「ふふん」
勝ち目なんてあるはずもない。何がとは言わないが、由衣が富士山なら私は高尾山だ。
他に身近な女性で言うと、夜一さんのはK2だ。もっとすごい人がいたときのための保険である。
「――とにかく、あなたがわたしに何か隠し事してるのは分かってるのよ。いつか明かしてやるから覚悟しておくことね」
「おー、頑張れ頑張れ。……まぁ、無理だろうけど」
「言ってなさい」
そう呟いたその時、始業ベルが鳴った。
由衣はほんの一瞬だけ口元に不敵な笑みを浮かべると、何も言わず席に戻っていった。やる気満々な由衣には悪いが、霊感のない彼女が私の正体に気づく可能性はゼロに等しい。
それに……できればこのまま気づかないでいてくれたら、それが一番だ。
一護や井上織姫が争いに巻き込まれるのは既に決まっていることだ。それを妨ぐつもりはない。けれど、由衣は違う。彼女を守るには、何も知らせず何にも関わらせず、最後までただの一般人でいさせるしかないんだ。
ごめんね。
そう心の中で小さく呟いて、私はカバンから次の授業の教科書を引っ張り出した。
◆ ◆ ◆
斎藤由衣は一人っ子で、そしていつも一人だった。
同じ家に住む両親は、成長していく由衣に興味を示さなかった。暴力を振るうことはなかったことが、不幸中の幸いと言うべきか……しかし彼らはただ業務のように由衣に食事を与え、身の回りの世話をしていただけだった。
そのくせ、両親は由衣の振る舞いにだけはやかましく口を出した。世間の白い目が自らに向けられることを極端に恐れた両親は、由衣に『普通の枠からはみ出ない』ことを強要したのだ。しかし由衣は『普通の枠』が何たるかを知らなかった。自分に対して冷たい両親は、ただ怒るだけで『普通』の説明をしてくれなかった。そして、由衣は両親以外の人間と関わったことがなかったからであった。
そんな彼女の生活が一変したのは、幼稚園に入園した時だった。そこにはたくさんの人がいた。様々な性格の人がいた。由衣に関心を向けてくれる人だっていた。
無色透明だった由衣の世界に、色が溢れたかのようだった。
知りたいと思った。
世の中にはいろんな人がいる。その人達が何を思っているのか、知りたくなった。由衣はこれまでの無機質だった生活を塗りつぶすように、足りていなかったコミュニケーションを補充し始めた。
貪欲に他人の趣味嗜好や考え方、家族関係、友人関係……総括して、他人の
知れば、自分も皆と同じようになれると思っていた。
しかしその行為は、両親の求める『普通』ではなかった。
由衣が両親の前で情報を集める度、由衣が両親の情報を聞き出そうとする度、彼らは由衣を叱った。けれどやはり、幼い由衣にはその『普通』が何なのか分からなかった。だからこそ両親が何を考えているのかを知ろうと、彼らをさらに質問攻めにした。そのやり方が既に彼らの求めるものからも、世間一般のものからも、逸脱しているということに気づきもせず。
「さいとうさんって、ヘンだよね」
それがおかしな行為であると気づいたのは、小学校に入ってすぐにクラスメイトにそう言われたからであった。
「どうして? わたしはヘンじゃないよ」
「ヘンだよ! だって、おしえてないのにしってるなんてきもちわるいじゃん!」
なるほど、だから両親は自分を叱ったのか。知りすぎていて気持ち悪いから、それは『普通』じゃないと怒ったのか。
そうやって妙に冷静に納得している自分と、だったら一体どうするのが正解なのかと途方に暮れる自分が、由衣の中で同時に存在していた。それ以外のやり方を知らなかった由衣には、これからどうやって人と関わっていけばいいのか、皆目見当がつかなかったのだ。
だからクラスメイトに言い返すこともできず、黙ってうつむくしかなかった。
そんな時だった。
「はいはい、喧嘩はそこまで。変だっていう奴が変だっていうの、聞いたことない?」
「ケンカじゃないよ! それにうらはらさんだってヘンじゃんか!」
「え、私って変なの?」
「ヘンだよっ! ときどきなにいってるのかわかんないし、まえがみもヘンだし!」
「……前髪、やっぱ変かなぁ? いっそのこと短くして横に流すか……?」
本人には悪いけれど、確かに変な子だった。
やけにはっきりと話すところもそうだが……何より気の弱い子なら泣き出してしまいかねない罵倒にもけろっとして、挙句目の前のクラスメイトの存在を忘れてしまったかのように自らの前髪をつまみ上げて考え込む始末だ。これにはクラスメイトもうんざりしてしまったようで、「つまんない」と吐き捨てて二人の前からさっさといなくなってしまった。
「ところで、何が変って言われたの?」
少女がコテンと首を傾げた。その顔に悪意などは存在せず、ただ単に興味があっただけだということは由衣にもすぐに分かった。
だから由衣は少しだけ逡巡した後に、その子に話してみようという気になったのだ。
「おしえてないこと、しってるからきもちわるいって……」
「教えてないこと?」
「そう。わたしが……みんなのヒミツとか、ぜんぶしってるから……おしえてないのに、なんでって……」
「あぁ……そういうこと……」
「ともだちになりたかったから……わたし、いろんなひとにきいて、いっしょうけんめいしらべたのに……それなのにっ……!」
話しているうちにこらえきれなくなって、嗚咽が漏れる。
何で……どうしていつも、こうなってしまうのか。
さっきの子とだって、仲良くなりたかったからこそ知ろうとしたのに。それを気持ち悪いなんて言われて、嫌われてしまった。
思えば幼稚園の時から友達という友達はいなかった。だからこそ、仲良くなるためにはもっとその子のことを知らなくてはと必死になって……それがまさか、逆効果だったなんて。
「なるほど、天性の
「え……?」
涙で濡れた瞳で、由衣はその少女を見つめた。
――この子は、何を言っているのだろうか。
「小学生の友達なんていてもいなくてもいいって思ってたけど、斎藤さんと一緒にいるのは楽しそうだなって」
「はあ……?」
「どう? 駄目かな?」
そんな言葉と共に、手を差し出された。
その手を取っても良いものかと由衣は迷う。
「……いいの? わたし、きもちわるいよ?」
「気持ち悪いっていうか、才能だと思うよ。それ」
「さいのう……?」
「だって私にはそんなことできないよ。きっと私のことだって知ってるんでしょ?」
「うん……おうちはだがしやさんで、ねこをかってて、おとうさんはいっつもみどりいろのふくをきてるってことなら……」
「ほらぁ、そんなの私誰にも言ってないもん。すごいことなんじゃない? それって」
すごいねと興味津々な目を向けられるのは、これが初めてだった。そんなふうに言ってくれる人が、そんなふうに由衣に興味を持ってくれる人が、いるとは思っていなかった。
今度は迷わなかった。
差し出されたままだった、少女の手を取る。
「……ありがとう。これからよろしくね、おうかちゃん」
「呼び捨てで良いよ。よろしくね、由衣」
そう言ってその少女、桜花はニッコリと笑った。
あれから七年の歳月を経て、由衣と桜花は中学二年生になった。
「――とにかく、あなたがわたしに何か隠し事してるのは分かってるのよ。いつか明かしてやるから覚悟しておくことね」
「おー、頑張れ頑張れ。……まぁ、無理だろうけど」
「言ってなさい」
桜花が隠し事をしているのは、前から知っていたことだった。そして桜花はそれを話さないつもりでいることも、そして話す気がないのを申し訳なく思っていることも、察しのいい由衣には手に取るように分かっていた。
この友人は昔からそうだ。変に大人びている割に、そういうところに関しては鈍感というかむしろ繊細というか。
その時、始業の鐘が鳴った。
隠し事の一つや二つごときで自分が桜花の隣から離れる、もしくはその程度で自分が情報を諦めるとでも思っているのだろうか。
だとすれば桜花もまだまだ甘いな、と由衣は珍しく少しだけ口角を上げた。
ほとんどオリキャラしか出ないという悲劇。ごめんなさい、必要な話なんです……