傲慢の秤   作:初(はじめ)

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二十二、私のせいだ

 

 黙っている斎藤由衣を心配して顔を覗き込んだ桜花が、唐突に動きを止めた。

 そのまま十秒が経過した辺りで、不審に思った有沢竜貴は二人に声を掛けた。

 

「なぁ、どうしたん――」

「下がっててっ!!」

「はぁ?!」

 

 今まで聞いたことのないような大声。いつも落ち着いている桜花にしては、やけに切羽詰まっていて余裕のない声色だった。

 

「な、何だよ急に……」

 

 訳が分からなかった。強い口調でそう言い放った桜花は、どうしてか由衣を鋭く睨みつけている。由衣の表情は、竜貴のいる場所からは見えない。

 竜貴は困惑して桜花を見つめた。先程まで仲良く談笑していた由衣との間に、一体何があったというのだろうか。

 

「桜花ちゃん……?」

 

 井上織姫も、不穏な空気を感じ取って眉をひそめている。他のクラスメイト達も、何事かと桜花に視線を向けている。

 

「お前……この子に何をした?」

 

 絞り出すように、桜花が言った。

 由衣は何も言わない。

 

「黙ってないで何とか言え!」

 

 それが気に入らなかったのか、桜花の怒声が体育館の広い空間に反響する。

 

「ちょ、ちょっと落ち着けって桜花!」

 

 下がっていろとは言われたものの、友人としてこれ以上静観し続ける訳にはいかない。竜貴は二人の間に割って入ると、今にも相手に掴みかからんばかりに激高する桜花を、由衣から引き剥がした。

 

「ありがとう、竜貴……でも、わたしが悪いのよ。わたしが余計なこと言ったから……」

 

 由衣は相変わらずの真顔だったけれど、申し訳なく思っているのはその声色から感じ取ることができた。対して桜花は、まるで仇を目の前にしているかのような様子である。

 

「竜貴、駄目だよ! ソイツから離れてっ!」

 

 桜花が、竜貴の肩を引き寄せるように掴んだ。竜貴はその手から逃れようと身じろぎするも、抜け出すことは叶わなかった。一体、小柄な彼女のどこからそんな力が出ているのだろうか。

 

「あんたさぁ……何言われたか知らないけど、親友に対してそんな言い草はないだろ? 本当どうしたんだよ、こんなに強く掴んだりして」

 

 竜貴の言葉に、桜花の顔が歪んだ。

 これは、怒り? ……いや、そうじゃない。焦っているんだ。

 でも、何に対して?

 

「ごめんなさい、桜花……わたしが悪かったの……」

「ほらな。由衣だって謝ってるんだから、もうこれくらいで許して――」

「……いい加減にして」

「はぁ?」

「つまんない芝居は止めろって言ってんの」

 

 冷たい声だった。桜花の尖った視線は、未だ真っ直ぐ由衣に注がれたままだ。つまりあれは、竜貴ではなく由衣に言ったということだ。芝居とは一体、どういうことなのだろうか。

 

「何やってる! さっさと集合しろ!」

 

 その時だ。この妙な空気を壊す大声が響いたのは。

 体育教師だった。

 

「ねぇ桜花ちゃん、由衣ちゃん。授業始まっちゃうから……とりあえず、行こう?」

「ふふふっ……」

「え……?」

「分かったよぉ、止めればいいんだろぉ止めればぁ。そんなに怒るなよなぁ」

 

 織姫が恐る恐る二人に声を掛けた。

 しかし返ってきたのは妙に粘ついた笑い声、それから間延びした言葉のみであった。

 

「全く……ちょっとふざけただけなのに大袈裟だなぁ」

「何を、言って……」

「僕はただぁ、オトモダチの真似をしてただけなのにねぇ……」

 

 おかしい。

 

 由衣は自らのことを『僕』なんて呼ばない。こんな喋り方はしない。それに人間関係を何より大切にする由衣が、友人である織姫の言葉を無視するはずがない。

 

「――気づいた? 今話してるのが由衣じゃない、ってこと」

 

 由衣に視線を留めたまま、掠れた声で桜花が言った。

 

「竜貴、織姫ちゃん」

「な、何……?」

「逃げて」

「はぁ?」

 

 今話しているのは由衣じゃない?

 これはつまり、由衣から逃げろということなのか?

 

 一体、何が起きているのか。

 

「コイツは何を隠し持っているか計り知れない……だから目を離せない」

 

 早く整列しろと怒鳴る体育教師の声と、授業開始を知らせるチャイムと、何事かとざわめくクラスメイト達の声と。それら全てが遠くから聴こえる。竜貴にも織姫にも、そんなことに構っていられる余裕がなかったからだ。

 

 そうやって混乱してただ立ちすくむ二人とは対照的に、激高していた桜花はいつの間にか冷静になっていた。

 

「詳しいことは後で話す。だから、二人は今すぐ皆と一緒に体育館から逃げ――」

「そんなこと、させると思ったかぁい?」

 

 由衣が、ふと構えるように身体を沈めた。まるで、走り出す直前のように。

 

 

 嫌な、予感がした。

 

 

「――"縛道の一・塞"」

「うわっ!」

 

 

 桜花の言葉と共に、由衣がひっくり返った。二人の目の前で、唐突に。

 

 人が倒れる、鈍い音がした。

 

 あまりに理解の範疇を超える事態に、だだっ広い空間が水を打ったような静けさに包まれた。

 誰も何も喋らない。ただ皆が皆、食い入るように桜花と由衣を見つめるだけであった。そしてそれは、竜貴と織姫も同じだった。

 

 

 何が起きたんだ?

 

 

 ――今、桜花は何をした?

 

 

「はぁ……()()()()のが分かってたから、さっさと逃げてほしかったのに……」

 

 静まり返った体育館に、桜花のため息と独り言だけが木霊する。

 

「浦原!! 何をしたんだっ?!」

 

 そんな桜花の言葉を聞いて、最初に我に返ったのは体育教師だった。肩を怒らせながら、倒れた由衣の元へ駆け寄ってきて――

 

「"破道の四・白雷"」

「うおっ?! 何だこれ!?」

 

 しかし、すぐに足を止めることになった。

 

 桜花が手を差し伸べて呪文のようなものを唱えた途端、体育教師の目の前の床に穴が空いたからであった。穴の付近は焼け焦げ、細く煙まで立ち上っている。

 

 竜貴と織姫は、呆然とその穴を見つめる。

 由衣を倒れさせた時といいこの穴といい、これではまるで魔法のようではないか。

 

「逃げてください。……次は、当てますよ」

「ひぃっ……!!」

 

 桜花の顔を見た体育教師の顔が、みるみるうちに青褪めていく。しまいには情けない悲鳴を上げて、転がるように体育館の出口へと逃げ出してしまった。

 

「おい……何かヤバくねーか……?」

「逃げようよ、ねぇ……」

 

 そのただならぬ様子にクラスメイト達はざわめき、恐怖に駆られて一人また一人と出口に向かって走り始める。

 そんな中竜貴と織姫は、どうすればいいのか分からなくて……ただ桜花を見つめていた。

 

 彼女は横からでも分かるくらい真っ暗で重たくて、見たことのないほど怖い表情をしていた。

 

 

 その灰色がかった黒い瞳が、こちらを向いた。

 

 

「っ!?」

 

 

 殺される。

 

 ここにいては、殺される。死んでしまう。ここにいてはいけない。

 

 

 そんな危険信号じみた言葉が竜貴と織姫の頭の中をぐるぐると周り、警鐘を鳴らし続ける。恐怖に思考を支配されて、他のことは何も考えられない。

 

 早く。早く、逃げなくては。

 

「何度言わせるつもり? 早く、逃げなよ」

「……っ!!」

 

 その言葉が契機だった。

 

 竜貴は、隣で震える織姫の腕を掴むと踵を返した。ともすれば力の抜けてしまいそうな両足を必死に動かして、出口に向かって全力で走った。

 

「――ごめん、織姫……大丈夫?」

「はぁっ……はぁ……う、うん……」

 

 やっとの思いで体育館から飛び出した竜貴は、息を切らす織姫の腕をそっと離した。そして、今出てきたばかりの体育館の中を振り返った。

 

 遠くに見えた桜花の横顔には、先程のような恐ろしさはなかった。

 

 ただ、何かをこらえるような……苦しげな表情(かお)をしていた。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 人間に対して――それも親しい人に殺気をぶつけたのは、初めてだった。

 

 思い浮かぶのは、心から私を恐れているあの表情。あれは、ただ私から逃げることだけを考えている者のする顔だった。

 

 記憶は消せる。それに、そもそもそうなるように仕向けたのは自分だ。それなのに、思ったよりも堪えるものだなぁ……と私は長く深く息を吐いた。

 

「ふふふっ、気分はどうだぁい?」

「……最高だよ」

 

 ソイツは、立ち上がっていた。

 "塞"は、いつの間にか破られていたらしい。身体が人間とはいえ中身は虚だ、何もおかしなことではない。

 ただ、その行為によって由衣の身体と魂魄が傷ついていないか、心配ではあるけれども。

 

「お前のそういうところぉ、嫌いじゃないよぉ」

「お気に召したようで」

 

 どうする? 由衣を救うにはどうすればいい? 頼んで了承してくれるような相手じゃないのは分かっている。だからと言って、由衣の身体ごと吹き飛ばす訳にもいかない。

 

 それに、もしかしたら……もう既に――

 

「もう一度だけ言うよ……由衣から、出ていけ」

「それは、できないねぇ」

「そっか……なら、強硬手段と――」

「しないんじゃない……()()()なんだよぉ」

「っ?! そんな、まさか……」

 

 さっき頭をよぎった最悪の事態が、今度は脳内を埋め尽くしていく。

 

 不可能?

 まさか、それって……

 

「あぁ、安心しなよぉ……食べちゃいないからぁ。僕ってぇ、魂魄を食べたいって欲求が少ないんだよねぇ」

 

 由衣の皮を被ったこの虚、相変わらず口は軽いままのようだった。これが事実なら、由衣を助ける手立てはまだ残っているということだ。

 よかった……後は勝手にベラベラ喋ってくれる、この虚の話を大人しく聞いて――

 

「僕はねぇ……人間の魂を身体から弾き出してぇ、その中に入れるんだぁ! それでねぇ、弾き出された魂魄の因果の鎖はぁ――」

 

 大人しく……聞い、て……

 

「例外なく千切れてしまうんだよねぇ」

 

 

 ――因果の鎖が千切れる。

 

「何……だって……?!」

 

 

 ――駄目だ、敵の言うことを鵜呑みにするな。

 

 頭を振って自らに言い聞かせる。

 

 そもそも因果の鎖が切れているのなら、既に由衣の胸から鎖が生えているはずなんだ。

 

 昨日、敵の言葉をちゃんと最後まで聞かなかったのは失策だったけれど、だからと言って逆に敵の言葉をすぐに信じるのも悪手でしかない。だから――

 

「ふふふっ……ほらぁ、見てよこれぇ」

 

 そんな言葉と共に、ソイツは不意に現れた()()()をジャラジャラと鳴らして笑った。

 

 そう、鎖。

 ……これは、間違いなく因果の鎖だ。

 

 今までどこに隠していたんだろうか。

 由衣の胸元から長く伸びた鎖を目で追う。その先は――

 

 

「……嘘、だ」

 

 

 その先は、まるで引き千切られたかのように寸断されていた。

 

 

 ――由衣の魂魄の姿は、どこにも見られなかった。

 

 

 それが意味するのは、肉体の。

 

 

「嘘だ……」

 

 

 肉体の。

 

 

「うそだ……」

 

 

 死。

 

 

「嘘じゃないよぉ。この子の脳から記憶を読み取ったんだけどねぇ、どうやらお前の秘密を調べようとして近くまで来てたみたいなんだよねぇ……」

 

 

 死んだ。

 

 

「お前のつまんない隠し事のせいでぇ、この子は近くまで来てしまった……そしてぇお前が僕を取り逃がしたせいでぇ、僕はこの身体を見つけた……これってさぁ――」

 

 

 死んだ。

 

 

「――お前のせいで死んだ……って、ことだよねぇ?」

 

 

 私のせいで、死んだ。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 死神になってから、桜花は霊圧を隠すのが格段に上手くなった。

 

 才能なのか、何か他の要因があるのか……その技量は浦原商店に住む三人の元死神達ですら、油断すると見失ってしまうほどであった。

 当然、彼女に張られていた(ホロウ)避けの結界は浦原喜助の手によって解除済みである。彼女自身はその技能にも、結界を解除されていることも気づいてはいないのだが。

 

 その桜花の霊圧が、虚も出現していないのに上昇した。

 

 それは、中学校から少し離れている浦原商店からでも感じられるほどに急激な上昇だった。この様子では恐らく、霊圧を閉じ込める縛道である"魄閉"すら使っていないのだろう、と浦原は思った。

 人間だった時期が長かったこともあり、桜花が常人への配慮を忘れたことなど今まで一度たりともなかった。そんな桜花が何の対策もなしに周囲の人間を軒並み気絶させてしまうような霊圧を放出するなど、異常な事態であった。しかも、その力を振るう対象であるはずの虚の反応がないのだ。

 

 ――明らかに、何か良からぬことが起きている。

 

 そう直感して、浦原は握菱鉄裁と共に商店を飛び出した。

 

 

 二人が学校に着いた頃には、桜花の霊圧はさらに膨れ上がっていた。

 

「鉄裁サン、頼みます!」

「分かっておりますとも!」

 

 そのやり取りだけで全てを察した鉄裁は"魄閉"を二重に展開し、浦原はその横を走り抜けて体育館へと向かう。

 

「テメェ桜花じゃねーだろ! 離せよ!」

「ごめんね、それはできないの」

「できない、じゃねーよ!! 中に桜花と由衣がいんのは分かってん――」

「どーも、黒崎サン。体育館にはアタシが向かうんで、ご心配なく」

 

 体育館の入り口から数十メートルほど離れた場所で、桜花の義骸に取り押さえられて騒ぐ黒崎一護と、地面に倒れ込む二人の女子学生を見つけて浦原は足を止めた。

 

「あ、店長」

「浦原さんっ?! 何でここに?」

「詳しいことはまた後で。それより今は、そこの倒れてる子を運ぶのが先っス。この霊圧濃度だ、常人には刺激が強すぎる」

「あ? 何がどうなって――」

「了解!」

「頼みましたよ」

 

 改造魂魄の返事を聞くやいなや、浦原は再び走り出した。会話に置いていかれていた一護には、改造魂魄が上手く説明してくれるだろう。

 

 浦原は数十メートルの距離を一瞬で縮めると、閉ざされた体育館の鉄扉に手を掛けて一気に開いた。

 

「っ?!!」

 

 浦原はその光景に一瞬息を詰め、目を見開いた。

 

「これは、一体……」

 

 

 床に散らばる鮮やかな赤。

 

 側に転がる赤に濡れた浅打。

 

 死覇装姿の桜花は、その色の中心にいた。

 

 

 桜花は――光の消えた瞳で、腕の中の血塗れの少女を静かに見つめていた。

 


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