誰かが何やら話している声が聞こえる。その声に釣られるように目を開けると、見えたのは知らない天井と、私の近くに座って何やら話をする男性と
……え? 猫?
「預かると言ってもお主、そう簡単にいくものでもあるまいて」
「しかし、病院に連れて行く訳にも警察に預ける訳にもいかない――おや、目が覚めたようっスね」
猫が、猫が……と固まる私に、今の今までその猫と会話していた男が笑みを浮かべて話し掛けてきた。
「気分はどうスか? ウチの裏手で倒れてたんですが、覚えてます?」
「ウチの、うらて……」
「そうっス! あ、アタシはウラハラって者です。アナタは
「おうか、さん?」
「ハイ、桜に花と書いて
何が楽しいのか、やたらと明るい声色で話す男ーーウラハラ、つまり裏原とか言ったか。その男の言葉を繰り返すことで、その内容を噛み砕いて理解しようとする。今この男は私の事を『
「おうか……それが、わたしのなまえ? あなたはわたしのこと、しってるの?」
そこまで喋って一瞬、敬語で話さなかったことを後悔した。しかし、そういえば私は子どもだったと思い出したことによって、その後悔は霧散する。幼児が敬語を使うなんて不自然も良い所だ。
「記憶がない……なるほど、こりゃ尚更ワケアリっスね」
裏原は、私の言葉を聞いたその時だけ不意に真顔になってぼそりと呟いた。けれど、次の瞬間には何事もなかったかのように元の笑顔に戻っていた。
その変化があまりにも胡散臭くて思わず眉をひそめた私の表情に、裏原は目元を帽子に隠すようにして更に笑みを深くした。
「そんなに警戒しなくても大丈夫っスよ、桜花サン。記憶がないならないで結構、当面はウチに住むことに変わりはないんスから」
「えっ……? でもわたし、いえにかえらなきゃ……」
「その家がどこにあるのか、分かります?」
「あ……」
「他にも、親御サン――お父さんやお母さんのこととかはどうスか?」
「あ、えっと……その……」
おかしい。
前世の記憶を持ったまま新しく生を受けた、つまり生まれ変わったことにより子どもの姿をしていることはまだ納得できる。しかし、それならそれで生まれ落ちてから幼児に成長するまでの間、私は一体どこにいたのか。そして、どこの誰に育ててもらっていたのか。
「なんで? そんな、わたし……どうして――」
どうしてだろう……何も覚えていないことが無性に寂しくて、悲しかった。
小さな両手で顔を覆う。感情の制御ができなくて、ぶわりと溢れた涙が指の隙間から流れ落ちた。
どうして、こんなに悲しいんだろう。何で、私はこんなに寂しいんだろう。
泣いているのは自分自身であるはずなのに、その理由が分からないまま、私は嗚咽を漏らしてぼろぼろと涙をこぼし続けた。
「そこまでにしておいてやれ」
優しい匂いがして、気がつくと私は何か柔らかいものに顔を押しつけられていた。
誰かに、抱きしめられていた。
「思い出したければ、ゆっくり思い出してゆけば良い。思い出せなくても、儂らがいるから大丈夫じゃ」
だから、安心せい。
そう言って私を撫でた手は優しかった。話し方はいかめしかったけれど、声には女性の柔らかさがあった。
「うん……わかっ、た……」
急に胸が暖かくなったような気がして、寂しさや悲しさが薄らいだ気がして、私は目の前の女性を見上げて笑った。
その人は、褐色の肌が綺麗な人だった。
褐色の肌の美女――四楓院夜一は、腕の中で眠りについた幼子を撫でながら、ぽつんと小さく呟いた。
「このような情など、とうの昔に無くしてしまったものと思っておったのじゃがな……」
「……」
「いくら儂とて、あんな泣き方をされて放っておける訳がなかろう。何故、あそこまで……」
それほどまでに、悲痛な泣き方だった。まだたった二、三年ほどしか生きていないだろう幼子にしては、彼女から伝わる絶望感はあまりに強く、苦しかった。
同じく側に座っていた浦原喜助は、夜一の誰にともない問いに答え切れずに、しかしそのまま黙っている訳にもいかなくて、とりあえず口を開いた。
「……珍しいこともあるもんスね、夜一サンが人の姿に戻るなんて」
「こうするには、猫の前足では足りぬからな」
浦原が自ら経営する商店の敷地内で、激しい梅雨の大雨と血に濡れて倒れ伏す少女をその息が止まる前に見つけることができたのは、全くの偶然と言って良いだろう。
建物の中からでも分かるほど、壊れそうな嫌な音を立てる雨樋の様子を浦原が見に行っていなければ……またそれがあと一時間遅れていたら、出血多量と体温低下で彼女は衰弱しきってしまっていたはずだ。もしくは命を落としていたかもしれない。
「全く……どこからどう見ても人間の女の子なのに
和室に敷かれた布団の側に、綺麗に畳まれていた着物を一瞥して浦原は呟いた。
「裸なのを不憫に思ったどこぞの霊が着せてやった……てのは流石に無理があるからの。着物の大きさが合わぬのは不可思議じゃが……少なくともそのペンダントだけは、この子自身の本来の持ち物なのじゃろう。桜花という名前も恐らくは……」
「ホント、不思議なこともあったもんス」
浦原は着物の上に置かれていた、桜の花を象ったペンダントをそっとなぞる。人間の幼子が持っていたにしてはあまりにも濃い霊力で構成されたそれの裏には『桜花』の二文字。
「一応、行方不明者として捜索されていないか、確認しておきますかね……」
すやすや眠る桜花の首にペンダントを戻してやると、浦原は静かにその場を辞した。
すべきことは、いくらでもあった。