こちらは二話連続投稿の一話目です。
朽木桜花様というお方は、兎にも角にも活発な方であった。
暇さえあれば屋敷中を駆け回り、当時既に席官レベルの実力を持っていた芦谷を齢三つにして撒き続けていた。
広すぎるその屋敷内で迷子になってはいけないからと芦谷が探し回っても見つからない。霊圧を探っても見つからない。
危ないからと何度芦谷が言い聞かせても、「窮屈だから」と聞く耳を持たない。
その姿はまさに、『何不自由なく生きられる環境の中で奔放に育ったご令嬢』そのものだった。その上、本物の才能まで持ち合わせているものだから余計に質が悪い。
「お嬢様! お嬢様ぁー! どこにおられるのですかー?!」
今日もまた、芦谷はお嬢様を探して屋敷中を歩き回る。
「お嬢様! そこにいるのは分かっているのですよ!」
返事はない。なるほど、以前と同じ手は通用しないということか。
それなら。
「いい加減にしないと当主様に言いつけますよ、お嬢様!」
返事は、なし。
屋敷に仕える者達の目撃情報を辿ってきたのだから、場所はこの辺りで間違いないのだ。恐らくお嬢様は、芦谷の声をどこからか聞いているはず。
それでも出てこないのは、理解しているからだ。芦谷を多少怒らせたとしても、当主様に叱られることはないということを。
むしろ、叱られるのは芦谷の方かもしれない。
まだ幼い主人に簡単に逃げられるなんて、従者として失格なのではないか、と。
「はぁ……」
この任を承った時は、こんなことになるとは思っていなかった。
あんなに落ち着いている当主様とおしとやかな奥方様との間に産まれたお子様だ、誰だって大人しい方だと思うに違いない。もちろん芦谷も、例に漏れずそう考えていた。
しかし、実際はこの通りである。付き人とは名ばかり、これではまるで子守ではないか。
不敬であることを自覚しつつも、脳内は愚痴で溢れかえっていく。けれど、どんなに嘆こうとも現状は変わらない。依然としてお嬢様は行方不明で、そんなお嬢様を見つけるのが芦谷の仕事なのだ。
「お嬢さ――」
そうしてお嬢様を探し続けること半刻、ようやく見つけたお嬢様は、舞い散る桜の中で静かに佇んでいた。何も言わず、花びらの舞う青空をただただ見上げていた。
お嬢様と呼び掛けた声を、芦谷は無意識に途切れさせていた。
「…………」
あんなに苦労してようやく見つけたというのに。それなのに声すら掛けられず、芦谷はただ意味もなく立ち尽くしていた。
邪魔をしてはいけない。
自分が声をかけることで、この絵画のような調和が乱れてしまうのなら。このまま黙ってこの場を立ち去ってしまった方が余程良い。
そう、思ってしまった。
◆ ◆ ◆
ついには嗚咽まで漏らして泣きじゃくる芦谷をなだめ、落ち着かせるまでに掛かった時間、約三十分。
いやいや、いい年した成人男性を泣き止ませるのに時間が掛かったってどういうことだよ。
頭の中の冷静な部分が小さく呟いた。
しかしその原因が自分にあることを思い出して、私はその言葉を取り消した。
「何たる失態……申し訳ありませんでした」
「いや……うん、大人にだって泣きたい時はあるよね。まぁ、多分、きっと……」
「桜花様、ありがたいお言葉ですが……これ以上傷口を抉るのは……」
「あ……うん」
そう言うならもう触れるまい。彼の尊厳のために。
「……本当に、よく生きて戻って下さいました」
「うん」
「して、これまでどこで何をしていたのか、訊ねてもよろしいでしょうか?」
真っ赤に腫れた目のせいでなんとも締まらないが、表情と声色は至極真剣な様子で芦谷が言った。
それに対して私は答える。
恋次に説明したのと同じように、核心に迫る部分はぼかして。少なくとも藍染の名前は出さないように。記憶にまつわる話は後回しで、まずは状況を説明することからだ。
「今はその『敵』の気配も霊圧も感じないし、盗み聞きされている心配もないと思う」
「敵、ですか……そんな輩が護廷十三隊に?」
「驚きだよね、本当に」
「それは、もしや……ある程度の地位を持った方、なんてことは?」
「……そう、だね」
やけに察しのいい芦谷の言葉に頷く。
さて、芦谷にはどこまで伝えておくべきか。ある程度は既に伏せて話したけれど、その範囲については未定なんだ。
何せ、漫画に登場しない人だし。芦谷に関しては分からないことが多過ぎて、会って話をしてからじゃないと判断できなかったからだ。
「その『敵』とは……」
「んー……?」
芦谷がおずおずと発した言葉に、ごちゃごちゃと考えながら生返事をする。
「その……」
「何?」
「藍染隊長のこと……ですか?」
「あぁ、うん」
そうそう、藍染。
アイツが犯人だってことは伏せたままの方が良いのかもしれない。何てったって目の前の芦谷は五番隊副隊長だ。
それに、だ。今まで知らなかったけれど、どうやら芦谷は素直に感情を露わにしてしまう性格のようだ。そんな人に下手なことを伝えて、その命を危険に晒す訳にはいかな――
「………………え?」
ちょっと待って。
何かとんでもない言葉が聞こえた気がする。
この人、何て言った?
「えっと……今、なんて?」
「その『敵』とは藍染隊長のことですか、と」
「…………」
どうして、と問い掛けた声は掠れて
「桜花様が藍染隊長に初めてお会いした時のこと、覚えておいでですか?」
「…………」
もちろん、覚えているはずもない。
何も言えない私の沈黙を肯定と捉えたのだろう、芦谷は言葉を続ける。
失踪する数週間前に、父様の紹介で私は藍染隊長と会っていたんだとか。その時の私の反応に違和感があったのだと、芦谷は言った。
どことなく緊張していたような、目線が鋭かったように感じたらしい。
その頃の私も漫画の知識があっただろうから、そうなってしまうのも理解できる。
そんなことより、そもそも昔の私と藍染に面識があったことの方が驚きだ。昨日も私の名前をフルネームで呼んでいたから、存在を認知されているのは分かっていたけれど。
「藍染隊長はもちろん、一緒にいた当主様でさえもお気づきにならなかった。私だから気づけた、ほんの小さな違和感だったのです」
「どうして……」
「それは、もちろん」
何とか言葉になった二度目の『どうして』の意味さえも、芦谷は理解してしまったらしい。
得意げに口角を上げているその顔を、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。
「桜花様が、私の唯一の
それがあたかも普遍の真理であるかのように、芦谷は言葉を紡いだのだった。
◆ ◆ ◆
どういう話の流れでそうなったのかは、よく覚えていない。
「ねぇ」
「はい、何でしょう」
お嬢様のご希望により、屋敷の離れの一室がお嬢様の私室となった。
その部屋に面した縁側に佇んでいるのは、柱に背を預けて座っているお嬢様と、その側で静かに控えている芦谷の二人だけであった。
「私、きちんと『ご令嬢』できてるかな」
「もちろんでございます」
独り言のようなお嬢様の言葉に、少しも間を開けずに返答する。
「本当に?」
「えぇ」
「本当に?」
「……えぇ」
二度も訊き返されて、芦谷は初めて質問の意図について考えた。
きちんと『ご令嬢』ができている、というのも妙な表現だ。
もしそれが「朽木家の令嬢として相応しいふるまいができているか」ということを問うているのなら、答えは「はい」でも「いいえ」でもなくなるだろう。
「あえて言うなら?」
「……不敬になりますので」
「不敬になるってことは、できてないんだね」
「い、いえ……そんなことは」
「私は不敬だとか、そんなこと気にしないから言ってよ」
お嬢様が何を思ってそんなことを訊ねたのか、芦谷には分からなかった。
けれど、お嬢様が上辺だけの返答を求めている訳ではないことは、よく分かった。
だからこそ、芦谷は覚悟を決めてしぶしぶと口を開いた。お嬢様の、ご希望とあらば。
「……願わくば、私の前でもそうであってほしい……とは思っておりますが」
「ふふっ」
そんな芦谷の躊躇いがちな言葉を聞いて、お嬢様は吹き出すように笑った。怒るでも落ち込むでもなく、楽しげに。
「けっこうハッキリ言うんだね、芦谷って」
ここまで言うことはなかったか。失敗した。
「も、申し訳ありません……」
「良いんだよ、私が言えって言ったんだから。堅いなぁ、芦谷は」
ただひたすらに恐縮する芦谷とは違って、お嬢様は気楽そのものだった。
「父様や母様と話している時と、貴族として公の場に出る時の私は『朽木桜花』だけど、今の私はただの『桜花』なんだ」
お嬢様が何を言わんとしているのか分からなくて、芦谷はその華奢な背中を見つめる。
霊術院に備えて昨年より修行を始めたお嬢様なら、その視線くらいは気づけるようになっているに違いない。しかし、そんな素振りなど少しも見せず、お嬢様は庭を眺めている。
「どっちも私であることに変わりはないけど、父様や母様とこんなふうに話す訳にはいかないし、貴族として在るべき時もそれに応じた言動を心掛けなきゃいけない。でも、こっちの方が気が楽だからさ。芦谷しかいない時くらい、良いかなって思っちゃって」
でも、そろそろ諦めて大人にならなきゃだよね。
そう小さく付け加えて、小さく笑う。
「例えば……父様も母様も、裏表なんてないように見える。どこでも、誰に対しても、同じ態度で接している。それが、大人になるってことなんだろうけど……」
「…………」
それは違うだろう、とすぐに思った。
当主様と奥方様がお嬢様に向ける顔の、柔らかいこと。愛しくて愛しくてたまらない、そんな思いが溢れ出しているような声色。
そんな顔を、態度を、お二人が互いやお嬢様以外の方に向けているところなんて、一度たりとも見たことがない。
それなのに、その事実に気づいていらっしゃらないと? そんなはずはないだろう。
「ごめんね、いつも我儘言って振り回しちゃって。別に言い訳がしたかった訳じゃないよ。ただ、芦谷にはいつも迷惑を掛けちゃってるから、謝罪だけでもしておこうと――」
「少なくとも」
主人の言葉を遮るなど、従者としては言語道断。けれど、口を挟まずにはいられなかった。
芦谷は、気づいてしまったのだ。
お嬢様には、年相応で等身大の態度で接することのできる相手がいないのだと。
そう。芦谷、以外には。
「少なくとも、私の前での貴女は、ただの『貴女』です」
確かに多少活発で、奔放なお方かもしれない。
それに酷く辟易していた時もあった。
しかし、従者である期間が長くなっていくにつれて、分かってきたこともあった。
貴族らしからぬ物言いの中に、芦谷への、そして様々な人への気遣いが含まれていること。
不敬でない言葉よりも、正直である言葉の方を好んでいること。
他者から向けられる感情に疎いところがあること。
そして、自らの無邪気で年相応な言動は、全て封じ込めてしまうべきだと本気で思っていること。
「先程はあのようなことを申し上げましたが、訂正いたします」
そうだ。
芦谷の知っているお嬢様は、美しく隙のない言葉遣いと所作を使いこなすであろう『朽木桜花様』ではない。
芦谷のよく知っているお嬢様は、平民のような言葉で話し、縁側で両足を投げ出して座り込んでいた、このお方なのだ。
「お嬢様は、そのままのお嬢様でいて下さい。私がお仕えしているのはご令嬢の『朽木桜花様』ではなく、今ここにいらっしゃる『貴女』なのですから」
こうして砕けた会話のできる相手が他にいないのであれば、芦谷がその唯一の者としてお嬢様を支え続ければ良い。
少なくともそういう相手が、芦谷の他にできるまでの間は。