こちらは二話連続投稿の二話目です。
私が、芦谷の主だから?
「驚くようなことではないでしょう? 私は貴女に忠誠を誓った身。その程度のことも見抜けないで、どうして従者と言えましょう」
「…………」
私には、分からなかった。
一人の意思ある大人にここまで言わせるなんて。抜け落ちてしまった記憶の中で、一体何があったんだろうか。
一体私は、この人に何をしたんだろうか。
「あの、ね。実は私……」
きちんと伝えるしかないと思った。
昔の記憶がないということを。
そして、その忠誠心は私に向けない方がいい、ということも。
「関係ありません。記憶があろうとなかろうと、桜花様は桜花様です」
それでも芦谷は頑なだった。驚くほどに、揺れなかった。
「事情とか、訊かないんだ」
「訊ける訳がないでしょう、そんな顔をした貴女に」
「……ショック、受けたりしないの?」
「ショック? まさか。貴女が桜花様であることさえ確かであれば、私はそれで十分でございます」
「あのさ……その忠誠心は立派だけど、向ける相手は選んだ方が良いよ」
「選んだ結果が貴女なのです」
「…………」
駄目だ、これは折れないやつだ。
何を言っても暖簾に腕押し、もう手の打ちようがない、というやつだ。
「……分かった」
こんな人がいたとは思わなかった。
いや、芦谷がこんな人だとは思わなかった、の方が正しいか。
だったらせめてと、先程から気になっていたことを指摘してみる。
「それはもう分かったからさ。せめて、もうちょっと砕けた話し方できない?」
「恐れ入りますが、不敬に当たりますのでそれは致しかねます」
「堅っ! ほら、断るにしてももうちょっとこう、『それはできないですね』くらいにさ」
「申し訳ございません」
「…………」
まぁ、昔みたいに『お嬢様』なんて呼ばないのはありがたいけど……だからといってこれは堅苦しすぎやしないだろうか。
「そりゃ、自分の意思ゼロで何でもかんでも『はい』って言って従っちゃうのも気持ち悪いけどさ……でもそんな大したお願いじゃないじゃん? そんな難しいことは頼んでないよね、私」
「難しくはありませんが、『大したお願い』ではございます。申し訳ございませんが、私の従者としての矜持に関わることなのです。ご了承下さい」
「えぇぇ……」
申し訳なさそうな面持ちに反して、その口調は断固としていた。
「すごいね、すごい頑固だ……」
「申し訳ございません」
どうしてこんなに頑ななの、この人。
もう譲る気ゼロじゃん。むしろ不敬だよ、こんなの。
「まぁ、前みたいに『お嬢様』なんて呼ばないだけマシだけどさ」
「『お嬢様』と呼ばれるのはお嫌いですか?」
「嫌いっていうか……堅苦しいじゃん。『朽木家のご令嬢』としてじゃなくて、『
私は朽木桜花だけれど、それだけが私じゃない。ご令嬢じゃなかった時の私は浦原桜花であり、ただの女子高生だ。
だから、こうやってあからさまに貴族扱いされると居心地が悪くて仕方ない。貴族として許される範囲内であれば、主従関係であってもフランクに接してほしいのに。
残念ながら、芦谷にとっての『貴族として許される範囲』は、私のものよりもうんと狭いらしい。全く、困ったものだ。
「ふふっ」
伏せていた目を上げる。
先程まで申し訳なさそうにしていた芦谷が、一転して柔らかく笑っていた。
「昔と、同じことをおっしゃるのですね」
「…………?」
訳が分からなくて、首を傾げる。
そんな私を見て、芦谷はさらに嬉しそうな笑みを深めた。
「やはり記憶などなくとも、桜花様は桜花様だ」
◆ ◆ ◆
「ねぇ、昨日何かあった?」
「……いえ、特には」
「ふぅん」
必死に飲み込んだ焦燥感に、心臓が嫌な音を立てたような気がした。
「今日の芦谷、何だか変じゃない?」
「いえ、そんなことは」
「ふぅん」
次の問いには間を置かずに答えられたが、含みのあるお嬢様の返答が気になって仕方がない。
これは気づいていないのか、それとも気づかれてしまっているのか。
「まぁいいや。それより、ちょっとお腹が空いたからお茶と和菓子をお願いしてもいい?」
「かしこまりました」
素早くかがんで、冷えてしまった急須を手に取る。
そんな些細な動きでも、怪我の治りきっていない身体は酷く軋んだ。しかし顔には出さなかった。もちろん、動作にも。
「失礼しました」
そう言って部屋を出て、引き戸を閉めて、お嬢様の私室のある離れから本殿に移って初めて、芦谷は大きく長い息をついた。
危なかった。
優秀なお方なのは分かっていたが、ここまで鋭いとは思わなかった。
これからはもっと気をつけなければ、と肝に銘じて歩を進める。
そんな芦谷に、背後から声を掛ける者達がいた。
「おい」
当然のように無視をしていると、強い力で肩を掴まれた。途端に走った痛みに、歯を食いしばって耐える。取り落とさないようにと、握りしめた急須が震える。
――わざとやってるな、コイツ。
「……離せ」
悪意を持って肩を掴む手を振り払って、芦谷はしぶしぶ後ろを振り返った。
芦谷と同じ色の瞳と視線がぶつかった。
「反抗するんじゃねぇよ、出来損ないの分際で」
「…………」
出来損ないはどちらだ、と悪態をつきそうになるのを何とか堪えてその男達――腹違いの兄を睨みつける。
「今夜十時に、いつもの場所だ。忘れるなよ」
忘れられるものか。
こうやって何度呼び出され、何度傷つけられたか知れない。
お嬢様の従者となって、芦谷家の邸宅から離れて生活できるようになれば、その回数も頻度も減ると思っていたが。
結果としては、芦谷の出世に嫉妬した兄二人の暴力は激しさを増し、遂には芦谷の回道では治しきれない程度にまで発展してしまった。
そして、まだ前の怪我も治りきっていないというのに、また呼び出しである。
「……そこを避けろ。お嬢様がお待ちだ」
「そのお嬢様に漏らしでもしたら……分かっているだろうな」
「あぁ、分かってる」
ぞんざいに頷いて、芦谷は再び歩き始めた。
肩はまだ痛むが、大丈夫だ。次に離れに入る頃には、いつもの芦谷塵に戻っているはずだから。
「お待たせいたしました。……お嬢様?」
そうして、言いつけ通り温かい緑茶とお茶請けをいくつか持って戻った芦谷を待ち受けていたのは、もぬけの殻となったお嬢様の私室だった。
◇ ◇ ◇
芦谷が回道を身につけたと知るやいなや、兄達は喜び勇んで暴力に刃物を用い始めた。
出血が致死量に達しないよう微調整しながら刃物を振り下ろす姿は、もはや狂っているとしか言いようがなかった。
もっとも、それに抵抗する気すら湧かなくなってしまった芦谷は、それ以上におかしくなってしまっているのかもしれなかった。
「何をしているのですか?」
薄雲の掛かった月光の下。ぼんやりと薄暗い空気を切り裂いたのは、そんな雰囲気に不釣り合いなほどに凛と澄みきった声であった。
「誰だ?」
「知らねぇよ」
声の主が分からず困惑して顔を見合わせる兄二人とは異なって、芦谷の行動は迅速だった。
あちこち傷を負って重たい身体を引き摺るように起こし、素早くそのお方に跪く。その瞬間だけ、常にない厳かな空気をまとったその顔が緩んだような気がした。
「楽にしていなさい、芦谷」
「しかし……」
「構いません」
しかし多少表情は緩んだように見えても、その口調は反論の余地がないほど強いままであった。
ご命令とあらば、と多少足を崩して地面に座り込む。そして、謝意を述べる。
「……ありがとうございます、お嬢様」
お嬢様。その一言で全てを察した二人の兄が、慌ててその場に
「こっ……これは、桜花お嬢様!」
「本日も、ご機嫌麗しゅ――」
「質問に答えなさい」
冷や汗をかきつつ無理に取り繕おうとする兄達に、お嬢様は冷たく言い放つ。
「私は『何をしていたのか』と問うているのです」
「えっ、と……それは、その……」
答えられるはずもない。
芦谷家の問題とはいえ、これは立派な暴力行為だ。それも、さしたる理由もない理不尽な、である。
お嬢様も、この行為が後ろ暗いものだということに気づいているのだろう。答えられない二人に向ける視線をより鋭いものに変えて、静かに口を開いた。
「良いですか、よく聞きなさい」
こんな雰囲気のお嬢様は、初めて見た。
芦谷の前のお嬢様は、気負いなく笑って砕けた口調で話す、そんなお方だ。
けれど、今は違う。
冷たくも芯の通った声は、確固とした意思を伝え。真っ直ぐな黒い瞳は、全てを見透かすような冷静さをはらんでいた。
恐らくこれが、対外的な『朽木桜花様』なのだ。
「芦谷は私のものです。彼に手を上げるということはつまり私に、ひいては朽木家に手を上げるも同義」
まるで、別人。
付き人である芦谷といえど、公の場にまで同行する訳ではない。これが貴族としての『朽木桜花様』か、と芦谷は驚愕と共にお嬢様を見つめ続ける。
これでは芦谷と話している時はおろか、当主様や奥方様と話している時の態度とも全く違うではないか。
「たかが一兵の分際で、朽木家に反旗を翻すおつもりですか」
「そんなつもりは……」
「まさか……ただ私共は、その……」
仕えるべき家のご令嬢にこんなことを言われて、さしたる反論も持ち合わせていないとあれば、慌てるなと言う方が無理である。
「……全く」
気が動転して口々に意味のない言葉を並べる二人を一瞥して、お嬢様は呆れたように大きなため息をついた。
「もう二度とこのようなことをしないと朽木家に誓えるなら、この場は見逃しましょう。ただし、もし再び私の家臣に手を出したなら――」
ただただ圧倒されて呆ける芦谷には目もくれず、小柄な体躯で仁王立ちしたお嬢様が
「その時は、一つの家が消える可能性もあるということを、よく覚えておきなさい」
事の次第によっては、芦谷家そのものを潰す。
普段のお嬢様を知っていれば、そんな強引なことをする方ではないとすぐに分かる。
しかし、そう分かっているはずの芦谷でさえ、本当に潰されるかもしれないという危惧を覚えるような、そんな絶対的な宣言だった。
「もっ……申し訳ありませんでした!!」
「以後気をつけますので、どうか……どうか、お許しを!!」
「良いから早く行きなさい。私の気が、変わらないうちに」
「はっ! し、失礼いたします!」
兄達が、逃げるように立ち去っていく。
その姿が完全に消えたのを確認してから、お嬢様は身にまとった空気を一気に弛緩させた。
「あーあー、また派手にやられちゃって……」
地面にへたり込む芦谷に駆け寄ると、その小さな手を芦谷にかざした。何やら小さく呟くと、途端にその掌から緑色の光が溢れる。
「あれだけ言っておけば、流石にもう手出しできないでしょ」
「…………」
「……うん? どうしたの」
何も言わない芦谷を見て、お嬢様が不思議そうに首を傾げた。そして、得心がいったように一つ頷いた。
「あぁ、回道のこと? 別に、修行してるんだから普通でしょ。むしろ、父様のと比べるとまだまだだし……ほら、ここまでしか治せないし」
まだ驚愕から戻って来られない芦谷と違って、お嬢様は平生と変わらない様子だった。けろりとした顔でそう告げると、掌の光を消した。見ると、完治はしていないものの、先程まで出血していた傷口の全てがきれいに止血され、ほとんど塞がりかけていた。
「悪いけど、後は自分で治してね」
霊術院入学に向けてある程度の修行はしているとはいえ、これはどう考えても普通ではない。
そもそも、鬼道を含めた死神の技を覚えるために行くのが霊術院であって、鬼道とは少なくとも入学する前にここまで習得できるようなものではないのだ。それなのに、この方は。
「よし。帰るよ、芦谷」
「……お嬢様」
「あ、やっと喋った」
不意に呼び止めた芦谷に、先を行こうとしたお嬢様が振り返る。
「どうして、このような……」
言いたいことは山程あったのに、口に出たのはそんな質問だけだった。今言うべきはそれじゃないだろう、と内心自分を叱咤するももう遅い。
顔には出さずに猛省する芦谷とは対照的に、お嬢様ははっきりと顔に出して何やら躊躇っているようだった。気まずそうに「あー」だとか「うーん」だとか、声を漏らしていた。
「その……最近酷かったでしょ。他家の事情に首を突っ込むのもどうかと思って今まで黙ってたけど、流石に気の毒かなって」
「え……」
気づいていたのだ。お嬢様は、全て。
芦谷の事情も現状も、何もかも分かった上で芦谷に探りを入れていたのだ。それでも頑なに打ち明けない芦谷にしびれを切らして、こうして決定的瞬間を押さえに来たのだ。
「アイツらなかなか尻尾出さないからさ、ちょっと時間掛かっちゃったんだ」
「そんな……じゃあ、もしかして先程私が戻った際、お姿が見えなかったのは……」
「あー……うん、それは本当にごめんなさい。盗み聞きしちゃった訳だし、部屋に帰ってくるの間に合わなくてお茶もお菓子も無駄にしちゃったし……でも証拠を押さえるチャンスだと思ったらつい、ね……」
――いや、でもお節介だったよね。ほんと申し訳ない。
苦笑いを浮かべて謝る主人の姿に、芦谷は再び言葉を失った。
お節介? まさか、そんなはずがない。
これは、本当に現実に起こっていることだろうか。そんなことさえ疑いそうになる。それくらい、ありえないことだと芦谷は思った。
四大貴族に名を連ねる方が、たった一人の従者のためにここまでするだろうか。貴重な時間を使って状況を探り、証拠を押さえ、そして夜にも関わらず屋敷を抜け出してまで見事に芦谷を守ってみせた。
そして、何より。
それだけのことをしておきながら、お節介だったかと謝罪をするだなんて。
「……お嬢様」
風に流され、より薄くなった雲を透かして漏れ出た月光が、その華奢な輪郭を浮かび上がらせる。
神秘的すら思える光景の中で、その方はあまりに人らしい表情をしていた。
「あー……やっぱり余計なお世話だった?」
「いえ、そうではありません」
心は決まった。
何をすべきかも、何を言うべきかも分かった。
もうどこも痛まない身体を動かし、そのお方の足元に跪く。深く深く、頭を下げる。
「ありがとうございました。そしてお手を煩わせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
え、とお嬢様が戸惑いの声を漏らす。
「本来は真っ先に謝罪し、感謝の意を表さなければならないところでしたが……それさえできなかった無礼をお許しください。申し訳ありませんでした」
「別に、構わないんだけど……ちょっと大げさじゃない? そんなに堅くならなくてもいいのに」
跪いたまま、顔を上げてお嬢様を見つめる。その声と同じく、その顔には戸惑いの感情がはっきりと表れていた。
「いいえ、そのようなことはございません」
大げさな訳がない。
あれだけのことをしてもらっておいて、一言目が謝罪でも感謝でもなかっただなんて。しかも相手は仕えるべき主である。
「お嬢様。この私、芦谷塵は――」
本来であれば、許されることではないのだ。だから、そのお詫びも兼ねて。
「――この命も忠誠も、全て貴女様へ捧げさせていただきたく存じます」
「えっ?! い、命!?」
「はい。それを、許してくださるのであれば」
「いやいや! 許すも何も、重いって! 何でそんな話になるの?!」
先程まであんなに凛としていた方が、自分の言葉ごときでこんなにも慌てふためいている。
今、この尸魂界において、こんなお嬢様を見られるのは自分だけなのだ。
「いいよ、そんなの。私がやりたくて勝手にやったことなんだから!」
「それでも、私は貴女に救われました。忠誠を誓うとすれば、もう貴女以外には考えられないのです」
「えぇ、そんな……堅苦しいんだよなぁ……」
それが妙に嬉しくて、けれどその喜びを表に出すのは不敬にあたると思い、必死に真顔を保ち続ける。
「うーん……じゃあ、そうだなぁ……」
うんうん唸って、どうやら答えはすぐに出たらしかった。
「命なんて、捧げなくていい。芦谷の命なんだから、使うなら芦谷のために使うべきだよ。その代わり、私のお願いを一つ聞いてよ」
「それは、構いませんが……」
「言ったね? 言質取ったよ」
さぁて、何を頼もうか……とお嬢様が腕を組む。
妙なお願いでなければいいが……とやけに楽しそうなお嬢様を見て思う。
しかし、そんな思いは一瞬にして砕け散ることとなる。
「そうだ! 私のこと『お嬢様』って呼ぶの、やめてくれない?」
「へっ?」
素っ頓狂な声を上げた芦谷に、良いことを思いついたと言わんばかりにお嬢様が笑う。先程の厳粛さとは対照的な、いたずらっぽい笑みだった。
「前に『私は私のままでいていい』って言ったのは芦谷でしょ? あれ、実は結構嬉しかったんだ。それなのに、そう言った本人が一番堅苦しいなんて」
「確かに言いましたが……それとこれとは、話が……」
「私はね、『朽木家のお嬢様』としてじゃなくて、『
ね、いいでしょ?
そう言って笑顔を向けられたのではたまらない。
芦谷は考えて、考えて、妥協点を探して……そしてようやく口を開いた。
「かしこまりました……桜花様」
過去話を挟むので、話が途切れ途切れです。お付き合いくださりありがとうございます。
次話からは原作に沿った話に戻りますので、ご安心ください!