暖かかった。
身体中が包み込まれるような。ゆったりと漂っているような。微かに揺らされているような。そんな、不思議な感覚。
何だろう、と半ば無意識に指先を動かす。抵抗はなかったけれど、いつもと違う動き方だった。いつもと違う、でも感じたことはある。そうだ、これは。
「おふろ……?」
いや、まさかそんな。お風呂って。脈絡なさすぎ。
自分で言って自分で否定しながら、私はうっすらとまぶたを開けた。
「……お風呂だ」
お風呂だった。というより、温泉か。
目の前にあるのは、湯気の立ち上る濁った液体。濁ってはいるけれど、決して汚れている訳ではない。いい匂いするし。そう、どこからどう見ても温泉。それも露天風呂。
この際、何故温泉に入っているかは気にしないことにしよう。そんなことよりもっと気にすべきことは、私に温泉に入った記憶がないことだ。
誰だ、私を風呂に入れた奴は。意識不明の人間を風呂に入れたら、どう考えても溺れ死ぬでしょうが。何考えてるんだ。
何だろう、考えてるとだんだん暑くなってきた。
「暑い……」
ぽつり、と呟く。
目が覚めるまでは心地よかったのに、目が覚めると暑くなるものなんだろうか。
私は湯の中でも服を着ていることを確認した上で、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がろうと、した。
「あれ」
湯の中から、身体を持ち上げることができない。力が入らなくて、立ち上がれない。
「丸一日寝てましたからね」
「そうか喜助さんか」
意識不明の私を、風呂に入れて放置したのはお前か。
確信を持って上を向くと、楽しげに私を見下ろす喜助さんと目が合った。暑いから出るの手伝ってよ、と両手を伸ばす。すぐに意図を感じ取った喜助さんは、軽々と私を温泉から引っ張り出してくれた。
「どうです? 身体の調子は」
手伝ってくれた礼を言うついでに、文句も言ってやろうと思っていた。けれど、差し出されたバスタオルと、気遣いの言葉によって、一度口をつぐむことになった。
身体の調子? 何の話だと思った瞬間、思い出したことがあったのだ。
東仙と戦ったこと。策は尽くしたものの、卍解まで出されてしまったこと。なす術なく殺されそうになったこと。"
そして、卍解を教えてもらったこと。
「……桜花?」
私の顔を覗き込む喜助さんの表情には、笑顔ながらもあからさまに心配が含まれていた。これまでは見過ごしていたそんな表情も、今の私はいちいち拾い上げてしまう。
あの喜助さんが、私を心配している。そこにあるのは打算などではないと、今の私には分かってしまう。
信じられない。ただ単純に、私のことを案じている。あの、喜助さんが。
「だ、大丈夫……うん、大丈夫だから」
妙に気恥ずかしくて、ふいと視線を逸らす。駄目だ、真っ直ぐ目が見られない。
「そんなことより、ルキアの処刑は? 今どういう状況?」
「……桜花を連れ帰ってから丸一日なんで、まだまだ大丈夫っス。そんなことより」
ぐ、と顔がこちらに近づく。
やめて、目見られないからやめて。
「何か、あったんスか?」
「い、いいいいや? いや? 何もないけど? 身体はまぁちょっと怠いかなってくらいで、痛いとこはそんなにないし? うん」
「何かあったんスね」
バレてる。
これもう駄目なパターンかも。
ここに至るまで喜助さんの心配の言葉をスルーし続け、その上で散々無茶をして、あんな死ぬギリギリみたいな怪我をした。そして喜助さんは、死にかけた私を回収してくれた訳だ。
もう私の「大丈夫」の信頼度は、地に落ちたと言っても過言ではない。だからきっと、誤魔化しきれない。
あぁでも、言いたくないなぁ。だってこれは、あまりにも恥ずかしい。こんなのバラしたら、絶対からかわれる。
「とりあえず、服着替えましょ。話はそれからっス」
「……ハイ」
タイムリミットは、服を着替えるまで。それまでに上手い言い訳を考えておかないと私が死ぬ。恥ずか死ぬ。
しかし、そんな言い訳がすぐに思いつくはずもなく。着替え終わった途端、喜助さんの追及は再開してしまった。
「もうこうなったら逃げ切れないの、知ってるでしょう? さっさと吐いた方が身のためっスよ」
「えっ、と……」
よし、仕方ない。
腹、くくるか。
「その、恥ずかしくて」
「へ?」
「いろいろあって、気づいたんだ。私を心配してくれる人、っていうか……私を、その……大切だって、好きだって、思ってくれる人が……けっこういるんだってこと」
「…………」
「自意識過剰かなって、思ったんだけど。多分そうじゃないから、何ていうか……恥ずかしくなってきちゃって……」
喜助さんは何も言わない。
いや、やめて。せめて何か言って。こんなふうにまじまじ見つめられるくらいなら、馬鹿にして笑ってくれた方がまだマシだ。
「今更っスね」
「え?」
「朽木隊長に何か言われたか、昔の知り合いに何か言われたか、斬魄刀に何か言われたか」
「えっ、えっ?」
「いずれにせよ……そうなってくると俄然、夜一サンや黒崎サンに会わせたくなってきますね」
ニタァ、と喜助さんが笑った。
あっやばい。話を逸らそう。そうしよう。
「き、喜助さんも来てるって、一護は知らないんじゃないの?」
「もう知ってますよ」
「いいの?」
意外な言葉を聞いて、恥ずかしさを一瞬忘れた私は首を傾げた。
知られても大丈夫なの? あれだけ徹底して、敵を騙すならまずは味方から、を実践していたのに。
「ハイ。桜花をここ連れてきた時点で、ボクの存在は敵に知られたと思って間違いないでしょうし」
「知られたって、何でそうなるの?」
「でも、ボクが裏でやりたかったことは全て終わってるんで、仮に黒崎サンの口から漏れたとしても問題ないんス」
「あれ、聞いてる?」
「誤魔化しとるんじゃ。お主を助けるために、随分と必死だったそうじゃからな」
「ちょ、夜一サン!?」
「元気そうじゃの、桜花」
「あ、夜一さん」
にやにやしながら口を挟んできたのは夜一さんだった。珍しく、人間の姿の。
「ねぇ、そんなに必死だったの喜助さん。私に?」
にやにや、にやにや。夜一さんと並んで、喜助さんを眺める。恥ずかしいのは、何だかもう通り過ぎてしまったらしい。開き直り、とも言う。
「そっかぁ。そうだよね、うんうん」
仕返しだ、仕返し。別に喜助さんが何かした訳じゃないけど。
恥ずかしさがなくなった後に残ったのは、純粋な嬉しさだった。
喜助さんだけじゃない。今こうして一緒ににやにやしている夜一さんだって、私を心配してくれていたはずなのだ。こんなの、にやにやせずにいられるはずもない。
「……いいから話を進めて下さい」
苦虫を噛み潰したような顔で、喜助が言った。それを心から楽しそうに見ていた夜一さんが、話し始めた。
「おかしいとは、思わなかったか」
「何が?」
「隊長格があれだけ派手に戦っておいて、敵の
「あー、確かに」
恐らく、私と東仙の戦いそのものを、藍染は"鏡花水月"の力で隠していた。だからどんなに音を立てようとも、東仙が卍解しようとも、私の死体を放置しようとも、他の死神がそれに気づくことはなかった。
にも関わらず、その戦いの直後に喜助さんが姿を現した。喜助さんは"鏡花水月"の餌食になっているはずなのに、何の迷いもなく私の所へ向かっていた。そこに違和感を感じた藍染が、"鏡花水月"を一部解除したのではないか。
というのが喜助さんと夜一さんの見解らしい。
「いろいろと世話になりました……」
「全く一護といい桜花といい、何故そう無茶をするんじゃ」
「一護はともかく、私のは不可抗力だから」
そんなことより一護は? と訊ねる。夜一さんが指さした先からは、何かが衝突したような音がひっきりなしに聞こえてくる。遠すぎて、その姿まではよく見えないが。
何やら騒がしいなとは思っていたけど、やっぱり一護だったか。相変わらず元気だなぁ、けっこう重傷だったろうに。
そんな一護の様子を見に行くと言って、夜一さんは私たちから離れていった。残された私は軽く柔軟運動をしながら、喜助さんと話を続ける。
「黒崎サンもですが、傷は桜花の方が深かったんスよ」
「傷ねぇ……」
そういえば私、心臓を突き刺されたような。
よく生きてたな。普通は死ぬでしょ。
そう言うと喜助さんは、卍解のおかげだろうとこともなげに答えた。どうして話してもいない私の卍解のことを、喜助さんが知っているのだろうか。
「覚えてないんスか? あんなに嬉しそうに報告してくれたのに」
「う、嬉しそうに……」
形勢逆転。喜助さんがにやりと笑う。
これは恥ずかしい。覚えてないってのが余計にしんどい。嬉しそうに卍解できたよって報告した? もういっそ知らないままの方がよかったよ。
「恐らくですが、全てのものを透過する能力なんでしょう。最初、ボクも触れませんでしたし」
「へぇ」
どうやら私は、その能力で窮地を脱したらしい。確かに卍解の名前は教えてもらったが、その能力の詳細までは知らないままだ。それでも私は無意識下で能力を使いこなして、致命傷を避けた。私がすごいのか、それとも”雲透”が頑張ってくれたのか。恐らく後者だろう。
「ぼく、説明したはずなんだけどなぁ」
「うそぉ、覚えてないけど」
横から聞こえてきた少年の声に、何気なく応える。誰か、なんて今更言われずとも分かる。これは私の斬魄刀の――
「"雲透"!? 何で? え?」
「きみさ、具象化って言葉知ってる?」
「知……ってるけど、何で……」
「馬鹿なのかな」
「あ、そうか。卍解したんだった」
「馬鹿だったね」
酷い言いようだ。具象化しても、その容赦のなさは変わらなかったらしい。
私と同じ髪型をした少年が、私よりずっと低い位置から不満げに私を見上げている。
私はその頭に手を乗せて、そして喜助さんの方を向いた。喜助さんは、私達の姿を微笑ましそうな顔で眺めていた。
「卍解、少しでも鍛えてくるね」
「ハイ」
「喜助さん、助けに来てくれてありがとう」
「……ハイ」
その返事が少し遅れていたことの意味に、私は気づかなかったふりをした。
次も半分以上できているので、しばしお待ちを。