本当に怖いのは。
パチ、と雷の最後の残滓が弾けた。
先程まで激しい電撃を発していた刀も、その持ち主も沈黙して、後に残ったのは白金に輝く刀を握った私だけであった。
私の卍解の前で油断を見せるだなんて、倒してくれと言っているようなものだというのに。
「すみませんね」
聴こえるはずもないと分かっていながら、私は小さく呟いた。それは目の前で倒れ伏している雀部副隊長だけではなく、先に気絶させた三人の副隊長たちに対してでもあった。
「でも」
始解で読み取った能力も、卍解で利用した能力も、全てが私の糧になる。
「お陰で、私はまた強くなれる」
◇ ◇ ◇
私が戦いに勝って一安心した、その時だった。
双極の丘に、化け物が襲来した。
「もう良いよ、ギン」
優しげな声色なのに、その言葉を聞くだけで悪寒が走る。それはその声に、その声の持ち主に、恐怖の記憶を植えつけられてしまっているからであった。
しかし一瞬身体が硬直してしまった私と違って、一護や海燕さんはすぐにその声に反応してみせた。
「ルキア!!」
「藍染隊長?! 何故あなたが……それに、どうして朽木を……?」
一護の呼び声でようやく身体の動いた私は、戸惑ったように問いかける海燕さんの言葉を聞きながら、振り返ってそちらを見た。
「二人とも、随分と手酷くやられたものだね」
「無茶言わんといて下さい。ボクも東仙隊長も、隊長格二人を相手せなあかんかったんやから」
「申し訳ありません……」
「良いんだ、君たちを責めている訳じゃないからね」
海燕さんの呼びかけを含む一切を無視して、三人の隊長は話し続けていた。一護たちと戦っていたはずの市丸ギンも、いつの間にか藍染の側に戻っていた。
「藍染、惣右介……!」
「また君か」
思わず、その名を口にする。
眼鏡の奥の、深く沈み込んでしまいそうな
「私は一度、君に忠告したはずだ。これ以上は手を出すなと」
そう言った藍染は、左腕で人を掴んでいた。
アイツがここに現れて、その姿を見た時から私も理解していた。胸倉を掴み上げられたその人が、朽木ルキアであるということを。
「……父様と、恋次は?」
分かっていた。
藍染を相手にして勝てる死神なんて、そういないということも。隊長格が何人束になって掛かろうとも、"鏡花水月"の支配下にいる以上は藍染に勝てるはずがないということも。
「済まぬ、桜花……済まぬ……」
ルキアのか細い声が聞こえた。泣いている。ルキアが、泣きながら侘びている。
「決まっているだろう?」
あぁ、そうだ。分かっていた。
この状況で、藍染がルキア一人を連れて現れた。それはつまりルキアを護衛していた死神が、ルキアを守れない状態に陥ってしまっているということを意味するのだ。
だから、きっと。藍染は彼らを。
「殺してきたよ」
カラン、と軽い音がした。
こういった状況には、慣れたつもりでいた。
大丈夫だと自らに言い聞かせることも、過剰に反応して激昂したり絶望したりすることも、もう断じてしない。それに、そもそも最初からこうなる可能性は頭の隅にあったのだ。
だから、私は。
「
だからせめて、と藍染は嗤う。
「彼が死んだ時は、君に遺してやるべきだろう?」
君が死んだ時。そんなインパクトの大きい台詞に気を取られて、思わず私は見てしまった。
先程、軽く音を立てて地面に落ちた、それを。
名前は確か、そう。
「
高位貴族にのみ着用を許された、純白の髪留めだ。その白が今、朱にまみれて土の上に転がっている。
「父、様……?」
心が、暗く暗く塗り潰されていく。
気に食わない。
この状況も、この感情も、何もかも。
「桜花っ!!」
藍染が敵だと理解した一護が、慌てたように私の名を呼ぶ。一護が焦っているのは、私が剣を腰に収めたまま、無防備に藍染に歩み寄り始めたからだ。
藍染たちは、そんな私を興味深そうに眺めている。彼らからは殺意どころか、敵意さえ感じられない。今の私はきっと、敵とすら認識されていないのだろう。
私が辿り着いたのは藍染惣右介の目の前、地面にある牽星箝の所だった。縋りつくように、それを手に取る。間違いない、これは父様のものだ。
私はそれをそっと懐にしまった。そして、立ち上がる。
藍染に対する恐怖は、もう何処にもなかった。
「つくづく、哀れな一族だ」
私は、黙って斬魄刀を抜いた。敵対する相手が目の前にいるにしてはあまりに遅すぎる挙動を見て、藍染惣右介が愉しげに問うた。こちらは必死で平静を保っているというのに、コイツはそれを嘲笑うかのように言葉を重ねてくる。
「仇討ちほど、己の格を下げる行為はないというのに」
あぁ、気に食わない。
「それでも君は、惨めに足掻くのか」
どうして私が、皆が、ここまでコイツに好き放題にされなければならないのか。どうして私が必死ですくい上げようとするものを、一つ一つ壊そうとしてくるのか。
――どうして私は、こんな奴に振り回されてしまうほどに弱いのだろうか。
そんな怒りも、殺意も敵意も存在感も、斬魄刀の霊力は全てを覆い尽くす。私は、藍染の問いに応えることなく口を開いた。
「卍解」
本来はもう少し後に使うはずだった、卍解。
私はそれを、幾分か前倒して実行した。
――まぁ、今やっちゃっても大丈夫だよね。
頭の中に辛うじて残った、冷静な部分がそう言って微笑った。
「"
その瞬間、私はこの世界から消えた。
私の姿、私の霊圧、私の発する音。
消えたのは、そんな生温いものではない。
私が消したのは、私自身だ。私自身が、その世界に存在するという事実そのものだ。
今この瞬間より、この世界の住人たちの意識から『私』という存在が消えて無くなった。
他でもない、私自身の力によって。
「――"
何とも分かりやすく、短絡的な名前だ。私はこういうの、嫌いじゃないけれど。
「"
私は難なく藍染に近づいて、難なくその身体を両断した。ついでに、市丸ギンの身体も。今の私の身体や刀には実体がないため、彼らに傷を負わせることはできない。しかし彼らの情報は、しっかりと私の中に入ってきている。
「……あぁ、なるほど。そういうことだったんだね」
情報戦は、間違いなく私たちの勝ちだ。
これで、藍染惣右介も市丸ギンも東仙要も、全員の情報が全て私のものになった。これだけの情報があれば、今後の戦いを有利に進められること間違いなしだ。
「次は私が、振り回してやる」
ここからはさらに、漫画から離れた展開になるだろう。だからこそ私は、どんなことであっても自分の目で見るまでは信じない。誰が何と言おうと、絶対に信じない。
父様と恋次は生きている。もう誰も死なせない。そのために私がいる。そのために、私と喜助さんの計画がある。
一々心を乱していては、そのせっかくの計画も根回しも台無しになってしまう。私という存在そのものを消せるのなら、私のこの感情一つを消すくらい訳ないに決まっているだろう?
だから、腹立たしく思う時こそ心穏やかに。悲しみに沈みそうな時こそ、冷静に。
「"
相手の能力を一つ選んで、それを天秤に乗せる。片方は相手の能力を、そしてもう片方の皿には私自身の能力を。すると当然、秤は片方に傾いてしまう。私はそれを、卍解した刀身で貫くことで強制的に
上は、私か敵かのどちらかの能力の高い方の値から。下は、現世の常人に匹敵する程度の値まで。
霊圧そのものや斬魄刀の能力など、変えることのできないものはある。しかし斬拳走鬼の技術にまつわる大抵のことであれば、均一化することができる。
私はその技で、藍染惣右介と私自身の『鬼道の出力技術』を奪ったのだ。
鬼道の出力が一般人レベルに下がるということはつまり、鬼道全般の威力が大幅に落ちるということを意味する。しかし、相手は藍染惣右介だ。どんなに出力量を減らそうと、あの圧倒的な霊圧で捻り出せば何が起こるか分からない。それでも、多少の抑制にはなるだろう。
「ルキア!!」
私のことを忘れた一護が、ルキアを救わんと藍染に斬りかかった。
普通の死神であれば、とりあえずは斬魄刀を抜くだろう。でなければ、あの勢いの斬撃を受け止めることなどできないからだ。
しかし幸いなことに、藍染惣右介はその『普通』に当てはまらない。
「"破道の――」
鬼道を撃たれる。
そう気づいたものの、私はさして慌てることもなかった。今の藍染の鬼道は、普段のそれより大幅に威力を落としているからだ。
また、私が落ち着いていられた理由はもう一つあった。藍染が術名を唱え終わるより先に、戦いに割って入る声があったからだった。
「"縛道の八十一・
放たれた漆黒の鬼道を閉じ込めるように、半透明の壁が五枚出現した。それらは一護や海燕さんなどの味方全員を自体を囲うように箱状に並んで、藍染の鬼道を完全に防ぎきった。
「流石だな、浦原喜助」
術の使用者は元十二番隊隊長、浦原喜助。
これまで姿さえ見せなかった喜助さんが、今に至ってようやく動き出したのだ。
「少し威力が落ちてしまっていたが……それでも私の"黒棺"を、"断空"で防ぐとは」
「いえ。ただ改良しただけっスよ」
八十一番という高難易度な縛道を、詠唱破棄で同時に五枚展開。その上で、本来の"断空"では防げないはずの九十番の破道を抑え込むくらいに、濃密な霊圧を一枚一枚の"断空"に込めている。
ここまでくると、ただの改良というより魔改造だ。もう別の縛道と称しても良いくらいだろう。
そして鬼道の威力を抑えられているにも関わらず、平気で"黒棺"を撃った藍染も化け物だ。漫画で使っていた"黒棺"は通常の三分の一の威力だとか言っていた気がするが、あれで三分の一なら今回のは十分の一くらいなのだろう。
もし本来の強さで放たれていれば、いくら喜助さんとはいえ"断空"だけでは防ぎきれなかったことだろう。やっぱり化け物だ。莫大な霊圧による力技で、ここまでやってしまうのだから。
私なんてここまで出力を下げたら、一桁台の鬼道しか撃てなくなってしまうのに。
それに鬼道がうまく撃てないことを、あまり気にしていないのも驚異的だった。いつもはできることができなければ、誰しも少しは焦るものだ。やっぱり藍染は、普通じゃなかったようだ。
「君が出てくるということは、やはり
それ、のところで藍染が目を遣ったのは、一護の側に座り込むルキアだった。「その通り」だなんてそのまま言う訳にもいかない喜助さんは、感情も意図も帽子の陰にひた隠し、藍染をじっと見つめていた。そして、勿体ぶるように口を開いた。
「……どうやらもう、判ってるみたいっスね」
当然ながら、今の喜助さんの意識に『
となれば余程のことがない限り、私はこのまま消えていれば良いということになる。何故なら「ルキアの中の崩玉を藍染に奪われる」という
以降は、藍染惣右介の独壇場だった。
喜助さんを始めとしたこちら側の死神は、必死でルキアを奪い返そうとした。しかし、"鏡花水月"を自在に操る藍染に勝てるはずもない。すぐに催眠を掛けられて、同士討ちし始めてしまった。
やがて他の場所で戦っていた死神たちも次々と集い、処刑場だったこの丘は混沌とした戦場と化してしまった。
副隊長から総隊長に至るまで、大勢の隊長格があちこちで戦っている。喜助さんも、夜一さんも。皆が皆、乱心したかのように攻撃し合っている。これではまるで、地獄絵図だ。誰も救われない、誰も助からない泥仕合だ。
「待てよ……あんたら、何やってんだ……!!」
そんな中で、"鏡花水月"の影響下にない一護が絞り出すように言った。呆然と立ち尽くすその姿は、親とはぐれた迷い子のようであった。
「味方だろ?! なのに、どうして……!」
味方同士が突然、目の前で刃を交える。どんなに叫ぼうとも、誰にも声が届かない。この状況は、一護からすると恐怖でしかないだろう。
この中で"鏡花水月"を免れているのは、私と一護だけ。あんな中に一人取り残されるだなんて、しばらく夢に出そうな恐ろしさだ。だからできることなら私も側にいて、事情を説明してあげたかった。
けれど、私はそうしなかった。
「止めろ! ルキアを離せ!!」
混沌の中でルキアを奪われ、さらに市丸ギンの刃に貫かれた一護が叫ぶ。私は唇を噛んで、悲鳴のようなその叫びを聞き流した。駄目だ、感情に流されるな。
先程藍染にも使った"狂雲"という技で、味方同士の戦闘において優勢な方の能力を削ぐ。戦場のあちこちでそれを実施して回りながら、重傷人を出さないよう気を配る。その上で一護のフォローまでやるほど、私は器用ではないから。
だから。生命力の高い一護が死にかけるか、もしくは藍染がルキアを殺して崩玉を取り出そうとしない限り、私はこの戦いに手を出さないのだ。
そこからは、詳細は違えど大まかな流れは
ルキアを奪われた一護が
それでもルキアを奪い返せなくて、結局は藍染の手に落ちてしまう。
"鏡花水月"を敢えて解除して、死神たち全員に見せつけるようにルキアの胸元を貫く。
そこから崩玉を取り出して、無傷のルキアがその足元に倒れ込む。
唯一違う点は、藍染が用なしとなったルキアを殺そうとしなかったことであった。理由はよく分からないが、そのお陰で私は卍解を解除せずに済んだ。
「最初から誰も、天に立ってなどいない。君も僕も、神すらも」
崩玉を奪い、自らの悪事を一通り喋り終わった時。空から降ってきた光の柱、
地に堕ちたかと問うた浮竹隊長に、藍染は酷く冷たい目で応える。
「だがその耐え難い天の座の空白も終わる。これからは――」
パリン、と眼鏡を握り潰す。
いつもの私なら「有名なシーンだ」と面白がっていたことだろう。しかし当事者としてこの場にいる身としては、面白がる要素は何一つ存在していなかった。
「私が天に立つ」
この敵が気に食わないという怒り。
やっとこの戦いが終わるという安堵。
安否不明な人がいることへの焦燥。
言い表せないほど複雑な思いを抱えたまま、ただ空を仰ぐことしかできなかった。三人が尸魂界から去ってしまう、その瞬間まで。
◆ ◆ ◆
何故、今の今まで忘れていたのだろうか。
一護がふと我に返って最初に思ったのは、そんな疑問だった。それは傷の痛みも一瞬忘れるほどの、強烈な違和感だった。
藍染惣右介が空間の裂け目に消えて、敵意の消えた丘に、不意に一人の死神が現れた。名前は、浦原桜花。どうやら本名は朽木桜花というらしいが、そのようなことは一護にとってどうでも良いことだった。
小学一年生からの幼馴染で、クラスが違う年も週に二度は顔を合わせていた。一護とその母親を命を懸けて護ってくれた。大事なのは、そういったことだ。
しかし、である。それにも関わらず、一護はその存在を今の今まで忘れていたのだ。
どのタイミングから忘れていたのかは分からない。しかし気づけば彼女の存在は一護の中から消えていて、彼女がいないことを前提に物事を考えて動いていた。
そしてそれは一護だけに限らず、彼女の保護者たる浦原さんや夜一さんも、叔母であるルキアも、敵である藍染も、その他の死神たちも、まるで彼女が最初から存在していなかったかのように振る舞っていたのだ。
「……、……」
「…………?」
浦原さんと桜花が、少し離れた所で話している。話の内容までは聞き取れないが、何やら桜花が驚いているようだった。
驚くのはこっちだっての、と心の中で愚痴る。この異様な体験は、恐らく桜花の手によるものなのだろう。浦原さんと桜花の落ち着きようからして間違いない。後でしっかりと説明してもらわなければ、と怪我の痛みに耐えながら一護は思った。
頭は回れど、身体を動かす気力も体力も残っていなかった。そのため一護は横たわったまま、その二人を見ていた。
「なっ……?!」
だからその時、一護は動けなかったのだ。
浦原さんの刀が、桜花の胸を貫いた――その、瞬間に。