藍染は去った。
"鏡花水月"による完全催眠も、既に解除されていることだろう。
「終わっ、た……?」
大きな大きなため息をついて、私は卍解を解除した。これで皆、また私のことを認識できるようになるだろう。
父様は、恋次は、無事だろうか。早く確認しなければ。
一護も傷が深いから、早く治療してやらなければ。
ルキアは、大丈夫だろうか。確認できたら父様と恋次の居場所を訊かなければ。
喜助さんと夜一さんは、心配いらないだろう。しかしそれでも、この目で無事は確認しなければ。
あぁ、そういえば。皆さんに私の卍解のことを説明する必要もある。不可抗力だったとはいえ、敵味方関係なく"狭霧"を行使しまくって、ほぼ全ての隊長格の能力を知ってしまっているのだから。
「……どうしよ」
やらなければならないことが、あまりに多すぎる。新たに得た死神たちの莫大な情報と、心配で心配で仕方ないという感情と、多くの人々の負傷を見ながらも手を出せなかった悔恨と、やらなければならない物事と。
たくさんのことが複雑に絡まり合って、頭が爆発しそうだ。
私は途方に暮れて、片手で目元を覆った。駄目だ、こんなことをしている場合じゃない。まずは父様と恋次だ。二人が生きていることを、確かめなければ。でも二人の霊圧はうまく感じ取れないから、居場所が分からない。だからルキアに訊いて、それから。
「もう、充分っスよ」
よく知っている声が、私の思考の渦を断ち切った。私は俯いたまま言葉を返す。
「でも、父様が――」
「大丈夫。朽木隊長たちは、生きてます」
「えっ?」
ハッとして、顔を上げる。
悪戯が成功した少年のような、そんな笑みを浮かべた喜助さんが、そこにいた。
「ここに来るまでに、ボクが応急処置してきたんで」
「そっ、か……」
そっか。生きてるのか。二人とも、無事で。
この人は、こういう嘘は吐かない人だ。だからこれは、本当のことだ。
父様は、恋次は、生きている。
「……まぁ、崩玉は奪われちゃったんだけどね」
早くも歪み始めた視界を誤魔化すように、苦笑しながら口を開く。表面上、この戦いは護廷十三隊の負けだ。それも含めて、作戦ではあるのだけれど。
「その件についてですが」
「うん」
「崩玉は、奪われていませんよ」
「…………え?」
涙が引っ込んだ。
奪われてない? え?
「……待って。待って待って」
奪われてない、の意味が分からない。
思いっきり奪われてたじゃん。ルキアから引っ張り出してさ。
「もしかして喜助さん……まだ完全催眠されてる?」
「まさかぁ」
「でも崩玉が奪われるところ、見てたでしょ」
「えぇ、もちろん」
「……ねぇ、ボケた?」
「失礼な、まだそんな歳じゃないっスよ」
それは、実年齢数百歳を超えてる人が言う台詞じゃない。
まぁ状況は最適っスね、だなんて呟いて、喜助さんはぐるりと周囲を見渡した。つられて私も周りを見て、隊長格たちの視線を一身に集めていることに今更気づく。
「……ねぇ、めちゃくちゃ見られてるんだけど」
「そりゃ見るでしょう。あんな過激な技を見せられたら」
それは、姿や存在を消す"花霞"のことを指しているのだろうか。そう訊くと、喜助さんは迷いなく頷いて続けた。
「問題はその技っスよ」
"花霞"の何が問題なんだ。確かにズルい能力ではあるけれど、過激だなんて評されるほど酷いものではない。自ら消えてしまうのだから、むしろ派手で威力の高い斬魄刀の技より大人しいと言っても良いくらいだ。
「ボクはてっきり、姿や霊圧を隠す程度のものだと思ってたんスけどね。……まさか、存在そのものをなかったことにする能力だとは」
そう説明したつもりだったんだけどなぁ。
というか、姿や霊圧を隠すのも存在をなかったことにするのも、そう大きな違いはないだろうに。
返答は次々に浮かんできたけれど、口を挟むことはできなかった。喜助さんが直後、あまりに衝撃的なことを口走ったからだ。
「それにしても良い能力、かつ良いタイミングで隠れてくれたもんだ。流石は
……崩玉?
この人今、崩玉って言った?
「もう察しはついてるとは思いますが……朽木ルキアサンの中にあった崩玉は、偽物っス」
「…………」
困惑も行き過ぎると、人の口を塞いでしまうものらしい。
ただでさえ処理しきれない量の個人情報に押し潰されそうになっている現状で、さらに「ルキアの中の崩玉は偽物だ」だなんて飲み込めきれるはずもない。
しかし、甚平姿の元死神は更に話を進める。何も言わない私を見て、「話にちゃんとついてきている」と捉えたのだろう。詐欺師のような不気味な笑みを浮かべたその男は、立ち尽くす私に歩み寄った。
その手にはいつの間にか、仕込み杖から抜いた斬魄刀があった。始解前ながら"紅姫"の特徴を残した、真っ直ぐな刀が鈍く光る。
「本物は、此処に」
私も、夜一さんも、一護も、護廷十三隊の死神たちも。誰一人として止められる者はいなかった。
――私の胸を、"紅姫"が貫くのを。
「喜助……!?」
喜助さんの肩越しに、夜一さんがものすごい目でこちらを見つめていた。
「桜花っ!!」
背後から、一護とルキアの声が聞こえた。二人とも、私の名を叫んでいた。
隊長格の死神たちも、私と喜助さんを穴が空きそうなほどに凝視していた。
そんな光景が、克明に見えた。
「なん、で……」
不意に身体から力が抜けて、立っていられなくなった。それをそっと受け止めた喜助さんに、絞り出した声で問い掛ける。
その返事の代わりに刀を引き抜かれて、私は全ての答えを悟った。
「あ……」
来るはずの痛みが来なかったから。
私の背後から、質量のある物体が落下する音が聞こえたから。
そして何より。
「そっ、か……」
喜助さんが、私の背後の地面から拾い上げたのは、一つの黒い球体のようなものだった。
私は『これ』が何だかよく理解している。
「後はボクに任せて、ゆっくり休んで下さい」
にっこり微笑ったその顔からは、先程までの陰気な表情は消え失せていた。
何故、と訊きたいことは山のようにあった。
けれど今は、眠たくて仕方がなかった。
強制的に狭まっていく視界の中で、私の心を占めていたのは安堵だった。それは己を刺し貫かれた直後に抱くには、あまりに違和感のある感情だった。
◇ ◇ ◇
部屋には、誰もいなかった。
私を、除いて。
日光の差し込む窓は開け放たれ、やんわり吹き込む風が薄手のカーテンを揺らす。陽は当たっていないのに、ずっと日向にいるような。そんな温もりに満ちた病室の中に、私は横たわっていた。
「んー……」
寝転んだまま大きく伸びをして、天井を眺める。来たことのない部屋だ。恐らく私は喜助さんにまんまとしてやられた後に、この部屋に連れてこられたのだろう。
しかし喜助さんに刺された時は、本当に驚いた。
敵対するはずのない人から攻撃された、確かにその理由もある。けれどそれ以上に大きかったのは、私の中に本物の崩玉が埋め込まれていたことだった。
いつの間に仕込んだんだろうとか、どうして私にまで黙っていたのかとか。思うところはたくさんあるけれど、その中で一貫しているのは喜助さんに対する怒りだった。
共犯者だって言ったのに。私には、全部話してくれたって良いのに。……駄目だ、考えてたら余計に腹が立ってきた。
次会ったら絶対に飛び蹴りしてやろうと心に決めて、私はベッドの上で身体を起こした。
思ったよりすんなり起き上がれて、身体に残っているはずの傷が消え失せていることにようやく気づく。この霊圧の感じは、織姫かな。後で礼を言っておかないと。
着物の襟をめくると、東仙につけられた左胸の刀傷も綺麗に消えてしまっていた。そうだ。今思えばこれもおかしな話だったのだ。
東仙に左胸を刺されて、その刃が心臓に達する直前に、私は
そんなに偶然が立て続くことなんて、あり得るのだろうか。
他にも、朽木家で藍染惣右介の霊圧に当てられた時もそうだった。
あの藍染が。無表情の父様の感情を読み取って、ストーカー行為に及ぶほどには警戒心の高い藍染が、あの場面であんな慢心をするはずがない。それなのに、あの場では
そんな奇跡が、あのような絶妙なタイミングで起こり得るだろうか。
偶然も奇跡も、時に起こることがあるから偶然であり奇跡と呼ばれる。しかし滅多に起こらないからこそ、人はそれを偶然や奇跡と呼ぶのだ。
間違っても、連続して起こったりはしないものなのだ、こういうのは。
そして、もし。
もしこれらの偶然と奇跡が、崩玉の力によるものだとしたら。それは途端に『必然』に名前を変えるのだ。
「父様は……上のフロアか」
私はそこで、崩玉について考えるのを止めた。今は、そんなことより優先したいことがある。
白装束のままベッドから出ると、サイドテーブルに畳んであった死覇装を身に着けていく。そうしながらも辺りの霊圧を探って、私は父様のいる部屋を見つけ出した。それから帯を締め、ベッドに立て掛けられていた"雲透"を腰に差せば完成だ。
それにしても、この部屋に誰もいなかったことに違和感があった。今まで目が覚めて誰もいなかったことなんて、一度だってなかったというのに。
「あぁ、そっか」
それが逆におかしかったのだと、今更ながらに気づいて苦笑する。これまで私は随分と、周囲の人々に気を遣ってもらっていたようだ。
身支度を終えた私は、最後に寝ていたベッドを整えて、病室を後にしたのだった。
今週から毎週月曜日のAM5:00に更新していきます。
ストックは基本できない人間なので、いつまで続けられるかは分かりませんが……頑張ります。