今年の梅雨入りは、例年よりも数日遅かった。
ジメジメと湿った空気と共にやってきた大雨は、毎日のように地を濡らし、川の水位を上昇させ続けている。それはまるで、これまでの遅れを必死に取り戻そうとしているかのようだった。
私も、それくらい必死にならなきゃいけないのかなぁ。
でも、と心の中で呟く。
必死になったとして、私はどうするべきなんだろう。
私は一体、どうしたいんだろう?
◇ ◇ ◇
小学校からの帰り道。
雨の中傘をさして隣を歩くのは、入学式に知り合った黒崎一護と、二年生の時に一護を通して知り合った有沢竜貴の二人だ。
家の方向がだいたい一緒だったのは偶然なのか、元々そういう設定だっただけなのか。分からないけれど、とにかく学校から一番近いのが竜貴の家で、次に一護の家、一番遠いのが私の家だった。
「ねぇ桜花聞いてよ。一護ってば五年も空手やってんのに、あたしに一回だって勝ったことないんだよ? 弱すぎでしょ」
「うるさいな! 今度はぜってーオレが勝つからいいんだよ!」
「ハイハイ、ガンバッテネーイチゴ」
「何だよその言い方は!」
ニヤニヤしながら一護をからかう竜貴に便乗してやると、一護は面白いくらいにふてくされてしまった。もちろん、そんな一護をフォローするのも忘れない。
「まぁ竜貴はちょっと化け物だからね、勝てなくても気にしなくて良いんじゃない? 勝っちゃったら化け物を超える何かになっちゃうよ」
「えぇ……それはちょっとなぁ……」
「おい、化け物って何だ」
「褒め言葉だよ、褒め言葉。化け物級に馬鹿強いってこと。だって竜貴、こないだけっこう強い男子中学生に勝ったんでしょ?」
「そりゃまぁ、勝ったけどさ……」
「すごいよ、本当」
どこの世界に男子中学生に勝てる小学三年生女子がいるんだよ。パワーバランスおかしいでしょ。普通に考えて勝てる訳がないでしょ。
でも、そこを勝ってしまうのが竜貴。つまり良い意味で化け物。大学生くらいになれば、
「桜花もやらない? 空手。楽しいよ」
「や、私はいいや。運動嫌いだし」
「前から思ってたけど、桜花ってもうちょっと身体動かした方がいいんじゃない?」
「……うん、まぁ分かってるんだけどねぇ」
運動、してるんだけどね?
毎日10キロ近く走ってるし、鉄裁さんと鬼道の撃ち合いをして走り回ってるし……あれ、走ってばっかりだな私。
というか、これでは竜貴より私の方が化け物なのでは……?
……ともかく、これらの運動で身につけた運動神経を体育の授業で間違って発揮してしまうと困るから、私は学校では運動嫌いの運動音痴で通すことにしているんだ。
演技は昔から得意だけど、避けられる危険性は避けておいた方が良いに決まっている。その方が将来的に運動部や地域のスポーツクラブに誘われずに済むし、そういうのに参加しなければ間違って運動能力を発揮してしまうという事故も起こりにくくなるし。
「そういや一護は明日道場来るの?」
今日のところは私に運動を勧めるのを諦めたらしく、竜貴が一護に訊ねる。
「当たり前だろ! 明日こそお前を負かしてやるよ」
「ホントに? 楽しみにしてるよ」
一護の言葉を聞いて、竜貴は好戦的に笑った。
そこで分かれ道に差し掛かって、私は一護と竜貴と別れた。じゃあね、と手を振った二人は騒がしく話しながら、私とは別の道に歩いて行った。
雨は、私が一人になろうがなるまいが、その勢いを衰えさせることなく降り続ける。その中を、青色の傘をくるくる回しながら歩く。
ゴポゴポと音を立てて流れる排水溝から少しだけ水が溢れ出ていて、この分だと川はずいぶん増水しているんだろうな……と他人事のように思う。
いや……実際、川の増水なんて他人事でしかない。
それとも、
そう、私はまだ、これを他人事にするか他人事にしないか決め兼ねている。
今日の日付は、六月十六日。
黒崎一護の母親が亡くなるまで、あと二十四時間と少し。
◇ ◇ ◇
できるだけ、考えないようにしていた。
入学式で初めて真咲さんに会って向こう一年ほどは、虚に襲われたり修行を始めたり……とにかく集中することが他にあったから、そのことを考えずに済んでいたのもあった。
でもそれも、いずれ限界が来てしまうのは当然のことで。
私は、小学三年生になった。
もちろん一護も小学三年生になった。一護の一人称が『ぼく』から『オレ』に変わったことに気づいた時は、まるで自分の弟の成長を見守っているかのように微笑ましく感じて――そして、気がついた。
私の中で、一護の存在が大きくなってしまっていることに。
あの子の母親を
喜助さんにも夜一さんにも鉄裁さんにも言えないことだけれど、原作通りに事を進めたければ、真咲さんも原作通りに死んだ方が何事も上手くいく……これは事実だった。
一護があれだけ誰かを護ろうと必死に戦えるのは、過去に一度大事な人を失って、その苦しみを知ってしまっているから。もし誰も失ったことがなければ、あそこまで必死になって戦えないかもしれない。
そして、一護が原作ほど必死に戦えなかったら、藍染に勝つどころか、
どれもこれも、全て仮定の話でしかない。
でも、仮定の話だからと捨て置けるような内容でもない。
でも、だからって。
私は彼女を見捨てたくはないんだ――
◇ ◇ ◇
「ただいまぁ……あれ、
「お、おかえり。お姉ちゃん」
店先にいたのは、去年からウチで暮らすことになった
外見年齢が五歳程度の彼女は、店長もとい
ともかくその倫理的にも道徳的にもよろしくない説明を聞いて「やっぱりコイツ危ない奴なんじゃ……」とドン引きしている私に喜助さんは、「ボクの最高傑作っス!」なんて満面の笑みで言い放った。そして、それに続く言葉が「良かったっスね、桜花。妹ができて」だった。
直後、思わず彼を蹴飛ばしてしまった私に非はない。やっぱりコイツ、危ない奴だった。
そして、直後に『お姉ちゃん』と呼ぶように雨にお願いしてしまった私は悪くない。
だって雨、めっちゃかわいいし。
私は小さい子に弱いんだ。
「えっと、その……てるてる坊主作ったから、飾ろうと思って……」
「ここのところずっと
「そうなんだけど、でも……」
「言いづらかった、と。ちょっとそれ、貸してみな?」
「え? うん……」
もじもじしながら
「これ、雨が作ったんだよね。上手くできてるじゃん、顔もかわいいし」
「そんなこと、ないよ……えへへ」
謙遜しながらも、褒められて嬉しいのは隠せないらしい。恥ずかしそうにはにかむ妹分の頭をなでて、それからてるてる坊主片手に辺りを見渡す。
これなら大丈夫かな。
「……よっと」
私はトントンと爪先で地面を蹴ってから軽くジャンプして──まるで見えない段差にでも乗っているかのように、
「この辺かなぁ……」
屋根の裏にちょうど上手く引っ掛けられる所を見つけて、そこにてるてる坊主の首から伸びる紐を結びつける。
そして何事もなかったように降りてくると、
「あ、ありがとう」
「いいのいいの。大したことじゃないからさ」
「……私もそれ、できるようになりたいなぁ……」
「ん、さっきの
「うん」
なんてことはない。ただ霊力で足元を固めて足場にした、ただそれだけのことだ。雨なら、私よりも短い期間でできるようになるだろう。
「私はまだ、人に教えられるほど上手く使いこなしてる訳じゃないから……今度喜助さん辺りに頼んでおいてあげるよ」
「えっ? ホントに……?」
「ホントホント」
できることなら私が教えてあげたいんだけど……この子が人間じゃない以上、修行方法が私のものと違うかもしれない。そうなると、もう私の手の出せる領域じゃない。
「じゃあ私、部屋で宿題してるから。何か用があったら遠慮せずに来なよ」
「うん、分かった」
頷いた雨に手を振って、私は自室に引っ込んだ。二階にある私の部屋は、小学校に入学した時にもらったものだった。
喜助さん達の霊圧は一階と地下にある。鉄裁さんと夜一さんは一階の居間に、喜助さんは……地下の研究室か。この感じだと実験中かな?そうだったらしばらく出てこないはずだ。
「あーあ……どうしよう、かなぁ……」
着替えもせずに、ベッドに倒れ込んで呟く。
「宿題をする」なんて、ただの方便でしかない。「何か用があったら来なよ」だなんて言われて、あの大人しい雨が来るはずもない。ごめんね、雨――
「私は、どうしたいんだろう……?」
どうしたいか。その問いには自信を持って答えられる。「助けたい」と。
グランドフィッシャーは虚の中でも手強い部類に入るだろう。だから、今の私では勝ち目がないのは明白だった。
でも私の保護者達は、元護廷十三隊隊長の死神が二人、そして隊長格に匹敵する強さの死神が一人。彼らに頼めば、グランドフィッシャーなんて瞬殺してくれるのは間違いない。
故に私は、自らの手で助けられなくとも『真咲さんが殺されないようにするという選択肢』なら持っているんだ。
それに原作でも言われていた通り、黒崎家は真咲さんを中心に回っている。その中心がいなくなってしまったせいで黒崎家の面々が、そして一護がどれほど苦しんだか、私は知ってしまっている。
竜貴に勝ってやると息巻いていた、一護の顔が思い浮かんだ。小学一年生の授業参観の日に、お母さんが来てくれるんだと嬉しそうにはにかんだ一護の笑顔が思い浮かんだ。
私が動くだけで、その笑顔を守ることができるかもしれない。そうすれば、一護は悲しい思いをしなくて済む。私は、まだ小学生のあの子に、あんな思いはさせたくなかった。
「できることなら、助けたい。でも、助けると――」
原作が変わってしまう。
そして、そうなると一護は、藍染惣右介には勝てないかもしれない。
「もう、分かんないよ……」
私は腕で目を覆って、呻くように呟いた。
どれくらいの時間、そうして考え込んでいただろうか。
家に帰ってきたばかりの頃は気にも留めていなかった
――最悪だ。
朝起きてその事態に気がついて、私はしばらく動けなかった。
期限が迫っている考え事をしながら寝落ちしてしまうなんて。私は馬鹿なんじゃなかろうか。それともただ単にやたらと図太いだけなんだろうか。どっちみち、最悪だ。
喜助さん達は、私が夕食前に寝落ちしてしまったことを知っていた。起床後明らかにショックを受けている私を見て、「宿題の一つや二つ、忘れたところでどうということもないだろう」と笑っていた。
宿題をし忘れた? そんなこと、今はどうだっていい。学校で先生にちょっと怒られはしたが、どうでもいい。
それより真咲さんだ。
とりあえず私は、昼休み中にトイレの個室の中で「友達の家の空手道場に寄って帰るから遅くなるかも」と喜助さんにメールを送って、同じクラスの竜貴に「道場を見学してみたい」と伝えた。
空手に興味がある訳でも何でもないから竜貴には申し訳ないけれど、仕方がない。そして、これがキッカケで空手を始めることになってしまっても、それはそれで致し方ない。
私がこんな行動をとった理由はただ一つ。
助けるか助けないかに関わらず、私はその場にいるべきだと、そう思ったからだった。
道場に着いて、試合を見学して、一護が竜貴から一本も取れずに負けて……その間も私はずっと考え続けていた。一時間ほど見学した後に竜貴に礼を言ってから道場を出て、雨で増水した例の川辺の近くの建物の陰に隠れて……それでもずっと、考え続けていた。
答えは、出なかった。
そして、その時は来てしまう。
現実は、煮え切らない私の決断を待ってくれるほど、優しくはなかった。
「あらあらあら、悪いトラックね。大丈夫? 一護」
――来た。来てしまった。
「いいの。オレこっち! オレ雨ガッパ着てるからヘーキだもん!」
自らが道路側を歩くと言った女性――真咲さんに、少年の声が応える。一護だ。
咄嗟に川の方を見る。
川べりの、ガードレールの途切れた場所。
そこに――
不思議な形の外套を着た、おかっぱ頭の女の子だった。
「あれ?」
その存在に気がついたらしい一護の声。
そして、一護はその女の子に駆け寄って。
真咲さんが、制止の声を上げて――
「――破道の四、
それにしたって、