真っ黒な影が、目の前で踊る。
「”縛道の八十一、
八十番台の縛道。そんなもの、私も芦谷も使えない。一体誰が、だなんて考えるまでもない。私はこの声を知っている。
揺らめいているだけだった影が、人の形を象っていく。上背のあるシルエット。桃色の派手な着物。一つに結わえた長髪に、風車の
京楽春水。
護廷十三隊、八番隊隊長だ。
そしてその側には、同じく八番隊の伊勢七緒副隊長の姿があった。
直後、”断空”すら侵食し始めた”
建物の陰になっているところまで退散してくると、三人はそのまま暗い影の中に飛び込んだ。もちろん、芦谷に抱えられた私も一緒である。
突然のことに驚きはしたが、悲鳴を上げるようなことはなかった。これが京楽さんの”花天狂骨”の能力によるものだと、すぐに気づいたからだ。
「すごい……」
思わず、呟く。
そこは、白と黒だけが存在する世界だった。
どこまでが床でどこからが壁なのかも分からないその場所で、京楽さんと伊勢副隊長と芦谷は当然のように着地した。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
京楽さんは、穏やかな口調でそう言った。しかし芦谷の方は、上機嫌とは言い難い気分のようだった。
「よく言いますよ……本当に危なくなるまで、隠れて様子を見ていたってのに」
「あらぁ、バレちゃってた?」
芦谷が不満げに文句を零す。それを聞いてこちらを見た京楽さんは、へらりと緊張感のない笑みを浮かべた。
「……それでも、ありがとうございました」
「ん、無事で何より」
不満げではありつつも、芦谷はきちんと礼を言った。それに対して、京楽さんは軽く頷いて応えた。その様子を見て、あぁ私もお礼を言わなきゃと思って口を開きかけた。
その時、ふと気がついた。
「……ん?」
隠れて様子を見てた?
いや、待って。え?
見てたの? 京楽さんが?
芦谷に抱えられたまま、じっと黙って京楽さんを見つめていると、京楽さんが不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 桜花ちゃん、気づいてなかったのかい?」
「…………」
えぇ、気づいてなかったですね。
全然、全く、考えもしなかったですね。
実は、京楽さんはしばらく前からここに到着していた。そして、私たちがバラガンと戦う様子をずっと観察していた、と。
まぁ、その……つまり。
あれだ。
私が芦谷に対して駄々を捏ねる様も、しっかり見ていたという訳で。
「あの……助けてくださって、ありがとうございます……」
「いーのいーの。可愛い女の子を守れるなんて、隊長冥利に尽きるってもんさ」
「あ、えと……その……」
言葉に詰まっている私を見て、京楽さんは幼い子どもに向けるような笑みを浮かべた。
「いやぁ、ボクもあんな風に怒られたいよ。芦谷副隊長が羨ましいねぇ」
「わーっ!!」
「桜花ちゃんも可愛いところあるじゃないの」
「わーっ!! わーっ!!!」
わーわー騒ぐ私を見て、京楽さんはニコニコしていたし、芦谷は「羨ましくても渡しませんよ」と得意気にマウントを取っていた。何でだよ、芦谷のそれはどういう感情だよ。
「いっそ……いっそ殺せ……」
顔から火が出そうだ。
両腕で、真っ赤になっているであろう顔を隠す。
この人あれだ、ちょっと喜助さんに似た香りがするな。この人の場合は喜助さんとは違って、ただ単に意地悪を言っているだけという訳ではないんだろうけど。
まぁ何にせよ、恥ずかしい。
シンプルに、すごく、恥ずかしい。
「隊長、それはセクハラです」
そんな私の様子を見かねたのか、伊勢副隊長が冷えきった声で言い放った。
「いやいや七緒ちゃん、セクハラじゃないって。ボクはただ――」
「セクハラです」
「あ、そう……?」
そして京楽さんは一瞬で押し負けた。完全に尻に敷かれているようで、子どもみたいに唇を尖らせている。こう見ると、数百人の部下を束ねる長であるようには見えないから不思議だ。
伊勢副隊長のお陰で少し冷静さを取り戻した私は、一つ咳払いをして口を開いた。危ない危ない、戦闘中であるということを忘れるところだった。
「京楽さん……いえ、京楽隊長」
「何だい?」
「アイツの能力について、
芦谷に断って、地面に下ろしてもらう。片脚だからといって、バランスを崩してしまうなんてことはもちろんない。まぁ若干目眩はするけど。血を流し過ぎたんだね、きっと。
「アイツは
「あれ、番号通りって話じゃなかったっけ」
「番号通りですよ」
何を言っているんだ、と言いたげな三人に手早く説明をした。
「うーん、何となくそんな気はしてたけど。これは中々に厄介だね、どうも」
やれやれ、と京楽さんが溜め息をついた。そうなんです、厄介なんですよコイツ。だから代わりに引き受けてほしいなぁ、なんて思ったり。
「情けない話ですが、俺ではアイツに勝てません。だから……」
そしてそんな都合の良いことを考えていたのは、芦谷も同じだったらしい。すごく言い辛そうにしながらも、芦谷は言葉を続ける。
「その……お手伝いを、お願いしてもよろしいでしょうか……?」
おっと訂正、都合の良いことを考えていたのは私だけだったらし。全然同じじゃなかった。完全に丸投げしてしまいたい、と思っていた私とは大違いである。
「うん。大丈夫、解ってるよ」
「……すみません」
消え入りそうな声で謝罪した芦谷に、京楽さんはいつもと変わらない調子で頷いてみせた。変に気遣う訳でも、フォローする訳でもない。ただただいつも通りなその姿に、私は先程とは正反対の印象を抱いた。
あぁ、この人はやっぱり隊長なんだな、と。
「あの破面はボクらが引き受ける。キミたちは『やるべきこと』をやってきなさい」
「京楽隊長! それは、流石に――」
「ねぇ、桜花ちゃん」
「はい」
急に話を振られたけれど、私は驚かなかった。話の流れからして、何を訊かれるか想像できていたからだ。
静かに返事をした私を、京楽さんは真っ直ぐ見つめていた。私をからかっていた、先程までの軽薄そうな振る舞いは鳴りを潜めている。今、私の目の前にいるのは、何百年もの長い時を生きた老練な死神だ。
「キミの目から見て、ボクはあの破面に勝てそうかい」
私の目から見て。それはつまり、私の斬魄刀で読み取った情報から判断して、ということを意味するのだろう。だからこれは、雑談ではない。京楽さんは隊長として、戦いを有利にするための情報を得ようとしている。
「はい、勝てます」
そして、その問いに対する答えは肯定だ。迷わず頷いた私に、京楽さんは「根拠は何だい」と訊ねた。
「まず第一に、素の戦闘力が上回っていること。次に、京楽隊長の”花天狂骨”が鬼道系の斬魄刀でないこと。主な理由は、この二つです」
右手の指を一本二本と立てながら続けると、京楽さんは「へぇ」と目を丸くした。
「始解だと多少苦戦はするかもしれませんが、勝てないということはまずありません。もちろん、卍解を使えば短時間で片がつくかと」
「卍解、ねぇ」
本当に全部知ってるんだね、と京楽さんはしみじみ呟いた。人の秘密を暴きやがって、と怒る人でないことは分かっている。それでも何となく居心地が悪くて、私は視線を斜め下に逃がした。
「そんな顔しなさんな」
そう言われて顔を上げると、京楽さんは緩く口角を上げていた。けれど、その目は笑っていなかった。その迫力に、隣の芦谷が息を呑んだのが分かった。
もちろん、怒っている訳ではない。
数百年の時を背負った、老練で、冷徹で……そして、どこか非情な色を宿した目だ。これによく似た目を、幾度となく見てきたからよく分かる。
「合理的で結構なことじゃないの。嫌いじゃないよ、そういう必要悪は」
必要悪。
そうか、京楽さんはそう捉えてくれるのか。
私の言動は、褒められたものではないことが多い。けれど私は、そうすべきだと思って行動している。反省はしても、後悔はしないようにしている。そういうところはきっと、喜助さんの影響が大きいのだろうと思う。
そして、それを肯定した京楽さんはきっと、そういう合理的なところが喜助さんとよく似ているのだろう。
「……そういう定義も、悪くないですね」
そう言って、私は小さく笑ったのだった。
◇ ◇ ◇
京楽さんたちがバラガンの気を引いているうちに、私と芦谷は影からこっそり抜け出して逃げる。そういう作戦だった。
そしてそれは、作戦通りうまくいった。
”花天狂骨”の遊びに付き合わされたバラガンは、京楽さんの相手に掛かりきりになった。そのお陰で私たちは、無事に戦闘から離脱できたのだ。
「やっぱりすごいね、隊長さんは」
相も変わらず芦谷に運ばれながら、私はしみじみと呟いた。
私も頑張って修行すれば、いつかあんな風になれるのかな。別に隊長を目指してるって訳じゃないけど、やっぱり経験と自信から来る『大人の余裕』みたいなのは身につけたいよね。戦闘能力だって、高いに越したことはないんだし。
「……そうですね」
私にとっては何気ない感想だったけれど、芦谷は違う捉え方をしたらしい。随分と沈んだ声色だった。
そこで私はようやく気がついた。
無所属の死神をやっている私と違って、芦谷は五番隊の副隊長だ。そんな芦谷にとって『自分では勝てないから隊長に戦いを代わってもらう』というのは、とてつもなく不甲斐ないことなのかもしれない。
……ちょっと、無神経だったかな。
反省だな、これは。
そんなことを考えながら、
こんなに目立つ霊圧がたくさんあるというのに、京楽さんが目の前に現れるまで何一つ気づかなかったなんて。全く、どれだけ余裕がなかったんだって話だ。
「不甲斐ないのは、私もだよ」
それでも、私たちは立ち止まってはいられない。
やらなければならないことが、私にしかできないことが、まだ一つ残っているから。
「これから私は、しばらく無防備になると思う」
「えぇ、存じております」
芦谷は、私の言葉に静かに頷いた。私がこれから何をするつもりなのか、芦谷は既に把握している。
「もちろん、姿も霊圧もできるだけ隠してからやるつもりだよ。でも多分、
そこまで話したところで、芦谷は足を止めた。目的地に辿り着いたからだ。
虚夜宮の天蓋の下には、たくさんの建造物が点在している。そのうちの一つ、比較的その中心に近いところにあるものの屋上に、私たちはいた。
その真っ白な床に下ろされて、芦谷の顔をじっと見上げる。
「だから、その間。私のこと、守ってくれる?」
「っ……!」
芦谷が、目を見開いた。
本当は私一人の時にやるのが一番良いんだろうな、とは思う。何かがあった時の犠牲を、私一人に減らせるから。
けれど。
それをされるのがどれほど辛いことなのか、私は今さっき味わったばかりだ。私はもう二度と、そういうことはしたくなかった。
そんな私の心情までは伝わっていないだろうけれど、それでも多少は元気を出してくれたらしい。直後に返事をしてくれた声は、先程よりもずっと明るいものだった。
「はいっ……! 必ずや、この命に代えても――」
「それはダメ。また駄々捏ねるよ、私」
挙げ句泣いちゃうけど、いいの?
私のこと、泣かせるの?
そう畳み掛けると、芦谷は何度か目を瞬かせて、そして顎に手を当てて数秒考え込んだ。
えっ、考える余地なくない? と驚く私を余所に、芦谷はどこか嬉しそうな顔で呟いた。
「……それも、悪くないな」
「馬鹿なの?」
私の暴言に、芦谷は「冗談ですよ」と笑って返した。
何だかちょっと疑惑が残るが……それでも今は彼を信じる他ないだろう。
「――よし、やるか」
己に喝を入れるつもりで、そんなことを呟く。こうしている間も、皆は懸命に戦っている。さっさとやることをやって、さっさと戦いを終わらせようじゃないか。
床に座り込むと、私はまず自分に”曲光”を掛けた。それから、未だ血に濡れたままの袴の裾に触れる。そして指先についた血が乾くより先に、床に文様を描き始めた。
「南の心臓、北の瞳」
最初に円。次に四つの図。
「西の指先、東の踵」
そして、円を四等分するように描く十文字。
「風持ちて集い、雨払いて散れ」
私のやろうとしていること。私にしかできないこと。虚圏における護廷十三隊の戦いを、完全勝利で終わらせるために。
「――”縛道の五十八・
その瞬間、各地で戦う人たちの居場所が頭の中へ流れ込んできた。この感じは、”雲透”の”狭霧”で情報を得る感覚とよく似ていた。
皆さんの位置情報を把握した私は、次の縛道を使用しようと、再び口を開いたのだった。
掴趾追雀をやったら、次にやることは一つです。
※次回更新:7/7 (月) 5:00 を予定。