帰りたい。
あぁ、国に帰りたいよ。
いつ敵兵に見つかり殺されるかもわからぬ中国の山林の中、彼、俵太一の心にあるのは故郷の光景だけであった。
腰にあるのは軍刀一振り。
銃は既になく、ただただこのよくわからない戦場を這いまわっている。
死ぬのか、死ぬだろうな。
思いながらも、歩く、だって、歩かないと死ぬ。
もう歩きたくない、ここで死にたい。
そういったやつらは、もう死んでいる。
死にたくない、帰りたい。
だから歩く。
もう歩けないはずだ、体はもういっぱいいっぱいで、いつ倒れてもおかしくない。
いや、もう倒れているのかもしれない。
こうして歩いている俺はもうただの魂魄で、望郷の念に突き動かされている亡霊なのかもしれない。
むしろ、その方が理にかなっているような気がした。
そんなことを考えて、ふと笑みが漏れる。
おや、生きていたようだ。
笑えるということは、生きているということだ、とはどの隊員の言葉だったか。
とまれ、もう死んでいる人間の言葉だ。
だが、俺は笑った、だから生きている。
じゃあもう少し歩くか。
そして、そうして、その通路に出た。
ただただ前後に長い通路であった。
左右には古今東西の扉という扉がずらりと等間隔に並んでいる。
「は?」
辺りを見回しても、扉しかない。
いや、いた。
でた、と言った方が、正しいような、唐突な発生のような、ふと目の前に男がいた。
男は洋物の、書類の積まれた机に陣取っていた。
大きな眼鏡、と鼻孔を突くのはコヒィの薫り。
「次」
ギュギュとタバコが灰皿にねじ込まれ、ガリガリ、と万年筆が紙面を踊る。
「ま、何が? うおっ!?」
すると、横の扉が開き、そこへなすすべもなく吸い込まれた。
目が覚めると、奇妙な服装の、眼鏡をかけた少女がいた。
「あ、お目覚めですか?」
室内だというのに帽子をかぶり、黒のおかっぱのような髪型だ。
娘っ子がそんな短髪とは、親が泣きくれよう
そう思いながら体を起こす。
石造りの一室、山中を行く際にそこここで切れた肌は手当されている。
「ここはどこだ」
腰にあった軍刀はベッドの横の机に丁重に置かれていた。
兵隊にとられるまでは相撲と柔道は故郷でしこたまやっていた、体が十全であれば、徒手だけでも一暴れするぐらいはできる。
「私は、十月機関の魔術師でアルテンスと申します、信じ難いことかとは思いますが、貴方はこの世界の外から漂流してきた"漂流者"と呼ばれるモノです」
す、とこちらに膝をつく。
「そして、あなたは"廃棄物"と呼ばれる人々と戦うためにやってきたのです」
どうか、私たちに、お力をお貸しください、と少女は首を垂れた。
わけがわからない
自分がどこかの世界に流れ着いたとか、だから何かと戦わねばならないとか、無茶苦茶だった。
だが、目の前の少女を見る。
改めてみれば、故郷の自分の妹よりももっと幼い少女だ。
その肩は震えている。
多分、不安だ。
何もかも、わからない。
だが、不安に震えるおなごを前に逃げる男では、どの面下げて国に帰れようか。
「まかせい」
ニカリと笑ってドンと己の胸板を叩く以外、大和男子の取るべきことはなかった。
「本来であれば、本部へお越しいただいて、大師匠様にお会いいただくのですが、今回は急を要します」
どうやら、ここの近くにその"廃棄物"の魔の手は迫っているらしい。
馬を一騎あったので、アルテンスを後ろに乗せて、案内通りに進む。
手元にあるのは誰かの遺品である軍刀が一振りだ。
何かよくわからないものと戦わされる、というのであれば、なんとも心細い。
せめて小銃の一つもあれば、と思うが、そんな弱気ではどんな武器を持っても後れを取る、と己の心を奮い立たせる。
「通常、"廃棄物"は特異な力を振るい、化物を率います」
「なんと! では、こちらも兵隊が要るではないか」
「通常であれば」
馬を走らせながら、会話をする、術師というといったか、よくも舌をかまぬものだ。
「今回は、われら十月機関の察知がうまくいきました」
「ふむ?」
目に入る光景は、自分が死地と彷徨った大陸でもなく、故郷の山村でもお目にかかったことのない景色だ。
どちらかというと、写真で見た欧州に近い気がするが、詳しいことはわからない。
「化物どもに落ち合う前の"廃棄物"であれば、あくまで異能をもった一個人。であれば漂流者と術師が揃えば、討つこともかないます」
「成程……いや、いまなんと?」
この少女はまるで己も戦線に加わらんという口ぶりである。
思わず振り返るが、その瞳は鋼のような決意があった。
「"廃棄物"を討たねば、我らの世は無残に引き裂かれ、滅んでしまうのです、十月機関の魔術師は、それをさせぬため、漂流者を集め、力を貸し、己が身命を賭けて漂流者を守り、助けるのです」
国を守る、世を守る。
そのために、死ぬ。
そういった目だ。
ならぬ、とも、帰れ、とも言えば侮辱になる瞳だ。
「わかった」
となれば、もう言うことは一つしかない。
「共に、死んでくれ」
その返答は、やはり鋼のような声であった。
俺が、俺たちが、何をしたというのだ。
死にたくなくて、だから襲ってただけじゃないか。
それをあいつ等だって、都合がいいから何をしたって知らぬ存ぜぬだったろう。
なのに、畜生。
野盗だと、畜生。
おめぇらだって、国を盗っただけの強盗のくせして、何を取り澄ました顔でいいやがる。
くそ、くそ
あいつら全員、殺してやる。
「あれが、"廃棄物"です」
小高い丘から見えるのは、正気を失った男だ。
ああいう手合いは、大陸の戦線でよく見た。
疎まれ者が、どんずまりで、捨て鉢になって戦ってる。
この世をすべて恨んだ狂犬のような面構えだ。
なるほど、あの男が兵を率いれば、確かに陰惨なことになる。
それは兵士としての日々によって感じられた。
「だが、あれは人だ、化物ではない」
「ええ、ですがもはや、人であったものです」
「討たねばならぬか」
「なりませぬ」
やはり、鋼のような声であった。
「わかった」
馬を進ませる。
大体、馬であれば一息に駆けられる程度の距離だ。
軍刀を抜いた。
車のバネを使って作ったであろうそれは、しかし、質実剛健な刃だ。
「陸軍中支方面軍所属!! 俵太一!! 故あっておぬしを討つ事とあいなった!! ご覚悟なされよ!!」
「何を!?」
「礼儀だ、名も知らぬ相手に殺されたくはあるまい、いくぞ!」
馬の腹を一蹴り、ぐい、と相手との距離が縮まる。
相手の手にあるのは、古びた西洋の剣だ。
「知るか! 俺が死ぬより、死ねよ!」
それが一振り。
「ぬうっ!?」
とっさに、手綱を握り、馬体を左前へ跳ばす。
一刹那の後、それまでいた進路にぞるぞると黒煙が押し寄せる。
その煙が通った所は草木は枯れ、地は爛れた。
毒の煙だ。
「そ、ぉ、れっとぉっ!」
さらに剣を一振り、それを辛くもなんとかいなす。
「"廃棄物"の力です! なんとか搔い潜っていかねば!」
「しかし! この軍刀では届かん!」
平地なのが幸いした、また、"廃棄物"も手にいれたての力をうまく扱えぬのであろう。今の所はなんとか毒の煙に捕まっていない。
しかし、それも時間の問題である。
馬は生き物だ、疲れる。
いつまでも避けることなどできない。
「そう言えば術師というたな! 何ができる!」
「《石壁》に《空歩》!! ですがあまり符の余裕はありません!」
そういいながら、真横からせまる毒の煙に投じた符が石の壁を呼び出し凌ぎ、馬に符を張れば、まるで中空に道が出来たようにしばらく馬は空を駆けた。
「どうした逃げるだけかぁっ!!」
段々煙の狙いが正確になってきた、どうやら力になれてきたらしい。
「どうします!? もう符は一枚づつしかありません!!」
その声に、初めて少女らしい焦りの色が見えた。
だからこそ、俵は心配ないと、堂々と答えた。
「そうか……ならばこう使え」
騎馬の動きが変わった。
まっすぐだ、突っ込んでくる。
「死にに来たかぁっ!!」
獣のように大口を開けて叫び、剣を振るう。
「いきますよ!!」
「おう、やれいっ!!」
少女の鋭い声が響き、男の声が応える。
それが、己の目前に生じた石壁に遮られ、視界がつぶれる。
ガッ、という音が頭上で響く。
思わず見上げれば、自分の身長の五倍はある石壁の上に何かが見えた。
蹄だ。
次の瞬間には馬首が見える。
これほどの石壁を飛び越えてきたのだ。
「我こそ今義経!!」
意味の分からないことを言って、馬が駆け下りてくる。
ほとんど垂直の壁だ、それをまるで当然のように駆け下りてくる。
化物のような馬術だ、こんなこと、できるやつは国に居なかった。
そして刃がぐんぐんと近づいて。
轢き殺すように、馬重の籠った斬撃に、"廃棄物"はぞぶり、と切り飛ばされた。
「どうやら、役目は終わったようだ」
目の前には、己が通った扉がある。
あそこを通れば、己の世界にいくのだろう、という予感がある。
「誠に、ありがとうございました」
そうひれ伏して謝意を述べる少女に、うむ、と頷く。
よくわからないままに、駆り出されて、戦って、帰りはどうぞこちらです、という。
一夜の、夢のような戦だった。
「本当に、なんとお礼をすればいいか……」
「そうさなぁ……よし!」
「な、何を!?」
ぐい、と馬上から少女を引き上げる。
腕に抱き、そのまま扉へと馬を進める。
「いうたろう」
腕の中で、顔を赤く染める少女にニカリと笑いかける。
「共に、死んでくれ、と」
ばたり、と扉は閉じ、すぅ、と中空に消えていった。
後に語ることは、多くは無い。
戦地に行った軍人が、故郷に凛とした少女を嫁として連れて帰った。
そんな、時代の濁流に記されず飲まれるようなことが、どこかであった。