眼前で意識を失い倒れ伏した煙灰を永琳が見下ろす。良く見なければ死んでいると見まごう程に動きがない。妖力も良く観察しなければ分からない。
永琳が煙灰に近づき、髪をそっと撫でつけた。さらさらと煙灰の白髪に永琳の指が通る。指先から感じられる煙灰の体温を忘れまいと、覚えていようとゆっくりと動かす。
「肉体的側面の強い貴方なら独りになっても生きられる。穢れをものともしない、穢れを纏う妖怪の貴方なら大丈夫。仮に問題が出ても、きっと煙灰なら何とかしちゃうでしょうしね」
小さく口元を綻ばし、永琳が消え入りそうな声で語りかけた。発される声色は慈愛に満ちていた。幼い子供に言い聞かせる様な優しさに満ちていた。はらはらと指に梳かれた髪が流れ、煙灰の横顔を隠す。
「これから私がすることで、煙灰はすごくつらい思いをするわ。いくら優しい煙灰でも殺してしまいたくなるほど私を恨む。だからね、その思いを糧に生きて、煙灰」
永琳が煙灰の髪から指を離す。うつ伏せで倒れ、横顔が髪で隠れた煙灰の顔はもう見えない。永琳が外套の下に手を入れた。
「……いつかまたいっぱいお話をしましょう。今度はたくさん、たくさん、煙灰の
永琳が外套の下より、煙灰から譲り受けた弓を取り出す。立ち上がり、永琳が弓を引く。霊子で構成された弓矢がつがえられた。矢じりの矛先を煙灰の頭部へと永琳は向ける。キリキリと弦が張りつめる音が洞内に響く。
「だから、煙灰……さよなら」
永琳の声が洞窟内に広がった。先ほどまでの、間近にいても聞き取れない大きさと違い、はっきりとした声で永琳が決別を注げた。ふっ、と永琳が小さく息を吸う。指が弦から離れる直前に、地を蹴る音が永琳の耳に届く。
獣の唸る咆哮が、永琳の背中へと叩き付けられた。永琳はすっと身体をずらし、背後からの襲撃を躱す。
永琳の外套の肩口を掠り噛み千切った一匹の狼が、煙灰と永琳の間に姿をみせた。構えたままの弓をずらし、地面に着地したばかりの狼めがけて矢を放つ。
「がぁ、ぐぅううっ」
予期していなかった素早い反撃に、狼が苦痛の声をあげた。軽快な音と共に姿が変わる。四本の尾を持つ妖弧、狐仙が正体を現す。
射抜かれた場所は左肩であったのか、右手で肩を押さえている。けれど、苦痛に歪む顔の中、双眸だけがぎらつく殺意を湛えていた。
「世話になった相手へ毒を盛って殺すのかっ!? お前、どれだけ――」
「殺すのは貴方だけ。あれは貴方を釣り出す為の見せかけ」
「てめぇっ……どちらにせよ逃がす気はなかった癖に良く言うぜ」
「あら、気が付いたの? さすがね」
「気が付いた時点で、もうお前を追って洞窟に入っちまっていたけどな」
「そう」
永琳が感情を乗せない、無機質な声を返した。狐仙は永琳の態度から背筋に冷たい物を感じた。向き合う視線に怖気を禁じ得ない。永琳の瞳が狐仙には、殺されることの決まっている家畜を見ている様に感じられた。
ギリッと強く歯噛みをして考えるも、いい考えは何も思い浮かばない。狐仙が永琳を睨みつけていると、声が広間に一つ増えた。
「永琳、問題なさそうかい?」
通路の暗がりから一人の女性が姿を現した。綺麗な黒髪で輪っかを二つ頭の上でまとめ、ひらいらとした羽衣姿の人物。まとめられた黒髪はウサギの耳を彷彿とさせるように、女性の動きに合わせてひょこひょこと揺れる。
「えぇ。問題ないわ、
「そう? それは良かった」
女性、嫦娥は永琳の返答に明るく笑う。目の前の二人に狐仙が苦虫をつぶした様に顔をしかめた。
「……嫦娥だったのか」
「そうだよ。君が入った後、逃げられないよう通路に陣取ったのは、何を隠そうこの私さ」
狐仙が嫦娥の言葉に舌打ちをした。背後に別の気配が現れたのは察知した。否、奥へと追いやる為に察知させられたのだろう。まんまと誘い込まれた自分の間抜けさに毒づきたくなるが、なんとか呑み込む。
まさか、いつも一人で来ていた永琳が連れを伴っているとは狐仙は思ってみなかった。嫦娥の手には、永琳と同じ外套がかかっている事から二重尾行されたのだと容易に理解させられた。
狐仙は都の者達の月への移動方法を探りに潜り込んでいた。移動方法であろう巨大な円筒形の筒を見つけ、それがシャトルと呼ばれている事まで突き止めた。
そして、狐仙はその時永琳を見つけた。隠れるように都から煙灰のねぐらへと向かおうとしていた永琳を。どちらにせよ、考えることの得意な煙灰へ、一番に伝えようと考えていた狐仙はそのまま永琳を尾行した。
けれど、それが誘いでもあったのだろう。通路の暗がりから、煙灰が意識を失う所を見た。逃げようとしたが、その時背後の気配に気が付いた。進退窮まり、どうするか考えていたら今度は煙灰へと弓を向ける永琳の姿が。
そこからはあっという間に現状が出来上がった。
「どうしても都の情報が抜けているみたいだったの。だからそれに適した能力持ちがいるとは思っていたわ。それくらい都の情報に精通しているのなら、今私が一人で都を出れば釣れると思ったの。正解だったわね」
「あぁ、あぁ、まんまとつられたよ。それに嫦娥まで出てくるなんて、気合の入れようがうかがえるねぇ。おいら、そこまで熱烈に求められていたなんて困っちまうよ」
「そうかい? それは嬉しい評価だね。私がうろうろすると、純狐が来るからと。普段から皆に外出を控える様に注意されていてね。だから都への侵入者もいつも大人しくしている私の動きなど気にしないだろうと思ってさ」
「確かに……大当たりだ。姐さんに匹敵する力量が有りながら、その頭の冴えは厄介だね」
「これはこの子の受け売りさ。私は考えるのは大の苦手だからね」
嫦娥は永琳を示して、肩を竦めた。永琳はそれに取り合わず、視線を狐仙から一切逸らさない。観察するようなその目つきが狐仙には何よりも恐ろしかった。思考を読まれている気さえしてくる。
足元に転がる意識の無い煙灰が目覚めれば状況は変わるだろう。けれど、ここまでする相手がそんなへまをするとは思えなかった。全く引き際を間違えた物だと内心で苦笑する。
以前、自信満々に煙灰へと語ったというのにこの体たらく。情けないと実感した。いっそ派手に暴れて誰かが気が付くのに賭けるかと、妖力を練る。弱い自分では僅かな時間しか稼げないだろうが、現状よりか可能性は高かろうと狐仙は考える。
身構えた狐仙に対し、永琳が弦に指をかけた。
「嫦娥」
「大丈夫。入り口で術は施してきたよ」
「そう。なら少しなら暴れても大丈夫ね」
永琳からの圧力が増す。外套を羽織っているために霊力は感じられないが、存在感が増した。狐仙は二人のやりとりに察してしまう。外套に込められている術と似た物がいまこの場に張られていると。
「……そこまでやるかぁ」
「念入りにしすぎて悪い事は無いわ」
永琳のその言葉を皮切りに弓矢が放たれ、闘いが始まった。狐仙にとっては勝ち目のない、希望のない闘いが――
事切れて動かない小さな人物。目立った傷の無い狐仙が、意識の無い煙灰の身体にもたれている。
傷一つない永琳が、感情のこもらない表情で煙灰と狐仙を見下ろす。しばらくそのまま固まっていると、戦闘に参加していなかった嫦娥から声がかかった。
「永琳、そろそろ行こうか。感傷的になっている時間は無いよ」
「えぇ、そう……何を持っているのかしら」
「見てわからない? ウサギさ」
「どうしてそんなものを抱えているのよ」
嫦娥が小脇に二匹のウサギを抱えていた。グゥグゥと鳴き声をあげる二匹に永琳は頭痛を覚えた。首を傾げて真顔でそう言い放つ嫦娥に対し、疲れを感じる。
「どうしてって、連れて行こうかなって思ってさ」
「返してきなさい」
「やだよ。月まで連れて行く。どうせ、月に行ってもやる事無いしさ」
「貴女ねぇ……」
「いいじゃないかこれくらい。君のしている我が儘と比べれば可愛い物さ」
「それは、そうね」
永琳は嫦娥の返しに図星を突かれ押し黙る。煙灰を殺さず、眠らせるにとどめる。これは永琳個人の独断だ。本来であれば殺さねばならないのだ。けれども、永琳はそれをしない。
そして嫦娥は咎めない。だからこそ永琳は今回の同行者に嫦娥を選んだのだ。嫦娥の言っていた理由ももちろんあるが、一番の理由はそれだ。嫦娥は融通が利くのだ。悪く言えばちゃらんぽらんとも言える。そんな気質を嫦娥はしていた。
「君のしたことを内緒にしているからさ、この子達の事を口添えしてよ」
「はぁ……仕方ないわね。良いわよ。実験動物も欲しかったし」
「えぇー。まぁいいか。どうせするなら人型にでもする実験でもしようよ」
「何よそれ」
「ウサギの召使い何て可愛いじゃない」
「はいはい、考えておくわ」
嫦娥へおざなりな返答をし、最後にもう一度永琳が煙灰達を見下ろした。いまだ目覚める気配を欠片も見せないその姿に少しだけ寂しさを覚えた。けれど、見送りの、別れの言葉は期待できない。してはいけない。煙灰から意識を奪ったのは自分だから。全てを奪うのは自らなのだから。
「またね、煙灰」
別れの言葉を煙灰へと落とし、永琳がフードを目深にかぶった。嫦娥もそれを確認すると、自らもまた手に持った外套を羽織る。ウサギたちも、視界が暗くなると不思議と鳴くのをやめ静になった。
嫦娥は一度狐仙へと近づき、その死体を軽くなでた。永琳も嫦娥の行動に何も言う事は無く、それをみつめる。嫦娥は一撫ですると立ち上がった。
そして、二人はそのままその場を後にした。永琳と嫦娥、二人の姿が通路の暗がりへと消えていく。もはや振り返る事は無い。
残されたのは意識の無い煙灰と死した狐仙。洞窟内に静寂が訪れた。
「煙灰。煙灰、居るのでしょう?」
通路から洞窟内へと声が投げかけられた。その声は徐々に近さを増している。
「煙灰、狐仙がまだ帰っていないのです。もうとっくに帰ってきてもおかしくないというのに……煙灰は何か知りませんか?」
声の主、純狐が狐仙を探して煙灰のねぐらへとやってきたのだ。純狐は返答がない事を訝しみながらも、奥へと進む。
普段であれば姿を隠して入り込むのが常である。しかし、今回は狐仙と追いかけっこをしている訳ではないので普通に入ってゆく。
静かすぎる洞窟に疑問を抱くも、奥からは光が漏れているので何かしているのだろうかと浮かんだ疑問を呑み込む。
しばし歩けば、純狐の視界が開けた。暗い通路から広く明るい広間へと出た。
そして、純狐は見つけてしまう。見てしまう。倒れ伏す二人の姿を。動かない両者を。
「え、ん……かい? こせ、ん?」
純狐の中に言葉で言い表すことのできない感情が渦巻いた。喉がひきつり上手く言葉が紡げない。ふらり、ふらりとよろめくように純狐は近づく。
煙灰達のそばまで来ると、崩れる様に膝をつく。震えの止まらない手で狐仙を抱き上げる。
冷たい。固い。妖力を感じない。これは、これは――死んでいる。
「あ、あぁああ、そんな……そんな、どうして、なぜ、あぁああ」
絞り出す様に純狐が声をあげた。どうしてと、なぜ狐仙が死んでいるのかと。純狐の心が悲しみに軋む。腕の中も狐仙の死体。遠い昔、夫に殺された自らの子供と狐仙が重なる。胸を掻き毟る吐き気を感じた。心が張り裂けそうな痛みが生まれた。世界を呪い殺したくなるほどの怒りがわき上がった。
暴れ出しそうになる感情を無理矢理理性で押さえつけ、煙灰の確認へと移る。死んでいるように見える。けれど、本当にわずかだが妖力を感じた。仮死状態に近いと純狐は感じた。近くの地面から香る酒精の匂いに、一服盛られたのだと考えた。
「あぁ、なるほど。鬼とは難儀ですね、煙灰。嘘をつかず、嘘を疑わない。本当に難儀ですね」
煙灰は濁したり勘違いをわざとさせることはあるが、決してはっきりとした嘘はつかない。約束はたがえない。他者の嘘も疑う事はほとんどない。
それは鬼としての気質もある。ちょっとの嘘程度、ねじ伏せてしまう実力も疑わない要因の一つだ。あと、一度懐に入れた相手にはとことん甘くなるのも盛られてしまった原因なのであろうと。
「それにこの神力……嫦娥」
低く地の底からひびく様な、おどろおどろしい声が純狐から漏れた。煙灰の妖力を注意深く探った時、狐仙に染みついた僅かな神力も同時に感じ取っていた。感じた事のある神力。それは怨敵、嫦娥の物。
気が狂いそうだ。いや、もう狂ってしまっているのかもしれない。純狐は荒れ狂う感情を必死に押さえつける。ここで感情の赴くままに暴れてしまえば狐仙の死体は無くなり、煙灰も死んでしまう。だから、それはダメだと必死に自らを押さえつけた。
食いしばる唇からは血が垂れた。噴き出た妖力で地面に罅が生まれた。地面を握る指が、地を穿つ。怒りに震える身体を必死に押さえつける。
純狐には永遠であったかのように感じられる時間が過ぎ、身体が理性の支配化へと戻ってきた。潰してしまわないように耐えていた狐仙の死体を、煙灰へともたれさせる。
「少し……出てきます。煙灰は起きられない様なので、狐仙をお願いしますね」
血を吐くように、純狐が声を振り絞った。視界に入ればまた激情が湧くために、地面を見つめて独白する。震える肩がその身に巣食う激情を、無念を、雄弁に伝える。握られた拳からはひたひたと血が地面へと落ちていく。落ち着かない心を、忙しなく動く九本の尾が物語る。
「では、煙灰。また会いましょう」
純狐が背を向け、歩き出す。一歩進むごとに妖力が高ぶっていく。純化され、圧力を増していく。そしてまた、洞窟内には静寂が降りた。
満月の浮かぶ明るい夜。都を一望できる高台に妖怪達が集結している。いや、高台だけでなく、都をぐるりと囲む様に妖怪達が夜の闇の中、ひしめいていた。
決戦だ。戦争だ。声も高々に妖怪達が叫びをあげた。都の人間達を、神々を威圧する様に数多の夜行が形を成した。
都が一番良く見える高台の上に鬼の大将、嵬がいる。背後には仲間の鬼達が、戦意をみなぎらせ、控えている。鬼達の中に塊清の姿もある。嵬の隣には純狐の姿があった。
「なるほどな。馬鹿だな、彼奴も」
「えぇ、本当に」
「せっかくの祭りに参加できんとは同情物だ」
「後で散々自慢してやりましょう」
「だな」
純狐が煙灰達の事を嵬に伝えた事で、この大夜行が形成された。煙灰を直接無力化してきたという事は、すぐにでも動くだろうと行動を起こしたのだ。
生憎と狐仙以外の潜入した妖獣達も誰一人帰ってこなかった。だからこそ、判断材料となるものがそれしかなかったのも大きい。
嵬が声をあげ、他の妖怪達も参戦してきた。妖怪最強種族の鬼。その大将の呼びかけだ。最近の月夜見による爆撃も、妖怪達には我慢の限界だったのだ。そこへ来ての大勝負の呼びかけだ。これで滾らない妖怪はいない。
嵬が集まってきた妖怪達を睥睨した。嵬の放つ威圧に、静寂が訪れた。先ほどまでの、地面が震えるほどに響いていた声がぴたりと止まる。嵬がその様に笑みを深める。妖怪達が今か今かと期待に瞳を光らせ、嵬を見る。
「かっかっかっ!」
辺り一帯に響き渡る笑い声。
「良いか、お前らっ!!」
妖怪達が息を飲む。
「これより我らは都の者共と盛大な祭りをするっ!!」
至る所で咆哮が、雄叫びがあがった。
「月になど決して逃すなっ! その手段は軒並み潰せぇ!!」
人型の妖怪が腕を天へと突き上げる。妖獣や妖蟲は天を仰ぐ。
「戦える者は皆殺せっ! 戦争だっ!」
湧き上がる殺せの唱和。妖怪達の熱気が高まり、妖力があらぶっていく。
「今宵を永劫に語られる盛大な祭りにするぞっ!!」
大気が震え、地が揺れた。雷鳴のような怒号が至る所で上げられた。嵬がニヤリと口を歪めた。身に巣食う妖力が我慢ならんと暴れ出す。大きく、胸が膨らむほどに息を吸う。
「いくぞぉおおっ!!」
嵬が吼え、高台から飛び降りた。夜行を形作る妖怪達も遅れまいと、後を追う。
大地を埋めるほどの妖怪達が、都へと牙を剥く。
先頭をひた走る嵬は得も言われぬ不気味さを覚えた。これだけ騒ぎ、行動も起こした。それなのに都からの反応がまるでない。誰一人都の外へと防衛に出てこない。
その事が酷く不気味に感じられた。けれども、だからといって止まる訳にはいかないのだ。嵬は不安を打ち払おうと砲声の様な叫びをあげ、大地を蹴りつけた。
都が近づいてきた。このまま市街地へと流れ込もうと考える嵬は、ぞくりと言い知れぬ寒気を感じた。馬鹿げた力の奔流を感じ取った。それは自分たちの足元。否、都の下の大地から感じられる。
次の瞬間、都の全てを囲う様な巨大な結界が現れた。見るからに強固で、分厚い結界が目の前に出現した。妖怪達が動揺し、勢いが衰えた。
「これは……かかっ、これは本気で不味いかもしれんな」
嵬が誰にも聞こえない声で小さくつぶやく。動揺している声が背後から聞こえてくる。動揺もするだろう。こんな馬鹿げた結界をみせられれば。こんな馬鹿みたいに力の込められた結界が突然現れれば驚くのは当然だ。
嵬が能力を身体に行き渡らせ、鬼神と化して結界へと突っ込む。妖力を纏い、全力の拳を、全速力で、結界のへと打ち込む。
「くかかっ、こりゃ厳しい」
結界と拳がぶつかり、衝撃が生まれた。激突箇所を中心とした放射状の衝撃波が地面を抉る。けれども、結界はビクともしない。揺らぎ一つ見せることは無い。
他の妖怪達も嵬の姿に倣い、次々と結界に攻撃を始めた。けれど、やはり結界は揺らぐことなく都と妖怪達を隔てつづけた。
塊清も、鬼達も、自慢の膂力で殴りつけるも、効果のほどは見いだせない。
「なるほど。腕の良い術師の煙灰だけを狙うわけだ」
煙灰が狙われた理由を嵬はここにきて察した。煙灰がいれば何かしらの手段を講じた事だろう。けれどそれは出来ない。全く、嫌な所を突くのが上手いと感心してしまった。
どうしたものかと嵬が頭を掻いていると、隣に純狐がするりと姿を現した。
「どうした、純狐?」
「これは地脈の力を用いた結界の様ですね」
「地脈? はぁーん、なるほど」
「えぇ、熱心に爆撃していたのはこのためだったのでしょう。信じられないですね。都の下に地脈の流れを持ってくるなど」
「よくもまぁ持ってこれたもんだ。計算した奴は頭がおかしいな」
「でしょうね」
「それに良くあの月夜見が踏み切った物だ」
「それは?」
「どうでもいい話だ。今に関係は無い」
嵬が結界を眺めて純狐の疑問を切って捨てた。純狐も追及する気がないのか小さく肩を竦める。そして、本題に入ろうと純狐が嵬へと声をかけた。
「私がどうにかしましょう」
「……できるのか?」
嵬が僅かに瞳を見開いて驚きを示した。
純狐が口元を歪め、瞳には自信の色を湛えた。
「不可能ではない、と言ったところですね」
「どうするんだ?」
「結界の力と同化してすり抜け、結界の起点を破壊します」
「それは……死ぬぞ?」
「どちらにせよ、では?」
「……確かにこのままなら全員に逃げられ、いずれ力尽きる、か」
「えぇ、その通りかと」
嵬が瞳を閉じ、唸る。しかし、選択肢などあってない様な物。純狐をみつめ、死を願う。
「純狐、俺たちの為に死んでくれ」
「是非、喜んで」
陰り一つない笑顔で純狐が笑う。慈愛に満ちた美しい笑顔。
純狐の笑みに嵬が苦笑する。死ねと言うのに憂いの無い笑みを返されるとは思わなかった。
「頼もしいな」
「ふふ、褒めても何も出ませんよ」
純狐が嵬の横を通り過ぎ、結界へと近づく。純狐が歩みを止め、嵬へとまた話しかける。
「もし、もし嫦娥がいたら送ってくださいな」
「あぁ、任せろ。すぐに送ってやる」
「それは楽しみ。精々地獄で待っていましょう」
純狐がクスクスと笑い、また歩みを再開した。
嵬の視界から純狐が消えた。数多いる妖怪達の影に純狐の姿が隠れてしまった。
「すまん、純狐。独りに任せる様な真似を」
全員で散るのならばそれは一興。けれどもたった一人にだけ負担をかけるのは、あまりに情けない話だと顔を歪めてしまう。ままならぬ物だと嵬はため息を吐いた。
妖怪達の間を縫って純狐が進む。皆、諦めることなく結界を壊そうと躍起になっていた。同胞たちのその姿に純狐は力を貰う。狐仙の仇を討たねばならぬと。都の者共に目に物見せてやると決意を新たに前へと進む。
「あぁ、そういえば――」
都に単身で乗り込もうとする純狐が、意外そうな声をあげた。盲点だったと浮かんだ事柄についつい笑ってしまう。
「――狐仙たちの様に都へ単身で忍び込むの何て初めてですね、ふふ」
口に出してみると不思議と気分が上向いた。死地へと向かうというのにわくわくしてきた。自分の同胞達の真似事を最期にするなど、洒落ているなと笑みがこぼれた。
純狐の足取りは軽い。お気に入りの場所まで散歩をするみたいに軽やかに歩む。悲壮感は、欠片も見られない。
見上げれば、美しい満月が飛び込んでくる。
「狐仙、月が綺麗ね――」
一匹の妖狐が妖怪達の中に紛れた。