またぼちぼち書き進めてゆくと思いますので、気長にお付き合い頂けたら幸いです
一振り目
久方ぶりに穴倉から出た煙灰は、照りつける日差しの強さに瞳を細めた。
さて、最後に外を出歩いたのは何時だったかと考えるも、明確な答えは出なかった。
時間の流れを認識することなど、とうの昔にやめていた。どれほど日が廻ろうと、季節が変わろうと、それに意味を見いだせなかったからだ。
頑強な鬼の肉体は時の流れを物ともしない。強大な妖怪としての力が、存在の風化を許さない。決して消えることのない、未練の火は煙灰の心に灯りつづけていた。
時間など関係ない。ただ、皆が起きるのをひたすら待つ。煙灰にとって、時の流れとはただそれだけの物であった。いつか起きるであろう、同胞達を待つ。それがどれほど長かろうと関係ない。
ただただ待つ煙灰に、それがどれほどかかったかは重要ではない。だからこそ、どれほどの時が経ったのかについて煙灰は無頓着であった。
「さて。どちらだ、お前達」
煙灰が自らにじゃれつく動物らに声をかける。足元でじゃれつく二匹と、肩に止まる一羽はそれに反応して動きを見せた。狐仙は再び、煙管の中で眠りについた為、通訳はいない。
我先にと争う様に、先を示す。しかし、地を行く狐と狸は喧嘩をするように互いにちょっかいをかけている。空を飛ぶ鴉のみが我関せずと言う様に、煙灰を見つめながら翼を羽ばたかせ、行き先を示す。
煙灰はそんな鴉の姿に要領が良いなと、小さく笑みをこぼす。煙灰が歩き出すのを静かに待つ鴉や、賑やかな地を行く二匹においてかれまいと、煙灰も自らの歩を進めた。
先を示す三匹に連れられて煙灰は獣道さえない野山を進む。悪路を物ともしない二匹と、そもそも地形の影響を受けない一羽、さらには疲れを知らぬ鬼。その進む速度はかなりの物
であった。
山を一つ、二つといくつも超えてゆくと、煙灰の眼下に平原が広がった。もはや人も妖も消えて長き時が経った。都は爆発により消え、それ以外の家屋などの建物なども随分と前に風化して跡形もなく消え去っていた。
ただただ自然が広がり、雄大な大地が地平の先まで広がっていた。大地を撫でる風に草木が揺れる。数多の獣たちが、自由に世界をかけ、生存競争に身をやつしている。
多くの生命の息遣いが煙灰には感じられた。自然と口元に笑みが浮かぶ。命は巡る。世界で自分一人だけなどと言う事は無い。そう感じられるからだ。
「しかし、言葉が交わせぬのはちとつまらんか」
ついついそんな不満が口をついて出た。煙灰が不意に漏らした言葉に反応した三匹が、煙灰の顔を見つめる。何か言いたげな三匹に煙灰が口を開く。
「別段お前らに言ったのではない。それにそのうち……巡り合わせがあればそう言う事もあるだろう。さぁ、次はどちらだ?」
煙灰の言葉を理解しているかの様に、否、理解したうえで三匹が小さく鳴き声を上げて、再び歩を進める。
(我が妖力を浴び続けているお前達はどのような妖怪となるのだろうか?)
先ゆく三匹を見つめ、煙灰は先に思いを馳せる。いつだったかに拾い、面倒を見ていた三匹。ふと気がつけば、同種のそれらより、三匹はずっと長生きであることに気が付いた。
それが妖怪化し始めている事だと気が付いてからは、楽しみが一つ増えたと煙灰は笑みを浮かべた物であった。
まだまだ、良く言った所で小妖とでもいうべき存在。言葉を交わすにはいか程の時を要するか。それを待つのもまた一興と煙灰は先ゆく三匹を見つめ、またその後を追う。
またしばらく歩みを進めれば、三匹が森と平原の切れ目でその歩みを止めた。顔を煙灰へと向けた後、平原へと向ける事で、視線の先に何かがあることを示す。
煙灰がそれに従い視線を先へと向ける。
「くかかっ……あぁ、なるほど。確かにあれは人間だ。くかかかか」
視線の先に煙灰は人間を見つけた。滅び、消えたはずの人が映り込む。だが、目に映る人は煙灰の知る人間とは違う。月人とは、違う。
身にまとう力や、気配が異なる。自らとは、成立ちが異なる。
煙灰にはそれが理解できた。神に
永き時の中で自らが目にした、進化という過程を得て、目の前の人間達は生まれたのだと、煙灰は理解する。
「これは……暇がつぶせそうだ」
自分で思っているよりも嬉しさを含んだ声が煙灰の口から漏れでた。
事実、そうなのであろう。確かに人間であるが、月人達とは明確な違いを感じられる故に、憎悪の対象と
それが煙灰には自分が思っているよりも愉快なことであったらしい。そして思いのほか、悠久とも言えるほどの孤独は、いささか堪える物であったという事に気が付いた。
くつくつと喉を震わせて、笑い声が煙灰から漏れる。三匹はそんな煙灰を静かに見上げていた。
満足いくまで笑うと煙灰は再び視線を平原へと向けた。やはりそこには確かに人間達がいた。
とても立派とは言えない、粗末な布を巻き、石を付けただけの道具を持つ人間達。
けれども確かに自分たちで道具を生み、活用する人間達の姿がそこには存在していた。
「時の流れとは面白い物だ」
面白い。そう面白いのだ。幾星霜を経て、人が生まれる。神の手を、理外の力を必要とすることなく人が生まれる。
これを面白いと言わずして何が面白いと言うのだろうか。煙灰にはそう思えるほどに、目の前の光景は愉快な物であった。
「
煙灰の口から自然と、言葉が漏れた。今は亡き、自らの造物主に言葉を投げかけた。
くつくつとまた喉を鳴らし、肩を震わせる。しかし、視線は人間達から外さない。
平原には、人間達の家屋があった。月人達の作りし、都と比べるのもおこがましい程の粗末なものであるが、確かにそれは人間達の拠点となる地――集落であった。
泥や草木で作られた簡易の造形物。煙灰が吹けば飛んでしまいそうな程に頼りない。けれどもしっかりと居住地としての機能を持っていた。
道具を使い、物を作る。その人間らしさが煙灰には好ましかった。幾人かが、周囲を警戒している。
それは人間が、今の時代をもってしても弱い存在だからであろう。ここに来るまでに、目にした獣達がいた。人よりも大きい、肉食獣を幾体も見た。肉食でなくとも、猿の中には人より強い膂力を持つ物もいるだろう。
ゆえに人は、自らの弱さを補う為、群れをつくり、道具を作り、身を守る。その人間らしさが煙灰には何より嬉しく感じられた。尊く思えた。
まさにそれこそが人の強さ。まさにそれこそが道具の本懐。道具は使われてこそ意味を持つのだ。ただ一人、暇に飽かせて道具を作り続けた煙灰には目の前の人間の在り方が好ましかった。
ただ生きていた自分とは違う。今を懸命に生きようとしている目の前の人間達が眩しくさえ思えた。
遠き昔、まだ煙灰自身がエンと名乗り、人であった頃。自分達を見守っていた二柱はこのような気持であったのか。ふと煙灰は、人間達を見守りながらそう感じた。
「いや、考えても詮無きことか。もはや確認する事さえ叶わぬのだから」
煙灰の声色が沈んでいるように聞こえたのか、三匹の獣たちが見上げてきた。示し合わせたかのような、三匹の態度に思わず苦笑が浮かぶ。
しゃがみ込み、少々雑な、けれどかわいがるように獣たちを撫でる。煙灰に構われることが嬉しいのか、三匹は瞳を細めて煙灰の手に身をゆだねる。
「ん? どうした?」
煙灰が撫でている最中、狐が身体をびくりと跳ねさせた。耳がピンと張り、視線が煙灰から外れた。
疑問の声をあげ、狐の視線を追う様に、煙灰が瞳を向ける。
煙灰の向けた視線の先には大型の肉食獣がいた。上顎から生える二本の犬歯が異様に発達した四足の獣。狼や野犬とは違う。しいて言えば、虎系統に見える獣の姿が目に付いた。
――狙っているな
一目で集落の人間達を狙っていると察しがついた。平原とはいえ、背丈の高い所もある。ある程度まで近づけば元々の運動性能が違うのだ、人間など逃げ切れまい。
目の前の光景に煙灰はふと考えた。どうするべきかと。助けるか、助けないかを逡巡する。
何も人がいるのはココだけではあるまい。ならば、妖怪たる自分が人を助ける道理はないと。
折角生まれた人を、ここで減らすのは惜しいと。弱いゆえに絶滅の可能性もあろうと。
思考がめぐる。天秤が振れる。答えは――
「――――――! ――――――!!」
思考の最中に、事態が動いた。周囲を警戒していたうちの一人が獣を見つけて騒ぎ立てたのだ。にわかに集落が騒がしくなった。言葉が違うのだろう、何と言ったか正確な所は煙灰には分からぬが、獣が出たとでも言う様な内容だろうと当たりが付く。
草木で作られた家々から人間達が飛び出してくる。女が、子供が、蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。男達が木の棒に石を着けた粗末な武器を構えて、最後尾を進みながら決死の覚悟を顔に浮かべる。
意外と手馴れているのか、風下にある、森めがけて人々が逃げていく。知識としてではなく、経験として学んでいるのだろう。獣は鼻が利くと。
「こちらに来るか」
風下の森。それは煙灰達が居る所もその一つである。人間達に気付かれたと、獣も察し、草むらから力強く身を躍らせるように飛びだし、地を駆ける。
狙いを固まらせない様に人間達はある程度、ばらけて逃走をしていた。その内の一つの小集団が煙灰の所へと向かっていた。少年と少女、そして数人の大人の集団だ。
少女の手を少年が引きながら駆けている。けれど、それでもあまり速度が上がらないようだ。大人達は若い世代を守ろうという気概なのか、見捨てる様な事はせず、速度を合わせて走っている。
それは美談なのかもしれない。だがそんなもの獣には関係ない。遅い集団があるならそれを狙う。酷く分かりやすい狩り方だ。
背後を振り返って確認している大人の一人が、慌てたように口を開く。きっと急ぐように声をかけているのだろう。しかし、結果は変わらない。精神論でどうこうなるようであれば苦労は無いのだ。
むしろ、起きた結果は最悪といえた。焦って急ごうとした少女が足をもつれさせて転んだのだ。手を引く少年も、繋いだ手に引かれ、足が止まった。
大人達もそれにつられて足を止めるが、振り返った背後から迫りくる
まだ若い少年たちを見捨てるのも時間の問題だろうと煙灰には思えた。少年も、少女を立たせようと手を引くが少女は立たない。
儚く笑う少女の横顔が煙灰には見えた。そして、赤く鬱血して張れた足も。倒れた際に怪我をしたのだろう。もはや逃げられぬと悟ったのだ。死を、覚悟していた。
少女が何かを口走る。握られた手を解く。少年は嫌だと示す様に首を振り少女の手を強く握るが、少女が握り返すことは無い。
大人たちが、少年の身体を掴み、逃げようとし始めた。少女の状況から、無理を悟ったのだろう。正しい選択だ。それは厳しい生存競争にさらされる彼らにとって正しい選択だ。
けれど、少年には許容できないのだろう。引っ張られた少年の手が、少女から離れた。少女は笑う。満足げに笑った。
それをみた少年は身体を振り乱し、大人を振り切ると獣と少女の間に手を広げ立ちふさがった。
自分を食べろと言わんばかりの行動。否、言外に自分を喰らえと言っているのだろう。
自分をたべている間に少女に逃げて欲しいと。腹を満たせば、獣はねぐらに帰るだろうとの考えなのかもしれない。
少年の行動に少女が声を荒げる。大人達は、めまぐるしく起きる状況の変化に、混乱をきたしていた。
――グルゥ
獣が一度低く喉を鳴らした。その牙が少年の眼前に迫る。瞳に雫を湛えた少女が声をあげた。
獣が飛び、少年が瞳を閉ざし、少女が絶叫する。
「くかかっ」
愉快な笑い声。三者の耳に不思議と染み込む様にその音が届いた。
「惚れた女を守ろうとするか。かかっ、褒めてやろう、小僧」
声が聞こえた。力強い声が。ふわりと背後から吹いた風が、少年の身体を撫でた。
いつまでも来ない衝撃と、届いた感覚に、少年がきつく閉じた瞳を開く。
「お前の行いは力のないガキの青臭い自己満足だ。だがまぁ、悪くない物を見せてもらった」
少年の視線の先には男、煙灰の背中が見えた。
自分たちが見に纏う衣装とは随分と異なる不思議な衣をまとい、髪色さえ違った。木々が燃えた後に残る灰の様な髪色の男が、獣の牙をその手で掴み自らと獣の間に立ちふさがっていた。
牙を掴むその手には並々ならぬ力が込められているのか、ピクリとも動くことは無い。
獣がもがき、腕を振るい煙灰を害そうとするも、それにひるむ様子さえない。
少年も、背後の少女も、大人たちにも理外の出来事に思考に空白が生まれた。
「くかかっ。言葉が通じぬのはつまらぬか……さてはて、面倒だが覚えておくか」
口をパクパクと開閉させる少年を愉快気に眺めた煙灰がそう口にした。時間などいくらでもあるのだからそれもまた一興だろうと。
しかし、今は目先の問題だと獣を見やる。牙を捕まれ、上体が持ち上がった体勢のまま動けぬ獣。前足が地に届かず、もがく様に煙灰に振われるも爪も薄皮一枚傷つける事さえ敵わない。
「運が悪かったな」
一言。煙灰は言葉を獣に落とすと、首をへし折る。いたぶる趣味は持ち合わせていない為、一瞬のうちにそれは終わる。
骨の砕ける鈍い音が周囲に響き、獣の四肢から力が抜け落ちた。獣が絶命したことを示す。
煙灰が掴んだ手を離せば、鈍い音と共に肉が地面を打つ音が聞こえた。
「――――――!!」
少年が声をあげた。けれども煙灰には正確な内容を察することはできない。
振り返り少年を見据える。自身の腰ほどの背丈しかない少年と目線を合わせる様に傍にしゃがみ込む。
煙灰の目に少年の瞳が映り込む。興奮したような熱を持つ瞳が煙灰をひたと見据えていた。
憧憬か尊敬か……少なくとも負の感情をその瞳より読み取る事はできなかった。
煙灰の口元が柔らかく緩む。
「かかか、この俺に憧れるか。これはまた新鮮な反応だ、かかか」
まるで恐れをみせず、興奮した面持ちの少年に煙灰は機嫌よく笑う。
少年も煙灰を言葉が通じぬことが分かったのか、身振り手振りが大きくなる。しかし、次の瞬間には、ハッとして、背後の少女に身体が向き直った。
少女の傷をいたわるように、怪我の具合を確認するように、少年が少女と足を見る。
その少年の様子に煙灰は僅かに目元を緩めた。左手を軽く開き、掌が空を向くように手を動かす。
音もなく空に浮く雲から落ちてきた枡を、その手が掴む。腰についた瓢箪の栓を抜き、中の酒を枡へと注ぐ。
透き通った透明な酒が、枡の中でうっすらと朱に染まる。まるで血を数滴たらしたかのようなうっすらとした赤色をつけた。
軽く枡を揺すり、中の酒を数度撹拌する。ちゃぷちゃぷと耳に心地いい水音と、酒の香りが広がった。
少年と少女も匂いに気が付き、顔を煙灰へと向ける。
「小僧の無謀な勇気と、久方ぶりに面白い物を見せてくれた礼だ」
通じる事が無いと解っていても煙灰は言葉を投げかけた。二人が反応を示す前に、煙灰は枡の中の酒を少女の患部へとこぼす。
打ち付け熱を持った患部に、冷たい酒をかけられた少女がびくりと身体を震わせた。
少年が何か言葉を煙灰にかけるも、煙灰はそれに構う事無く、枡を傾け続ける。まだ何かを言い募ろうとしたのか、少年が口を開きかけるも、少女にそれを止められた。
少女が何かを言い、少年の視線が足へと向かった。その変化は静かであり、また劇的だった。
「この程度すぐ治る」
腫れが引き、赤味が無くなる。足の傷が癒えてゆく。過去に煙灰が作った鬼の宝の一つ、薬枡である。自らの腕をつぶし、素材とした傷を癒す枡。
少女の怪我が完全に癒えると煙灰は酒をかけるのをやめる。そして僅かばかり目を細めて煙管を一吸い。
「なるほど……」
僅かばかりの嘆息混じりの声が漏れ出た。その視線が少女の癒えた足を静かに見据える。
少女の足に宿る
口元から煙管を離し、ふぅと一吐き。漏れ出た白煙が少女の足に降りかかり、妖力を洗い流す様に少女の身体から妖力を取り去った。
少年も少女も煙灰の行動に、その瞳をパチクリと瞬かせ、きょとんとしていた。
傷は治ったのにどうしたのと言いたげな表情であるが煙灰が何かを言うことは無かった。
煙が風に流された後には、少女の足には欠片の妖力も残ってはいなかった。
「これで問題なかろう」
煙灰はそう断ずると腰を上げた。ふと周囲を見渡せば、逃げていた集落の人間達が煙灰を含めた三人を遠巻きに見つめていた。
集落の人間達の瞳には訝しむような感情と、警戒の色が見て取れた。
(まぁ、そうであろうな)
とてもではないが彼らの誰であっても、獣を素手で殺すなど出来まい。であればこそ、それを成した煙灰は得体が知れない存在なのであろう――たとえ姿形が同じであろうとも。
この際、角の有無はあまり大きな問題ではないであろう。自分達と同じような人であるのに、まるで違う煙灰は不気味なのであろう。
(しかしこれはまた……)
けれども、どの視線からも僅かながら、少年から感じた憧憬の様な熱を感じた。強き力に引かれたのか、救われたことから来る感情なのか。
答えが出ることは無いのだろう。煙灰が長居することは無いからだ。
ここに人がいるという事は他にもいるのだろうと煙灰は考えている。折角だから旅でもするかと考えが浮かぶ。
こうも好奇の視線を不特定多数から向けられるという状況が慣れず、煙灰は僅かばかりであるが居心地が悪かった。それもここを去りたいと思わせる要因の一つであるのは確かだ。
離れようと一歩足を踏み出すも、引き止める力を感じた。少年が煙灰の服の裾を掴んでいた。何かを伝えようとしているのか、早口で何かを捲し立てる。
自分の胸を叩き、また口を開く。自分を鍛え、強くしてほしいと言う事だろうかと、一つの考えが思い浮かぶ。
鬼に師事する。そんな考えが浮かんだのは、はるか昔に同じ程度の背格好の子供に手ほどきした故にそう思ってしまったのか。懐かしい思いと苦い思いが同時に煙灰の胸中に浮かぶ。
「くかかっ」
浮かんだ思いを跳ねのける様に快活な笑いを飛ばす。愉快気な笑い声を意識的にあげる。
少年の頭に手を当て、ぐりぐりと乱暴に撫でつける。煙灰の力に抵抗しきれず、少年の身体が揺れ、手が裾から離れた。
また手を開けば、空の雲から小さな物が落ちてきた。手のひら大の小さな円盤。表面には艶があり、光を反射し周囲を映す。そう、鏡だ。小さな鏡を煙灰は手にしていた。
裏面には幾何学模様を描く様に、掘り込みが入っていた。端を軽く摘まみ、指先に熱を込める。上端の一部が摘ままれた指に沿い、小さく出っ張る。そして出来上がったでっぱりに小さな穴を空けて煙を通す。
通した煙を固め、紐にする。それはほぼ一瞬で行われたために、少年を含めた周囲の人間にはいつの間にか煙灰が小物を持っているように感じられただろう。
「代わりといっちゃあなんだが、こいつをくれてやる」
言葉と共に少年に手の中の鏡を投げる。放られたそれに対して、少年が反射的に掴みとった。
渡された鏡を見て、少年が瞳を見開く。それは当然の反応といえる。竪穴を掘って、作った木と草そして泥で作られた家屋からわかるように、鏡など見たこともない上に、鏡という概念さえ分からない可能性の方が高いのだから。
けれど、煙灰は気にすることなく、反応を見た後一度頷く。
「大事ならば決して手放すな小僧」
かけられた声にまた少年が反応して、視線を手元の鏡から煙灰へ戻すがそこにはもう誰もいない。
少年が辺りを見渡すも、やはり煙灰の姿が少年の瞳に映り込むことは無かった。
周囲に声をかけても皆首を振るばかりで、消えた事を裏付けるばかりであった。
「正しく使え」
遠く離れた丘の上で煙灰は小さく言葉を漏らした。
豆粒ほどに見える少年らを最後に一目見た後、踵を返し歩き出した。
足取りは軽い。煙灰の後を追う様に、三匹の小動物たちが後を追う。
さてどちらに向かおうかと空を見上げる。風の流れに雲が日の沈む方角に運ばれていくのが見えた。
風の向くままという様に、煙灰も進路を変えて、雲の後追う。風が吹き、土煙が舞い上がる。煙が消えた後には、やはり何も残ってはいなかった。