槌を振いし職人鬼   作:落着

18 / 24
三振り目

 固い物が擦り合わされる音が辺りに響く。山中にある川辺。大岩が転がるだけの特別な所など何もない場所。

 しかし、あたりには神気が満ちていた。その大岩を中心に神域とでも呼べるような空間が形成されている。その空間内に、規則正しく音が響く。乱れることなく音が続く。

 

「飽きないねぇ」

 

 幼い少女の呆れ声が発された。声をかけられた相手は大柄な男、煙灰だ。

 声の主は湖で出会った諏訪と名乗った少女。

 

「物を作るってのはもう俺にとっちゃ自分の一部みたいなもんだ。それだけ長い間時間を費やした物でもあるし、時間をつぶした物でもある」

「ふぅん……石を擦り合わせるだけでもかい?」

「くかか。確かにお前さんから見たらたいした面白味もないかもしれんな」

 

 諏訪にそう言葉を返した煙灰が手を止めた。音を出していた固い物。手に持った石を、すっと瞳を細めて眺める。

 

「ほれ」

 

 一通り見分した後、手に持ったそれを諏訪に向けて放る。

 

「おっと」

 

 危なげなくそれを受け取ると訝しんだ視線を投げかける。

 しかし、煙灰はそれに何か言葉を投げかける事はせず、自身の周りにある手のひら大の石を手に取り、煙管で叩いて形を変える。

 

「石なんて貰ったって嬉しかないよ。まだ人間達が持ってくる獲物の頭なんかのがましってもんさ。まぁ、あれだって貰っても困るけど、食べることはできるからね」

 

 カツカツと石を叩き、歪な形の石を整えていく。

 

「まぁ、そう言わずに見て見な」

「なんだい、不躾に。まぁ、暇だから……へぇ」

 

 先ほどから手元にあった石へと視線を落した。手にある石は、すべすべとした肌触りで、光沢をもっていた。更に、石の一部が薄く潰れていた。

 

あの子等(ニンゲン)が持ってた石の道具みたいだけど、こっちのがよく切れそうに見えるね」

「だろうな。あっちは割って切れそうなのを見繕った物。これは斬る為にわざわざ削った物だ。違いは出るさ」

「なるほどね。それで?」

「あん?」

 

 疑問を投げかける言葉に、煙灰が疑問の声をあげた。削りやすいように小さく割った石を片手に視線をあげた。

 

「こんなもの作ってどうするのさって話だよ。正直私が持ってたって何の意味もないのは言うまでもない事だろう?」

「だろうな」

「で、どうするんだい?」

 

 少しだけにやにやとした表情の問いに、煙灰は小さくため息を吐いた。

 

「どうもしねぇよ」

「作ったのにかい?」

「俺は作るだけだ。どうするかは貰った奴が決めたらいい。泊める代わりにお前さんがなにか見せろと言ったのだ」

「確かに何か面白い物でも見せてくれって言ったのは私だけど……面白いかねぇこれ」

「どうだろうな。ま、何かは見せたんだ。好きに使え」

 

 一瞥もくれない煙灰に、諏訪はそんなものかととりあえずの納得した。

 さてどうしたものかねと手元の石を弄ぶ。

 投げては掴み、投げては掴み。規則正しく石を放って思案に耽る。

 また一つ、音が増えた。

 

 

 

 

 

 

 

「作り方を教えろだぁ?」

「あ、え、その……おね、お願い、しま、す……」

 

 言葉が続くほど声が消え入りそうに小さくなってゆく。

 煙灰は目の前の人物、青年の手前程の人間を見据えていた。

 大柄とはいえ座っている煙灰と立っている青年とではやや青年の方が大きく見えるだろう。

 しかし、ふてぶてしささえ感じられる煙灰と、身を竦めている青年では青年の方が小さく見えてしまう。

 萎縮する様子をまるで隠せないながらも引く様子の見せない青年に煙灰はどうするかと頭を掻く。

 諏訪の所に留まってから幾日も過ぎ去った。

 時に何かを作り、時に人を眺め、時に諏訪とじゃれ合いという名の手合わせの真似事もした。

 そういった行動故か、煙灰も諏訪を崇める人々から畏敬の念を送られるようになった。

 煙灰がナニかは分からなくとも人を超えるモノであることは解るのだろう。

 ゆえに、煙灰は今まで人々から何かしらの接触を受けたことは無かった。

 遠巻きに眺められるか、はたまた不本意ながら手を合わせて崇められるかといった具合であった。

 そして本日も暇に飽かせて狩猟に出かける人間達を丘の上から眺めていたら、現状となった次第だ。

 大きくため息を一つ。それに反応してびくりと青年が肩を跳ねさせた。

 

「ソレか」

「は、え、ソレ?」

「手に持ってるその石っころだよ」

「あ、は、はい!」

 

 煙灰に指摘されて、青年が手に持った石。先日に煙灰が諏訪に渡した石を差し出した。

 差し出されたそれを煙灰が手に取って眺めた。

 確かに自分が渡した物に相違なかった。あの神が下賜することは想定していたが自分に教えを乞いに来る人間がいたことが意外であった。

 

「諏訪にやれと言われたのか?」

 

 本人からの入れ知恵かと煙灰は問う。

 

「い、いえ、違います!」

 

 けれど青年の回答は否である。

 愉快気に瞳を細めた。

 

「ほぅ、ならどうしてだ?」

 

 問う。何故、どうしてと。

 

「もっと欲しかったから」

「もっと?」

「これはすごく良く切れた。だからこれがあればみんながもっと助かると思った。でも諏訪様はもうないと」

「だから教えろと」

 

 僅かに声を低くして言葉を返す。

 青年が生唾を飲んだ。緊張か恐れからか、顔には汗がにじんでいた。

 緊張のしすぎか、唇が白く血の気がない。

 しかし、青年は逃げ出さなかった。

 

「教えて、ください。貴方様なら作り方を知っていると諏訪様がおっしゃっていました。どうか、どうかお願いします」

 

 青年が這いつくばり教えを乞う。

 教えを授けて欲しいという姿に煙灰はふと昔を思い出した。

 

 

――あの餓鬼と違って物を頼む態度はできているな

 

 

 思い出すは(ねぐら)に一人で押しかけてきた騒がしい小娘。

 伏したまま動きをみせない青年に煙灰は愉快気な笑いをあげた。

 身体の芯まで響くその笑い声に青年は圧倒された。

 

「良いだろう」

 

 短い一言。けれどそれは青年の欲してやまなかったもの。その事に身体の底から歓喜に震えた。

 自分たちが崇めた奉る諏訪と一歩も引くことなく付き合う煙灰に物を頼むという事は青年にとって酷く恐ろしい物であった。

 諏訪に対しても自分たちは供物をささげ、日々の感謝をささげるだけである。

 要求など一度たりともしたことは無かった。

 たとえそれが超常の存在の気まぐれでも、時折もたらされる庇護や恵みは確かに自分たちの命を助けてくれた。

 何かを要求することで、気を変えられでもしたらそれだけで死ぬような自分たちが何かを欲すると言う事は考えられなかった。

 しかし、此度にもたらされた石は違った。

 決して届かない超常の物ではない。手を伸ばせば届くかもしれない。

 そう感じてしまう物であった。

 諏訪から渡された石を眺めて考えていると、耳元でささやかれたのだ。

 あの者なら作り方もしっておろう。そう耳元でささやかれた。

 故に、青年は煙灰に乞いに来たのだ。

 

「だが手取り足取りと丁寧に教えることなどせん。自分で学べ」

 

 煙灰がすくりと立ち上がる。

 煙管を一吹かし。風がすぐさま白煙を流してゆく。

 

「小僧、いつまで地べたで寝てるつもりだ。覚える気が無いなら構わんがな」

 

 すたすたと歩いてゆく煙灰。

 青年はすぐさま飛び起き、置いてかれまいと煙灰の後をついて行った。

 諏訪も面白い者を選んで渡した物だ、心の内に浮かんだ思いに口元を緩める。

 さて、筋が良いのか悪いのか。川辺を目指す煙灰の足取りは軽い。

 

 

 

 

 

「痛っ!」

 

 青年が額を抑え、声をあげた。

 視線の先には物を放った姿勢の煙灰がいる。

 

「これで切れる物なんざこの世にねぇ。手を抜くなドアホ」

 

 岩に座り、煙管を吹かす煙灰に青年が恨めしげな視線を送る。

 しかし煙灰はまるで意に介さない。それどころか顎でしゃくって早く次に取り掛かれと促す始末だ。

 青年が煙灰に教えを乞うてから二日が経った。

 煙灰は最初に一度だけ、青年の目の前で同じものを作って見せた。

 それからは青年に何も教えることなくひたすら作らせ、出来上がった物を評価している。

 

「これだって細い枝位なら……」

「あん?」

 

 口をとがらせて不満を口にしようとするも、一言でそれを押し込める。

 しゅんと項垂れつつも、不満を隠せていない青年に煙灰はため息を一つ。

 青年が呆れられたかと怯えるがそうではない。

 

 

――小娘の筋が良過ぎたのも問題だな。アレが基準では誰でも腐る、か……

 

 

 一度見せれば覚える様な特異な存在を経験している所為で、煙灰の中での要求が知らずに高くなっていたのだ。

 そしてその事を煙灰自身が今自覚したのだ。

 

「確かにそれくらいなら千切れるだろうさ。だがな、お前さんが求めているのはそうじゃないだろ。それくらいなら今までの石を割って作った物と変わるまい。違うか?」

 

 煙灰の言葉に青年ははっとして地面に落ちた石を見つめる。

 

「とはいえ俺も手を抜きすぎたな」

 

 どれ、と短く言葉を発して煙灰が岩の上から青年の立つ川辺に腰を下ろした。

 

「まずは小さく平たい石で作れ」

 

 手近に落ちている平べったい石を一つ手に取る。

 

「確かにこれから使う事を見越して手で持ちやすい物や、槍の穂先に使う用で大きめの物を選びたいお前さんの気持ちは分からんでもない。だが、まずは基本が出来ていないのだ。欲張るな」

 

 小さくもすでに平たいそれを青年に見せる。

 表面の平らで大きめの石に、川の水を手で梳くいかける。

 

「次に加水が少ない。擦れば熱を持つ。削ればカスが出る。乾いていると引っかかりやすい。水は熱をさまし、カスを流し、滑りを良くする。こまめに濡らせ」

 

 煙灰が石を研磨し始める。鬼の膂力で研磨される石はみるみる鋭さを増してゆく。

 少しずつ石を動かし、裏表を変え、均一になるよう、鋭くなるように研いでいく。

 

「手を抜くな、楽をするな。それは道具の出来を左右する」

 

 擦れる音が一定間隔で刻まれる。時折水を掬い、かける音が挟まれる。

 

「少なくともこれは、お前達の命を預けるものだろう。なら決して妥協するな。自分の命を安く見るな」

 

 そうだ。狩猟では死ぬことだってありうるのだ。青年は改めてそれを自覚させられた。

 半端な物を作るなと、煙灰の熱が伝わる。

 

「ただの石だと侮るな。これは生き物を殺せる武器だ」

 

 スッと青年に向けられた煙灰の視線。

 それはお前だって殺せるのだぞ。青年は煙灰の視線にそう言われた気がした。

 それから煙灰は言葉無く、研磨を続ける。

 しばらくすれば磨き上げたのか手を止めた。

 

「二度目の見本だ」

 

 軽く放られた石を青年は受け止める。

 研ぎ澄まされた石は歪みなく真っ直ぐで鋭い。

 指先に当てるだけで皮が薄く切れた。

 

「そこまでとは言わん。だが目指すことはやめるな。上を見るのをやめたらそこまでだ」

「……ありがとうございます」

 

 食い入る様に石を見つめた後、青年は礼を一言。

 

「さて、もう帰れ。日暮れだ」

 

 茜色に染まる空を見上げて終わりを告げる。

 

「最後の一回だけでも……」

「焦るな。それにいつだって出来る。今でないといけない理由は無い」

 

 青年の頭を煙灰が乱暴に撫でつけた。

 まるで抵抗できない力に青年の頭がぐわんぐわんと揺れる。

 目が回った青年がしりもちをつくと煙灰は楽しげに笑い、その場を後にした。

 青年は山へと消えていく煙灰の後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。

 

 

 

 

 太陽がすっかりと姿を消し、月が我が物顔で中天を制していた。

 諏訪と煙灰は山中の大岩の近くで腰を落ち着けていた。

 煙灰が取り出したのか、意匠の凝った杯を手に二人は酒を酌み交わしていた。

 尽きることのない酒を生み出す瓢箪。

 湯水のごとく酒を飲む二人にとっては丁度良い逸品であろう。

 

「くぁ! 美味いねこいつぁ」

「かっかっか。当り前だ、命の水だぞ」

「なぁなぁ煙灰よ」

「駄目だ」

 

 撫でつける媚びた声の諏訪を煙灰がぴしゃりと撥ね付ける。

 まるで取り合わない態度に眉根を寄せて諏訪が口を開く。

 

「まだ何も言ってないじゃないか?」

「瓢箪はやらん」

「…………」

「ほれみたことか」

 

 したり顔で言われてしまえば諏訪に返す言葉は思いつかなかった。

 ふて腐れた事を隠す事無く顔に表し、杯を煽る。

 諏訪の態度に煙灰が快活に笑い、自らも杯を乾かす。

 新たな酒を注ごうと瓢箪に煙灰が手を伸ばすも、サッと諏訪が掻っ攫う。

 

「おい」

 

 煙灰が威圧して声を出す。

 鬼の酒を掠める何ざいい度胸だと。

 対する諏訪はクツクツと楽しげに笑い自らの杯に酒を注ぐ。

 

「固い事言うんじゃないよ。好きに呑めと杯と酒をだしたのはお前さんだろうに。私は好きに呑んでいるだけさ」

 

 悪びれることなくそう嘯く諏訪に煙灰が口をへの字に曲げた。

 確かに始めにそういって酒の席を作ったのは自分なのだから言い返す言葉は無い。

 だからといって酒を盗られてすごすごと引き下がっては鬼が廃る。

 

「まぁ、好きにしろ。今日で最後だからな」

 

 何でもない様に煙灰は告げた。

 目の前に差してある鹿の串焼きに手を伸ばしかぶりつく。

 供物として諏訪に献上された肉だ。酒を盗られたのだから遠慮なく食べても構うまいと腹に収めてゆく。

 それとは対照的に、諏訪は注いだ姿勢のまま固まっていた。

 

「おい、酒が零れてるぞ。いくらでも湧き出るからといって無駄にするな」

「あ、悪いね……じゃなくて最後ってどういう意味さ、煙灰!?」

 

 グイッと身体を乗り出して諏訪が問う。杯と瓢箪を持っていなければ胸倉を掴みあげかねない勢いだ。

 しかし煙灰は諏訪が近づいたのを良い事に、諏訪の持つ瓢箪を奪うと自らの杯に酒を注いでいく。

 

「もとより一時の逗留のつもりだったのだ。何時ふらりといなくなろうとかまうまい」

「煙灰はそうかもしれないけど私がかまう!!」

 

 納得できぬと顔にありありと書きながら諏訪が詰め寄る。

 出会いがしらに顔面を殴り飛ばした間柄であるというのに、随分と気安くなった物だと可笑しさがこみ上げて来た煙灰が笑いを漏らす。

 煙灰の胸中など知らない諏訪にとってはあしらわれた様で煙灰の反応は気にいらなかった。

 ますます眉間に皺が寄るが、諏訪が言葉を発するより先に煙灰が口を開いた。

 

「別段二度とここへは来ないというわけでもないさ。ただちょいと他も見て見たい、そう思ったのさ」

 

 手にした瓢箪を諏訪へと向ける。

 なみなみ注がれた手元の酒を一息で飲みきると、諏訪が空の杯を煙灰へと向ける。

 とくとくとく、と音を立てて酒が注がれる。

 あまりになんでもないように言ってのける煙灰に毒気を抜かれたのか諏訪も気を落ち着けた。

 

「ふぅん。そんなもんかい」

「そんなもんだ」

「あーあ、でも急に言うなよなー。寂しいじゃないか」

 

 あっけらかんと、まるで寂しさなど感じさせない口調で諏訪が告げる。

 欠片も寂しさを感じている様には聞こえないが、諏訪は確かに寂しさを覚えていた。

 初めて会った人外という同類。仲間。何もなくとも一緒にいて苦痛でなかった相手が急にいなくなる。

 想像すれば諏訪の心に感情が浮かんだ。

 

 

――なるほど、これが寂しいって気持ちかい

 

 

 自身の心の動きに諏訪が楽しげに笑いを漏らした。

 存外、自分たちの精神性もそう人間と変わらないところも有るのだと思うと可笑しくてたまらなかったのだ。

 

「次はいつ来るんだい?」

「さぁな、気が向いたらだ」

「随分と先になりそうな話だねぇ」

「酒でも作って待ってろ」

「ふふっ。それもいいかもしれないねぇ」

 

 諏訪の言葉を最後にしばらく無言が続く。

 パチパチと薪が音を立てている。近くを流れる川の水音。

 風のざわめき。虫の声。鳥の鳴く声。

 夜が二人をそっと包み込む。

 

 

 

 

 

「まぁ、殺しても死ななさそうだけれど達者でな」

「くかか、俺を追い詰めれる様な奴がいるなら見て見たいな」

 

 陽が山間から顔出し始めたころに諏訪が煙灰へ見送りの言葉を口にする。

 

「そいで?」

「あぁ、なんだ藪から棒に」

 

 頭の裏で手を組みながら見上げてくる諏訪に煙灰が眉をひそめた。

 問い返された諏訪がため息を一つ。

 

「腰を上げた理由さ。いつでもいいなら昨日言って今日出ていくなんて忙しなくする必要もないだろ。ちょっとしたもんでも理由、あるんでしょ?」

 

 自分の考えをまるで疑っていない諏訪にやれやれと言いたげに苦笑した。

 諏訪は煙灰の反応にほれ見た事かと口元をニヤリと歪めた。

 

「楽しくなる前にやめておくためだ」

「うん? 何が楽しくなるってんだい?」

「物を教えんのがだ。そのうちあれこれ教えてしまいそうでな」

 

 その言葉に諏訪も思い至る。

 ここ幾日の間、煙灰が面倒を見ていた青年の事をだ。

 

「それのどこがダメなのか私にはちょいと見当がつかないなぁ」

「物を教えることは悪かない。だがな、今はまだ何もかもが早すぎる」

「早すぎる?」

「あぁ。文化も文明も何もない。これから一つずつ作っていく。今を生きるあいつらがだ」

「ふむ」

「それなのに過去の幻想がそれにちゃちゃ入れんのは違うと俺は感じた。だからそうなる前に出ていくのさ」

「ふぅん……ま、いいさ。私は別段そんな事気にしやしないけれど、お前さんが気になるんなら仕方ない」

 

 陽が顔を出して輝きを失くした月を見上げながら煙灰は言った。

 諏訪も煙灰の様子に何かを感じたのか強くは止めなかった。

 ただ少し、寂しいと感じた。煙灰がいなくなる事にではない。

 過去の幻想。それが何を示すのかは具体的には分からない。

 けれどそれを聞き、煙灰の視線を追う様に月を見上げた時、胸の中に寂しさが満ちたのだ。

 煙灰と初めて出会った時と同じ正体不明の感情の動き。それはきっと自らの起源に由来するのかもしれない。

 諏訪はそう感じたが思いを霧散させるように小さく息を吐く。

 

「またきな、煙灰」

「次までに名を考えておけ」

「あー、うん、まぁ気が向いたらね」

「ものぐさめ」

「別段困りはしないからねぇ」

「かっかっか、確かにな」

「だろう? ふふ」

 

 何でもない事に笑いあう。諏訪にとっては煙灰と出会うまでにはあり得なかった出来事。

 煙灰にとっては酷く久しぶりに感じる出来事。

 それは二人にとって、かけがえのない時間であった。

 けれどどちらも未練に縋ってしまう性格ではない。

 またこれから先何度でも顔を突き合わせることもあるだろう。

 そう考える故に別れはあっさりとしたものだった。

 じゃあな。煙灰は最後に一言告げると振り返る事無く彼方へと消えて行った。

 諏訪も煙灰が歩き始めれば背を見送る事もせず、湖へと向かい歩み出す。

 特別なことなど何もなく、また明日とでも言いそうな程にあっさりと二人は別れた。

 そうしてまた二人は自らの日常へと戻っていく。

 去りゆく煙灰の足元にはいつの間にか三匹のお供が戻っていた。

 風で薄れていく雲のように、煙灰達の姿が地平に消えた。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。