煙灰の意識が覚醒する。
裂け目に呑まれた際にどうやら意識を落していた事を目覚めた時に自覚した。
身体を起こしながら閉じた瞼を持ち上げる。
引き寄せる力に抵抗して妖力を消費していた。しかし、妖力の消耗は感じられなかった。
その事実からいくらかの時間を気絶していたのかもしれないと感じる。
「ここは……どこなのだ」
視界に映り込む光景。
黄昏時を連想する薄暗い世界。
濃紺と深緋の色合いが混じる。
何処ともしれぬ世界。
「ここは俺のいた場所ではない……世界が違う」
そう、文字通り世界が違う。
太陽は無く、月は無く、星も無い。
空とも呼べる場所には何もない。
ただただ色が付くのみ。
周囲を見渡しても何もなく、地平の彼方。否、視界の届く限り起伏と呼べる物は何もない。
煙灰の周囲に落ちる道具の一部と自身以外何も見当たらない。
不意に手に握る感触からソレの存在を思い出した。
視線を落とせば今回の原因の一端とも言えるであろう槌が存在している。
しかし、その槌からは何も感じ取れなかった。
行使した時に感じた何らかの力も感じ取れなかった。
だが槌に宿った機能が喪失したとは思えなかった。
ただ、燃料が尽きている。そんな印象を受けた。
――少なくともこれで帰れそうにないか……いや、使えたとしても、か
浮かんだ考えを打ち払う。
壊すことは無くとも自らの為に使うことはしまいと自身に戒める。
そして使えたとしても反動が起こりうる可能性を考えれば安易に使うことは危険に感じられた。
標も何もない世界。まずは手近なことから始めようと煙灰は散乱している道具を煙でまとめていく。
片付けられていく道具を眺めながら独りごちる。
「界を渡る道具でも作ってみるか」
「えぇ、そんなにせかせかしないでよ!」
「っ!!」
発した言葉に返答があった。
すぐさまその場を飛び退り、煙灰は声の発生源へと視線を向ける。
そこには一人の女がいた。
黒の
そして何よりも目につく首から延びる三本の鎖と先端につながる球体。
そのうち二つは分からないが一つは月に酷似しているように煙灰には感じられた。
「お前は……」
「んー?」
無邪気な子供みたいに女は身体をふらふらとさせる。
だが煙灰は身体を強張らせた。
淀んだ血の如き赤黒い髪と瞳。
自身と似た色合いにも関わらず結ばれた視線にゾッとした。
これは同じ生き物なのかと問いたくなる。
引きつる喉を無理矢理動かした。
「お前は、何だ?」
「あはは、私は一体なんでしょう?」
何が楽しいのかカラカラと女は笑う。
ひとしきり笑い満足したのか、顎に指先を当てて小首をかしげた。
ちょっとした小さな悩みをどうしたものかと考えている仕草。
「うん、決めた」
煙灰をその視線が明確に捉える。
「まどろっこしいのは無し」
「!?」
「およ?」
言葉の途中で突然女が煙灰の目の前へ現れる。
前触れも予兆も、ましてや動いた事さえ知覚できなかった。
振り抜かれた足を躱せたのは偶然。否、ある種の必然とも言えるかもしれない。
煙灰は無意識の内に半歩足を引いていたのだ。
助走の為ではない。自覚できない無意識の内で臆していたのだ。
「な、ンのつもりだ!?」
空を蹴った足先で空間が破裂する。
生まれた衝撃波が煙灰を押し流した。
「暇だったから遊ぼうと思ってね。丁度いい感じな所に貴方が居たから招待したの」
女の言葉に記憶を刺激された。
呑み込まれる直前、聞いた声。
目の前の化け物がその声の主であったと煙灰は理解する。
「そんな理由で呼んだってのか!」
「うんうん、そうだよ。その通り。それだけの理由で貴方を呼んだ。それだけの理由で貴方をここに堕としたの」
「そうかい。ついでといっちゃなんだがここは一体どこなんだ?」
問われた瞬間、女は堪えきれない楽しさを笑みにした。
その笑顔に牙を剥いた獣、歯を無視出しにして笑う鬼を連想した。
自慢する小さな子供みたいに女は答えを返す。
張り上げられた声には誇らしさが籠っていた。
「ここは全ての命の終着点! 何人たりとも! 何者であろうとも! 逃れることはできない生命の果て!」
女の言葉に、感情に、動きに呼応し世界が脈動する。
「生命の、世界の、宙の、地の、すべての果て! それがここよ!!」
女の背後に光が生まれた。先が見えない程高く伸びる光の柱。
圧倒される程の生命の息吹。ここは生命が最後に行きつき、生まれ変わる為の場所。
目の前の光景に煙灰はその事実を本能的に理解し圧倒された。
「私はこの世界の管理者、ヘカーティア! 貴方はもう逃れられない! 私と遊んで貰うわよ!」
世界を従える怪物が、ちっぽけな鬼に力の一端を向ける。
「ぐぅうっ!!」
苦痛が漏れる。顔を守る為に交差した腕にはいくつもの傷が刻まれていた。
ヘカーティアの放った光弾が爆裂した前方の地面は大きく抉れていた。
大昔、仲間たちの澱みが残っていた大穴を思い出させる大きさ。
だがそれを起こしたのはただの一個体。
さらにそれ程の破壊を生み出したというのにまるで消耗が見られない。
欠片も本気を出していないのは理解していた。しかし、それでいてなおヘカーティアの力量は煙灰をまるで寄せ付けない。
羽虫を振り払う程の気軽さで煙灰を右へ左へと吹き飛ばしていた。
浅いとはいえもはや煙灰の身体に傷を負っていない部分は無い。
ほんのわずかな間に満身創痍と言っても過言では無い程に傷ついていた。
突き出す拳は空を切り、放った術はそれこそ風で散らされる煙のようにかき消された。
いくら溜めていた妖力で力を増してもまるで届かない。
文字通り次元が違った。存在としての格が違う。
――だが、だがな!!
その程度であきらめてしまう程、煙灰の物わかりは良くなかった。
ここで諦めているくらいなら遥かなる過去。あの時の大穴でとっくに自決していたと煙灰は自らを鼓舞する。
「うーん……クラウンと遊ぶよりかはちょっとだけマシかなぁ」
反応できぬ速さで近づけるのに、そうする事無くヘカーティアはゆっくりと煙灰へと歩く。
二本の内の一本。白い煙管を手に取る。
「あ、また妖力を補給するのかな? 無駄だって解んないかなぁ」
「好きに言えばいい」
くるりと手の内で煙管を回す。煙管の両端から回転に合わせて煙が漏れていく。
煙管に纏わりつき、その大きさを増していった。
「おぉ、当ったら痛そうだなぁ。まあ、私痛みとか分からないんだけどね」
パチパチと打ちならし、関心を示す。
別にからかいなのではない。ヘカーティアは先ほどから何度も煙灰の術や技に関心を示していた。
初めて目にしたように、無邪気に喜びを示していた。
ただ、通用しなかっただけで、目新しいということには変わりないのであろう。
煙灰はそれを知ってなお足掻くことをやめない。
煙を纏わせた煙管を肩に担ぐ。穢れなき純白の大槌。
殴りつける先端部は人を詰め込める大樽程度の大きさがあった。
「はぁぁああ!!」
裂帛。小細工無用と、真正面から全力で叩き付ける。
細工を施す手間さえ惜しむ。僅かでも破壊力をと全身全霊で振り下ろした。
「綺麗だし面白いけれど……ちょっと脆いかなぁ」
衝突の轟音。押し負けて仰け反ったのは煙灰。
手の甲で一払いされた大槌の先端は霧散して形を失っていた。
「まッだだァァ!」
後ろに仰け反る身体を力ずくで従わせる。
再び、今度は柄だけとなった大槌だった物を振う。
「おぉ」
直撃する直前に、周囲を漂う煙が再び形を成した。
小さな関心の声をあげるヘカーティアの身体を大槌が薙ぎ払う。
確かに感じた手ごたえと共に吹き飛んでいく身体。
「……化け物が」
欠片も堪えた様子は無い。
湧き上がる徒労感から目をそむけるために煙灰は毒づく。
毒づかれるのさえ楽しいとヘカーティアは口角をあげた。
「うんうん……君は実にいい具合だ。予想以上で嬉しくなっちゃうね」
煙灰はヘカーティアの言葉を受けて眉を顰めた。
ヘカーティアの放った言葉を口の中で音にすることなく転がす。
確かに目の前の怪物は言ったのだ。
思い浮かんだ最悪に煙灰の身体が僅かに身じろぐ。
煙灰の僅かな変化にヘカーティアの口元が喜悦に歪んだ。
匂わせた先を察したことを理解した。
答え合わせのつもりかヘカーティアの視線がゆっくりと下がる。
「テメェっ!」
ずれた視線の先を理解した煙灰が気炎を吐く。
無垢な少女を思わせるクスクスとした笑い。
楽しげなヘカーティアを見る煙灰の視線の険しさが増す。
「どうして私が君を知らないと思うんだい」
発される言葉。
「偶然だったんじゃねェのか」
頭に浮かんだのは告げられていた理由。
丁度引き込める場所にいたから暇つぶしの為に呼んだ。
それ故に偶然だと思っていた。
けれど違うと明確に否定された。
知っていると。知っていたと言われた。
「偶然さ。たまたま君に興味があって、そんな君がここにこれそうだった。だからこれは全部偶然。偶然の産物であり、奇跡なのよ」
「こんな奇跡があってたまるか」
煙灰の憎まれ口もまるで意に返さない。
それどころかそれさえヘカーティアは楽しいと笑う。
「ふふ、そうか。それは残念。でも君の事はずっと昔から知っていたよ。それこそ地上の巨大な蜥蜴が絶滅する前よりも。月で死者が出なくなる前よりも。ずっとずっと昔から君の事は知っていたよ」
煙灰は喉がひりつく感覚を覚えた。
明確な言葉となろうとしている。
ヘカーティアに目を付けられた原因が。
想像が真実へ変わろうとしている。
「だって君、私から魂を掠め取っているんだからね」
煙灰の指先が先ほど視線を向けられた黒い煙管に振れた。
仲間達が眠る揺り籠。自らの罪の具現。
絶対的な化け物がそれを奪うと告げたのだ。
「―――ェ」
「ん?」
「知らねェって言ってんだよ」
返された言葉に小首をかしげる。
しかし、それに構う事無く言葉を吐き出す。
「これは俺の仲間だ。誰のもんでもねェ。俺でも、ましてやお前の物でもねェ!! こいつ等の魂はこいつ等のもんだ!!」
「……へぇ」
声が僅かに低くなった。
「成仏するかどうか何ざ、こいつ等自身が決める事だ! そしてこいつ等は俺に託してくれた! 着いて来てくれた!! テメェの入り込む余地何ざ欠片もねェんだよ!!!」
「もう飲めないよ?」
「俺は鬼だ! 自分で吐いた言葉を取り消す何ざある訳がねェ」
煙灰が全力の抵抗を示す為に妖力を纏う。
吐き出された呼気に煙が混ざる。
漏れた煙が一気にその体積を広げて煙灰と周囲を覆い隠す。
「白鬼夜行」
白煙の中からぽつりと一言。煙がそれに呼応してめまぐるしく動き出す。
遥かなる過去、嵬との闘いでみせた百鬼夜行がその姿を再び現した。
「通じると?」
再びヘカーティアに愉快気な様子が戻る。
欠片も気後れすることなく問い掛ける。
「通じさせるさ」
「ふふ、そう。じゃあ、おいで」
再びの激突の合図は気安げな手招き。
百に迫る程の白鬼が殺到する。
白鬼に埋もれ、煙灰の視界から一瞬ヘカーティアが消えた。
「脆いし遅いよ」
しかし、それも本当に一瞬。
腕の一振りで半数を超える白鬼が散らされた。
「おや?」
開けた視界にヘカーティアは首をかしげる。
煙灰を見失ったのだ。
視界には白色の人型しか存在しない。
にぃっと口元が持ち上がった。
「なるほどなるほど」
散らされた煙が再び視界の端で再生して自身へ向かってくるのをヘカーティアは知覚していた。
けれどそんな些事はどうでもよかった。
何処で仕掛けてくるか。何を仕掛けてくるか。それが楽しみで仕方なかったのだ。
しかし、この程度の脅威では脅威にさえならない。何億回でも繰り返せる。
煙灰が仕掛けてくるよりこちらから仕掛けた方が良いかと僅かに思考した。
再度向かってきている白鬼達を尻目に、ヘカーティアは本体を隠すために攻めに入っていない白鬼を見やる。
さてどれかなと視線を巡らせる。
「ふふ」
遊びとはいえ思考していることが新鮮だった。
無聊の慰めに造った妖精たちが相手ではこうはならない。
だからこそヘカーティアは今を楽しんでいた。
そしてそこに意識の隙が生まれていた。
再び視界を覆う白鬼達を散らす。
先ほどと変わらない煙が散っていく景色。
されど背後で風の動きに違和感を覚えた。
「――!」
刹那。振り返った先に煙灰がいた。
剥がれゆく煙から鬼気迫った鬼が姿を現す。
どんな仕掛けをしてくるかと思考で遊んでいたヘカーティア。
繰り返しても意味がない事を嫌という程理解していた煙灰。
「ッラァァアア!!」
怒声と共に左腕が振り抜かれる。
だが一瞬の虚をついてなお遠いといえる彼我の地力の差。
突きが届く前に手首を掴まれる。
「捕まえた」
捕まれてた腕はピクリとも動かない。
圧倒的な腕力さが目に見えてわかる。
どうだと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべて煙灰を見やる。
しかし、目の前の煙灰の表情には欠片も動揺は無かった。
むしろ右の拳を振りかぶっている姿に驚く。
ならばと掴んだ腕を引き、体勢を崩して投げ飛ばそうとヘカーティアは握る手を動かした。
そして煙灰の左腕が二の腕付近から分離した。
離れた腕は煙となって霧散して、ヘカーティアの視界を覆った。
咄嗟に拳の軌道上に自身の左腕を上げるが、右側からの衝撃に煙から叩き出された。
水きりされた石みたいに地面を跳ねてヘカーティアが吹き飛ぶ。
煙灰は振り切った左足を戻すと再び油断なく身構える。
勢いがなくなり、吹き飛んだままの恰好で地面に寝続けるヘカーティア。
それが酷く不気味に感じた。
「あ、はははは」
楽しげな笑いと共に上体が起こされる。
蹴り飛ばされた頬に軽く手を添えて心底愉快そうにヘカーティアは笑った。
「凄い。ひりひりしてる」
幼子の様に無邪気に笑う。
頬を愛おしげに撫でる姿はゾッとするほど気味が悪かった。
しばらく得られた感覚を楽しんで満足したのかヘカーティアは立ち上がった。
軽く衣類に付いた埃を払うと再び煙灰を見据える。
向けられた瞳は先ほどまでと少し違っていた。
「君は私と遊べる相手だ」
言葉だけ。それ以外の変化など何もない。
構えるわけでも、武器を出すわけでも、まして力が発された訳でもない。
だが煙灰は胸の奥に感じていた重さが増したことを実感していた。
直後、ヘカーティアの姿が掻き消える。
のしかかる疲労に背が丸まる。
力を失った両腕がだらりと下がる。
ぽたり、ぽたりと鮮血が滴る。
繰り返される浅い呼吸。
煙灰は間近に死を感じていた。
だが、白い煙管を目の前でぽんぽんと投げて遊ぶヘカーティアを睨む視線には少しの陰りもない。
けれど意志に対して肉体の反応は鈍い。
「大丈夫? もう限界でしょ?」
「か、かか……抜か、せ」
それでも煙灰は不敵に笑う。
たとえ命尽きようとその場で悪霊にでもなって抗おうと挫けることは無い。
煙灰の返答に一瞬ヘカーティアはきょとんとした。
直後また笑みを浮かべる。
「君のその意思の強さには敬意を覚えそう」
くつくつと喉を鳴らして笑う。
だからそうだねとヘカーティアは言葉を続けた。
「ソレ、手放してくれるんだったら終わりにしてあげるよ」
ソレが何を示しているかなど説明はいらない。
そしてソレを手放す事などそれこそ死んでもあり得ない。
「応じると思うか?」
「思わない。私が気にいった君ならそう言う」
「かかっ……酔狂だな」
「ふふ、酔狂だね。さてそれじゃあ意思確認も済んだし良いよね。君が選んだ道だよ」
よしと可愛らしく掛け声を一つヘカーティアが漏らす。
準備運動をするように軽く腕を回す。
互いの視線が絡まり合う。
トンという小さな音の後、眼前にヘカーティアが姿を表した。
酷くゆっくりと動く視界。煙灰が避けようとするも、身体から反ってくる反応は鈍い物だ。
もはや避けれぬと確信が浮かぶ。
仲間たちの顔が浮かんでは消え、最後に弟子と最愛の相手が浮かぶ。
「すまん」
何に対して謝罪だったのか。
迫る拳に対して煙灰が出来た事はその短い一言を漏らす事だけだった。
拳が振り抜かれて轟音が一つ。煙灰の姿がその場から消えた。
「君は本当に」
ヘカーティアが言葉を漏らす。
「愉しませてくれるなぁ」
振り返った視界の先、雷を纏う鬼がいた。