今の私は夢を見ている。厳密には、現実世界で起きた死を夢だった事にしてしまう。それが狩人の夢に囚われた者の力ーーあるいは呪いーーである。ただ、私自身の死を夢だった事に出来ても、現実世界で発生した事実は変わる事は無い。例えば、私以外の死だ。
*
「あ……」
我々は獣に殺される女の姿を見て茫然としていた。いや、正確には目の前で殺されている女の姿を発見して茫然となっているガスコインの姿を見て、私も全てを理解し、同じように茫然となってしまっていたのだ。
ガスコインの妻であろう女性が血を流して絶命している。刹那とも永遠ともとれたその茫然とした時間が過ぎ、ガスコインがようやく動きだす。妻を殺していた獣に対し、一瞬で詰め寄り斧を振り下ろす。脳天をかち割られたそれはすぐに動かなくなった。もはやガスコインにとって獣を狩る目的など無くなってしまったというのに。いや、あるとすれば復讐なのだろう。妻を殺した醜く腐った獣どもを殺し続ける。だが、それは歪んだものとなる。
「どこもかしこも、獣だらけだ……」
ガスコインがそう言いながら大きく息を吐く。それに釣られ、私も忘れていた呼吸を取り戻す。場所が墓場だからだろうか、酷い匂いがする。今にもえづいてしまいそうだ。
「なぁ、ガスコイン」
私が呼びかける。しかしガスコインは全く返事をしない。それどころか一歩一歩にじり寄ってきて、こう言い放った。
「……貴様もどうせそうなるのだろう?」
そう、彼もまた獣の病に侵されていたのだ。妻の死体を目にしたショックで、それが覚醒した。狩人としての本能と混ざり合い、獣狩りという名の復讐を始めようとしている。恐らく、ガスコインは悟ったのだろう。ヤーナムに住む者は全て獣の病に侵されていると。絶望したのだろう。もう何もかもが手遅れであるという事を。よそ者の私は獣の病に侵されてはいないだろう。だがもう既にガスコインの正気は失われ、ただ獣性のみが露わになっている。そしてその虚ろな殺意は、確実に私に対して向かっていた。獣も、いずれ獣になる者も。
「匂いたつなあ……」
ガスコインの口調が、酷く蔑むようなものに変わった。獣に対する、狩人としての彼はこうだったのだろうか。そんな事を思考する内に彼の斧が振り下ろされる。私はそれをひらりとかわす。獣にこそなってしまったが、動きは人間と変わらない。いや、正確には非常に鍛えられた人間だが。それでも殺意は感じる。人間の理性に抑えきれない、獣性からなる殺意が。油断すれば彼の服に私の返り血が付いてしまうだろう。慎重に後ろにステップする。
「……!」
後ろをよく見てなかった。不覚にも墓石に躓いてしまった。バランスを崩した私に対し、容赦なく斧を振り下ろすガスコイン。咄嗟に身をよじらせたが、右肩から肘にかけて大きく斬られてしまった。
「ハッハッハ……堪らぬ血で誘うものだ……えづくじゃあないか……」
私の返り血を舐め、酔ったように彼は笑う。狩人は血で回復する。私の血は、さぞや美味だったことだろう。私は注意して後ろに下がりながら反撃の手段を考えていた。だが、パックリと割れた右腕は言う事を聞きそうになかった。どうにかして戦闘を回避する方法は無いだろうか。
ガスコインが斧を振り下ろす度に、それが強力な一撃であるという証として大きな埃が舞い散り、辺りに死臭が蔓延する。やはり吐きそうになる。
左手で持った銃でガスコインを牽制する。右手は若干麻痺していたが、そろそろ慣れる頃だ。決して痛みが無いわけではないが、それでも私は自由に動かせるように必死になっていた。
「ハッハッハ……ハッハッハ……!」
情けない姿の私を見てガスコインは笑う。蔑んだ、感情のある笑いだ。喋る事が出来るのならば、彼の理性は完全に失われたわけではないのでは?もしかしたら、正気に戻す事も出来るかもしれない。何か方法は無いか、と。策を巡らせていた私の脳内に、一つ名案が舞い降りる。オルゴールだ。ガスコイン夫婦の思い出の品。あれを鳴らせば、きっと思い出してくれるのでは?私はそう思い、ポーチからオルゴールを取り出した。
「思い出せ!お前は狩人だ!獣なんかじゃあない!飲み込まれるな!」
そう言い、オルゴールを鳴らす。心地の良いメロディーが、周りに響く。
「グッ……!」
反応した。
「ガスコイン!思い出せ!ここで獣になったら、お前の娘はどうなる!?」
さらに鳴らし続ける。
「グッ……ウゥ……」
効いている。着実にガスコインの正気を取り戻しつつある。私はそう思っていた。
「思い出せ……頼むよ……」
「ウゥ……アァ……」
ガスコインが頭を抱える。そして。
「ガアァァーーッ!」
衝撃波が私を襲う。死臭と、土煙の中から出てきたのは。
「グル……ウゥ……」
見た目まで完全に獣と化した、ガスコインであった。彼は、決して正気を取り戻してなどいなかった。辛い現実から、夢を見ようと逃げていただけだったのだ。
「そんな……」
世界は余りにも残酷すぎた。結果的に私は病の侵攻を速めてしまっただけなのだ。夢から逃れられない私と、夢を見ようと願い続けた哀れな神父。全て神の掌の上で踊らされていただけだったのだ。そんな私に何が出来る?よそ者の私に、狩人としての経験が浅い私に、もう既に死んでいる身だったはずの私に、しかし死から逃れられない私に、不治の病を恐れ、逃げ、醜く血で塗れ、汚れ、薄汚くなって、人に助けられ続け、獣の相手も十分にできず、同じよそ者の仲間に何一つ助言をやれず、相棒と認めかけていた者まで獣となり、さらにそれを自分が悪化させ、右腕が半分言う事を聞かない、そんな私に何が出来るというのだ?いいや、一つだけあるじゃあないか。夢を見れなかったガスコインを、楽にしてやることだ。
「グアァァァァーーッ!」
ガスコインだった獣ーーいや、ガスコインだーーが、右腕を大きく振りかざした。私はそこに狙って銃弾を放ち、弾いた。ガスコインの身体が大きくのけぞる。そして、獣と化す時に出来たであろうガスコインの傷口に、半分麻痺した右腕を、それでも言う事を聞かせようとして必死にねじ込み、心臓を引き抜き、破裂させた。
ガスコインが声にならない悲鳴を上げる。その場に硬直し、そして私が喉元にノコギリ鉈で一撃、両腕と両脚に一撃ずつ叩き込むと、ようやくその場に崩れ、それから動かなくなった。
最期の瞬間の彼の眼は、私に何か語り掛けている様で逸らすことが出来なかった。これまで幾度となく人間を殺してきた私だが、だがそれでもこの一戦は非常に辛いものであった。私は、彼の遺志を継がねばならない。ガスコイン神父という人間がいたという事を糧にして、成長していかなければならないのだ。そうして私は辺りを見回していると、墓石の上にガスコインの帽子が乗っていた。私はそれを手に取ると、彼の形見と思い頭に被る。
今は何時だろうか。街のどこかで鐘が鳴る。夕暮れが、終わりを迎えようとしていた。