序章:彼女が生まれた日
ただ、茫然と立ち尽くす。
楽園の巫女、博麗霊夢は胸からこみあげてくるその感情が理解できなかった。
「どう、して…………?」
おそるおそる自らの頬に触れてみれば、指が濡れていた。どうやら、気づかぬ間に涙を流していたようである。
無性に大きな声を上げたくなった自分に、驚愕すらした。
どうして自分は涙しているのか、どうしてここまで感情を揺り動かされているのか。『空を飛ぶ程度の能力』をもち、あらゆるものから“浮く”ことのできる自分が、なぜ?
浮かぶ疑問は絶えなかったが、この動揺は、目の前にいる存在によるものだと霊夢の直感が訴えかけていた。
「(ああ……そうか)」
生まれ持った能力ゆえに己と向き合うことがなかった霊夢は、ここでようやく理解する。自分がどうしてこうまで動揺させられているのかを。
「(ずっと、寂しかったんだ。
桜吹き散る白玉楼。霊夢の視線の先には、日傘を差した一人の少女が立っている。紫色のドレスを優雅に着こなし、金色の髪をなびかせながら桜を眺めていた。
風が吹く。
彼女の手に持つ日傘が、ふわりと空を舞う。
しかし天高く昇っていくそれを気にするでもなく、ただ、枯れた一本の桜の大木を眺め続けている。
できるなら、もっと彼女の傍へ。
そうやって一歩を踏み出そうとしているのにこの場から動けない自分は、きっと臆病だ。
ふと、前に進めない自分の背中を押すように、再び強い風が吹いた。
「そう……藍は、貴方をここへ通したのね」
何時から気づいていたのだろうか、彼女は霊夢がいる方を向くことなく、静かにつぶやいた。
「なんとなく、だけれど……貴方が、ここに来る予感はしていましたわ。ようこそ、人間と妖怪の境界へ」
彼女の一言を合図に、周囲の景色が様変わりした。辺りはすでに白玉楼ではない。今や薄暗く禍々しい空間へとその姿を変えていた。
咄嗟に涙を拭った霊夢は臨戦態勢へと移る。
そして、恐怖した。
いつもはまったくと言っていいほど緊張をしないのに、今日に限って手が震えていた。普段の調子はどこへと行ってしまったのか、いくらその震えを抑えようとしても治まってはくれなかった。
「(だめ。やっぱり、私にはできない……怖い……怖いよ……)」
霊夢は、その手に持った祓幣を落とした。
ここに来るまでは何のこともない、いつもの異変だと霊夢は思っていた。
紅い霧によって幻想郷が覆われた異変を解決してから、早数カ月。
今年の冬は長いわね早く春にならないかしら、と炬燵からなかなか抜け出せない日々を送っていた霊夢だが、いつまでたっても春が来ないものだから遂にしびれを切らし、異変解決に動き出した。そして数々の勝負の末に異変の黒幕である亡霊の姫のもとに辿り着き、見事弾幕ごっこで勝利して春を取り戻した。
当初はこれにて異変解決だと思っていた。
だが、終わらなかったのだ。
冥界の管理人たる“亡霊の姫”はあくまで実行犯であって、彼女に異変を起こすように仕向けた者が別にいるらしい。
それは、博麗の巫女たる霊夢にとって聞き逃せないものであった。
博麗の巫女とは幻想郷を覆う博麗大結界の維持に務め、そして時折起きる“異変”と呼ばれる怪事件や騒動を解決する役目を持つ。
ゆえに真の黒幕がいるのであれば、その者を懲らしめない限り、解決されたとは言えないのだ。
「しっかりしなさい。貴方は
霊夢が顔を上げると、すぐ目の前に件の少女が立っていた。
こちらを見下ろす彼女からは何の感情も窺えない。恐ろしく冷たく、無表情であった。
それが霊夢には無性に悲しく、悔しいと感じた。
手を伸ばせば届くほど近くにいるはずなのに、彼女の心はずっとずっと遠くにある。
曰く、その笑顔は禍々しく不吉で気味が悪い。曰く、彼女を絶対に信用してはならない。見てはならない、聞いてはならない。彼女のことを感じてはならない。
なぜなら、彼女はこの世界でもっとも忌むべき歪な存在だから。
しかし今だけは。
霊夢には、それら皆がどうでもいいことに思われた。
どれだけ恐れられようとも、
どれだけ歪もうとも、
それでも彼女は美しかった。
******
——今は忘れ去られた時代。人、妖、神の境界がまだ曖昧だった頃。
——常識は非常識へと転じ、世界の崩壊が始まった。
——崩壊を防ぐために、『価値』を生み出すために『差異』は作り出された。しかし差異は同時に恐怖を生み、人は妖怪を恐れ、神を畏れた
——その結果、差異が膨張し、怪奇は現実となった。
——かつて、いえ、それよりもずっとずっと昔のこと。
——そう、これは私を形作った原風景。
かさかさと乾いた音を立て、小さな影が茂みの中に入り込む。
冬が過ぎ去れば、季節は華やぐ春となる。
木々は一斉に芽吹き、活動を再開した動物たちの気配で森は溢れていた。鳥のさえずりは朝の到来を告げ、陽の光が木々の間から差し込めば、大気はゆっくりと暖まっていく。
森を抜けた先の丘の上には小さな家が一軒。
窓から細く白い煙が上がっているのは、食事の準備だろうか、しばらくすれば一人の女性がひょっこり顔を出した。
「お~い」
誰かを呼ぶ、間延びした声が辺りに響く。
「そろそろ戻っていらっしゃ~い」
いつもならすぐに駆け寄ってくるのだが、珍しいことに返事もなかった。
「ううん……。どこ行ったのかしら……?」
家の前を歩きながら、見晴らしの良い丘の上から再びあたりを見回すものの、目に映るのは一面の緑、緑、緑。
人影はどこにも見当たらない。聞こえるのはせいぜい、鳥のさえずりくらいのものである。
「ん?」
しかし、しばらくすると彼女のすぐ傍の茂みから、カサリと音がした。まさか冬眠明けの熊ではあるまいか? いやいや、それにしては何か小さいような。
などと考えていると、ますます茂みからする音が激しくなる。
見るからに怪しい。近づくべきか、近寄らぬべきか。
迷った挙句、好奇心に負けた彼女は、おそるおそるといった様子で近づいた。
「…………」
途端。
「ばああっ!!」
「ひいいぃぃぃっ!!??」
茂みから、幼い少女が飛び出してきた。
傍から見れば大変かわいらしいのだが、不意打ちを食らった当人からすれば、たまったものではない。
「いたた……って、あなたねぇ……」
驚きのあまりしりもちをついた女性は、少女を恨めし気に睨んだ。
「うふふ、さくせんせいこう!」
悪戯が上手くいって、まさにご満悦といった表情の少女。
だがそんな彼女の顔からは血の気が引いていった。
「……やってくれたわね? も~、今日という今日は許さないんだから」
気づけば目の前に立つ、恐ろしい幽鬼がにやりと笑う。
「……え、えっとね、こ、これは、ついつい……そう、“きのまよい”っていうやつなの!! ね? だから、ここはおんびんに——」
怖気づいた少女はじりじりと後退した。
「うふふ、大丈夫。安心してちょうだい?」
だがすぐに木の幹が背中にあたった。退路は断たれている。
少女は絶望した。
「ちょっと気を失いそうになるだけよ」
「……ひっ!? いやあぁぁ!?」
「——逃がさないわぁ。今日こそはじっくりねっとりと懲らしめてあげるんだから……」
逃げようとするも一瞬で間合いを詰められ、あえなく捕まる。
「ふぬっ、むぃ~」
拘束から逃れるためじたばたと体をくねらせる少女であったが、びくともしない。
「——あら、抵抗するの? ふふふ、でも残念。それじゃあ逃げられないわ」
現実とは常に無情。
少女の瞳は半ば虚ろになりつつあった。
「ひゃっ!? っふふふ、はははっ!!?」
幼い少女の甲高い笑い声が森に木霊した。
「ふふ、ひひひっ、あはははは!! く、くすぐったいってぇ。も、もうやめてぇ!?」
「やですぅ。悪い子にはお仕置きしなきゃ」
「ひえぇぇっ!?」
無慈悲にも、ますますくすぐりは激しくなった。
「や、やめっ、ふふふっ!! た、たすけ——」
「暴れたって無駄だもんね。そう簡単には離さないもの」
「ひ、ひぅっ!? だ、だめぇ~!!?」
「そ~れこちょこちょ~」
容赦のない女性のお仕置きに少女は地面をのた打ち回る。
「……もう二度としない?」
「ひぃ、ひぃ……はあぁっ、わ、わかったから、もうしない!!」
「ほんとに?」
「ほんとにほんとっ!! わたし、うそつかない!!」
「……ならよし!」
女性はくすぐりをやめると、体に力が入らずぐったりとしてしまった少女を小脇に抱えて家の中に入っていく。
少女は頻繁に悪戯を仕掛けては、すぐに捕まってお仕置きを受けていた。
ちなみに彼女は、嘘をついてはいない。
同じ悪戯をしていないからである。いわば屁理屈なのだが、女性は特別それを咎めようとはしなかった。
「もう、いつもいつも懲りないんだから、まったく困ったものよ……。一体誰に似たのかしら?」
「おかあさんいがいに、いないでしょ。それにおかあさんって、びっくりしたときおもしろいんだもの。おどろかさないわけにはいかないわ」
「まあ、ひどい」
肩をすくめる黒髪の女性は、少女の母であった。彼女の纏う雰囲気のせいか、少女とは年の離れた姉妹に見えないこともない。歳にすれば、二十半ばといったところだろうか。
対して、すんすんと鼻を鳴らして部屋の中の匂いを嗅いでいる、お腹を空かせた様子の少女。
「いいにおい!」
「ふふふ、ゆかり。ご飯は逃げないわよ」
少女の名は“ゆかり”。
母ゆずりの黒髪と、顔立ちが瓜二つと似ているものの、歳が五つ、六つほどで幼い。少し短めの淡い紅色の着物を着た、活発そうな少女である。
「わあ、はるだね!」
ゆかりの目の前によそられたのは、季節を感じさせる山菜汁。
ほろりと苦く、それでいて暖かく優しい味であり、この季節の楽しみの一つであった。
「おいしい?」
女性が温和な笑みを向けながらそう問うと、
「うん!」
ゆかりは子供らしい屈託のない笑顔で応えた。
二人だけの、この小さな箱庭で。
今日も一日が始まる。夢とも知らずに。
*******
食事を済ませた二人は、手提げ袋にあれこれと荷物を入れて外に出た。
丘を下りてすぐ近くの森を抜けたところには、ひなたぼっこに丁度良い原っぱがある。
日差しもそれほど強くないし、時折吹く風はとても心地よい。
そんな日は、母の膝の上に座って、文字の読み書きの勉強をするのがゆかりの日課であった。
「これ、なんてよむの?」
「これは”浮雲”よ。そうねぇ。ほら、お空にぽつりと浮かんでいる」
「あのしろくて、もくもくの?」
「そうそう」
いつも、両手で抱えきれないほど分厚い本を広げては、自力で理解できないところを母に聞いている。もの覚えが良いのか、ゆかりはぐんぐんと知識を身に着けていた。
「じゃあ、この“旅游”ってなに?」
「遠く、遠くの……。ほら、例えばあの山の向こうとかにはね、うーんと広い場所が広がっているの。“旅游”はそんなところをあっちはいいな、こっちも面白そうだなって歩いて回ることをいうのよ」
母が指さした方には大きな山がそびえたっていた。山の頂上はまだ白く、雪に覆われている。ゆかりは母の指さす先、遠くにそびえ立つ山の向こうには何があるのかと思いをはせた。
まだゆかりは、家から遠く離れた世界を目にしたことがない。
母から一人で遠出することを禁じられているため、本で読んだ内容から想像することしかできないのだ。そういう訳もあって、少女の世界は狭かった。
「へえー! わたしもいつか、いってみたい!!」
「ええ、行けるわよ。きっといつか……って、そういえば……あなた何の本を読んでるの?」
何かに気づいた様子の母は、顔をひきつらせていた。
「え、ちょっと、これどこで見つけてきたの? 難解すぎないかしら? うわぁ、何だろうこの既視感……。あの人の小さい頃みたいだわ……」
遠いところを見つめながら、母はため息をつく。
それを見たゆかりは不思議そうに首を傾げていた。
しかしいくら難解な書物を読み進めることができても、ゆかりはまだ子供である。
「……あら?」
しばらくたって日が一番高く昇った頃には集中力が切れてきたのか、うつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。
きっと風が運んでくる、眠気を誘うような花々の甘い香りの所為だろう。
「……んぅ…………」
静かな寝息と、風の音だけが聞こえる。
無性に娘が愛おしく感じた。
膝に座っているゆかりを後ろから優しく抱きしめる。
母は耳元で静かにつぶやいた。
「たくさん、言葉を覚えてね。言葉を覚えることは、あなたの世界を広げることなんですもの。あなたには……貴女の“力”にはそれが必要なの」
そのつぶやきは、誰が耳にすることもなく春の陽気に溶けていった。
******
二人の住む家の西には川がある。それほど大きな川ではないが、深さは見た目よりもあるためそこに住み着く生き物は多い。
彼女たちはその川辺にて、何となしに鳥が虫を狙う様子をじっと眺めていた。
「ねえ、どうして鳥さんは虫さんを食べちゃうの……?」
ゆかりは尋ねた。それはなんの変哲もない質問で、幼い童が持つふとした疑問であった。母は少し考えた後、答えた。
「んーと、それはね。きっと、違うからよ」
「ちがうから?」
ゆかりには、母の答えの意味がまったく分からなかった。
「生き物は皆違うから、一緒になろうとするのよ」
「そうなの……? どうして?」
「違うのが怖いから、でしょうね」
「ふーん?」
その要領を得ない答えに、それ以上は興味を失ったのかゆかりは隣に座る母に身を寄せた。母はその小さな体を抱き寄せる。
「むずかしいなぁ……」
「まぁ、ゆかりがもう少し大きくなったら分かるようになるかな? それにね、私の、ゆかりの質問への答えが必ずしも正しいわけでもないの。あなたなりの答えを、これから見つけていけばいいわ」
「むぅ、ちっちゃくないもん! わたし、じぶんのなまえ、かけるのよ!!」
「そういう話じゃあ、ないんだけどなあ……」
少し間を置いて二人は顔を合わせるやいなや、ぷっと噴き出した。
一瞬、しんと静まり返った川辺に二人の笑い声がこだまする。ひとしきり笑い合った後、母は立ち上がり、その手に持つものをゆかりに見せた。
「ねえゆかり。これは何でしょう?」
「えっとね、つりざお!」
「そう、これで今日のお昼ご飯を釣るわよ」
「おぉーっ、さかなつりねっ!!」
瞳をきらきらさせ、興奮が隠せない様子のゆかり。
そんな彼女に対して今更、『さっきまでお昼ご飯のことを全く考えていなかったわ……』と白状できるほどの勇気は母にない。
急ごしらえの釣竿にしても、指摘する者がいないのだから問題ない。問題ないのだが、今はゆかりの視線が眩しすぎて一抹の罪悪感とも呼べるような感情を母は覚えていた。
それはともかく。
鼻歌混じりに釣りを始めれば、ただ釣り糸を垂らしているだけでは暇を持て余してしまうからであろうか、ゆかりは身体を左右に揺らしながら、水面を見つめている。
「おかあさん」
「なあに?」
「このうたにでてくるとりさんって、なんなの?」
物心がついたときから歌っていた子守歌。
ただし子守歌の本当の意味を、ゆかりは知らない。母は子守歌の意味する出来事の詳細を、ゆかりに教えるつもりがなかったからである。
ゆえに彼女たちは、『ある鳥が現れたとき、地上から生き物がいなくなった』という、過去の出来事を淡々と歌うのみであった。
ゆかりの問いに、母は曖昧に答える。
「この歌はねぇ、お母さんが生まれる前にできた子守歌らしいわよ。その時起きた出来事を、忘れないようにって。でも誰が作ったのかは、分からないの」
「ふーん」
ふっと風が吹いた。水面は風で揺れ、浮きがゆらゆらと揺らめく。少女はその鳥に、何を思ったのか。
「ねえおかあさん」
「ん~?」
「わたしたちがおさかなをたべるのも、とりさんがむしさんをたべるのとおなじ? わたしたちもこわいの?」
「そうね。私はそうなんじゃないかなって思う」
「……ええと、じゃあ、たべることはいっしょになって、もうこわくないよってすることなんだね!!」
「え、ええ……」
なかなか怖い解釈ね、と母は少し困惑したがせっかくゆかりが自分で考えた解釈なので否定するのもどうかと考え、そのうち修正されていくだろうと、とりあえず相槌をうった。
その後、釣り糸を垂らし始めて早数刻も経ったが、なかなか魚はかからない。ゆかりはだんだん釣りに飽きてきた。
腰かけた岩の上で足をぱたぱたと動かしている様子は何とも愛らしい。
「……つれないねー」
「うふふふ、そうねぇ」
川の向こう岸では相変わらず鳥が虫や魚を狙って木にとまっている。ゆかりは再び、ぼんやりしながらそれを見つめていた。
「とりさんも、むしさんも、おさかなさんも、みんなみんなちがっておもしろいね。“ちがい”がなかったら、みんなおなじで、つまらないとおもうの」
「そう? なら、どうして生き物が皆、“違う”のだと思うかしら?」
「……わたしたちがきめているから?」
「そうね、ゆかりの言う通り。皆、本当は同じなの。違いなんてない。だから私たちは——」
すると突然、
『あっ』
浮きがふっと沈んだ。竿がものすごい勢いで引っ張られ、水面が騒がしくなった。どうやら話しているうちに獲物がかかったようだった。
「お、おかあさん!? ど、どうしよう?」
急な出来事に困惑するゆかり。あたふたとしているゆかりの手を、母は後ろから支えた。
「落ち着いて。ゆかり。竿を立ててゆっくり持ち上げるの」
「う、うん……!」
母の助力もあってか、その後二人は見事に魚を釣ることに成功し、遅い昼ご飯として焼いて食べた。お腹が空いていただけに、大満足である。
「おいしかったぁ」
魚を食べ終えたゆかりが川の向こう岸に目を向けると、
「あ……」
鳥はいつの間にか、姿を消していた。
******
「……ん…………」
どうやら、ゆかりはいつの間にか寝入ってしまっていたようだった。釣りをして、その後も川辺を走り回って疲れたからだろう。
母の背中から見た西の空は、夕暮れの光で淡い朱色に染まっており、東の空は薄暗く変わりつつある。
その
思わず目が離せなくなるほどに。
「おかあさん」
「なあに?」
「よんでみただけ」
「そう……」
ゆかりはにこりと笑って母の背中に顔をうずめた。
それから、家に帰りついて遅めの夕食を取り、湯につかって一日の疲れを癒した後には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
先ほどもあれだけ眠りこけていたというのに、布団に入った途端、再び気持ちよさそうに眠ってしまったゆかりに苦笑しながら、母は少し夜風に当たろうと一度寝室を出る。
ふと、母は空を見上げた。
空には雲がなく、月がぷかりと浮かんでいる。すっかり欠けてしまったというのに、それでも月は美しかった。
「こんなにも小さいのに、こんなにも遠いのに、どうしてこうも惹かれるのかしら? 不思議ね」
母は苦笑し、そのまましばらく月を見つめた。
「私も寝ようかしら。明日は
そう独りごちた母は、ゆかりの隣で横になった。
しかし、愛おしそうにゆかりを見つめる母の目は、どこか寂しげであった。
******
翌朝、ゆかりは早くに目が覚めた。母は朝に弱いので、大抵ゆかりが先に起きることが多い。
「ん、んんぅ……」
気持ちよく伸びをして枕元を見ると、隣で眠っている母はまだ起きそうにない。起きたからにはじっとしているのもつまらないし、周辺を散歩するのはどうだろうか? 寒くもなく、暑くもない。きっと朝の陽気は心地よいことだろう。
そうして外へ出ると、
「あっ! ちょうちょうさんだ!」
近くに咲く花々に紫色の蝶が止まっていた。その美しい羽を見せつけるかのように、優雅に目の前を飛んでいる。
「きれい……」
捕まえようとそっと手を伸ばすが、なかなか蝶は捕まらない。
「……むむぅ」
ゆかりの手が届きそうな高度で、まるで挑発しているかのようにひらひらとかわしている。
「ま、まてー!」
蝶を追いかけまわした挙句、茂みに入れば、朝の日光が入ってきていないせいか、少し肌寒く、暗かった。そこには大きな蜘蛛の巣が張っており、あまり近づきたくはない雰囲気を醸し出している。
そんなことも気にしないゆかりは、
「あ!」
茂みを掻き分けて、蝶を見つけた。
蜘蛛の巣にかかって身動きが取れなくなっている。抜け出そうと、もがけばもがくほどに絡まる蜘蛛の巣。巣が揺れて気づいたのだろうか、蜘蛛が近づき、その顎で蝶を捕らえた。
蜘蛛は器用に前足を使い、抵抗する蝶に糸を巻き付けている。
「くもさんも、いっしょになりたいの?」
ゆかりは蝶が捕食される様を、まじまじと見つめる。少女の瞳には命の灯が消えるさまが映し出されていた。
気持ち悪いと感じなかったのは小さな虫であったためか、それとも少女にとっての命というものに対する認識のためか。少なくとも抵抗感を持っている様子はない。
「こんなところにいたのね。全く、もう。心配したのよ」
「おかあさん……」
ゆかりが振り返るとそこには母がいた。
どうやら目を覚ましたばかりのようで髪の毛が少しはねている。娘を見つけた安堵から母はほっと息をつくと辺りを見回し、その顔をひきつらせた。
「うわぁ、暗いわねぇ。じめじめしているし。……もう、好奇心旺盛なのはいいのだけれど、起きて気づいたら隣に居なくて心配したわよ? さあ、帰りましょう。ゆかり」
「うん!」
手を引かれながら、ゆかりは考えた。
今日は朝からちょっとした冒険ができたのだ。きっといい日になるに違いない。
だから、あともう少しだけ、と。
「ねぇねぇ、おかあさん。あさごはんたべたら、おでかけしてきていい?」
「うーん……お母さんは少し出かけなくちゃいけないから、本当はお留守番していてほしいなぁ……。でも、どこに行くの?」
「そのへんっ!」
「その辺って貴方……」
「とおくにはいかないよ?」
「そうねぇ……う~ん……」
母の脳裏にここ最近の娘の様子が蘇る。
確かに彼女が一人で静かに留守番をしているとは思えない。ならばいっそのこと、時間までに帰るよう言い含めれば問題ないではないだろうか。
あれこれ迷った挙句、渋々といった様子であったものの、結局母はゆかりが外に出歩くのを許した。
念願かなって許しが出たゆかり。
彼女は意気揚々と家から少し離れた森の中を歩いていた。昼前には帰ること、あまり遠くに行かないことという条件付きで母に出かける許可をもらい、一人で森に入ったのであった。
母はというと用事があるらしく、昼ごろまで戻らないと言っていた。
母は三日か四日に一度、朝に出かけると、どこか疲れた様子で帰ってくるのだ。しかし彼女が何をしているのか、ゆかりはまったく気にかけていなかった。
普段は母から、遠くに一人で行ってはならないと言われていたこともあって、ゆかりは胸が躍る気持ちで森をずんずん進む。
「わあっ!」
ゆかりの目には、緑豊かな森の景色がより一層鮮やかに映った。いつもは気に留めないようなところにも自然と目が行くのだ。
「(あれ? こんなところにぬけみちなんてあったっけ?)」
だから、ゆかりがそれに気づくのも、偶然とは言えなかったのかもしれない。
横たわっている大木の陰には小さな道があった。道とは言っても草が掻き分けられている程度で余程注意しなければ気づくことはない。
道を進んでいった先にある茂みでできたトンネルをいくつも越え、下り坂を下っていくと目の前に霧が広がった。それもかなり濃い。日が出ているというのにどうしたことだろうか、と思いながらゆかりは迷わないように道に標をつけてさらに進んだ。
「んん?」
しばらく歩いたところで、今度は森の中に透明な壁が見えた。
それは上にずっと広がっていて、どこまでも続いているようである。いつの間にか霧は晴れていて、辺りは見覚えのない景色になっていた。空に向かって果てしなく続く透明な壁にゆかりは美しい、という感想を持った。
「きれい……」
ゆかりは恐る恐る壁に手を伸ばした。すると、パチリと何かが爆ぜるような音をたてたと思いきや、ゆかりの手はすんなりと通り抜けた。そのまま体も通り抜け、目の前には変わらない森が広がっている。
「何だったんだろう?」
ゆかりは独りごちた。特に壁を越えても何か変わったような様子はない。
母が遠くに行ってはならないと言っていたことに関係しているのやもしれないと、ゆかりは少し身構えたが、それも考えすぎだったと肩の力を抜いた。
しかし、だんだん不安にもなってきた。
一人で帰れないこともないが、若干時間はかかりそうだ。
昼までに家へ帰ることができるのだろうかと考えていると、前方の草むらに大きな鹿を見つけた。
頑丈そうな角に、つやつやとなめらかな毛並みの、立派な牡鹿であった。しかし鹿は後ろを向いていて、ゆかりのいる位置からだとあまり様子をうかがえない。
「しかさんだ!」
なかなか近辺では見られない立派な大鹿の姿に、ゆかりは小声ではしゃいだ。
しかし、どうやら彼女の声が届いてしまったらしい。耳がピクリと動いてゆかりの方を向いた。
「あ!」
ゆかりは慌てて手で口をふさいだが鹿はゆかりの存在に気づき、振り向いた。真っ黒な二つの瞳で、じっとゆかりを見つめている。
何となく、ゆかりもその眼を見つめ返した。そこでゆかりは大鹿の眼に違和感を覚えた。まるでこちらの中身を見ているような、ただならぬ感覚を覚えた。眼を逸らそうにも、逸らすことができなかったのである。
しばらくの沈黙の後、信じられないことが起こった。
突如として、大鹿は口を開いたのだ。
「ニンゲン……」
それは地の底から響いてくるような不気味な声であった。
「祝福サレシ子……」
「ひっ……!?」
そのときはじめてゆかりは周囲の多くの“眼”に見つめられていることに気づいた。そして同時に、背筋に悪寒が走るのを感じた。ゆかりはこの“眼”を知っている。
捕食者が、獲物を見つけたときの眼だ。
ゆかりの脳裏に、今朝見た紫色の蝶の姿が映った。あの時は覚えることがなかった感情が、“恐怖”がゆかりを襲う。
足元が竦む。
気づくのが、遅すぎた。
「い、いや……」
体が震え、思考が停止する。
大鹿の頭が傾くと、ゴキリと嫌な音をたて、梟のように頭が逆さまになった。そして鼻先から切れ目が入っていくと顔が真っ二つに割れ、そこから気色の悪い一つ目が伸びてきた。しまいには大鹿の腹は大きく割け、醜悪な口となる。
もはやそれを鹿とは呼べなかった。
まさに異形。
妖怪である。
「っ!?」
ゆかりは走った。このままでは死ぬと本能で感じたのだ。震えてまともに動かない自分の足を叱咤し、夢中で走った。
「待テ、逃ゲルナ」
妖怪たちが追いかけてくる。濃密な瘴気が押し寄せ、ゆかりは足が何度ももつれ、転びそうになったが必死に走った。振り返らずただ前のみをみて走った。
しかし五つか六つの小娘の全速力など大したこともない。蠢く者たちはすぐさま追いつき、鹿の形をしていた先程の妖怪が、ゆかりの頭を掴んだ。
「ひぃ!?」
「オ前ヲ喰エバ、救ワレル……」
鹿の妖怪の生臭い口臭がゆかりにさらなる恐怖を与えた。血の臭いとそれの腐った臭い。周囲に立ち込める濃密な瘴気。胸がむかむかとして、気分が悪くなりそうな臭いである。
まさに死の臭いであった。
それらの瘴気を吸ったゆかりは、体に何かが入り込む感覚に襲われた。
「うぇ……ひ、ひっ……ひっく」
母は今頃自分を探しているだろうか? しかしこの広い森で自分を見つけることは不可能だろうと、ゆかりは諦めた。母の言いつけを守っていればこんなことにはならなかった。おそらくあの透明な壁は妖怪達の侵入を防ぐためのものだったのだ。
そうして後悔をしている内に、妖怪はゆかりを丸飲みにせんと、その醜悪な口を上に大きく開けた。
「いや……! やあぁっ!?」
今にも鹿の妖怪がゆかりを食らおうとしたその時、
「っ! っっ!?」
「——グォォッ!?」
ゆかりが目をつむると、足元からグチャリと不快な音がした。
「妖怪風情が、その子に一体、何をしようとしているのかしら?」
それは一瞬の出来事だった。ゆかりの頭を掴んでいた鹿の妖怪の頭らしきものが消えた。力なく崩れる肉体。ゆかりは空中に投げ出されたが、何者かが受け止めてくれた。
「ごめんなさい、ゆかり。怖い思いさせてしまったわね。大丈夫、すぐに終わるから」
ゆかりが目を開くと、そこには母がいた。いつもより真剣な顔をした母であった。母の手から放たれる、無数の光。それは暖かくも力強く、どこか安心してしまう不思議な光であった。
「——散れ、今すぐに」
光とは対照的な、冷たい言葉ともに閃光が妖怪たちへ向かっていき、次々に貫いていく。母の周囲に渦巻く不思議な力の奔流を、ゆかりは目の当たりにした。
「ゆかり、ごめんなさいね。少しだけ目を瞑っていて頂戴。すぐに怖くなくなるから」
言われるがまま、ゆかりは固く目を閉じて、母の服の裾を掴み答えた。
「うん」
彼女の目がちゃんと閉じていることを確認した母は、妖怪達を睨みつける。母の目は怒りに燃えていた。それは娘に向けてでなく、娘が結界から出るのを止められなかった自らの不甲斐なさに対しての怒りであった。
本来ならばゆかりは結界に近づくことも、通り抜けることもできないはずである。それが今日、結界の修復の際に母は別の場所で襲ってきた妖怪達に気を取られ、ゆかりが結界をすり抜けるのを防げなかった。
「……」
母がその白い手を前に出すと、再び周囲の光が収束し、蠢く妖怪達を跡形もなく消し去る。数が多くとも、幸い力の弱いものしかいなかったため大した脅威ではない。一匹残らず、抵抗も許さず妖怪達を全滅させた。
そして、近くにまだ妖怪が潜んでいる可能性があるとふんだ母は、周囲を探知するため新たに結界を張り、安全を確かめた。
しかし、結界内に妖力は探知されなかった。
「終わったわね……」
ようやく母は、ほっと息をつく。ひとまず危機は脱したようである。
「おかあさん……!」
腰に抱き着いてきたゆかりはまだ震えている。
よほど怖かったのだろう。母は自らに対する怒りを娘に悟られないように精一杯笑顔を作って安心させた。
「……大丈夫よ。お母さんがやっつけたから怖いのはみんないなくなったわ。さあ、帰りましょう。だけど、その前に——」
母はゆかりの前に膝をつき、娘の小さな肩に両手を置いた。
「無事でよかった……うん、本当に、よかった……」
母はゆかりを叱らなかった。ただゆかりを強く抱きしめた。
「もう一人で遠くにはいかないで頂戴……ゆかりに何かあったら、私……」
母の声も少し震えていた。
「……えぅ」
それが引き金になったのか。
胸に顔を埋めるゆかりは、だんだんと熱を帯びていく。
「う、うぅぅ゛、えぇぇぇ゛ぇ゛っ」
遂に耐えきれなくなったゆかりは、母の背中にまわした腕に力を込め、母の腕の中で、泣き叫んだ。
「ごめん、なさい! やくそく、やぶって……ごめんなさいっ!!」
その日を境に、ゆかりは一人で過ごすことを恐れるようになった。
******
妖怪に襲われてからしばらくして。
ある日の朝、彼女は母に連れられて川辺へ顔を洗いに行った。
「つめたいっ!」
辺りはすっかり暖かくなってきたというのに川の水は冷たいため、ゆかりの眠気はすぐに吹き飛んだ。しかし気分は優れなかった。
「なにか、へんなかんじ……」
ゆかりは胸のあたりが少し苦しいように感じた。妖怪達に襲われたときから時々同じようなことが起きており、今まで通りの生活はできているが、ゆかりは不安だった。
「——どうしちゃったんだろう? わたし」
その日の朝食を済ませ、母と原っぱで普段の通りに本を読んでいたゆかり。ただ、どうしてか集中できない。文字が頭に入らず、すぐに流れていってしまうのである。
それゆえにこれから何かが起きるのではないかという、嫌な予感がしてならなかった。
「ねえ、おかあさん」
「どうしたの? ゆかり」
「おかあさんは、どこかへ……どこにもいかないよね?」
「……」
不安だったからこそ、ゆかりは母に尋ねた。母がずっと此処にいると答えてくれれば、安心できると思ったのだ。
周囲が妙にざわついている。春の陽気はどこへ行ったのやら太陽は雲に隠れ、辺りは薄暗くなっている。沈黙する母に、ゆかりの心臓の鼓動は次第に速くなっていった。
「そうね……」
遠い目をしている母は、答えなかった。
「…………」
否、答えることができなかった。
それもそのはずである。周囲の空間が歪み始めたのだ。
二人は、幾多の妖怪達に囲まれていた。
その数は以前ゆかりが襲われたときを遥かに超え、大小さまざまな“異形”が、二人のことをじっと見つめ、今か今かと襲う機会を窺っている。
「結界が弱まっていたようね……まったく。懲りない奴らだわ」
「おかあさんっ!?」
「ゆかりは、そこにいなさい。大丈夫よ」
にこりと母はゆかりに微笑むと、妖怪達の方を向いた。ゆかりから見えたその背中は何かを決心したかのように見えた。
ゆかりは言葉を失ってしまった。
「死にたいのならかかってきなさい。あなたたちに“救い”なんてもってのほか」
「亡霊ノ分際ガ、何ヲ言ウ……ソノ娘ヲ渡セ」
「お生憎様。私がここにいる限り、そうはいかないわ。この子は、私の愛しい一人娘。好きにさせると思って?」
「……消エカケノ貴様ガ、今更何ヲ望ム? 我等ノ祈リナド、トウニ忘レタ亡霊風情ガ」
「勝手にほざいていなさい。あなたたちと私が分かり合うことなんて、初めからできるわけがないに決まっているでしょう? 私の願いはただ一つ。この子を呪縛から解放することなのだから」
母は素早くゆかりの周りに強力な防御の結界を張った。
「いや!! いっちゃだめっ!!」
行かせてはならない。その直感に従い、ゆかりは母の元へ駆け出した。
「あうっ!?」
しかし、この前のようにその透明な壁をすり抜けることはできなかった。以前よりも強固になった結界が、ゆかりの行く手を拒んだのだ。
一方、彼女の制止を振り切った母は妖怪たちの群れへと飛び込んでいった。
両手から伸びる透明な刃は、いとも簡単に妖怪たちを切り裂く。身に宿る霊力によって肉体が強化された母は、驚くような速さであった。
時には拳で打ち砕き、結界に敵を閉じ込めれば、収縮させて圧殺する。
「グギィィッッ!!??」
「邪魔ヲスルノカ! コノ亡霊ガァァ!!」
遠方から妖怪達が禍々しい毒の息を吐く。
母は前方に結界を張って防ぎ、すぐに霊力で作り上げた光の矢で打ち抜く。体に大穴をあけられた妖怪達は、大量の血を噴き上げながら沈んでいった。
「潰セェェェ!! 相手ハ一人ダッ!!」
血飛沫の雨が降る中、体の大きな妖怪達は母を押しつぶすべく包囲をするように迫るが、母はそれを紙一重で躱しながら切り刻んだ。その動きはまるで流れる水のように鮮やかだった。
「ちっ、硬いわね」
しかし、その巨体を支える体は硬く、母の手から伸びる刃ではそう簡単に骨まで届かない。
舌打ちをした彼女はすぐさま別の手段を取る。
刃が届かないのならば、届くまで切り続ければいい。光で焼き尽くせばいい。結界で圧殺すればいい。
彼女……母がこのような力を持っているのには、理由がある。
昔、彼女は“人間”の守護者だったのだ。向かってくる数多くの妖怪たちを強力な結界術、体術をもってして打ち倒し、人々を守る、それが彼女に課せられた使命だった。しかし、人間の力が増していくと彼女は次第に恐れられ、疎まれるようになってしまった。その後、母は時の権力者たちによって、とある戦において使い捨てられた。親しい者も皆、彼女を置いて行ってしまったが、彼女は人間をけっして恨んだりはしなかった。
母は、人間が弱いことを知っていたのだ。
辛うじて生き延びた母は生きるか死ぬかの毎日の中で、ある日空から声を聞いた。
『おめでとう。幸運な人よ』
それは、たしかに受胎の告知であった。けれど自分とそんな関係になった者はいないはず。そう訝しんだ母であったが、自分が子供を宿していると確信した彼女は歓喜した。こんな自分でも母親になれる。それも告げによれば、生まれてくる子は祝福されているらしいのだ。
ようやくたどり着いた森で、彼女は子供を一人で産んだ。その際に体の調子をひどく崩してしまったが、己と周囲の区域に“ある術”をかけ、この世で一番愛しいわが子に彼女は精一杯愛情を注いだ。
母はゆかりを守るためならば、数万の妖怪の大群ですら相手にするだろう。今の母にとって、ゆかりは彼女のすべてであった。
「はぁ、はぁ……」
気づけば、彼女の周りには血の海が広がっていた。一体どれだけの長い時間の間、戦い続けたのだろうか? 無我夢中で戦い続けた彼女は息を整えながら思う。
「(これで、終わりね……それにしても、もうこんなに暗くなってしまったのかしら? これじゃあ、結界の修復は明日になりそうだわ)」
まだ午前中だったはずだが、辺りはいつのまにか薄暗くなっている。妖怪達の相手をするのに集中していたばかりに、気づけなかったのだろうかと、ほんの少し、違和感を覚えながらも母はゆかりの元へと歩いていった。
しかし母は気づけなかった。
今宵が新月であることに。
「ゆかり、ゆか……り…………?」
「うあぁぁ゛っ」
胸を押さえて苦しみだすゆかり。
「おかあさん……こわい、こわいの……なにも、みえないよ……」
「……、ぁ……。ゆか、り……?」
ゆかりの背後に潜む“無数の眼”が、母をじっと見つめている。
——貴様にその娘は救えない。
そう語っているかのようであった。
母は一瞬、硬直してしまった。
それが、仇となった。
「よるが、よるがおりてくる——」
母はゆかりから発せられる“力”に吹き飛ばされた。
「いやぁぁぁぁっ!?!? こないでっ!?!? お、おかあさ——」
「落ち着きなさい! ゆかり、あなたはここにいるの。大丈夫よ。お母さんはここにいるわ!!」
すぐさま態勢を立て直し、駆け寄ると母はゆかりを強く抱きしめた。恐怖に我を失うゆかりを必死に落ち着かせようとその小さな背中を何度も何度もさする。
しかし、懸命な母の行動も虚しく。
ゆかりの周りの空間が嫌な音をたてて裂けた。
中から覗くギョロリとした眼が、ゆかりを捉えた。ついに、“見つかってしまったのだ”。
「くっ……!!」
『祝福されし子』であったために発現してしまった能力。本来ならば、こんな少女が持っていいような力ではない。母は咄嗟に結界を張り、ゆかりの能力の暴走を防いだ。
「(そんな……まだ早すぎる。しかも前よりも強くなっているの!?)」
歪んだ空間から発せられたのは非常に高濃度の霊力と妖気。しかし過去、ゆかりの力が暴走してしまったときに妖気は含まれていなかったはずなのだ。
「なぜ妖気が……まさかっ!」
以前襲われたとき、ゆかりは妖怪達の妖気に当てられた。それがきっかけになってしまったのだ。
これは母も予想外だった。
あのとき、ゆかりの体内には大量の妖気が吸収されていた。そしてゆかりの持つ“能力”によって静かに増幅され、ゆかり自身の在り方を歪めようとしているのだろう。
「(霊力と妖力。両方となると、流石に厳しい……でも——」
母の口元から血が零れる。
いくら強力な結界を張ることができる母でも、霊力と同時に妖力を押さえつけられなかった。妖怪達との戦闘で消耗しきった今の状態では、新たに封印術を展開するまでの時間稼ぎもできない。
「(ここでこの子を守るためなら……)」
皮膚が裂け、さらに血が流れた。それでも彼女はゆかりを離さない。
「(私の存在そのものをかけてでもいい)」
母は足元に巨大な術式を展開した。己の魂と引き換えにこの世の理に逆らって対象の内と外の概念を曖昧にする、禁忌の術である。母にとって、できれば使いたくはない手段であった。自身が考案した術ではあるが、果たして完全に扱いきれるかまでは分からない。
しかしすでにゆかりの意識はなく、彼女の体は薄れてきている。残された時間もあと僅か。選択肢は既に一つだった。
母は最期の力を振り絞り、己の霊力を全て開放した。
すると、術の発動によって景色は白に染まった。
ゆかりの身体には眩いほどの光が集まり、徐々に実体を取り戻し始める。彼女自身と彼女の能力との境界は、既に曖昧なものになったのだ。『今なら彼女の能力は暴走しえないだろう』と、母は前に突き出していた腕をおろす。暴走を防ぐことができた証拠に、あれほど無秩序に放出されていた霊力と妖力はすっかり治まっている。ゆかりは力なく倒れてしまっているが、直に意識を取り戻すだろう。
ここまでくればひとまず安心だと、母はゆっくりと息を吐いた。
己の体が少しずつ消えていく。魂が薄れてきているせいか、力が入らない。母は膝から崩れ落ち、そのままゆかりに覆いかぶさった。
愛する娘の体は小さくて、暖かい。
「お母さんを許して……」
壊れ物に触れるかのようにゆかりの頬を撫でる母。
結局、母はゆかりの体内に混ざってしまった妖力をどうすることもできなかった。それどころか、生まれたときにゆかりの中に入り込んだ何かを完全に封印することができなかった。
そして自分が突然いなくなれば、きっとつらい思いをさせてしまうことだろう。
当初、母はこのような事態はゆかりがもっと成長してからだと予想していた。しかし、母の不注意によってゆかりが結界の外に出たことにより、その予想は外れてしまった。
「ごめんね……ごめんね、ゆかり」
ゆかりには聞こえていないかもしれない。それでも母は言葉にして伝えたかった。
「あなたのこと、愛してる。貴方が生まれたときね、お母さん嬉しくて嬉しくて泣いちゃったのよ? ずっと一人だった私にとって、あなたは私の全てだった」
「——あなたが成長していく姿がまぶしかった。ずぅっとこんな日が続けばいいと思ってた。だけど、いずれこのときが来るのは分かっていたわ。お別れが早まってしまったけれど、大丈夫」
「あなたは強いわ。あなたは賢い。あなたは優しい」
「そんなあなたの泣いた顔も、あなたの困った顔も。驚いた顔も、怒った顔も私は全部大好きよ」
「でも、最後は……あなたの、笑った顔を見たかったなぁ……もう、一度で、いい、から……」
「さよな……ら、ゆかり……私の、……私の、愛しい子」
ゆかりの母の体は光の粒となって砕け散り、ゆかりの体を包んだ。その残滓までもがゆかりに吸収されると、徐々に体の輪郭は鮮明になり、実態を取り戻した。
辺りは静かになった。
気を失っていたゆかり。目を覚ますと隣に母がいないことに気が付いた。
「……おかあさん?」
呼びかけてみても答えてくれない。
そして、周囲の景色がおかしい。あれほどあった妖怪達の死体がなくなっていた。ゆかりはおぼつかない足取りで家のある方へ歩いて行った。
嫌な予感がした。行ってはならないと心の奥で誰かが叫んでいた。
それでもいつもと少し違う雰囲気の丘を登る。丘の上には家があるはずなのだと信じて。
「……」
丘の上には廃屋が立っていた。
中に入ると、ゆかりは息を飲んだ。
ゆかりの予感は、正しかった。
「ごめんなさい」
返事はない。
「ごめん……なさい……」
その声に答える者はいない。
「おねがい! うそだといってよ……」
無残にも静寂の中で少女の声が響くのみ。
「どうして……ねえ、どうしてぇ……?」
嗚咽が混じり、最後は言葉にならなかった。壁にもたれ掛かっている白骨化した骸。胸には紅い紐でできた首飾りがつるされており、そこには母の名が刻まれていた。
——ずっとずっと昔のこと。
「——っ!!」
突如、空から声が降ってきた。
神々しさを纏うその声は、ゆかりに語り掛けているかのようであった。
——今は忘れ去られた時代。
——人も妖怪も、そして神様も一つだった頃。
「なんなの……」
——ある人は恐怖をもたらし妖怪になった。
「うるさい…………うるさいっ!」
——ある人は救いをもたらし神様になった。
「どうして……」
——ある人は人であろうと人となった。
「わたしは……わ……たしは……」
——そして貴方は——。
「だまれえええ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛っ!!」
ゆかりは叫んだ。頭に響くその声を必死にかき消すように。
「——あ゛あ゛ぁぁぁぁっ!!」
その慟哭は大地を揺らし、嵐を呼び寄せ雨を降らせた。雷鳴が鳴り響いても少女の慟哭は掻き消えることはなく、嵐が過ぎ去ってもなお続いた。
しかし。
その声も次第に静かな闇へと吸い込まれ、
終には消えた。
いつか見た夕焼けのように、淡い朱色に染まった空。嵐は過ぎ去り、雲一つない。遠く遠くの東の空は薄い紫色に変わりつつあった。その色の微妙な移り変わりが、何とも言えない美しさを醸し出している。
「ああ、なんて綺麗なのかしら……」
光と、闇の中間に存在する、紫。あの日、母の背中から見た光景とは似て非なる代物。
ゆかりは、この景色を一生忘れないと誓った。
「まるで、この世の終わりみたいね……」
——いつかは終わる。
——幻想の物語。
ゆっくりと、母の墓の前で立ち上がった。
「行くわ。お母さん」
水たまりに映った彼女の姿は変貌していた。
黒かった髪は金色に。
黒かった目は紫色に。
そして幼かった姿は十四、五の成長した美しい女性に——。
その日。
一人の
境界の大妖怪、