それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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月の章:夢から醒めた少女

「百聞は一見に如かず、です。ツクヨミ様。まずはご覧ください、彼女の姿を」

「え……?」

 

 言われるがまま、ツクヨミはサグメが準備したとおぼしき水晶を覗き込む。するとそこにはツクヨミのよく知る月の重鎮と、件の少女が映っていた。

 さらに少女の背後には、傷を負った鬼の姿も見える。おそらくは都の中で暴れているという侵入者は、あの鬼のことだろう。

 

「今、丁度彼女は綿月と交戦中です」

「なぜ綿月が都の中に……いや、まさか……?」

 

 地上からきた妖怪の相手をするべく、守備部隊を編成した。しかし、明らかに計画されていたとしか考えられない不自然な守備配置。そもそも綿月に出撃要請を下した覚えもない。ゆえに、ツクヨミはサグメの意図を悟った。

 これまでの彼女の言葉を信じるならば、自ずと答えは出てくる。

 サグメは今、綿月を“異分子”だと断じているのだ。

 

「……本来、この世界に“綿月”は豊姫と依姫の二人姉妹だけであるはず」

「彼は存在しないはずの異分子であると?」

 

『綿月』は月において有力な家系とされている。そんな家系の嫡男を殺すことはいくら月の賢者たるサグメの権限をもってしても難しく、サグメは異分子の存在に以前から気づいていながら手を下せない状態にあった。

 そこで、サグメは地上に“自らが作成した偽りの歴史書”を残した。彼女の能力は紫に直接的な影響を及ぼすことはできないと以前に述べたが、逆に言えば、間接的な干渉は可能であることを意味している。

 後は、『口に出すと事態を逆転させる程度の能力』で紫が月に来るよう誘導すればいいだけのこと。まず萃香を月の都の中に誘い、騒ぎを起こさせて綿月にぶつけ、そして騒ぎを聞きつけてやって来た綿月と紫を鉢合わせさせる。

 ただし、この計画を綿月に感知されぬよう綿密に計画を立てるという前提を伴うが。

 

「……なるほど。全ては貴方の計画通りというわけですか。それなら私に今まで明かさなかったのことにも納得がいきます。私は彼を信頼し、重用していましたからね」

「……」

 

 無言の肯定。サグメの意図を察したツクヨミはくすりと微笑み、水晶に視線を戻した。対峙している綿月と紫はしばらく膠着していた状態を保っていたが、どうやら事態が動いたらしい。

 

「ではサグメ。これも貴方の予想通りだったのですか?」

 

 そしてツクヨミは声に出さずに笑う。

 何もかもが計画通りだというのならこの先を見せてみろ、といった少し挑戦的な眼差し。対してサグメは少しも動揺を見せず、何も口に出すこともなく、ただ水晶を見つめていた。

 

 水晶が映す光景。

 

 紫は萃香の目の前で、胸を貫かれていた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 おかしい。

 つい先ほどまでは、確かに萃香は月の民を相手に圧倒していた。少なくも苦戦するようなことはなかったし、体力が尽きる心配もなかった。

 それでは、いつからこうなってしまったのか。

 戦闘中にあれこれと考えるのは、自分らしくない。萃香はそれをよく理解していたが、己でもなぜなのかは分からなかった。ただ一つはっきりしているのは、今相手にしている存在がどうやら以前の紫が持つ雰囲気に近しいものを持っているということ。

 紫ほどではないものの、此の世から消し去ってやりたいという衝動に駆られる点である。

 

「(こいつはまた、どうなってる?)」

 

 自身の心境に異変が生じ始めたのは、月の兵士達の集団にある男が加わったときからであった。その男が現れるや否や、疲弊していた兵士達の士気が急に上がり、徐々に押され気味であった戦線を取り戻してきたのだ。能力を開放し巨大化した萃香が腕を振り上げればすぐさま逃げ腰になっていた兵士達が、憶することなく突貫を続ける。それは異様な光景であった。

 皆、何かにとり憑かれ、命を投げ出すことを強いられているのかと見まちがうほどに。

 そんな異様な状況でも一人残さず、兵士達を完膚なきまで戦闘不能に追い込むことに成功したのはひとえに萃香の実力であろう。ただ、彼女が打倒すことができたのはあくまで“兵士達”のみ。救援として現れた男には一切手傷を負わせられなかった。

 

「(ったく。私が知っていた世界って、案外狭かったんだね。あの女といい、コイツといい、化け物はいるとこにはいるもんだ)」

 

 自嘲し気味に、萃香は心の中で笑う。少し前まで、己は自信満々に意気込んで月の兵士を相手にした。だというのにこの様である。『幽々子の前で見栄を張ったつもりはなかったのだけどねぇ……』と、小さく呟きながら、萃香は男に向き直った。

 

『己は強い』

 

 萃香は自分でもそのことを疑うつもりはない。今でも自分が鬼であることを誇りに思っているし、これからもきっとそうだろう。しかし、出会ってしまった。そして眩しいと思ってしまった。

 

 ——自分とは異なる“強さ”を持つ者達に。

 

 少し前までの萃香なら鼻で笑っていただろう。だが博麗の巫女に出会った。八雲紫に出会った。西行寺幽々子に、魂魄妖忌に、射命丸茜。

 そして、目の前にいる男もまた、自分とは異なる道を進み、強者となった者だ。

 認めなければならない。自分の生き方は、多様な在り方の中の内の一つでしかないことを。自分がちっぽけな存在であることを。

 吐き捨てるように、萃香は言った。

 

「あ~あ。本当に、らしくない。ったく、どうしちゃったんだろうねぇ、私は」

 

 全身に意識を向ければ幸いにしてまだ体のどこにも異常はなく、平常通りに動けることが確認できた。

 兵士達に負わせられた傷ももうじきに再生して癒えることだろう。

 

「ふんっ」

 

 萃香の手の平に、鬼火が宿る。

 ゆらゆらと揺らめく焔は萃香の能力によって萃められ、次第に巨大な炎の弾となった。そして、炸裂すれば一瞬にして辺りを焦土に変える炎の弾を、ありったけの力を込めて男に向かって投げつけた。

 

 しかし、そこで萃香は止まらない。

 手の平から離れるや否や炎の弾を目くらましにして両手を巨大化させ、着弾と共に男の立っていた辺りを叩きつける。

 爆炎と、衝撃が月の都を揺らした。

 破壊という点では、萃香が与えた損害は凄まじい。月の兵士を相手にする中で、多くの建物を粉砕し、火事を起こし、月の都に本来あり得ない“災害”ともいえる規模の損害を与えた。鴉天狗ら妖怪達の集団が仮に都を攻めていたとしても、ここまで甚大な被害を与えることはなかっただろう。

 だが、この程度でくたばるのであれば、男が萃香の心をざわつかせることもなかった。

 

「ほんと、アンタ化け物かい? いくら何でも、ここまでしぶとい奴は今まで見たことがないね」

 

 彼女が炎弾を放った先には傷一つ負っていない男が立っていた。

 そろそろ潮時か、と萃香は胸元に視線を落とす。

 たとえ男が何らかの奥の手を使ってきたとしても、逃げに徹すれば逃げ切ること自体は可能だと自負していた。今回与えられた役目はあくまで“監視”。存在がばれてしまったために仕方がなく月の民と戦っているのであって、けっして月の都を攻め落とそうとしているわけではない。売られた喧嘩は十分に買った。思い切り暴れることもできた。

 

 ならばこれから取る行動は一つ。

 撤退だ。

 奴を殺してやりたいという意地を張って、退き時を少々見誤った感がある。このまま男と交戦していては、地上に帰還することも難しくなるだろう。

 鬼という種族でありながら、退くことも時として必要であることを萃香はよく理解している。身の危険を幾度も回避してきた自信の経験が、警鐘を鳴らしているのだ。

 萃香は紫に連絡を入れるべく、連絡用の札を取り出そうとした。

 

 しかし、今日の萃香はとことん()()()()()()

 

「あっ!?」

 

 取りこぼしたせいか、胸元からはらりと連絡用の札が地面に落ちる。

 あまりに致命的。

 一瞬生じた隙は、決定的な形となって萃香に襲いかかった。

 

「ちぃっ」

 

 回避が間に合わない。

 耳元まで響いた轟音と共に、男が放った怪しい光が萃香の左腕を捕らえた。よりにもよって、これまで萃香をして警戒すべきだと回避に専念していた代物であった。

 光は急速に実体を構築し始め、萃香の体を拘束する。輪郭がはっきりとするにつれて重みが増し、怪力であるはずの萃香ですら膝をつくほどまでとなった。

 

「なんだっ、これは?」

 

 自慢の怪力はおろか、能力すらも全く発揮されない。しかし、かつてこのような状況に陥った経験が萃香にはあった。

 己がかつて、酒呑童子として人間の武士たちに討伐されたときのことだ。

 

「なるほど…………注連縄、か。通りでやばいと思ったわけだ……!」

 

 警戒の理由。

 その正体は神を捕らえておくために作られた注連縄であった。注連縄は神域を隔絶するため、厄や禍を祓うための結界として強力な力を持つ。神であろうと、妖怪であろうと拘束するのだ。鬼である萃香の自由を奪うには十分であった。

 

「——っ!」

 

 ただ拘束された状態であれ、札を拾うこと自体は造作もないことである。

 急ぎ萃香は自由が利く右腕を伸ばして拾おうとした。

 しかし、萃香が伸ばした右腕は突如として発生した爆発によって吹き飛んだ。

 

「ぐぁっ!?」

 

 それほど大きな規模ではなかったが、封印術によって弱体化した萃香の腕を損傷させるのには十分な威力をもつ。

 神すら拘束する注連縄。鬼である萃香にとって、効果は覿面である。

 

「うっ……」

 

 残った左腕を行使してどうにか拘束を解除できないかと四苦八苦する萃香であったが、注連縄はびくともしない。“邪”という妖怪特有の性質をもつ以上、抵抗は意味を成さないのだ。

 

 もがく萃香を確認し、男はゆっくりと萃香の方へ歩み寄った。

 

「!?」

「ようやく苦労して月の賢者を無力化したというのに、面倒事などを起こしよって。貴様らの所為で、全て台無しにされたよ。これで私はあの女を相手にせざるを得なくなった」

 

 そして萃香に向かって意味不明なことをのたまう。

 萃香がもしもここで冷静であったのなら、この男から何らかの情報を引き出せたかもしれない。ただこのとき、捕縛された状態から抜け出そうとすることに必死であったため、萃香は彼の言葉がまともに耳に入らなかった。

 

「……ちっ、貴様に言っても無駄か。いや、むしろ貴様は私と同じ、被害者と言ってもいいかもしれん。あの女が貴様をここに連れてこなければ、ここで死ぬことはなかったのだろうからな」

 

 男の指先に焔が立ち上がる。

 

 ——恐怖。

 

 萃香からすれば、絶えて久しい感覚であった。

 歯と歯がかちかちと音を鳴らし、萃香の本能が警鐘を鳴らす。この焔は己とって危険極まりないものだと。

 

「すまんが、楽には死なせん。精々あの女を恨み、苦しみながら逝くがいい」

「うぁ゛っ!?」

 

 指先が萃香の額に触れると、頭の中をかき混ぜられるような激痛が彼女を襲った。

 

「ぐぁぁぁ、あぅぅぅっ!?」

 

 熱い、などという生易しいものではない。萃香をして正気が保てなくなるような“痛み”である。

 内側から頭が破裂してしまいそうだった。萃香はあまりの激痛に、拘束から必死に抜け出そうともがいたが、拘束具はびくともしない。終わりの見えない苦痛は、萃香の肉体と精神を確実に削っていった。

 

「うぐっ、がぁぁ!!」

「所詮は妖怪。いくら鬼と言えど、この拘束からは逃れられんよ。貴様は偶々、運が悪かっただけだ。しかしそうだな、もしもこの苦しみから解放されたいのなら、奴を早く呼ぶといい」

 

 腰に差していた刀身の細い剣の切っ先を萃香の目に向ける。

 

「あ、っあぁぁ……や、やめ——」

「奴をおびき寄せる餌くらいにはなってもらう」

 

 そして、萃香の右目を串刺した。

 

「あぐっ!? がぁぁああああああああああああ゛!!」

「……まだ、来ないようだな。それとも、気づいていないだけか……?」

 

 綿月は乱暴に剣を引き抜き、次は片口に突き刺した。

 

「っ!!!」

「そういえば、貴様は鬼である以上、やたらに助けは請わんよな。まったく、面倒な種族だ。意味なくこのような童女を痛めつけるのは趣味ではないのだが……これも仕事だ、恨むなよ。恨むのなら、さっきも言ったがあの女を恨むがいい」

 

 そして、萃香が意識を失わぬよう、そして苦痛を与え続けられるよう拷問が始まった。次々に串刺しにされる中、萃香はなぜ己を一思いに殺さないのか、男の真意を計り知ることはできなかった。

 否、理解したくもなかったのだろう。

 

 何度も、何度も。

 何度も何度も何度も——。

 繰り返し串刺しにされた。

 

 止まない痛みの中で、どこか冷静になっていた萃香は思う。

 この男によって、自分はここで殺されるのかと。

 鬼の中では長い時を生き、力も知略も他に類髄を許さないほどまでに己を研鑽した。萃香は初めから強大な力を持っていたわけではなかった。それゆえ、己を討伐せんと騙し打ちを仕掛けてきた武士たちに対して不快に思いはすれど、恨むことはなかった。非力な人が鬼に打ち勝つには確かに有効な手立てであることは理解していたからだ。

 しかし、萃香は己が努力の末に力を手にしたがゆえに、人間達に共感する心を失っていた。

 

 博麗の巫女に出会うまでは。

 

 いつしか全てを諦め、素面であることを忘れていた自分。いつしか鬼であろうとして、鬼である自分を見失ってしまっていた。“生”というものに執着がなくなり、己が満足する戦で果てたいと望むようになっていた。

 ある意味、これまでの萃香は生きた死人であった。

 毎日、死に場所を探すだけ。

 

 そんな自分を、博麗は仕方がないように笑ったのだ。

 それも生き方だ。止めはしない。しかし残された者のことも考えて欲しい。自分を見失いそうになったのなら、まず周りに目を向けてはどうか、と。

 彼女の言葉は萃香の心に深く響くものがあった。普段の何気ない、茶化し合いの中でふとした瞬間に博麗が言った一言。

 それは不思議な感覚だった。

 ずっと諦めていたのに、思いがけない瞬間、一筋の光が差したのだ。

 己が博麗の巫女と、あのとき出会わなければどうなっていたのだろう。そんなことを萃香は考えていた。きっと鬼の誇りという虚栄の中で、鬼でありながら自分を偽る許せぬ姿を晒していたかもしれない。あるいはその偽りを認め、それが己だと開き直っていたのかもしれない。

 それもいい。だが、博麗の出会えて本当に良かったと、萃香は振り返る。

 

 ただ、言えることは一つ。

 

 ここでは死ねない。

 

 死にたくない。

 

 ゆえに、萃香は生にしがみつき、最後まで諦めなかった。

 

「ひゅ、かはっ……」

「……来ないか。いや、あるいは——」

 

 綿月が目を逸らした刹那、萃香は最後の力を振り絞り、己の角を振るう。

 

「——っ!? おっと」

 

 しかし、すんでのところで身の危険を察知した綿月が間合いをとったため、綿月の頬を掠るに終わった。一矢報いることすらかなわなかったことに萃香は歯噛みし、

 

「(畜生……)」

 

 意識を手放した。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ふふ、妖怪に傷をつけられたのは生まれて初めてだな。あれだけ痛めつけてもなお、反撃する気力があるとは。敵ながら、天晴とも言うべきか」

 

 萃香は完全に力尽きている。

 恐らくはあれが最後の抵抗であったのだろう。頬を流れる一筋の血を拭いながら、綿月はそう納得した。

 ただし自分の予想以上に、彼女はよく囮の勤めを果たしてくれたと思う。

 途中で息絶えることなく、最後まで生きるために抗った。そんな彼女の抵抗が、待ち望んでいた者を呼び寄せてくれたのだから。

 

「来たか……」

 

 振り返らずとも分かる、不気味な気配。他の兵士達があまねく萃香にやられていてよかったと改めて思う。

 かの者を見ることなかれ、名を口に出すことなかれ。

 これから戦う相手は混沌そのものだからだ。

 

「っ、ぐぅ!」

 

 突然の光線に、綿月は結界を張ることで対抗した。

 押し切られる……。

 瞬時にそう判断し、紫から間合いを取るべく萃香を放って後方に下がる。『底が知れないことがこれほど薄気味悪いことだったとは』と、綿月は久しい感覚を覚えていた。

 対して境界の妖怪。

 八雲紫は綿月が萃香から離れたのを確認すると、彼女の元へとスキマを開いて移動した。

 

「……」

 

 紫は小さく何かを呟いた。

 それは萃香に対する言葉であったかもしれないし、あるいは他の誰かに向けての言葉だったかもしれない。ただ、彼女の表情は暗いままであった。

 そしてぼろぼろな姿の萃香の頬に触れる。すると萃香の体の損傷がみるみるうちに回復し、特に怪我の酷かった右手を残して傷跡が消えていった。一方、萃香の傷を肩代わりしたのか、紫が代わりに傷を負っていく。

 懸命に傷を治すその姿は、博麗の巫女に近しいものがあった。

 

「うぅ……お、あえは?」

 

 つい先程まで体の至る所を損傷し、筋肉が強張っていたのだろう。意識を取り戻した萃香の口から出てきた言葉は、舌足らずな拙いものだった。

 

「遅くなった。そして、本当によく耐えてくれた」

「え……?」

 

 紫は萃香を抱きしめた。余りに急だったのと、事態がよく掴めていなかった萃香は目を点にして、ただ呆けていた。

 耳元で、紫は萃香に小さく囁く。

 

「私がアレの注意を引き付ける。貴方はその隙にスキマで白玉楼へ帰還して頂戴」

 

 萃香は目を見開いた。

 

「そんな……」

「私は大丈夫」

 

 応急処置を終え、にこりと紫は萃香に微笑むと、綿月の方を向いた。萃香から見えたその背中は何かを決心したかのように見えた。

 

「おい…………紫っ!?」

 

 肘から先がなくなった右腕をもう一度伸ばす。

 当然、その手が紫に届くようなことはなく、虚空を切るに終わった。

 しかし、紫は萃香の一言に驚いたようで、

 

「……あら、初めて名前で呼んでくれたわね」

 

 そんな彼女の口から発せられたのは場違いな言葉。今まで萃香に見せたこともないような、嬉しそうな顔をして振り返る紫。

 とてもではないが、彼女が正気であるとは萃香には考えられなかった。

 

「今更何言ってるんだよ!? 皆、お前を待ってるんだ!! 幽々子は、射命丸はどうするんだよ!?」

「ええ、そうね……分かっている」

「巫山戯るな!! お前が言い出した計画じゃないかっ!! それにお前、もうすでにボロボロだろう……!? そんなんじゃアレには勝てない。全快の私でだって勝てるか分からないんだよ!?」

 

 このとき、気絶した状態から回復した直後でありながら、萃香は自らを拘束する術を分析できる程度には冷静であった。あらゆる封印術に耐性をもつ鬼である自分があろうことか拘束され、消耗を強いられた。

 それが意味することを彼女はよく理解していた。

 肉体的な防御力に劣る紫がもしも綿月と渡り合えば、命はない。一方的な死が待っていることだろう。

 

「萃香、逃げなさい。貴方にはこの先、生きてもらわなければ困るのよ」

「でも——!」

 

 短く印を組み、紫は萃香を拘束する封印術を解いた。

 

「さあ、これで貴方は自由。縛るものなど何もない」

 

 突如、背後で爆発が起こる。紫の張った結界を、綿月が破壊しようとしているのだろう。

 すでに時間は残されていなかった。

 

「だめだ……」

「……」

「……だめだよっ……」

 

 紫は何も言わない。

 直後に結界が破壊された。

 

「紫っ!!」

 

 彼女の声は届かない。

 

「——悪いが、私はそんなに気長な性分ではないのでね」

 

 綿月の白い腕が、紫の胸を貫いた。

 

「やめろおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!!」

 

 スキマが萃香を包み、すぐさま口を閉じる。

 転移に生じる一瞬の眩暈。

 再び目を開けると、そこはすでに白玉楼の庭だった。この数舜で、萃香は地上への帰還を果たしたのだ。

 顔についていた、どろりとした液体に手を触れてみれば、それは血だった。

 胸を貫かれたときに噴き出した、紫の血だった。

 

「萃香!!」

 

 幽々子が萃香の元へと駆け寄る。

 普段の冷静な姿はどこかに消え失せ、今はただ友人の帰りを不安の中待つ一人の少女となっていた。

 そんな幽々子の姿が、萃香にはどこか遠い景色に見えた。つい先程まで命のやり取りをしていたというのに、今自分は安全な地にいる。

 また、自分は一方的に負けた。

 そして、いつか倒すと決め、幾度も争う内にそろそろ認めてやってもいいと思っていた“紫”に、命を救われた。

『これじゃあ勝ち逃げじゃないか』と呟き、空に浮かぶ月を見上げる。

 

「なんだよ……私は、アイツに、生かされちまったってのか……」

 

 悔しかった。ただそれは紫に対するものではなく、ましてや綿月に対するものでもなく。彼女自身に対する怒りであった。

 自分が引き際を誤らずにいれば、紫と共に月から離脱することに成功していたかもしれない。

 

 ただ、

 

「ごめん、よ…………」

 

「ごめんよ、幽々子——」

 

 目の前の少女にかける、謝罪に続く言葉が見つからなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

 私が“私”を自覚したのは一体いつだろう。

 気づけば私はここにいて、自分が亡霊であることと、西行寺幽々子という名をもつこと以外の全ての記憶を失っていた。

 

 生まれて初めての“感情”は、虚無だった。

 

 そして生まれて初めての“行動”は、その場を立ち去ろうとする彼女を引きとめたことだった。

 どうしてかは分からないけれど、このまま行かせてはいけないんだと強く思ったから。もしかすると生前、私は彼女と友人だったのかもしれない。

 そんな無邪気で、単純で、子供みたいな希望をもって私は彼女を呼び止めた。

 

 裾を引くと彼女は振り返り、金色の髪がなびく。

 私はこのとき、彼女の容姿に目を奪われて言葉を失った。

 

 なんて歪で、そして美しいのだろう。

 

 彼女も驚いていたらしく、しばらく固まっていたがすぐに口元をほころばせた。

 そして、言った。

 

『初めまして』と。

 

 すぐに嘘だと分かった。ほぼ確信めいたものがあった。

 でも、そのとき私は枯れていた桜が一斉に咲き誇るのに注意を奪われて彼女にそれ以上聞けなかった。

 何をやっていたんだろうと今になってはよく思う。

 だってそれ以降はもう、彼女に聞く機会を失ってしまっていたから。

 

 ある日、急に私は気づいたことがあった。

 彼女は私に何か隠している。

 ずっと、ずっと。

 それが嫌かと聞かれれば、実はそこまで気にしてはいない。私はどうやら気楽な性格らしい。

 あれやこれやと瞬く間に冥界の管理人という仕事を課せられ、それなりに忙しい日々を送る毎日。時々彼女が私の元を訪れてきてくれたりもしたから何となく分かるのだ。

 きっと彼女は私のことを気遣ってくれているのだろう。生前の記憶のない私がちゃんと地に足を付けていられるように。

 そのことは、私の空虚な心に足りないものを埋めてくれる気がした。

 

 自覚してからというもの、自然に私は彼女を目で追うことが多くなって。一年、また一年と経つたびに、彼女を想うことが多くなっていて。

 

『……どうかした?』

 

 二人でいるときはいつも心が安らいでいて。

 

 二人でいるときはいつも満たされていて。

 

『ねえ、紫』

『はい?』

『もっと自分を大切にしなきゃだめよ……』

 

 そしていつも、彼女のことを心配していた。

 ……いや、それは違う。

 私はきっと自分を失うのが怖かった。彼女がいなくなれば、私は私である最後の証を失いそうな気がした。

 訂正。

 私は気楽な性格ではない。ただ失うのが怖い臆病者。

 だから、満身創痍の状態で転移してきた萃香を目に止めた瞬間、

 

「萃香!!」

 

 体が勝手に動き出していた。

 

『ごめんよ、幽々子——』

 

 萃香はそう言って、気を失った。それだけで、私は何が起こっているのか、察しがついてしまった。

 萃香の分身が、少し前に雲散して消滅していたから。

 月で何かが起きたことはほぼ間違いない。

 すぐさま白玉楼の幽霊たちに萃香を運び、寝かせるよう指示を出す。また他の者達には妖忌を通して連絡をするよう別の指示を出した。

 私は今から月に向かわねばならない。

 幸い、紫が置いていった式を使えば月に転移することはできるけれど、まずそのためには今すぐにでも湖へと向かう必要がある。

 満月の夜は、もうじき明けてしまうから。

 そうなってしまえばもう、紫を助けに行くことはできなくなる。

 つまり、

 永遠に、彼女はここに戻ってこれなくなる。

 

 

 それは私の心にこの上ないほどの“恐怖”を与えた。

 

 

 そう、私はずっと恐れていた。

 紫を失うこのときを。

 これまで私は、口では紫を信じていると言いながら、それでも信じきってしまうことが不安で。茜ちゃんや、萃香や、博麗の巫女に紫を見守ってもらうよう頼み、彼女から一歩離れたところにいた。

 そんな私は、皆が羨ましかった。

 どうして貴方達は恐れずに前に進めるの? 

 家族を皆殺しにされて、種族の運命と一族全ての希望を託された茜。人々からの重圧の中、人里をたった一人で守り抜こうとする博麗の巫女。“鬼”でありながら人と絆を結び、手を貸してくれた萃香。そして、生前の私を看取り、亡霊となった私に仕え続けると誓ってくれた妖忌。

 

 貴方達は、苦しかったり、辛かったりしても、今いるところから平気で飛び降りようとする。自ら進んで道を切り開こうとする。

 恐怖に負け、前に進めない私を置いて。

 

「(でも——)」

 

 私が紫を遠ざけてしまったら、紫は一体何にすがればいい? 彼女はいつも気丈に振舞っているけれど、どこか無理している。それは、ずっとずっと前から気づいていた。

 気づいていたのに、なにも私はしてこなかった。

 ここから出られないことを言い訳にして。

 自分が亡霊であることを言い訳にして、逃げていた。

 

 

 彼女を引き留められるのは、私だけだ。

 ずっと、私の記憶の前から一緒にいた、“私”だけだ。

 今、私が切り開かなくてはいけないの。

 

 何を迷う? 

 

 何が冥界の管理人だ。友人の危機に手を差し伸べずして、どうする。

()()()()()()()()()()、もう嫌。

 

「(私を、紫のとこまで連れて行って!!)」

 

 懐にあった式を取り出し、発動する。

 紫から貰った道標。境界を操作した件の湖への道を照らしてくれた。

 

「(今ならまだ間に合う)

 

 全速力で空を飛び、白玉楼の出口となる結界を越えようとした、丁度そのとき。

 

「ふと心配になって様子を見に来れば。案の定ですね」

 

 私の体は地に叩きつけられた。

 

「あうっ!?」

「それはなりません」

 

 行く手を阻むように、一人の少女が立ちはだかる。

 翡翠色の髪が月の光に照らされ、姿が露になった。

 聞き覚えのある声だ。私がここから離れぬよう監視をしている人物。そして、白と黒を裁断する地獄の閻魔。

 

「西行寺幽々子、貴方はこの先には進めない。アレは最早、我々の手に負えるものではなくなったのだから」

 

 四季映姫・ヤマザナドゥ。

 

「道を、開けてください。今すぐ、私は行かなければならない」

「口に出さねば分からないというのですか? 貴方ほど察しの良い人物でありながら」

 

 彼女が退く気配はない。恐らくは全て承知の上で私を止めにかかっているのだろう。

 そう易々と通してはくれないのは確実。

 

「もう一度言いましょう。西行寺幽々子。ここは諦めなさい」

「承知、できません」

「……貴方が八雲紫だと認識していたのは、ただの記憶の残滓にすぎない。すなわち、今までの八雲紫という存在は元から亡霊のようなものなのです。貴方とは違う意味でね」

「何を——」

「だから万が一、貴方が私を倒し、月に辿り着けたとしても、貴方の知る八雲紫は既にこの世にはいない」

 

 周囲にかかる圧力が一気に重くなる。

 それは映姫が本気を出したという証だった。

 

「今の貴方はそう、足が宙に浮きすぎている。本来あるべき道から大きく逸れています。このままでは貴方という存在そのものに変化が生じるのはそう遠くはないでしょう」

 

「そして、彼女を止めることは愚か、会うことすらかなわない。精々、そこで這いつくばり、頭を冷やすがいい、西行寺幽々子」

 

「この要らぬ記憶は、消させてもらいます——」

 

 

 映姫は私の額に悔悟棒を突きつけた。

 

 そして、

 

 私はこの日、大切な友人を失った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 月の都の一区画。

 綿月は紫の胸を手刀で貫いたものの、その後は防戦一方であった。

 致命傷を与えた手ごたえがあったはずであるのに、紫は禍々しい妖力を周囲に撒き散らしながら綿月に向かってきたのだ。といっても妖力拡散させるとは、少々力の使い方が拙いと綿月は思う。

 それゆえ、彼女は把握しきれていない自らの力を試そうとしてるのではないかとも考えられた。否、使い方を思い出そうとしているのやもしれぬ。

 そこで、このままでは徐々に形勢不利になると考えた綿月は結局、切り札を使った。

 自分が行使できる封印術の内で最大級のものを用い、紫の妖力を封じた。先程の萃香と同様、妖怪に注連縄を破る力はない。

 そして、

 

「ふふ……はははははっ! 呆気ないものだ!!」

 

 頭部を失った紫の死体を前にして、

 

「祝福されし子たちよ、貴様らの“切り札”は死んだぞ!!」

 

 綿月は天を仰ぎ、両手を広げて喜びをあらわにしていた。

 萃香を逃がしてしまったのは失態だが、あの様子ではもうここにやって来る心配もないだろう。あそこまで戦意を徹底的に折ってやれば、二度と歯向かうことはできまい。

 それよりも、今は八雲紫という“特異点”を抹殺できた利益の方が大きい

 

「(一筋縄ではいかなかったが、概ね想定通りだ)」

 

 己が行使できる最大級の封印を施してやった。ここまで完全に封じ込めてしまえば、いくら再生力の強い妖怪とはいえ蘇ることもないだろう。

 そう考え、綿月は息をつき辺りを見回した。

 周りの月の兵士達が起き上がる様子はない。恐らくは紫が放った瘴気に対して、防衛本能が働いたのだろう。運悪くあれをまとも見てしまえば、精神に異常をきたす。

 

「(賢者の奴がいつか仕掛けてくると思っていたが、まさかこんなタイミングとはな。まったく、これでは時折攻めに来るあの神霊の方がましではないか)」

 

 綿月は懐から煙管を取り出し煙草をふかした。

 

「(こんな形で干渉してくるとは思いもよらなかった)」

 

 日常である事務の任務に務めていた日々。

 気づけば、自分は妖怪達と戦う月の兵士達を指揮していた。

 此度の妖怪達による襲撃において、彼には出撃要請が下されていないにも関わらず、である。妹二人の面倒を見るという心労から意識でも吹っ飛んでいたのかと自嘲しながら、彼は戦の勝利が確定するまで部隊を指揮した。

 綿月は味方を扇動する力を持つため、集団戦において彼が指揮をとれば勝利は確定する。ゆえに、せめて兵士達に自信を持たせてやるためにも、戦を楽に終えられるためにも彼は兵士達を扇動し、勝利へと導いた。

 ようやっと終わった。

 そんな安堵の息をつきながら一人、月の都に戻り事務の続きでもせねばというところで今度は鬼が現れた。

 

 なんと、今日は厄日か。

 

 彼は初め、そんな暢気なことを考えていたが、次第にその余裕はなくなっていった。

 先程からおかしいのだ。

 考えてみれば、現在、依姫も豊姫も別の任務が下れている最中で自由には動けないというのもおかしい。自分もまた与えられた仕事をなさねばならない状況であることには変わらないはずだ。それに出撃命令が“ツクヨミ”から下されていないことが何よりも怪しい。

 これは月の賢者による何らかの策略だと、彼は感づいた。

 

「(まあ、私の出生を鑑みるに、月の賢者は私を殺そうとしてくるのは至極当然よな。アレもまた、祝福されし子であるのだから。しかし奴が“綿月”に直接手出しできない以上、八雲紫を利用せざるを得なかったという訳か。それだけではないような気もするが……?)」

 

 そのとき、注連縄はわずかに軋んだ。

 

「ッ!?」

 

 綿月は振り返り、紫の骸を確認する。すると、そこには確かに全身を注連縄で雁字搦めに拘束され、頭部を失った死体が磔にされていた。

 もう動く気配がないことは分かり切っている。

『はあ』と、綿月は溜息をつく。

 すると白い吐息が、彼の口から立ち昇った。

 やはりアレとやり合ったことで自分は今、疲弊しているのだ。まともな思考をすることすらできなくなっているのかもしれない。『事務は諦め、すぐにでも帰って休息を取るべきだ』と自分に言い聞かせ、綿月はその場を去ろうとした。

 しかし、

 

 ギシッと、今度は彼の耳にはっきり伝わった。

 元は神を封じるために作られた注連縄。それは伊勢大社に使われているものと同程度のものを使っているはずだった。

 すなわち大国主すら封じ込める規格外の代物。妖怪相手には少々、いいや、かなり過剰とも言える。

 ましてやアレはすでにただの死体となり果てている。念には念を入れた自分が馬鹿らしくなるほどに厳重な封印を掛けた。

 そのはずなのに——。

 

 なぜ、

 

 風も吹かぬ、この月面で、

 

 注連縄は軋んでいるのか? 

 

 術を行使している者だからこそ分かる違和感。自分は、本当に八雲紫を殺害し、その死体を封印するに至ったのか。

 そこで一度思い起こす。

 彼女は祝福されし子だ。それも彼女はこの世に初めから生まれるはずの存在であった上に、原初の人間の()()を引き継いでいる。そんな馬鹿げた存在が、この程度で殺せるものならばそれは杞憂であったとも言える。

 だが、綿月はこのときのために力を蓄え、月という強力な勢力の深部まで入り込むことで今日まで生きながらえてきたこともまた事実。彼は自らが妖怪としてでなく、人間としてこの世に生を受けたことに感謝している。そうでなければ、地上の狂った祝福されし子、特に純化の神霊辺りにでも殺されていたに違いない。ここまで、己の行動にどこにも不備はなかったはずなのだ。

 

 ミシリ、ミシリ。

 確実に、何かが封印を破ろうとしている。

 得体の知れない、何かが——。

 

 気の所為ではなかった。

 

「馬鹿な…………」

 

 綿月の頬を一陣の冷風が通り抜ける。

 

「(あれは不死身ではないはず……それになんだ、この濃度の穢れは。ここは閉鎖空間ではないのだぞ……!?)」

 

 紫の死体を中心にして風は巻き上がり、やがて、黒い瘴気がどこからともなく立ち込めた。そして紫の死体を包み込み、その姿を覆い隠した。最早何が起きているのか、彼には想像もつかない。

 黒より黒いぬばたまの、まるで生きとし生けるものすべてを拒絶するような黒い瘴気が綿月に押し寄せる。

 綿月は、かつてこれと似たような光景を目にした記憶があった。

 地上に月の民が暮らしていた時代。

 月に移り住む際に都市の上層部が放った終末の炎がもたらした黒煙。人間の憎悪そのものである。

 それは全てを焼き尽くし、全てを黒く染めた。

 

「ぐぅっ!!?」

 

 術を行使した綿月自身に伝わる圧倒的な暴力。伝わる衝撃は、彼の腕を内から破壊しようとするものであった。

 八雲紫の骸から発せられる力の波動は、まるで荒ぶる神のように言うことを聞かない。

 ただ、言えることは一つ。

 八雲紫は死んでいなかった。いや、むしろ“彼女”を本当の意味で起こしてしまったのかもしれない。

 そしてそれはもうきっと、取り返しがつかないことなのだろう。

 

「嗚呼——」

 

 

 第一の封印がいとも簡単に崩壊した。

 

 

「なんと愚かで、なんと愛おしいことか」

 

 

 甘美な声色は、さりとて不気味以外のなにものでもない。

 

 

「懸命に生きようとする姿はいつ見ても儚いもの」

 

 

 黒い霧が次第に収束し人型を成す。

 霧の中から聞こえてくる声は、なおも冷酷であった。

 

 

「しかし貴方も、私が殺してきた幾多の者達と同じ。死ねば、この世の記憶から消えていく。それはもう、決まったことですわ」

 

 

 第二の封印は空間の歪によって、あっけなく砕かれた。

 

 

「なぜなら貴方達はこの世の異分子。本来、いるはずのない者。存在そのものがこれから起こり得る未来を変えてしまいかねないのです」

 

 

 最後の封印はまだ持ち堪えている。

 しかし、この隙に逃げるという選択肢が綿月には残されていなかった。

 なぜなら、とうに答えは出ていたからである。

 もう、自分は彼女から逃れることはできないと。

 

 

「人が夜に対して根源的な恐怖を覚えるように、私達は常識から外れた貴方達を恐れた。そして、人は神を生み、妖怪を生んだ。

 ある人は恐怖をもたらさんと妖怪になり、ある人は救いをもたらさんと神になり、またある人は人たらんとして人となった。これこそヒトが生んだエゴ、これこそが歪なのです。

 そして、本来あるべき世界の在り方を変えてしまったの。貴方も、すでに薄々感じていたかも知れないわね」

 

 

 そして第三の封印、注連縄を彼女は強引に掴み、その手から血が滴ることも気にせず引きちぎった。

 瘴気は封印を施していた注連縄ごとどこかへ消え去り、彼女の姿が露になる。現れたのは子供と大人の中間ほどの、一人の少女だった。

 

 その姿は美麗であり邪悪。

 歩けば周囲に厄災をもたらし、手をかざせばその穢れによって生物を恐怖に陥れる。

 不吉で不気味なヒトの形をした何か。あるいは不浄の者。

 なんだ、あれは。これでは此の世の全ての異形、化け物が皆、可愛く見えてしまうではないか。

 それが綿月の率直な感想だった。

 

「これくらいの長さ、久しぶりだわ。あんまり長いと、邪魔になるのよね」

 

 そう言って紫は、前髪を軽く払った。

 少し前は腰まで届いていた彼女の髪が、今では肩までかかるほどまでに短くなっている。

 しかし、不自然さを感じさせない。

 むしろ初めからそうであったかのようにも見える。

 遥か昔、突如として世界から消えた少女。

 その姿を見て綿月は確信を持った。だが、今更そんなことに気づいたとしても遅すぎた。このまま諦念の内に、自分は死ぬのだろう。

 

「ツクヨミが何故、月に移住することにあれほど躍起になっていたのかが今になって分かったよ。やはり、アレは貴様がこの世界に来ることを予期していたのだな。マエリベリー・ハーン」

「あら、それは一体どなたのことかしら?」

 

 頬に手を当て、紫はとぼける。無垢な少女のように可愛らしく、残酷に。

 クスクスと嗤いながら虚空を指先でなぞるとスキマが開いた。

 境界から覗くは、底が見えぬ混沌。

 綿月の目に、それは地獄の門のように映った。

 

「さて、少しでも楽になれるよう、これから行く先、根の国へ迷わぬよう、せめて私が誘って差し上げましょう」

 

 

 これより始まるは一人の男の惨劇。

 抵抗など許されない。一方的な蹂躙。

 慈悲はない。

 なぜならそれが、境界の妖怪に委ねられた“役目”なのだから。

 

 

「貴方はただ、夜に怯え、そこで震えていればいい。だから——」

 

 

 

「——消え失せろ」

 

 

 

 ******

 

 

 

 血溜まりの上で、紫は息を吐いた。

 先程、月の賢者の“目”は破壊した。この場にいるのは紫のみである。

 

「……邪魔者は消えた。そろそろ出てきなさい」

 

 紫の背後に“扉”が開く。現れたのは椅子に座る少女。

 面白いものを見たかのように、にたにたと笑っている。

 

「ほほお……ようやっと記憶を取り戻したか」

 

 さも驚いたかのような表情を作る秘神に対して、紫は苛立ち気に言った。

 

「地獄の女神といい、貴方といい、古い神には碌な奴がいないのね」

「そう言うな。私も今まで直接は干渉できなかったのだ。まあ、こちらの童子は下手糞にも役目を果たしてくれたようだが……」

「下手糞過ぎよ。最悪、あの娘に気づかれる危険性もあったわ」

「それは申し訳ない。私からもよく言っておくよ。アイツら躍りの才能はあるんだが他はどうにも抜けているところがあってだな——」

 

 この神は話し始めると長い。普段引き籠っているがゆえに、会話を長引かせようとする悪癖がある。よって紫は早々に本題に入ることにした。

 

「御託はいい。本題よ。力を貸しなさい」

「力、とは?」

「分かっているのでしょう? これから私が何を成そうとしているのか」

「ああ、そうだな。分かっているとも。勿論手を貸すさ。“貴方様”には使命を果たしてもらわなければならないのだから。それで……私に何をしろと?」

「幻想をこの手で創る。貴方にはその協力者になってもらうわ」

 

 

 

「秘神、摩多羅隠岐奈」

 

 

 

 これから、彼女は多くの者を失い、時には道を見失うこともあるだろう。

 恐れられ、そして憎まれ傷つくこともあるだろう。

 だが、前を見据え進み続けるその姿は、

 

 何よりも美しい。

 

 

 月の章 完

 

 第一部 完

 

 

 

 

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