狐の章:追憶
「ここは私に任せろ。どうやらアイツは私を通すつもりがないらしいからな」
顔に、この長い冬の凍てつくような風が吹きつける。吐く息がすぐに立ち消えてしまいそうな強風の中、自信満々に言い切った白黒の少女。
随分と強気なことを言うじゃないかと思ったが、確かに彼女の実力には目を見張るものがある。弾幕ごっこという意味でも。
そして実戦という意味でも、だ。
なにせ、彼女の実力は既にただの人間という範疇を越えているのだ。私の式神である『橙』はまだまだ未熟だが、半端な実力では突破することはできない。最近は特に修行に打ち込むようになったから、尚更。
普通の魔法使い、と言ったか。今の段階では紅魔の七曜の魔女に遠く及ばずとも、彼女の今後には大いに期待できそうである。
「でも——」
「でもじゃない。今の私がアイツを止められるのはごく一瞬でしかない。それ以上はどうあがいたってしようがないんだよ。だから、行け。いくら親切な私でも、三度目までは言わないんだからな」
困惑をあらわにする紅白の少女の言葉を遮り、堂々と言うその姿。
その意気や良し。
しかし、このタイミング……まさかとは思うが、この白黒は私の意図をどこかで察しているのかもしれない。そうでなければ、彼女は二人掛かりで私と戦うことを選択していただろう。二対一であれば勝機は高くなるだろうに、実力の差を認めながら彼女はわざわざ“足止め”を選んだ。
まあ、どちらにせよ、元から私は博麗の巫女を止めようなどとは考えていないのだが。
意を決した様子の白黒は、私に向かって魔法道具らしきものを向ける。
傷一つなく、頑丈でいて単純に、そして精巧に造られた八卦炉。それが発する力を鑑みるに、最早神器ともいえるような代物であると理解できた。なるほど、彼女の魔力と合わされば、私に火傷を負わせる程度の火力を出してもおかしくないだろう。
「今だ——!!」
「——!!」
博麗の巫女は、魔法使いの合図ですぐさま飛翔を開始した。
そしてほぼ同時に、彼女の手にもつ八卦炉から七色の光の奔流が発した。
あの光線が私のところまで到達するのは、ほんの一瞬だろう。
「『マスタースパーク』」
「……」
光線を結界で遮る刹那、飛び行く巫女の姿を見た私は、妙に懐かしい感覚を覚えた。
あの娘を見ていると、幼い頃の古い記憶がふつふつと蘇り、これまでの博麗の巫女たちの姿と重なるのだ。
そうだ。今まで私が何度も何度も見てきた後姿。
お前は、お前たちはそうやってどこまでも遠くへ飛んでいく。初代から二代目へ。そして三代目、またその次の代へと受け継がれていった。
彼女たちは人間と妖怪の間に立ち、時には争いを鎮め、両者の橋渡しとなって幻想郷中を飛び回った。
無論どの代の博麗誰もが、絶対的な力を持っていたわけではない。使命を全うすることかなわずに、道半ばで果てていった巫女だって勿論いた。
博麗はその歴史を一度、閉じたことがあるのだ。
しかし、その空白の数百年間は二代目の式神、“暗闇の妖怪”が全うしてくれた。そして博麗大結界と共に博麗の巫女は幻想郷の歴史に再び登場し、大結界騒動を経て今の幻想郷を形作った。
どれもが懐かしい。
今思えば、一昔前ですら
人間は恐怖の中、人里にて息を潜めて暮らし、妖怪は自らの力を示さんと争いばかりを繰り返していた。
ああ、いかんな。らしくもない感傷に浸ってしまっていた。恐らくは、これまで抱えていたものから解放されて、知らぬうちに気分が昂ってしまっているのかもしれない。
私はあの方の式。あの方の命令は絶対で、それは私の命よりも優先されるべきものなのだ。だから私は、主から下された命令に逆らうことはできない。
私は何もできずに、ずっとずっと歯がゆい思いをしていたんだよ。
そう。今だから言える——。
魔法使いよ、感謝しよう。
お前は本当に、最高のタイミングで博麗の巫女を送り出してくれた。
これで私は、あの方を救う最後の希望を届けることができたのだ。事実を知ったからの数百年間、ずっと私はこのときを待っていた。
後はあの娘次第。今、この世界で一番あの方の心を揺らし、この世界に踏みとどめさせることができるのは、博麗の巫女ただ一人。私でも、幽々子様でもなく、あの娘が行く必要があるのだ。
幽々子様はきっと、それをよく分かっていらっしゃったのだろう。あの方が異変に手を貸したのも、恐らくは——。
光が止むと、そこにいるのは八卦炉を構えた魔法使いだけだった。
「……あいつは行ったぜ。これで、良かったんだろう?」
ああ、賞賛に値する。
君は見事時間を稼いだのに加え、私の意図に気づいたのだからな。
「やはり、気づかれていたか……」
「霊夢のやつ、勘だけは良いんだけどさ、妙に人の気持ちっていうか、隠れた意図を汲んでやれないところがあるんだ。何というか、あいつは怒るだろうけど、不器用なんだよな。一体誰に似たんだか——」
「……礼を言う。そして、あの娘の友でいてくれてありがとう。君には、感謝してもしつくせないな」
「なっ、やめてくれよ! これから弾幕ごっこで勝負をしようってのに」
魔法使いは、くすぐったそうな顔をすると、頭の帽子を深く被りなおした。それは照れ隠しのつもりだろうか。
言葉使いは強気だが、存外可愛らしいところもあるものだ。
「ふふ、君と私が、勝負する、ね……」
「なんだ? なんかおかしいことでも言ったかね?」
「いいや、何もおかしなことではない。今の状況に感慨深いものがあったのさ」
「……さっきから妙な奴だな。どうにも調子が狂っちまう」
「悪かったね。それでは気を取り直して、君の敵である私は敵らしく、君の前に立ちはだかるとしよう」
身構える彼女を前にして、私は言った。
「だがその前にどうか、名乗らせてほしい。私の名は、藍。八雲藍だ」
自然と、声を発していた。理由はそれほど深いものではない。強いて言うなら、彼女に敬意を表したかったからである。
「ある方の式神にして、幻想郷の結界の管理を務める番人でもある。失礼ながら、勝負の前に君の名を聞いてもよいだろうか?」
一瞬、驚いていた様子であったが、彼女はすぐに好戦的な表情になると、私の問いに答えた。
「ふふん。普通の魔法使い、霧雨魔理沙だぜ」
「魔理沙か……良い名だ」
「ああ、よく覚えておくといい——」
途端に魔理沙の魔力が跳ね上がる。遂に本気を出してきたようであった。
人好きのする、気持ちのいい笑顔を浮かべて彼女は言った。
「なにせお前を倒す人間の名なんだからな!」
彼女が纏うは、満天の星々。
まるで流れ星のように、空を駆けていく。
「それと——」
そして、その手に数枚のスペルカードを握りしめ、晴れ晴れしい表情で、言った。
「私はアイツを通すためにここに残ったのであって、留まるとは言っていない」
ああ、時は移りゆく。
あの戦争が終結するまでに、我々は深手を負った。
閻魔も、あの風見でさえも。
皆が傷つき、多くの代償の末に辿り着いた今だからこそ、思う。
私達の幻想郷は、異変を弾幕勝負で解決できるような、穏やかな楽園になったのだ。
「そうか。ならば私は、私の全力をもって君を足止めし、
勿論、弾幕勝負が必ずしも安全だというわけではない。しかし、問答無用の騙し合い、裏切り合いは長く見られなくなった。もう、血で血を洗う戦をしなくてもいいのだ。この魔理沙のように若く、爽やかな五月の風のような者が現れてくれる世になってくれたのだ。
「(……、幻想郷はこんなにも平和になった)」
だったら、あの方だって、そろそろ救われてもいいじゃないか。
幽々子様、貴方様のおっしゃった通りでしたよ。
私の主は与えられた役目全てを終えてから、この世から跡形もなく消え去るつもりです。残される者達の思いまでも全て、その身に背負って。貴方様の思いを全て受け止めた上で、そっとこの世界からいなくなるつもりなのです。
二代目、貴方の言った通りだった。
あの方を救えるのは博麗の巫女だけだ。あの方を本当に意味で理解できるのは、初代の意志を継いだ、過去の記憶を継承した、博麗の巫女に他ならない。霊夢が“博麗”を本当の意味で継承するかは分からない。しかしあの娘ならきっと、やり遂げてくれる気がするのだ。
博麗の中でただ一人、“名”を持つことを許された彼女になら——。
私でも、そして、幽々子様でもあの方を止めることはできなかった。
だから、せめて。
「行くぞ、霧雨魔理沙。強き人間の魔法使いよ」
私は、
八雲藍は、
わが主、八雲紫様に最初で最後の反抗をする。
狐の章 始
第二部 始
******
——瞬きをする。
——明るくなった視界に突如として現れた、
——
神様は、気づいたらそこにいた。
そして、周囲の世界から音が消えた。風でさわさわと音をたてる木々の葉っぱも、小鳥のさえずりも。みんな、みんな消えた。
私の前に現れた神様はとっても綺麗で、熱いため息が出た。でも、純粋に怖いとも思った。
雰囲気で何となく分かるから。近づけば厄災が降りかかり、足元から狂気がじわじわと身を、精神を犯していくことが。私の目の前にいるのは、そんな理不尽な神話に出てくるような、出会ってしまったら死が確定するような古の神。
私のような矮小な妖怪は、前に立つことすら許されない異次元の存在。
「………………」
神様はお花を持つ私を、吸い込まれそうなくらいに深い紫色の目で、じっと見つめている。
そう、私はお墓参りに来ていた。
このお墓は、私が生まれた場所。私が私を初めて自覚した場所なのだ。どうしてか私はこの場所が好きだったから、いつしか毎日ここを訪れるのが習慣になっていた。
時折人里で人間を化かして、そして食料を調達しながら細々と生きている中で、否応なく人間は身近な存在になる。そんな私は、人間がお墓の前でお花を手向けているのを見て、それを何となく真似てみた。
どうしてお墓にお花を供えるのか、どうしてお墓を綺麗に掃除しているのか、理由までは分からなかったけど、何となく私はそれをやった方がいいと思ったのだ。
まるで“本能”みたいに。
そしていつものようにお墓を綺麗に掃除して、お花を置いてお供えしようと思ったら、神様に出会ったというわけだ。
本当に、どうしてこうなったの——。
「貴方は——」
少し驚きと、懐かしみの混じった声色。
こんな弱小妖怪の、まだ人化の術すら覚えたばかりの妖狐である私に一体、何の用なのだろうか。聞きたくても怖くて、耳も尻尾も正直なもので毛がびんびんに逆立っている。
逃げようにも、足はすくんでお地蔵様みたいに固まっているし。それどころか、上手いことを言ってその場を立ち去ろうとしたって、何を言っても殺されてしまう未来しか思い浮かばない。
まさに袋の鼠ならぬ、袋の狐だ。
ああ、最後に一口でいいから、人里で評判の豆腐屋で売っていた、特製油揚げを食べてから死にたかった。
ひっ、ち、近いっ……。
神様は、私のすぐ近くまで歩み寄って、しゃがんだ。
秋の夕日に照らされた小麦畑みたいに金色に輝く髪は、継ぎ目一つない紅い紐で幾重にも結わえられていて、私の目の前でゆらりと揺れている。
ゆったりとした着物は一見、白を基調としているように見えるけれど、紫色の帯と不思議な模様が印象的。所々には帽子や髪を結わえているものと同じ、紅い紐が結ばれている。白、紅、紫、その三色はとても調和がとれているはずなのに、どこか不気味というか、胸の内の不安感を煽られた。
ふと、どこからか、いい香りがした。
それはむせ返るような甘い香りではなく、冷たくとも仄かに心を落ち着かせてくれるような。
思い出せそうで、思い出せない。一体、何の香りだったのだろうか。
神様が私に向かって手を伸ばす。
ぼんやりとしていたところで、私は不意を突かれた。
今更になって慌ててももう遅いのだけど、涙が出そう……。
た、食べても、私、美味しくないよ? きっと尻尾とか耳の毛が歯に挟まってものすごく食べづらいよ?
そうやって必死に大声を上げたくなるのと、体の震えを全力で抑え込んでいる中、
「似てるわ、あのときの娘と」
神様の一言にあれ、と不思議に思った。
「やっぱり、それだけ忘れられないものだったのかしらね」
何なのだろう。
そんな疑問も束の間、神様は間近で私のほっぺを軽く摘まんだ。
頬を引きちぎるような強い力ではなく、優しく手を添える程度のもの。意外にも柔らかくて、暖かくて、優しい手だった。
びっくりだった。
「みゅっ」
と、思っていたらそのまま頬を手の平でこねくり回された。
完全に油断していた。
「妖狐、か……」
「みぇ……!?」
ひとしきり私のほっぺを弄び、私の耳を見てぽつりと呟く神様。
驚きのあまり、自分でもびっくりするくらい変な声が出た。頬を掴まれているから口が上手く動かないし、当然と言えば当然なのだけど、正直恥ずかしい。
穴があったら入りたい、なんて人間ならこんな時に言うのだろうか。
「……あまり賢そうではないわね」
私が羞恥と恐怖を紛らわそうと馬鹿なことを考えていたら、神様は私の心の中を読んでいるかの如く、辛辣な言葉を放った。
呻くこともできない私は、ただ俯くことしかなかった。
まじまじとしばらく見つめられた上に言われると、余計に傷つくというものだ。
でも、びくびくしながら上目でちょっとだけ覗いた時、神様の口元は、少しだけ緩んでいるように見えた。
気の所為なんかではない。
それはとても、一瞬のことだったけれど。確かに、神様は微笑んだ。
「あうぅ……」
それがなんだか照れくさくて、恥ずかしくて、私は身を縮めて体が熱くなるのを我慢した。
なんだろう。私は何か、試されているんだろうか? それとも私に対して別の何らかの目的があるのだろうか?
自分に問いかけたって、答えは出て来やしない。出てくるはずもない。
「しかしまあ、丁度良かったわ。人手が足りないと思っていたところなの。それに、そろそろ後継が必要だったのよ」
人手……? 後継……?
ますます何が何だか分からない。
一つだけ分かったことは、私の命も、未来も全て目の前にいる神様の手の平の上にあるということ。
私はそれが悪いことには思えなかった。もしかすると私はこのとき、もうすでにおかしくなってしまったのかもしれない。
「——貴方、私の式になりませんこと?」
これは神様との契約。
そうだ、思い出した。
さっきした香り。それは、私が持っていた花から来ていたのだ。確かこの花の名は——。
——一輪草。
******
「ひゃああああぁぁぁぁぁっっ!!??」
神様は私を抱いて空を飛んだ。とんでもない速さで、私の叫び声すら置き去りにして、飛んだ。
あっという間に地面は遠く彼方に行ってしまい、ごうごうと空気を切り裂く音が耳に響く。
「うわぁぁぁぁああああ!?」
叫び声だけで済んだのが不思議なくらい。でも、叫ぶとそれだけで恐怖が紛れらわれるような気がしたのも確かだ。
ちなみに色々と他にも出そうになったのは、内緒だ。
「口を閉じていなさい。この高さに慣れていない貴方はきっと、これから息が苦しくなるでしょうから」
焦っていた私だったけれど、神様の声は耳によく届いた。まるで神様だけこの世界から何の影響も受けず、浮いているみたいに。
「は、はひぃぃ」
しかしそんなことをずっと考えていられる余裕なんてなく、とにかく、私は顔を神様のお腹の辺りに押し当てて、必死に捕まるしかなかった。失礼かなとも思ったけど、今更だ。それに、こうでもしなければ、振り落とされてそのまま真っ逆さまだろう。
どちらにせよ死ぬのなら、少しでも望みのある方に私は賭けたい。
「もうすぐ着くわ。少し我慢なさい。行く先では呼吸が楽になるから」
「……ぁぃ」
私は、ちゃんと頷けただろうか。
顔を押し当てていた神様のお腹が一瞬、ぴくりと動いた。今の私が神様の表情を窺うことはできないけれど、神様はこのとき笑っていたかもしれない。
しばらく呼吸が苦しいのを我慢すれば、一気に視界が開けた。辺りが急に明るくなったものだから、眩しくて私はぎゅっと再び神様に抱き着いた。
「もう大丈夫よ。よく我慢したわね」
思いのほか、優しい声。
神様は私の頭を撫で、少しだけ褒めてくれた。
この神様は、実はとっても優しいのかもしれない。ただ勘違いされやすいというだけで。
「目を開けてごらんなさい」
言葉のままに目を開けば、
「(きれい……)」
空を突き抜けてそびえ立つ、山みたいに大きな門がそこにはあった。
これには言葉を失った。
空の上にこんな景色が広がっているなんて、今まで想像もしてこなかったのが理由の一つ。そして門のあまりの大きさに驚いたのだ。人里など、軽く覆ってしまうのではないだろうか。
日の光が眼下の雲に反射し、白と青の二色で目が痛いほどに明るい。けれど神様はそんなこと気にも留めていないのか、ゆっくりと門に向かって手を伸ばした。
「(え……?)」
神様が手をかざすと、門がゆっくりと音を立てずに開く。
これはまた、何が起きているのか。さっきから驚きの連続で疲れてしまいそう……。
神様の後に続いて、おそるおそる門をぬけると長い階段があって、頂上には立派なお屋敷が建っていた。
普段遠くから見ていた人里のお家よりもずっとずっと、大きい。真っ白に塗られた壁はシミひとつ無くて眩しいくらいだし、周囲をふわふわ浮いている霊魂が幻想的な雰囲気を醸し出している。まず目にとまるのは、私の背丈では見上げるくらいに大きな門。門をくぐればお庭があって。よく手入れされた枯山水に、近くの池には立派な鯉が泳いでいる。
中でも一際目立つ、立ち並んでいる桜の木々は、きっともう少し暖かくなればとても素敵になるんだろうなぁ、と思う。
「……」
「ぼんやりしていないで早くついて来なさい。後でどうせ、じっくりと見て回れるわ」
いけない。
私は自分の不注意さに冷や汗をかいた。
神様の後ろについて行かなくてはならないのに、庭の様子にうっとりしてしまっていた。このままぼんやりしていて機嫌を損ねでもしたら、すぐに貴方なんて要らないって殺されてしまうかもしれない。
しかし、それくらいこの屋敷は魅力的だったのだ。
できるのなら、ずっと見ていたいと思ってしまう。
庭をぬけると、屋敷の縁側に辿り着いた。玄関ではなくどうして縁側なのかなと、思ったりはしたけれど、まだ怖くて神様には聞けなかった。
外から覗いた限りでは、誰かが中にいる気配はない。人里など人が住む場所でするはずの、“呼吸する音”がしないからだ。
耳をそばだてて周囲に意識を向けても、何の音も拾わなかった。
留守中だったりするのだろうか。
「幽々子、居るかしら?」
お屋敷が広いとだけあってその声は静寂の中でよく響いた。
すると、
「はーい」
屋敷の奥の方から間延びした声がした。
誰かが縁側まで歩いてくる。さっきまで何の気配もしなかったのに、警戒した私の尻尾は逆立った。
微かに聞こえる、着物の裾が擦れる音からその人が女性であることは分かったが、どうして急に気配がしたのだろう?
「久しぶりね、幽々子」
「あらあら紫、いらっしゃい」
現れたその人も綺麗だったので、私は息を飲んだ。
黒い扇子を開いて口に当て、優雅に、それでいて嬉しそうに佇んでいる。
薄く白い蝶の刺繍が施された、淡い青色の着物は彼女の体の曲線美を引き立てているし、不自然すぎないくらいの白い肌を際立て、儚さを覚えさせる。何より華やかな薄桃色の髪が満開の桜を思わせるようで、着物の色と相まってよく映えている。
人里で、こんな綺麗な人を見たことがない。
神様は私を手招いた後、私の肩に軽く両手を置いて、言った。
「幽々子。すぐに本題に入ってしまって申し訳ないのだけれど、今日ここに来たのは、この娘の面倒を暫くの間見ていて貰いたいからなの」
「あら、そういえば見たこともない娘が居るわね。預かるのは良いけれど、一体どうしたの?」
女性の視線が此方に向いた。
綺麗な人に見つめられるのは、案外緊張するものだ。人里で人間に化けるときも同じような経験をしたことがあった。とはいえ、こんなに綺麗な人は見たことがなかったのは事実だけど。
幽々子と呼ばれた女性の淡い青色の眼が私をじっと見つめている。
怖くはないのだけど、咎められているようで耐えきれなくなった私は神様の後ろに隠れた。
「あらまあ、隠れちゃったわ」
「人見知りをする娘なのよ。まだ人化の術を覚えたばかりの幼い妖なのだから、精神的にもまだ幼い」
「まあ。覚えたばかりでそれだけ人化の術を使えるのなら、大したものではないかしら?」
「いいえ。この程度の練度では先々、困るのよ」
「え……まさか、紫——」
「ええ。貴方が想像した通りですわ」
また、女性の視線が此方に向く。
「——この娘を私の式にする」
今度はさっきよりも強い視線だった。負の感情と言うよりも、私を見定めているみたいな感じだ。口元を隠す扇子の所為で少しだけ怖く見える。だが、一つだけ分かったことがあった。
彼女はきっと、恐らく、私に対して複雑な思いを抱いている。
「……」
「幽々子?」
「ああ、ごめんなさい……。そういうことなら、喜んで引き受けるわ。それで貴方はこの娘を迎え入れる準備をするからその間、私に面倒を見て貰いたいということかしら?」
「話が早くて助かりますわ。流石に、この案件は博麗の巫女に任せるわけにもいきませんからね」
なんだか私は置いて行きぼりになってしまっている気がする。いや、実際そうなのだろう。
私なんかが話に割って入っていい訳がない。
「そう。貴方の頼みというなら聞いてあげるけれど、まずはこの娘の名前を聞きたいわ。名前が分からないのでは預かるにせよ、何かと不便だから」
「ああ、そうでしたわね。まだ言ってはいなかったけれど、名は既に決まっているの」
「あら、聞かせて」
え、何それ私も聞いていな——。
「——『藍』、八雲藍よ」
“藍”?
それが、私の名前?
「いい名前じゃない。その娘にぴったり——、って、え……?」
あ、————。
「始まったか。施した式との同調率が思ったよりも低かったから心配したわ。まさか“名”に呼応して式の効果が発動するとは、名を持っていなかったこの娘の自我が曖昧なものであったことが原因かしら? 興味深いわね」
「紫……、一体何が起きているの? こんな馬鹿げた妖力、今この娘が持っていていいものではないわ。説明して頂戴」
身体が熱い。
私は『藍』。
紫様と、魂のずっと深い部分で繋がっているという感覚が私を包んだ。
前よりも身体の隅々まで意識が行き渡り、ずっとずっと力が漲る。今なら、何でもできるような気さえする。思わず調子に乗ってしまいそうだ。自制しなくては。
「説明も何も、この娘が今をもって私の式神になったというだけよ。素体の意識を抹消して式そのものに意識を宿らせても良かったのだけど、予測された時点でこの娘の同調率は高かった。式に余分な機能を持たせては、純粋な能力の増強に使える容量を食ってしまう。かえって式神としての力を鈍らせる理由などないから、意識はそのままに、式に能力の増強作用だけを付与したということ」
「……、なるほど。でもいいの? 幼いその娘にそんな強い力を持たせてしまって。強すぎる力は、それを制御できない者を破滅に導くわ」
「ならば制御できるように、私が導けばいい。あまり悠長している暇もないのよ。地上では既に異変の予兆が起きているのだから」
紫様が私へ手を差し向けると、徐々に火照っていた体の熱が冷めていく。
きっと紫様が、私に鎮静の意味で追加として妖力を供給しているからなのだろう。式が施されてから間もない今、私は不安定な状態にある。身体と精神に式が馴染むまでには時間を要するのだ。
だからこれは、主従の繋がりを強く結ぶための応急処置といったところだろうか。
応急という割には、幾分か過剰とも言えるほどの妖力を私にくださっているのだが、紫様以外にはできぬことだ。
この方に仕えることができるとは、私には勿体ないほどである。
「貴方、やっぱり月から帰って来てから変わったわね。力は勿論、そして——。いいえ、今はよしましょう」
幽々子様は何かを言いかけて、すぐに止めた。
わが主のことをよく知っているであろう彼女には、紫様が御用でお出かけになる間に、色々とお聞きすることとしよう。
今日はご都合が合わなかったとしても、これから少しずつお聞きすればいい。
「気分はどうかしら? 尾の数が急に増えたから、きっとしばらくは過ごしにくいかもしれないけれど、すぐに慣れるわ」
「はい」
私の尾の数は、一本から三本になった。
これは、私が紫様の式となった証。ただの野良の妖狐ではない証なのだ。
「藍、私の前で誓いなさい」
「しょうちつかまつりました、ゆかりさま」
私は神様と契約した。
もとより選択肢なんてなかった。
でもこれから先、何百年何千年経っても、私が死んだって後悔はしない。私はきっとこの方に仕えるべく生まれてきたのだ。
この方の願いを、祈りを成就させるために生まれてきたのだ。
「わがちからは、あなたさまのもの。このちからのすべてを、あなたさまにささげます」
そう言って、私は紫様にひれ伏した。
「ええ、期待しているわ。藍」
そしてこのときより、私と紫様との生活が始まった。
******
それから数刻ほどして、準備を終えて帰って来た紫は、藍を引き取って白玉楼をあとにした。
のんびりと見送りを終えた幽々子は、その場から立ち上がり、襖を開いて静かに立ち去る。
向かった先は、何のことはない。いつも彼女が多くの時間を過ごしている、白玉楼の自室である。
しかしそこには先客がいた。一羽の鴉が座布団の上に座っていた。
ここ冥界において、死者の魂が転生するまでの時を過ごす白玉楼に、なぜ平凡な鴉が居座っているのか。ましてや、幽々子の自室というある意味最も警備が厳重と言える部屋で、鴉の存在は相当異質なものであった。
その理由を知る者は、幽々子を除いて他にいない。
「
「やはり、この時期を逃さず動き始めましたか……」
何者かが、鴉を通して幽々子と会話をしているようである。
「はい。監視を続けますが、油断できません。まず“秘神”が後ろに控えていることは確実です。つい先程まで、私と彼女との会話の一部始終は監視されていたようでしたから。こちらの計画の障害となる恐れは十分にあるかと……」
「なるほど、後戸の神ですか……注意なさい。魔界の女神に次いで挙動が読めないアレの目的は、まだよく分かっていないのです。古の神の一柱とは言え、アレの本質は“黒”そのもの。もしも敵に回るようなことがあれば厄介なことこの上ないでしょう」
「承知いたしました」
幽々子の表情は、紫と会話をしていた時のような、柔らかいものではない。感情が抜け落ちたかのような、ひどく冷たく無機質なものであった。先程までとは打って変わって異なる態度である幽々子の異変には、気づく者などいるはずもなく。
「それでは、頼みましたよ。西行寺幽々子。万が一、祝福されし子である八雲紫が暴走した場合、手段は問いません。彼女を殺してでも止めなさい」
「はい——」
「——四季映姫・ヤマザナドゥ様」
刻一刻と、それぞれの思惑がぶつかり合う日が近づいていた。