それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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狐の章:黒い焔に包まれて

 幾つもの本が整然と積み重ねられたとある人物の書斎。

 

「祝福されし子、ですか……」

 

 この書斎の主である地獄の裁判官、四季映姫・ヤマザナドゥは心底疲れた溜息をつき、手元の資料に目を移した。現在確認されている祝福されし子のリストには、“稀神サグメ”、“純狐”、そして“八雲紫”の名が記されていた。

 

「はぁ……彼女たちはきっとこれから、面倒ごとを次々に運んでくるのでしょうね」

 

 誰もいない映姫の書斎に、再び彼女の溜息が響く。もう何度目になってしまったことか。

 閻魔としての職務の他に、最重要かつ極秘扱いで上司から下されたこの任務。

 常に細心の注意を払う必要があるのである。

 西行寺幽々子が手駒となったことで自分の負担は多少なりとも減ったが、油断できないことは依然として変わらない。

 

 何せ相手は八雲紫。

 隙を見せれば喉を食い破られるどころでは済まないだろう。

 

 そして、映姫が今回の任務に気乗りしないのにはもう一つ理由があった。

 映姫は、八雲紫の邪魔立てをしたくないのだ。できれば、干渉せずに見届けたいとも思っていた。

 彼女は八雲紫に一つの希望を見出していたからである。上層部が“運命”と呼ぶもの。それらを打ち砕いてくれるのではないか、と。

 

 映姫は道端の地蔵であった頃、日々に違和感を覚えていた。

 自分という存在が何者かによって勝手に歪められているような、不快感が胸の内に燻っていたのである。

 徐々にその違和感は増し、終いには何故自分のような存在が生まれてしまったのかという疑問すら浮かんだ。

 

 だからこそ、地蔵から閻魔となったとき、真実を聞かされ絶望したのだ。自分にできることなど何もない、自分には何も変えることはできないと知ってしまった。そのときから、彼女は与えられた日々の勤めだけに従事するようになった。

 

 そんなとき、彼女はふとしたきっかけで、とある噂を耳にした。

 

『八雲紫は、この世のしがらみ全てを打ち砕く可能性を持っている』

 

 一部では名の知られていた彼女のことだ。映姫も例にもれず、彼女の存在自体は知っていた。だが、耳にする程度であって、特に気にしていたわけではなかった。

 しかし、彼女と冥界の彼岸花畑で会った際、映姫は噂が真実になるだろうと予感した。だからこそ、あのとき映姫は笑ったのだ。彼女が全てを壊してくれるなら、自分を縛る鎖もあるいは……と。

 だが、上司はどうやら映姫の職務への不満を見抜いていたらしい。

 よりにもよって、映姫が期待していた八雲紫の監視などという仕事を押し付けられてしまったのだ。それも、西行寺幽々子を手駒にせよ、と追加の指示付きで。

 

「(白と黒を裁断する、それが閻魔の仕事であるはずなんですがね。どうしてこうもくだらぬことをしなければならないのでしょうか……)」

 

 上層部は八雲紫の弱点である“西行寺幽々子“を抑えてしまえば、もしも暴走した時であれ、始末できると考えているらしい。映姫はそれを馬鹿げた話だと断じた。

 目の前に立ったことがあるからこそ分かる。

 アレはそのようなことで止まる小物ではない。映姫が一瞬とはいえ、本気で圧力をかけたのにも関わらず、彼女は平然と真っ直ぐと地面に立っていられたのだ。本来であれば、以前幽々子が地面に押し付けられたように、問答無用で自由を奪うはずであった。八雲紫は、次元の異なる存在である自分の力すら跳ね除けてしまったのである。

 

 ゆえに、たとえ幽々子が敵に回ったとして、彼女と殺し合うことになろうがこちらに甚大な被害を与えることは確実。思うに、八雲紫がもつ“マエリベリー・ハーン”は、上層部の想定よりもずっと危険だ。

 映姫は、記憶を全て取り戻した当時の彼女のことを思い出し、震えを抑えるべく両腕で自分を抱きしめた。

 

「(よいではないですか。この世から異分子を全て消してくれるというのなら、運命を狂わされる者も少なくなる。我々の職務を、むしろ手伝ってくれているくらいなのでしょう? わざわざ蜂の巣を棒で突くことなど、愚かなことです)」

 

 不満は募る。しかしこの部屋では、自分の思ったことをそのまま吐露することはできない。

 なぜなら、映姫の書斎はすでに盗聴されているからである。それに気づいているがゆえ、ますます映姫の不満は高まった。最近疲れが取れないのも、眠ろうにも眠れないこともきっと、それの所為だろう。

 もう一度、うんざりと溜息をつく。

 溜息など、いくらでも盗聴されればいいのだ。

 

「失礼するわよん」

 

 そんな静かな部屋の空気が僅かに揺れる。扉が叩かれる音。それは突然の来客を示していた。

 

「あっ!? え、少々お待ちをっ!!」

 

 不意を突かれた映姫は、焦りながらも身だしなみを整え、コホンと咳を払った。

 これから会う者は、この地獄で最高位の存在だからである。

 

「あらぁ~、映姫ちゃん。随分疲れた顔をしているじゃないの~。ちゃんと寝ている? 目の下にくまがあるわ」

「ご、ご心配をお掛けして、申し訳ありません。ヘカーティア様」

 

 来客は地獄の女神、ヘカーティア・ラピスラズリである。古の神の一柱にして、広い地獄の中でも唯一の良心だと映姫は思っている。彼女の見た目はファンキーだが、その実、面倒見がよいことで知られており、ヘカーティアは映姫にとって心を開いて話せる数少ない人物であった。

 何故か映姫のことを目にかけてくれており、多忙であるのにも関わらず、たびたび彼女は暇をみては映姫の元を訪れてくれるのだ。

 

「こちらからお迎えに上がれず、大変失礼を——」

「あ~、いいの、いいの。私が会いたくて来たのだから。映姫ちゃんはな~んにも悪くないわ」

「は、はぁ……」

 

 屈託のない笑みを浮かべる地獄の最高位の女神は、急に何を思い至ったか振り返り、映姫の書斎の一点を見つめた。

 

「ふ~ん」

 

 彼女の慈愛の籠った目はいつの間にやら絶対零度のように冷めきり、先程まで映姫に見せていた笑みが消える。

 

「私と映姫ちゃんのお話を盗み聞きするとは、随分と肝が据わっているじゃない」

 

 それは、底冷えするような声であった。

 

「……失せろ——」

 

 書斎の本棚に設置されていた盗聴器が、はじけ飛んだ。

 

「これで、気兼ねなくお話しできるわねっ!!」

 

 振り返り、にぱっと、何事もなかったかのようにヘカーティアは笑顔を見せた。これにはさすがの映姫も苦笑いである。どうせ後でまた書斎のどこかに設置されるんだろうな、などと書斎の本棚の一角から上がる煙を見つめていた映姫だったが、

 

「そうですね、実はご報告すべきことと、お聞きしたいことがあったのです」

 

 このときばかりは盗聴されていなくて良かったと、彼女は心底思った。

 

 

 ******

 

 

「ツクヨミに摩多羅隠岐奈か……。懐かしい名前ね」

「はい。ヘカーティア様なら何か存じていらっしゃるのではないかと思い——」

「まずは、ツクヨミかしらね」

 

 椅子に足を組んで座っていたヘカーティアは、自身の緋色の髪を弄りながら、答えた。

 

「あの娘は一度、死んだのよ。本来古の神が寿命を迎えることなどないのだけど、あの娘だけは特別。今のツクヨミは、さしずめ、クローンといったところかしらね」

「くろーん?」

「ええ、本人であって別人。力そのものは同一でも、自我はまったく異なるということよ。恐らく、自分の役割に関する記憶も失っているのではないかしら」

 

 口に人差し指を当て、上目で虚空を見つめながら、思案するように続けて言う。

 

「う~んと……たしかその書類に書かれているサグメって娘は、何度か見たことがあるわ。あのうんざりするような月の都の中ではしっかりしてそうな娘だったし、きっと大丈夫よ」

「その……大丈夫、とは?」

「神と祝福されし子は運命共同体。どちらが欠けても、この世の異分子を消し去ることはできないわ。今、ツクヨミが頼りにならないのなら、彼女が自らの役割を思い出すまでサグメが支え続けなければならない。そういうことよ、映姫ちゃん」

 

 任務を下されたはいいものの、映姫は祝福されし子の全貌を知っているわけではない。できれば多くの情報を手にしておきたいと考えていた映姫だったが、収穫は彼女の予想以上のものだった。ヘカーティアはまだ何かを隠しているようであったが、それ以上尋ねてもはぐらかされるだけであろう。いくら自分に気を許してくれるのだとしても、無理に聞くわけにもいかない。

 

「後は隠岐奈だけど……」

 

 秘神、摩多羅隠岐奈の名を口にしたヘカーティアの表情が曇る。流石は後戸の神。ヘカーティアをして名を口にすることすら憚られるとは、やはり危険な神だと映姫は警戒の度合いをさらに繰り上げた。

 それにしても、八雲紫をそそのかしたりはしないだろうか、などと映姫が不安に思っていたところ、

 

「あの娘の付き纏い癖は……気を付けた方がいいと思うわ」

「は?」

 

 思わず、は? と聞き返してしまった。

 

「執着心が強いというか、一度気に入るとね、どこまでもじっとりねっとりと付き纏うの。普段は冷静そうに振舞ってミステリアスな雰囲気醸し出しているけれど、話し相手が少ないから……要は、かまってちゃんね」

 

 それは映姫の予想の、斜め下を行くものであったのだ。

 言葉を失った。

 八雲紫に、同情の念を禁じ得ない。そんなのに、目を付けられたのか。

 映姫は心の中で、紫にささやかな声援を送った。

 

「あ、あのっ、ヘカーティア様——」

「大丈夫よ、映姫ちゃん。もしも隠岐奈が貴方に付き纏うようなことがあれば、私は全面抗争だって辞さないわ」

「そ、そういうことでは——」

「映姫ちゃんの操は、私が守るっ!!」

 

 ヘカーティアの鼻息が映姫の顔を軽く撫でる。

 要は、顔が近い。

 地獄の女神は、このときばかりは映姫の話を聞いてくれなかった。一見すればきわめて部下思いである発言なのだが、『ヘカーティア様自身もどこかずれているような気がします!』と、映姫は心の中で叫んだ。

 ヘカーティアの暴走が止まるまで十数分の時を要し、

 

「さて、こんなものでよかったかしら?」

「は、はい……大変参考になりました。ありがとうございます、ヘカーティア様」

「いいのよ、これぐらい。映姫ちゃんのためだもん」

 

 落ち着きを取り戻した彼女が微笑んだ様は、まさに女神。特に今日は、いつものようなファンキーな服ではなく、黒を基調としたドレスを着ていたため一層神々しく見える。

 本当に、この女神が地獄にいることだけが心の支えであると映姫は思った。

 

「そういえば、ヘカーティア様自らこちらにいらしたのは、一体どのようなご用件でしたのでしょうか? 私が先に用を済ましてしまい、大変申し訳ないのですが」

「ああ、気にしなくていいわ。今日は単純に貴方の様子を見に来ただけなの。例の、八雲紫の監視役の任に就いたと聞いて、気になったから」

「それならば、ご心配には及びません。私の能力は彼女と相性がいいのです。上が私にこの任務を下したのも、ある意味当然でしょう」

 

 務めて平静を取り繕っていた映姫であったが、地獄の女神は彼女の本心を見抜いていた。

 

「本当に、それでいいの?」

「…………」

 

 閻魔である映姫が、()()()

 このまま黙り込むことで追及をかわすか、それとも全て、ここで彼女に話してしまうか。

 

「私には、貴方がやりたくないことをやっているように見えるわ。だって貴方、八雲紫のことを話していたとき、辛そうな顔をしていたもの」

 

 映姫にとってそれは図星だった。つい先程まで、丁度考えていたことを見事に言い当てられてしまい、最早言い逃れはできまいと彼女は確信した。

 ヘカーティアになら、全てを話してもいいのかもしれない。

 だが、心優しいこの女神は、きっと自分に手を差し伸べてしまう。それが例え、ヘカーティア自身の立場を危うくするものであったとしても。

 

「ヘカーティア様……」

「なあに?」

 

 己は罪の裁断者である。是非曲直庁における一閻魔。

 ならば、答えは決まっているようなものだ。

 

「申し訳ありません。これは、私がやり遂げなくてはならないのです。今、貴方様にお話しするわけには、いきません」

「——そう……」

 

 映姫は組織としての“法”を選んだ。

 そんな彼女の意志を汲み取ったのか、ヘカーティアは追及を止めた。

 彼女なりの優しさでもあった。

 

「さてと……、あまり長居してもお邪魔をしてしまうし、そろそろ私は帰るわ。まあ、いつでも私を頼ってね。私は何時だって貴方の味方よ、映姫ちゃん」

 

 右手の親指を立て、ウィンクするヘカーティア。

 

「はい、ありがとうございます」

 

『また来るね』、と言って、ヘカーティアは自らの空間へと転移していった。その気になれば、部屋に入って来るときも転移を使うこともできただろうに、律義な彼女は毎度、ノックをしたうえで扉から入室している。

 そんな気遣いも、彼女が慕われる理由の一つだろう。

 

 彼女が去って静かになった書斎で、映姫は次の資料に目を移す。

 記されていたのは、一人の女性についての情報をまとめた報告書であった。

 

 純狐。

 

 祝福されし子の中で最も危険かつ残虐である。敵味方問わず全てを純化の炎で焼き尽くし、終いには己自身すら焼き尽くそうとする、狂った地上の子。暴走した回数は数えきれず、安易に彼女を刺激するような行為は慎む必要がある。

 また、彼女が月の都に攻め入る度に月の民達は甚大な被害を被っているが、現状、地獄としては彼女に対して不干渉の立場をとる。万が一彼女と遭遇することがあれば、全力で退避すること。

 そして、彼女を諫める古の神、ヘカーティア・ラピスラズリの到着を待てと指示されている。

 

「(あの方は、どうしてこのような危険な存在を祝福したのでしょう? そもそも、祝福されし子とは本当にただ異分子を排除するだけの存在なのでしょうか……)」

 

 他に誰もいない映姫の部屋で、彼女の問いに答える者はいなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「あ、お帰りなさいませ、ご主人様」

 

 映姫ちゃんの元から自室に帰ってくると、クラウンピースが私を出迎えた。

 

「ただいま、クラウンピース。何か変わったことはあった?」

「そうですねぇ……、あ、そうだ! あの八雲紫が動き出しましたよ!! それとあの摩多羅隠岐奈も!」

「あはは、丁度聞いたところだわ、それ」

 

 くるくる回りながら片手の松明を振り回し、嬉しそうに言うクラウンピース。相変わらずこの娘は元気ね。ともあれ、前々からこの娘には情報収集を頼んでいるのだが、まだこれといった情報は掴んでいない。それはむしろ、良いことなのだけどね。なんたって平和が一番なんだから。

 よかった、よかった——。

 

「(あれ……?)」

 

 安心したのも束の間、私は違和感を覚えた。

 そういえば、いつもならこの娘と一緒に出迎えてくれる友人の姿が見えない。

 まさか、また勝手にここを抜け出して、一人で月を攻めにでも行ったのだろうか? 

 それはちょっとまずい。

 

「ねえ、クラウンピース。えっと、純狐の姿が見えないのだけど——」

「友人様は、奥の寝室でお休みになられています。あ、そうでしたそうでした!! あたい、寝苦しそうな友人様に、子守歌を歌って差し上げたんですよっ!!」

 

 子守歌、とな? 

 いつも元気一杯に地獄中を駆け回っている、この娘が? 

 本当に? 

 

「へ、へえぇ……」

「ふっふっふ、この前月の都に行ったときにですね、偶々耳にしたんです。そのときからあたい、気に入っちゃって」

 

 ああでもどうしよう。

 それまずくない? 純狐はもう人ではないけれど、クラウンピースの『人を狂わす程度の能力』に何かの拍子に反応したりでもしたら、また暴走してしまうかもしれない。

 今は眠っているみたいだけど、起きたらスイッチ入ってるってことはないわよね? 

 キレてるときの純狐を抑えるのは、正直私でもきつい。

 抑えようとすると、周囲の被害も少なくないし、なにより純粋に力で押さえつけられないから。

 ……暴走していないことを祈るばかりだわ。

 

「えへへぇ、それじゃあ、ご主人様にも歌って差し上げますねっ!」

 

 まったくこの娘は。

 

「——♪」

「……ん?」

 

 嫌な予感がする。

 その証拠に、私の背中には鳥肌が立っていた。

 どこかで聞き覚えがあったから。

 

「——♪♪」

 

 これが、子守歌……。

 なによ、これ…………。全然、子守歌にしていい内容ではないわ。

 だってこの歌って、あの——を歌った歌じゃない……。

 どうしてこんな歌が……? 

 まさか、これも先代ツクヨミの仕業かしら? 

 

「——♪」

 

 こうなってしまえば、世界が少しずつ変革を迎えていくことは確実だろう。

 八雲紫が記憶を取り戻した。

 そして、摩多羅隠岐奈が彼女への接触を開始した。

 月の異分子の一人が抹消され、月の勢力図に変化が生じた。

 これら一連の出来事は決して偶然ではない。起こるべくして起こったこと。

 私達も、そろそろ動き出さなければならない頃合いなのかもしれないわ。

 

「——Fantasy……」

 

 はあ……。映姫ちゃんの心配をしている癖して、自分の仕事を疎かにしていたらきっとあの娘にも怒られちゃうわよね。

 

「その歌、とっても素敵だけど、忘れちゃいなさい。子守歌にしては、物騒だわ」

「は~い」

 

 クラウンピースが二つ返事で了承したのを確認した私は、奥で休んでいるという友人の様子を見に、寝室へと足を運んだ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 裏切られた。

 全てを奪われた。

 そして当時の彼女に残った、ただ一つ感情は、ある者に対する純粋な怒りだけだった。

 

 

 

 

「母様っ!」

 

 豪華な服を纏った子供が、美しい黒髪の女性の元へと駆け寄る。

 

「戻っておられたのですねっ!」

「ええ、貴方が元気そうで何よりです。大きくなりましたね」

「えへへ」

 

 はにかむ少年を女性は柔らかく抱きしめた。

 少年は、彼女が想像していたよりもずっとずっと大きくなっていた。

 

「本当に、大きくなりましたね……。貴方のこれまでの成長が見られなくて、母は少し寂しいです」

「大丈夫ですっ。これからきっと、母様に私が立派になったところを一杯見せてあげますからっ!!」

 

 少年のその言葉には若々しい力強さがあった。成長著しい新芽のようなみずみずしさと初々しさ。

 女性は瞳には少年の姿が眩しく映った。

 

「ふふ、それは楽しみです」

「はい!」

 

 元気よく答えた少年は、母の髪をまじまじと見つめる。母の黒髪には、自分の姿が映っていた。

 そう。女性の黒髪は、鏡のように物を映してしまうほど黒く美しかった。それはこの国では有名で、近辺で知らぬ者はいないとも言われている。

 少年は、そんな母の黒髪を愛していた。

 

「お体はもう、良くなられたのですか?」

「はい。二年もかかってしまいましたが、もう大丈夫です。たくさん心配を掛けましたが、——」

 

 女性は一度少年を引き離し、その小さな手を取ると、

 

「ただいま戻りました」

 

 花が咲いたように、柔らかく微笑む。

 黒を基調とした中華服を纏った彼女は周囲に冷たく落ち着いた印象を与えるがゆえ、彼女が微笑むと、ひと際華やかであった。

 もしも他の誰かが彼女の笑みを目にしたのならば、一瞬で虜となってしまうことだろう。

 

「お帰りなさい、母様」

 

 少年の満面の笑みに女性はまた、微笑んだ。

 

「しばらくは共に暮らせるのですね。父様は昨日から眠れなかったようですよ」

 

 嬉しそうにはにかむ少年。

 

「あらまあ」

「行きましょう、母様。私が案内して差し上げます」

 

 しばらく見ないうちにここまで成長していたのかと、女性は少し寂しいような複雑な感情を抱いた。二年という月日は、やはり長かったのだ。

 

「こちらへ。お足元には気を付けてください。病み上がりに転んでしまっては、大事になってしまうやもしれません」

「ふふ、ありがとう」

 

 

 

 ******

 

 

 

 剣の稽古で汗を流す息子の姿は、それはまた見間違えるほどに立派になっていた。腰をしっかりと落として体重を打ち込みに乗せられているし、刃筋も悪くない。強いて言うなら、剣先を上手く扱えておらず手元で振ってしまっている程度だろう。

 前は剣を振るというよりは、剣に振られているという印象だったのでかなりの変容だと思う。

 ちなみに当時、あの子が打ち込みで空振りして転び、泥だらけになって大泣きしていたことが記憶に焼きついており、今でも鮮明に思い出すことができる。

 あれは可愛かったなぁ。

 

「……何か、変なことを思い出してはいないでしょうね?」

「い、いいえ。何もやましいことは考えておりませんよ」

 

 驚いた。完全に平静を取り繕っているはずの私の心情を読み取って来るなんて……。この子はなかなか勘が鋭いようだ。

 器用にも稽古をしながらこちらにジト目を向けてくる息子にこれ以上悟られぬよう、私は柔らかく微笑んで返した。その直後、

 

「若様、隙だらけです」

「あたっ!?」

 

 脳天に剣術指南役の木刀による一撃が入る。加減されているとはいえ、息子は涙目だった。

 やはり目の前に集中することは、とても大事なことです。

 

「ぬぅ……母様に気を取られてしまいました。不覚です」

「いくら奥様がお見えになっているといえ、集中を切らしてはいけませんぞ、若様」

 

 ジンジンと痛むのか頭をさすりながら息子は私の元へとやってきた。これは久しぶりに母らしいことができる好機かもしれない。

 善は急げ。

 すぐに行動に移した。

 

「今何か冷やすものを持ってきますから——」

 

『そこで待っていなさい』と言いかけたところ、

 

「この程度、なんでもありません。母様こそ、ここは少し肌寒いですよ。お体に触ってはいけません。すぐ支度するゆえ先に中で待っていてください」

「え、あ、えっと、だ、大丈夫ですよ?」

「…………」

 

 逆に気を遣われてしまった。

 これでは母としての面目が立たない。

 

「こ、これくらいは……」

「——母様」

「はい……」

 

 拝啓、旦那様。

 息子が立派になり過ぎて私は嬉しいながらも、寂しいです。こんなにも早く、親離れというものは始まってしまうのでしょうか? 

 結局言われるがまま、部屋の中で身を整えながら息子を待った。

 

「お待たせしました。行きましょう、母様」

 

 私を見てにっこりと笑う息子は、

 

「あら、なんだかとっても嬉しそうですね」

 

 私の一言の直後、途端にすっと目を細めた。

 な、何か不味いことでも言ってしまったのだろうか。

 息子は頰をぷっくりと膨らませて、抗議するように言った。

 

「分からないのですか? もしもそうなら母様は鈍感です。とっても鈍感です」

「はへっ?」

 

 そ、それはちょっとどころでなく傷つく。

 そんな、齢七の子供に鈍感だと言われてしまうとは……。

 

「母様」

 

 姿勢を正し、こちらを真っ直ぐ見上げられると、流石の私も緊張してしまう。背中を冷や汗が伝った。

 

「は、はい。な、なんでしょう……?」

 

 息子は仕方がないといった様子で言った。

 

「私は……いえ、きっと父様もでしょうから、私達ですね。私達は母様と御夕飯を共にすることができて、嬉しいのです。母様のお体の調子がようやく戻り、以前のように暮らせることが何よりも変えがたいほどに」

「あ……」

 

 はっとさせられた。私が最後に食事を共にしたのは、一体いつ頃であっただろうか。この子が文字の読み書きの手習いを始めた頃であろうか? 

 それとも——。

 猛烈に、先程言ったことを後悔した。なぜ気づけなかったのだろう。床に伏せっていたせいか、時の感覚がおかしくなってしまっているせいかもしれない。

 

「ごめんなさい。母が体を悪くしたばかりに……」

「あっ!? いや、そ、そんなに思いつめないでください! 母様が悪いとは一言も言ってはおりません。ただ私は——」

 

 情けない話です。

 鋭く指摘される挙句、今度は慰められてしまうとは。

 

「よいのです……。貴方の言ったことは正しい。私は心のないことを言ってしまいました。烏滸がましいことですが、どうかこの至らぬ母をお許しください……」

「あわわっ!? お、重いです、母様っ! わ、私は別にそこまで言っているわけではないのですっ!」

 

 涙が止まらなかった。

 

「ぐすっ……ふぐぅっ……」

 

 嗚咽。

 

「ひっ!? あぁ、母様が泣き止まないどうしよう!? ち、父上は……! 誰かっ!!」

「どうなされましたか? 若様」

「父上を早く呼んできてください! 母様が泣き止まないのですっ!」

「旦那様は只今外出中で——」

「父上ェェえええ────!!?」

 

 その後、用事から戻った夫はすぐさま飛んでやってきて。

 そして事情を知った夫に一晩中ずっと慰められ続けたことは、今でも恥ずかしかったなぁ、などと記憶している。

 

 

 

 そう、このときまでは、満ち足りていた。

 明日が来ることに恐怖など感じなかった。

 失くした時間も、きっといつかは返って来ると信じていた。

 

 ——愚かだった。

 私は何も、分かっていなかった。

 

 

 

『ひゅっ……か、……母様……、かあ、さ……ま……』

『誰かっ!! 若様を早く医者に見せよ!!』

 

 私の息子は原因不明の火事で、逃げ遅れた。顔は一色で塗りつぶされたように真っ黒で。

 あれほど可愛らしかった目も、耳も、鼻も、口も、判別がつかないほどに焼け焦げた。

 私を見つめてくれた大きな瞳は、黒く窪んで何も移してはいなかった。

 私の声を聞き取るはずだった白い耳は、炭化してぼろぼろと崩れていった。

 私の胸元で、私をいっぱいに感じてくれた息子の整った鼻は、今やただの空洞になっていた。

 私を『母様』と呼んでくれた愛しい息子の唇は、炎に焼き尽くされ歯がむき出しになっていた。

 私はあのとき、あの子に何と言ってあげたのだろう。一体、なんと言ってあげればよかったのだろう。

 思い出せなかった。思い出そうとすればこの身が、心共々焼け焦げてしまいそうだったから。

 

『——』

『誠に残念ですが、旦那様は、もう……』

 

 息子の死から数か月後、私の夫は体調を崩した。確実に快方に向かっていたはずだったのだが、突如容態が悪化し、夫は口から血を吐いた。

 みるみるうちに顔色がどす黒くなっていった夫は、最期、私の頬に手を伸ばして涙をすくうとそのまま息絶えた。

 けっして、安らかな死ではなかった。衰弱の仕方が明らかに不自然であったのだ。

 まるで、毒を盛られたように。

 

 そして、機会を見計らったかの如く、ある男の元へ嫁ぐよう、私宛てに命令が下った。

 あまりにも出来過ぎていると家臣が事を調べ、私にある日、報告した。

 全ての真実を知ったとき、私は頭が真っ白になり、復讐の狂気に飲まれた。

 

 ——景色は、燃え盛る屋敷へと移り変わった。

 

 ああ、足りない……。

 足りないんだ。

 まだだ、もっと叫び声をあげろ。あがけ、苦しめ。

 もっとだ、もっと燃やさなければ……アレの目をこちらに向かせるためには、この程度の血では、この程度の炎では足りぬのだ。

 その証拠に、アイツを燃やし尽くすには少々遅かった。

 アイツ共々焼け死んでやるわけにも、いかなくなってしまった。

 

『……くそっ』

 

 悪態をつきながら、外門をぼんやりと見つめる。どうせここからでは追いつけない。そもそも私は、生きてここから出ることもできないだろう。

 身体に火が移る。

 無念、無念だ。

 夫と息子の仇、あの男は殺してやった。だが足りない。あの男の妃である、奴を仕留めるまで私の怒りは収まらないのだ。

 ぼんやりと自分の身体が焼けていく様を見つめていたら、遠くで、何かがきらめいたことに気づいた。すっかり重くなった体に鞭を打ち、視線を向けると、

 

『あ……』

 

 屋敷から去ろうとしている馬車を見つけた。

 よくよく目を凝らしてみれば、御簾を上げ、隙間から様子を窺っている何者かがいた。見ているのは、きっと……。

 気づけば私の口元は弧を描いていた。

 

『あはは…………』

 

 そうか、そういうことか。

 放っておけば灰となって消えていくはずのこの身を、奴は恐れる。それは簡単なことだ。

 

『はは……そんな怯えた目をして……何処へ行くのやら……?』

 

 私から逃げるのか、貴様は。

 

『ふふ、ああだめね……笑いが止まらないわぁ……、くひっ』

 

 きっとあの日から、私は壊れてしまった。

 

『ヒヒヒッ、おかしいわァ。臆病よねェ、こんな死にかけの女、一人を恐れるだなんて』

 

 今では私が私である最後の証ですら、燃え尽きようとしている。

 狂ってしまったのだ。それはもう疑いようもない。

 

『クヒッ……!! ヒヒヒヒヒッ、ウフフフッ! アハハハハッ!!』

 

 だが、構わない。狂気は憎しみへ、憎しみは憤怒へと昇華されていくのだ。

 純化する。

 私の心は、私の身体は、復讐するために純化する。

 

『ヒヒヒッ、クヒャハハハハハハハハッッ!!!!!』

 

 ああ、脳みそが焼け落ちてしまいそうだ。

 だがそれでいい。

 燃えろ、燃えろ。

 できるなら、この記憶と共に。

 私はただアイツを殺すことができればそれだけでいい。

 たとえこの身が朽ち果てても、私が何者であったかを忘れてしまったとしても。

 何度だって、奴の前に立とう。

 

『そこで見ているがいい!! 私は貴様を必ずや追い詰め、殺してやるからなぁぁァァっ!!』

 

 とうとう、焔が私を包んだ。

 熱い、熱い。

 でも痛みなどなかった。むしろ私の中の怒りが炎と共に燃え上がって、一体となっているようだった。

 

『嫦娥ァァァアアアアア゛っっ!!!!』

 

 喉が焼け、声が枯れようとも、貴様の名を叫ぼう。

 

 例えこの身が焼け落ちてしまおうとも、怨念となって貴様を祟ろう。

 

 不思議な話だ。

 

 お前のことが頭から離れないのだ。

 

 夫の顔も息子の顔も黒く塗りつぶされ、

 

 思い浮かぶのは奇妙なことにお前の顔。

 

 不倶戴天の我が仇……。

 

 嫦娥よ、貴様は私を見ているか? 

 

 

 

 

 ——あれから一体、どれだけの時が流れていったのだろう。

 

 

 日を数えるのが億劫に感じるくらいには、ずっとずっと微睡んでいた。

 私は今、果たして生きているのだろうか? 

 それとも既に、死んでしまっているのだろうか? 

 そもそも、私とは一体何だったのだろう。

 そんなどうしようもない、答えが出ないような自問自答を繰り返してきた。

 

「どうしたの?」

 

 ふと目を開けてみる。

 すると映ったのは、もう見慣れた友人の顔。それも息がかかるくらいの至近距離。

 彼女の瞳には、目の下に隈ができた私の顔が映っていた。

 

「ああ、いや。なんでもない」

 

 体が重くて身動き一つ取る気にならなかった。再び目を閉じようとしたが、どうやらそれを許してくれない。

 

「そんな顔ではなかったわよん」

「そうですか。私はもう少し寝るから放って置いてくれるかしら?」

「え、ちょっと、二度寝しないでよっ!」

 

 何か面倒な気がしたので、彼女の顔を手で払おうとしたが退く気配がなかった。彼女、ヘカーティア・ラピスラズリは時折私に引っ付いては離れないことがある。

 それも、私の機嫌が悪い時にやられるため質が悪い。

 一体、私がお前に何をしたというのだ。

 

「どいてくれない?」

「——ねえ、純狐。貴方、うなされていたわよ……」

「……そう」

 

 今に始まったことではない。

 起きたときに倦怠感を覚えるときは大抵、うなされているのだ。

 自らの怒りを純化して神霊となっても、私はどうやら私の深い部分ではちっとも変っていない。

 臆病で、愛が欲しくて、嫉妬深い。

 だからあの日々を思い出しては何度も何度も苦しむのだろう。

 

 これからもずっと。

 

 

 狐の章 完

 

 

 

 ******

 

 

 

 山々には妖怪魑魅魍魎が数多く住み着き、人は里の周囲を柵で囲い、静かに暮らす。

 

 そんなこれまでの日々に変化が生じ始めた。

 

 人間同士の戦が隣の国で始まったことが全てのきっかけだった。

 何処の人里も若い衆が戦へと駆り出され、さらには日照りが続いたこともあって田畑は荒れ、民は飢えるばかり。

 当然、飢饉が発生した。

 

 そこで国の統治者たちは戦を一時休戦し、それら全てが妖怪達によるものだという噂を各人里に流した。

 彼らはこれで自分たちへ向けられる不満を回避できると考えていたのだ。

 

 しかしそれは誤りだった。

 

 人々の不満は爆発し、憎しみの矛先が妖怪へと移った彼らは、妖怪達が住む山々を燃やしたのだ。

 

 人間と妖怪における大きな戦の火蓋が、今にも切られようとしていた。

 

 

 人の章 始

 

 

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