【葉月 三十一日】
昼下がり。
流れゆく雲の合間からは幾重もの日が差し、妖怪の山の頂上に建つ屋敷を照らしていた。
樹齢千を超えるヒノキ、大陸から取り寄せた瓦をふんだんに用いて造られたその屋敷は、質素な見た目でありながらも荘厳としており、辺り一帯の空間で圧倒的な存在感を放っている。
しかし、それは当然のことであろう。
この屋敷と、ここに座する者こそが天狗の誇り。
“鬼”に次いで山の上位者として君臨する天狗の長、“天魔”の屋敷であるのだから。
「——近隣の人里の様子がおかしい?」
そんな天魔の館の一室に、一人の少女の声が響いた。
部屋には椅子に座った少女と、偉丈夫のいかにも武人らしい男性の二人のみしかいない。普段少女の傍に仕えている者達は皆、出払っているらしかった。
それを確認した男性は『はい』と答え、確認するように問う。
「以前より、人間同士が領地をめぐって戦を行っていたことは周知の事実ですが……天魔様は、近頃になって発生した飢饉の影響で、彼らが休戦したことをご存じでいらっしゃいますでしょうか?」
「ええ、先週に報告を受けました。戦などしている暇などないと、漸く人間達も気づき始めたのでしょうね。……それがどうしたのですか?」
少女は、若くして天狗の長に就いた天魔であった。
椅子に座し大天狗からの報告を聞く天魔、射命丸茜は机に積まれた書類に目を向けながら答えたが、彼女にしては珍しく、少々不機嫌な様子であった。『なぜ今日に限って処理しなければならない事案が多いのですか』などと小声で呟いているあたり、かなり参っているらしい。
しかし、
「休戦したはずの彼らが、再び戦備えを始めているのです」
「……ふむ」
大天狗の一言に、茜の真紅の眼が書類から大天狗の方へと移る。今日初めて、彼女と大天狗の視線が交差した。
「休戦協定を破って、どちらかが仕掛けるというのですか? それとも——」
「恐らくは、
「……嫌な予感がしたんですよ」
彼の報告は、人間達の正気の沙汰を疑うような内容であった。にわかには信じがたいが、大天狗の真っ直ぐな瞳は事の重大さを訴えるものであり、彼が戯言を言っているわけではないと茜はすぐさま理解した。
それにしても、人間と妖怪の力量の差など明らかであるはず。彼らは物量で挑めば勝機があるとでも考えているのだろうか、と茜は考えた。国が先導して兵をあげたのなら話は別であるが、近隣の里が戦備えをして攻め入ってきたところで、所詮は烏合の衆である。
また新たな問題が浮上したことに溜息をつき、茜は眉間を指でつまんでもみほぐした。
「ふぅ……。我々は月との戦を終え、戦備えを解くことで疲弊した民達の生活の改善に尽くしました。そしてその過程で、人間との関係改善にも着手したはずなのですが——」
「今になって何故、か……ということでしょうか。 むしろ、今だからこそなのでしょうな」
「……ええ、そうですね。その通りです。分かっています。分かっていますとも」
茜が天魔に着任してからというもの、天狗の里の生活水準は大幅に向上した。その原動力となったのは、人妖問わず、周囲との関係緩和によるものだと言える。
妖怪達の関係性でいえば、河童との親交を回復し、山全体の緊張感が解かれたことで天狗は孤立していた状態から脱し、困窮していた生活物資を供給できるようになった。
人間達との関係性では、天魔と個人的な親交のある博麗の巫女を通して、近隣の人里と交流をはかった。
だが、天狗社会が“鬼”に対して未だ根強い反感の意を持っているのと同様に、人間達もまた、妖怪に対して根深い恨みを抱えている。
怒りのぶつける矛先のない、飢饉という災害に対する不満。それらを自分達妖怪に差し向けた黒幕について、茜は既に見当がついていた。
『はあぁ』という彼女のうんざりとした溜息が部屋に響いた。
「国の領主どもめ。所詮は責任逃れというわけですか。あわよくば我々と共倒れすればよいと期待しているんでしょうね」
「我々だけでも打ち払うことは容易いですが、問題は山積みでしょうな」
妖怪が何故、人間を滅ぼさないのか。
それは妖怪の存在自体が、人間の恐怖から成るものだからであった。
人間の“畏れ”が、妖怪達の存在を成り立たせている。したがって、人間を滅ぼしてしまうと、妖怪達は自然と消滅せざるを得なくなる。かと言って、妖怪が人間を脅かさなければ、それはそれでゆっくりと消滅するのを待つこととなるだろう。妖怪も、人間を頼りに生きている部分があるのだ。
つまり妖怪である彼らとしては、人間との全面抗争は極力避けたいというのが本音である。
だが知能の低い妖怪が焚きつけられてしまえば彼らの身では収拾がつかなくなってしまうから、なお厄介。
そして、未だ一番の問題が残っていた。
「鬼の皆さまですね……」
「然り。方々の人間への報復はまず、避けられますまい。予想される規模は天狗と鬼との抗争を遥かに凌駕することでしょう」
これまで、天狗をはじめとした数種の妖怪は人間との融和路線を歩んできた。
しかし、この妖怪の山において、鬼は依然として人間との関わりを避けているのが現状である。したがって、彼らが人間と有効な関係を築けているとは言いにくい。
もしも人間がこの山に攻め入ったのなら、彼らは嬉々として打ち払うだろう。たとえ人間の存在が、自分達妖怪にとって必要不可欠であると理解していようとも。
「萃香様はこのことをご存じで? 博麗の巫女と懇意にしている彼女なら、鬼の皆様を抑えるお力添えをしてくれるでしょう」
「すでに犬走を向かわせましてございます。しかし、此度は萃香殿といえども、難しいやもしれません。あの星熊勇儀殿が先頭に立つ恐れがありますので」
「勇儀様が……?」
血の気が多い鬼の中でも比較的温厚な気性である彼女が、どうして?
そんな茜の心中を察してか、大天狗は語った。
「先々代の天魔様が就任されました頃、つまり茜様が生まれる以前でございます。ご存じないのも仕方なきことでしょう。今では鬼と人の戦を知る者も少なくなりましたからな」
「鬼と人との、戦……」
「戦となった経緯は省きますが、当時、勇儀殿を含めた四天王の皆様は人との戦に臨まれました。その際、特に勇儀殿は卑劣な騙し打ちに会いましてな。あの方は多くの同胞を失ったことを今でも悔やんでおられる。此度の件があの方の耳に入れば、どうなることか」
「十中八九、人間達を滅ぼしにかかるでしょうね」
状況は既に手遅れであったが、同時にひどく緩慢でもある。
幸いにして、対応策を練る時間は残されていた。
天狗は、その高度な社会構造を活かした情報伝達の速さが強みなのだ。大天狗が情報を掴んだことでそれの拡散が抑えられているため、鬼に伝わるまでには時間が空くだろう。
これを無駄にはできない。
今は焦らず、じっくりと対応策を立てる必要があると茜は考えた。
一度、気を落ち着かせるために深く息を吐く。
茜はたびたび人間の無謀さというものに悩まされ続けてきたが、今回の問題は彼女の予想の斜め上を行くものであり、思わず天井を見上げてしまうほどであった。
「人妖を巻き込んだ、大戦の幕開け、か…………人が人の数を減らすため、妖怪に戦争を仕掛けてくるとは。世も末というやつですよ……。大天狗、この件について、近々各氏族の長を集めて協議を行います。連絡をお願いしますね」
「かしこまりました。早急に手配いたします。日程などの件につきましては——」
大天狗がそう言いかけたところで、茜の自室の扉が無遠慮に開かれた。
「~~!!」
これまでの緊張した空気を打ち破り、一生懸命に翼をはためかせて入室する小さな侵入者。
すぐさま腰に差した刀の鞘に左手、柄に右手を掛けようとした大天狗であったが、それが何者かを理解するや否や、邪魔をせぬよう部屋の隅に控えた。
「かあさまっ!!」
天魔の椅子に座る茜の胸に、勢いよく飛び込んだ小さな黒い影。
最近練習してようやく空を飛べるようになり、それを義母に見せたいとばかりに突進した幼子は、溢れんばかりの笑みをたたえた。
茜の義娘、射命丸文である。
直進だけであるなら、茜ですら、目を凝らさねば追えないほどの速さで飛ぶ文。覚えたてでこの速さであるからして、ゆくゆくは里最速の称号は彼女のものになるであろう。茜の側近たちは皆、そう噂していた。
「あ、ちょ、文様っ!! まだ茜様はお仕事の最中なんですよ! 邪魔してはいけませんってばぁっ——!?」
文を追いかけるようにして、一人の少女が『失礼しますっ!』と断ってから部屋に入室する。栗色の髪が印象的な、柔らかい雰囲気をもった少女であった。彼女は先のクーデターにおいて、茜を天魔の屋敷につながる隠し通路に導いた鴉天狗の少女である。
もともと、射命丸に仕える身であったため、あれ以来、文の世話役として働いてもらっているのだが、おっとりとしている彼女は賢しい文に出し抜かれることが多く、相当難儀しているらしい。
茜は、いつも苦労をかけてしまっていることに苦笑いし、腕に抱く文の頭を撫でながら、後で少女を労わってやることを胸に留めた。
「いえいえ。丁度お昼を過ぎたころですし、そろそろ休憩をしようと思っていたところです。構いませんよ。ねえ、大天狗?」
「そうですな。それに、こうなってしまえば文様もそう簡単には天魔様から離れますまい」
先程まで重大な案件について話し合っていたとは思えないほど和やかな両者。
柔らかく文に微笑みかける二人の様子に、世話役の少女はほっとしたのか肩の力を抜いた。
しかし、彼女を心配させている当の本人である文は、茜の胸に顔を埋めて嬉しそうに翼をはためかせ、はしゃいでいる始末。もしやすると、自分は文の世話役に向いていないのではないだろうか? 『とほほ……』と、彼女は少し項垂れた。
「文、いい子にしてましたか~?」
「はいっ!」
茜は文のことを目に入れても痛くないほど溺愛している。それは天魔となった茜の傍に仕える者達ならば、皆が知っていた。天魔としての仕事でなかなか時間の取れない彼女であるが、時折文を連れて海まで赴くことがあるという。
公務の際は文を預けているが、基本的には茜自らが文を迎えに来ており、どれだけ義娘を大切に思っているのかが少女には理解できた。それゆえ、茜が文に厳しいはずもなく——。
「でも、ちゃんとお姉さんの言うことを聞かなきゃだめですよ?」
「はい!」
この通りである。
基本的に、茜は文に甘いので叱ることがない。
一応、世話役の少女に気を遣って文に注意をするなどしてくれており、文自身もしっかりと返事をしているのだが、一向に改善されている気配がない。少女は再び『とほほ』と項垂れた。どうやら彼女以外の者は皆、文に甘いようである。
彼女の心労は、もうしばらく続きそうだった。
「——さてと、私は文としばらく外を回って来るので、貴方は少し休んでいてください。あ、でもまあ、書類関係は机の引き出しに入れてあるので、その間に確認していてくださいね」
「あ、はいっ」
少女に少しばかりの休息が訪れる。
安堵しつつも大きく息を吐いて文の方を一瞥すれば、満面の笑みが返って来た。
わんぱくで、それでいて可愛げがあるものだから憎めない。どこで覚えてきたというのだろうか、『そういえば茜様も昔、そんな表情をよくしていたなぁ』などと、少女は思い出した。
血の繋がりというものは、やはり大きいのだろう。
「後はよろしくお願いしますよ、大天狗。日程については追って連絡をしますから」
「承知しました」
腰を折って礼をする大天狗を目にし、茜はふと何かを思い出したかのように世話役の少女の方へと向き直った。
そういえば、大天狗はまだ知らなかったのだ。
「あぁ、そうそう。大天狗、知っていましたか? 彼女、縁談の話が持ちかけられているそうですよ。めでたいものです」
「なんと、それはようございましたな」
「え……? あ、はい! 私のような者には身分不相応とは存じますが、ありがたいお話でございます」
休憩時間が訪れると完全に油断していたため、突然自分に声がかかり、少女は少しだけ戸惑った。
どうやら、里屈指の権力者二人から祝福されるとは思っていなかったようである。
「えっ!? あねさま、およめさんにいくのっ!?」
今の今まで知らなかったのか、こぼれ落ちてしまいそうなほど目を見開いて驚く文。
いつもいつも迷惑をかけているが、少女が遠くに行ってしまうかもしれないことが寂しいらしい。茜の胸元の襟を掴み、不安そうな目をしていた。
「あ、だ、大丈夫ですよっ! 文様。私は嫁ぐというだけでして、文様の世話役という大役を降りろとは命じられておりませんので」
「とおくにいったりしない?」
「ええ、そうですとも」
「よ、よかったぁ」
胸を撫でおろす文を見た茜は、微笑ましそうに言った。
「……ふふ。なんだかんだ言って、貴方も文に愛されていますね。尚更、貴方を文の世話役から外せませんよ」
「も、勿体ないお言葉でございます」
何かと悪戯やちょっかいをかけてしまうのも、一重に文が彼女のことを信頼している証であろう。“本当の姉”、とまではいかなくとも、彼女が茜に次いで、文にとって身近な存在であることは確かであった。
ここで、黙って会話に耳を傾けていた大天狗が問う。
「して、どちらへ嫁ぐので?」
「え、えと——」
大天狗も少女がどの家に嫁ぐのか、気になったらしい。 “身分不相応”という言葉から、有力な家系であることは確かであるが、一体どの家なのか。
上司の問いに一瞬、言葉が詰まった少女。
そんな彼女の様子に、茜は答えを知っているのか、さも面白そうに、にやけている。母の様子におろおろとする文はきょろきょろと、幾度も茜と少女の顔を見比べた。
少女はしばらく目をつむって大天狗の方へ向き直り、答える。
「私が嫁ぐのは、この里の氏族の一つとされている、姫海堂家でございます」
姫海堂家。
射命丸に並ぶ、天狗の里有数の名家であった。
「ほう、それはまた……」
「わ、私などで……ほ、本当に良かったのでしょうか……?」
「向こうから声をかけてきたのでしょう? ならば安心しなさい。貴方は我が射命丸に仕える立派な従者の一人。身分不相応ではけっしてありませんからね」
「天魔様のおっしゃる通り。姫海堂といえば、射命丸とも親交の厚い一族。心配なさることはない。丁重に迎えるよう、私からも口添えしておきましょう」
「は、はひっ……!?」
本人は自覚していないが、彼女もまた、天魔直属の従者という立ち位置にいるのだ。どの氏族であっても彼女を丁重に扱うだろうし、まして姫海堂という名家がそのような狼藉を行うはずがなかった。
「本当に、最近は面倒事ばかりが舞い降りてくるものですから。こういった明るい話題は嬉しいかぎりですよ……さあ、行きましょうか? 文」
「はい、かあさま」
文を抱えたまま椅子から立ち上がり、茜は部屋を出ていった。
少しばかり文を連れて、遠出をしなければならない。
元より彼女には、これから会う予定の人物がいたのだ。
******
毎日文を抱っこしているものだから気づきにくいのですが、確かにこの娘は大きくなっています。まったく子供の成長というものは、早いのですね。
こうやって抱っこしていられるのも、今のうちなのでしょうか? そんなことを考えると、今の時間がとても貴重なのだと感じさせられます。
「かあさまー」
「はい、なんですか?」
「どうして、あねさま、およめにいくのにうれしそうじゃなかったんですか?」
「そうですねぇ——」
子供は、鋭い。
それって、とても不思議なことだと思います。独特の感性というか、誰かの感情の機微といったものを何となく察してしまうのは、幼少期における特殊な力とも言えるのでしょうか?
もしくは、大人が汚れすぎているのかもしれません。
「あの娘は嫁に行くことに気が引けているのかもしれないですね。だからけっして、あの娘が嫌だと思っているというわけではないんですよ」
「?」
私の腕の中で小首をかしげる文。
はてさて、私の答えで納得してもらえるといいのですが。
「きっとあの娘は、姫海堂家に嫁ぐことに負い目を感じているのでしょう。これまで彼女の一族はずっと、射命丸家に仕えていたのですから」
「う~ん……」
「各々がもつ“身分”というものは、難しいのですよ」
「そういうものなのですか?」
「ええ、そういうものなのです」
やはりまだ早すぎたようでした。
けれど文もきっと、分かる日が来るでしょう。賢いこの娘なら、こういう物事を理解するのには、そう時間もかからないでしょうし。
「(……あの娘は色々と苦労をかけていますからね。別に、こちらに気を遣うことなんてないのですが)」
とはいえこれは本人の気持ちの問題ですから、これ以上は何とも言えません。
ただ、姫海堂に嫁いでも彼女が文の世話役をやめないとは思いますが、彼女が身籠ったときは、文の世話役をどうしましょうかね。まだ随分先の話ですが。
まあ、これから追々考えていきましょうか。
それからしばらく目的地に向かって飛んでいると、
「きょうは、どこにいくのですか?」
「あ、そういえば……」
妖怪の山が小さく見えるほど飛んだところで、私は文にこれから行く先を伝えていなかったことを思い出しました。最近仕事が多かったせいか、妙に忘れっぽくなっているみたいです。
「今日はこれから会いに行かなくてはならない人がいるのですよ」
「あいにいく、ですか?」
「そうですよ。その方は私の恩人なんです。何と言っても、私が天魔になるのを協力してくれたのですから」
「!」
文の興味はどうやら、行く先よりも誰に会いに行くのか、という点に移った様子。
「かあさまの、おともだちです?」
「あはは……。そう、ですね。そんなこと言ったら、無言で怒られるのでしょうけれど……そうとも言えるのかもしれません」
友達、ですか。まあ確かにそれ程長い間を共にしてきたというわけではありませんが、あの方には大変お世話になっているんですよね。今の私がいるのも、ほとんどあの方のおかげと言ってもいい。
しかし、果たして“友達”という言葉が、今の私達の関係を上手く言い表せているかと問われれば答えに詰まります。
文の問いに私は考え込んでしまい、はっきりと答えてあげられませんでした。
「……つかまっていてください。少し速度を上げますから」
「はい、かあさま!」
考えを振り切り、気流に乗って速度を上げていく。
風を読む程度の能力は、たとえばこんなときに便利です。
一つ。気流を見つけて長距離の移動に使える。
そして二つ。あの方が使う、
「(そこですね)」
片手で文の体を支えながら自由になったもう片手に小刀を持ち、振り下ろす。
そして空間が、割れる。
「わっ!? か、かあさまっ! め、
「安心してください。私といる限りけっして、危険ではありませんよ」
そして二度、三度繰り返し小刀で空を切る。
するとようやく私の体が入る程度の大きさまでスキマの口が広がったため、怖がる文を宥めながら足を踏み入れました。
迎え入れたのは、私達をじっと見つめる幾多の目。
やはりというべきか、この空間の中はあまり居心地がいいとは言えません。あの方意外にはきっと、なじまないのでしょうね。この前、萃香様が眉間にしわを寄せていましたし。
かくいう私も、修行をしていた時はこの空間にずっといましたが、しばらく中に滞在していないと慣れないものです。
「き、きもちわるい……」
「もう少し我慢してくださいね、文。一度この中に入ってしまえば、着くのは一瞬ですので」
文の顔色が少し悪くなってきてしまいました。
幼いこともあって、あまりこのような奇怪な空間には長居をしていられません。。
そんなことを考えていたところ、どうやら移動が完了したようです。
「着きました——」
スキマを抜けた先。
目の前には何の変哲もない、ただの家屋が建っていました。
しかし、特にこれといった特徴のない家屋とは対照的に、周囲は幻想的でした。
様々な模様の蝶が辺りそこら中を飛び交い、彼らはきっと足元に咲く見たこともない花たち、“ホクベイ”と呼ばれる地方の花々の蜜に舌鼓を打っていることでしょう。
広がる青空には薄く虹がかかり、視界は白くぼやけている。
それは、滝の水しぶきのせい。
「…………」
目の前の光景に、文は驚いて口は開けたまま。
蝶々がお口の中に入ってきてしまうかもしれませんよ?
それはさておき。
もう一度、家屋の方に視線を移す。
どこに存在してるのか、毎回来るたびに思っているのですが皆目見当もつきません。ここは周囲のほとんどが滝であり、家屋が建っているのは、広大な滝つぼの岸なのです。
円形に広がった滝など、この国にあったのでしょうか?
外の国という可能性も捨てきれませんし、“ホクベイ”とは、ひょっとすると海を越えた大陸に位置するのかもしれません。
そうやって考えに耽っていると、妙に腕が軽い。
あれ? 文は……?
「わあぁ……!!」
……いつの間にか、私の腕からすり抜けた文が興味津々に辺りを見回っていました。目を離すと、これなんですよ。
しかし、そうなってしまうのも頷けます。私も半年前に初めて来たときは、文のように大はしゃぎでしたから。後で『落ち着け』とぶん殴られましたけれど。
「素晴らしいでしょう? なんでも、ここに住んでいる方の故郷で、“セカイイサン”と呼ばれていた場所に似ているんだそうです。勿論、住みやすいように手を加えているみたいですが」
「かあさまっ!! 凄い!! 凄すぎですっ!!」
怯えたりせず、こんなに興奮している文は珍しい。好奇心旺盛な文ですが、その分警戒心も強く、新しい環境に不安感を覚えることも多いのです。例を挙げるならば海。
足元にさざ波が来ただけで逃げてしまっていました。波が来たのなら飛べばよいのにもかかわらず、走って逃げようとして砂浜で転ぶという……。
いやはや……血は争えませんね。まさか昔の私と同じことをするとは。
「みずがこんなにたくさんありますっ!! ここも、うみですかっ!?」
「いいえ。ここはどうやら“滝つぼ”らしく、湖の一部だそうです」
「みずうみっ!? こんなにおおきいのにっ!?」
確かに、湖にしては大きすぎるとも言えます。妖怪の山の辺りにはこれほど大きな湖はありませんし、周囲全てを囲んでいるとはいえ、湖岸から滝まででも相当な距離がありそうですから。
そうすると、滝の大きさ自体も相当なものなのでしょうね。正確な大きさは分かりませんが、そこらの山の高さに匹敵するかもしれません。
「綺麗……」
しゃがみこんで湖面を覗き込む文。
おそるおそるといった様子で指の先を湖につけていました。
「つめたっ!?」
「ふふっ」
いくら此処が暖かいとしても、湖の水までもが暖かいとまでは限りません。
それしても、この湖。珍しい魚の一匹や二匹がいてもおかしくないと思うのですが。一匹くらい持って帰っても——。
おっと、いけませんね。目的を忘れていました。
「文、そろそろ行きますよ。あまり待たせても失礼ですから」
「は~いっ!」
こちらまで駆けて戻ってきた文と手をつなぎ、家屋に向かう。
道は手入れされており、刈り揃えられた芝の周囲に花々が咲き誇っています。紫さんがそんなことをするとも思えませんし、誰かがやったのでしょうか。この前来たときはもっと自然のまま、草木が自由に伸び放題でしたが……。
そして家屋の前に立ち、扉を数回手でたたくと、中から『はい』と返事がしました。
そう、返事がしたのです。
——おかしい気がする。
少し幼すぎるような……。というより、あの方が素直に答えるなんてことは今までありませんでしたよ?
普段なかっただけに不審に思っていると、がちゃり、という音と共に戸が開く。
そこに立っていたのは三本の尾を持った、幼い狐の妖怪でした。これはびっくり。
「おまちしておりました。あかねさま」
「は、はい。えっと、すみません。紫さんは——」
「あるじならば、もうじきかえってくるとおもわれます。ひとまず、なかへどうぞ」
丁寧で大人びた口調でしたが、外見相応に舌足らずな、まだ幼い狐の妖怪。
丁度、文と同じ年頃の容姿をしています。
しかし、彼女の内からあふれ出る妖気は並大抵のものではありません。紫さんが関係していることは間違いありませんが、どうしてまたこのような……?
「そちらは……?」
あ、そういえば。
文を連れてくるのは初めてですものね。紫さんから聞かされていないのも当然でした。
「こちらは私の娘です。この度は紫さんに紹介するという目的もあり、連れてまいりました」
「なるほど」
「……っ!?」
納得しながら私の背後を見つめる妖狐の娘。
視線が向いたことに気づいた文は、私の後ろに隠れてしまいました。
やっぱり。
「ほら。ちゃんとご挨拶しましょう?」
「……しゃ、しゃめいまる、あや……です……」
恥ずかしいのか、不安なのか、私の着物の裾を掴みながらも文は名乗りました。これからのためにも、もう少し、はっきりと答えられるようになれるとよいのですがね。
この子狐さんとはその外見から察するに、あまり歳が離れていなさそうでしたから。今後仲良くしてもらえたら幸いです。
「こちらも、なのりましょう。やくも、らん。わたしはゆかりさまの、しきがみでございます」
これはまた礼儀正しいことで——って、
「……本当ですか!?」
「はい」
この娘は“式神”と言いました。
どうやら冗談を言っている様子ではありません。
私のときのように、紫さんが匿っているのではないかと思っていたのですが、まさかそういった理由とは。だから『あるじ』と言ったんですね。
しかしまた、こんなに幼い妖狐を、どうして式神にしたのでしょうか? 別にこの娘を卑下するつもりはありませんが、紫さんならば、もっと強力な妖怪を使役することも容易いはずであるのに……。
疑問は絶えませんでしたがこの娘に聞いても、満足な答えが返って来るとは思えません。
ひとまず、私達は応接間らしき部屋に通されました。
待たせてしまったかと思いきや、少し早すぎたのかもしれないですね。
「…………」
外ではあれほど騒がしく、興奮していた文でしたが、中に入った途端に静かになってしまいました。どうやら、緊張しているようです。
一方あの妖狐はというと、『しばらくおまちください』と言って、すぐさま部屋から出て行ってしまいました。礼儀正しい娘なのですが、少し硬いというか、気を張り過ぎなのかもしれません。実は、あの娘も文と同じように緊張しているのかも——。
そろそろいらっしゃる頃合いだと思い、思考をそこで打ち切る。
「文、いいですか?」
私は先に、文に対して忠告をすることにしました。
「これから会う方は、初めこそ怖いと感じるかもしれませんが、それで本質を見誤ってはいけません」
「……? はい……」
初めて会う者からは特に誤解を招きやすいので、先に言っておいて損はない。言ったところで無駄なときもあるでしょうけれど、心の準備ができているのとできていないのでは、全然違いますから。
「——そうねぇ。まあ、子供に好かれるような者ではないと自覚しているわ」
……なんということでしょう。
気づけば、文の隣に座っていました。ええ。まったく、いつも通りです。
「貴方が茜の娘だったかしら? 遠いところはるばるようこそ、歓迎しましょう」
私ですら知覚できない間に現れる境界の大妖怪、八雲紫。
「ひっ!?」
文は目にも止まらぬ速さで私の後ろに隠れる。よほど怖がっているみたいで、背中越しに文が震えているのを感じます。
可哀想に。こんな妖力を当てられては怖くて仕方ないに違いありません。
……怖がらせては意味がないと思うのですが。さては、わざとですね。
だって、そういう顔をしているんですもの。
「……お久しぶりです。紫さん」
「ええ、そうね。半年ぶりくらい、かしら?」
「はい」
最後に会ったときと全く変わらない格好の紫さんは、妖力を封じ込めると椅子から立ちあがって私の前に改めて座り、文の方へ微笑む。
すると、文が背中をぎゅっと掴んだのが分かりました。
……完全に怖がられているじゃないですか。
「あんまり怖がらせ過ぎないでくださいね? まだ慣れていないのですから」
「ふふ。そうね、反応が面白かったから、少しやり過ぎちゃったわ……。文、だったわね。実に可愛らしいじゃない」
「ええ、本当に」
短い会話。
しかし私達はそれで十分なのです。
「藍、ちょっといいかしら?」
「はい、ここに」
“藍”と呼ばれた娘は、紫さんの一言とともに背後から現れました。出迎えてくれた時とは異なる格好で、彼女は道教の法師が着ているような服を着ており、青い前掛けのようなものを、その上から被せている。これが彼女の正装みたいですが、衣服の大きさにまだ居丈が追い付いていないところがなんとも可愛らしいですね。
「少し込み入ったことを話すわ。文と外で遊んでいらっしゃい」
「はぅあっ!?」
「……なにか?」
「いっ、いいえ……」
あはは……。紫さん、その命令はなかなか厳しいですよ……。
初対面の二人に遊んでこい、だなんて。藍さんが困ってるじゃないですか。
「茜。貴方だって、ただ自分の娘を連れてくるためだけにここに来たわけではないのでしょう?」
苦笑しながら私の方へ振り向く紫さん。
いやはや、全てお見通しなのですね。
私は文に藍さんと外に出るよう告げ、二人が退出したのを見計らって、今後の課題を話すことにした。
紫さんの“計画”の協力者として。
******
“あの後”の記憶。
あの日、天狗の里での演説を終え、後始末を終えてから白玉楼に戻ると、既に紫が月から帰ってきていた。
無事であったことに安堵し、声をかけようとした茜であったが、その寸前に言葉を失った。
腰まで届いていた紫の髪は肩にかかる程度まで短くなり、不思議な形状の帽子を被っていた。
一見すれば、彼女の外見に多少の変化があるだけに見えたかもしれない。
しかし、それは的外れもいい所であった。彼女から発せられる妖気はより禍々しく、体の表面に張り付くように不気味であったのだ。
紫の妖気が、以前のそれとはまったく異なっていたのである。
茜は月の侵攻で、紫の中の何かが変わってしまったのではないかと考えた。
当然、彼女は紫に問うた。
だが返答は、『何も』との一言であった。
すぐ傍にいた幽々子にも尋ねたが、返答は同じ。自分だけが異常なのかと考えた茜は、何も言えなくなった。
その後、紫は天狗の里への介入を本格的に始めた。
幾つものの姦計によって、次々に茜の敵対派閥を抹消していったのである。されど存在を悟らせることなく、自然と言ってもいいほどの流れの中で一つ一つ丁寧に、ゆっくりと。
あえて敵対派閥を全滅させるような真似はしない。
組織の中枢に何人かを引き抜くことすら彼女の手腕の元に行われた。そして、僅か数週間という短期間で、天狗の里に深く根付いていた鷹派は骨抜きにされ、影響力を失った。
たった一人の妖怪の手により、鷹派は事実上、壊滅したのだ。
これには紫を味方とする茜ですらも、他に有無を言わさぬ紫の行動に息を呑み、恐怖したほどである。
あれから五年。茜が抱いていた違和感は自然と薄れていった。
それはちょうど、彼女が初めて紫と出会ったときのように。意識の外側へとゆっくりと、溶けていくように。
日々の中で少しずつ、消えていったのだ。