日が西に傾き始めた頃。
天狗の里へ戻る途中、茜はつい先程までの会話を思い返していた。
***
『星熊勇儀は私が抑えに行くわ。丁度、鬼を含めた荒くれどもを詰め込む
『ゆ、紫さん自らですかっ……!?』
『ええ、鬼の抑止については私に任せなさい。ただ、しばらく私は方々に手を回すことになるから、人間達の相手は頼むわよ。活かすなり、殺すなり、貴方の好きにしなさいな』
『て、天狗の里は争いませんっ!! やっと平和を取り戻したんですからっ。それにまた人間達と争いでもしたら、紫さんの計画にだって影響が——』
『私が何も想定していないとでも? 貴方がどちらを選ぼうと、それは些細なこと。だから私は貴方に“選択肢”を与えたのよ。貴方が思う、“最良”の選択をなさい』
***
少し前、紫は人間の相手を茜に託し、自分は鬼と対峙していくと述べた。
しかし、今はそれよりも自分の選択に天狗の里、そして妖怪の山の未来がかかっていることが茜を悩ませた。
このままでは必ず人間達が山に攻め入ってくる。ほんの些細な出来事であっても、開戦はまず免れないだろう。
それでは先に迎え撃つか。
いや、駄目だ。
山に住む妖怪たちは、皆がかならずしも天狗の言いなりであるわけではない。本能のまま行動するものだっているし、鬼以外にも人間に特別恨みがある種族だっているのだ。ひとたび日が着けばどうなるかわからないし、それで手がつけられないような事態になれば、もう引き返せなくなってしまう。
かといって、人間達が山に踏み入ってくることも許せない。
人間達の怒りそのものが間違っているとは言わないが、それは怒りをこちらに向けてこない場合に限る。
やはり、一番の望みは戦を避けることなのだ。
ならば調略するか。
人間達の士気が高い今はかえって逆効果だろうが、一度相まみえて圧倒的な戦力差を見せつければ可能かもしれない。そうなると、こちらが準備しなければならないのは交渉要員である。
紫は鬼の相手をするので、こちらに手を貸す余裕はない。そうなるとまず思い浮かぶのは古くから親交の深い河童であるが、交渉力ならば自分達天狗とそう変わらない。彼らが交渉の場に出るくらいであるなら、自分達が出るべきだ。
『かといって他の妖怪で交渉に長ける者などいますかね?』などと山の妖怪の顔ぶれを思い返す茜。
むむむと唸りながら思案を巡らす。
そうして思い悩む中、ふと、茜は閃いた。
——覚り妖怪だ。
交渉役で右に出る者はいないであろう。覚り妖怪は鬼のように頑強な体を持つわけでもなく、天狗のような素早さを持っているわけでもないが、彼女たちの強みは第三の目。それは相手の心を読み、主導権を握ることができるという。
そしてなによりも、争いを好まない性格であるのが好都合だ。
茜は『そうと決まれば、協議でこの案を出すとしましょう』と、心の内に留めた。
「(それにしても——)」
妖怪の山の行く末について妙案を思いついたと喜んだのも束の間、
「(“最良”の選択ですか……)」
いつものことだが、茜は紫の意図がまったく分からなかった。
計画の協力者とはいえど、その全貌を把握しているわけではない。それも含め、自分で考えて最良の行動をせよとのことである。
なぜ紫は、危険だと分かっていながら一人で鬼と相対すると言ったのか。萃香に並んで鬼の四天王とされている、星熊勇儀が敵対する可能性が高い今、その言葉の重さが分からない茜ではない。
意味がないと分かっていながら、茜は胸に溜まった疑問を小声で口にする。
「紫さん……今回は、一体どうなさるおつもりで?」
そんな茜は胸に抱く文にまで気が回っていなかったようで、じっとしているのに耐えられなくなった愛娘の一言によって、不意を突かれた。
「かあさま、かあさまっ! きいてくださいっ! わたし、“らん”と“おともだち”になったんですよ!!」
「ぶふぅっ!!?」
「あははっ。かあさま、きたな~い!!」
予想外な発言に思わず吹き出す茜。
自室にいた時からここに至るまで、努めて真面目でデキル女を演じていた彼女であったが、薄っぺらな仮面はいとも簡単に剥がされてしまった。
柄でもないことをした所為である。
「ちょっ、ええっ!? お、お友達って——」
「んぅ?」
素っ頓狂な声を上げ、目を見開いて驚く茜に対して、文はそれを不思議そうに見上げている。
幼い娘の前でこれ以上の醜態をさらすことはさすがに憚られたのか。
すぐさま冷静さを取り戻した茜は『えへんっ、おほんっ』と軽く咳払いをして、呆けていたことを誤魔化した。
「(あ、そうか)」
ふと、帰り際の光景を思い出す。
「え、ああっと……だ、だから文はあんなに機嫌が良かったんですねっ! いやぁ、驚きましたよ、もう。あはは……」
「えへへ」
茜は改めて帰り際の文の様子を思い出した。
そう、茜が紫との会談を終えてから文の元へと戻ったところ、彼女は上機嫌。対して藍は、片隅でうつ伏せになってしおれていたのだ。
初対面時に堅物で真面目そうな印象を与えた藍であったが、その時の彼女は目も当てられないほどに憔悴しきっていた。口から魂が抜けかかっていたと言い換えてもいい。
するといつの間に、隣に立っていた紫が言った。
『藍、ちょっとはいい修行になったでしょう?』
茜は心底、目の前に倒れ伏す幼い妖狐に同情した。
“師”としての紫がどれだけ理不尽かつ恐ろしいのかを知っている茜からすれば、藍に同情せざるを得ないのだ。
相手の弱みを全て看破して的確に痛い所をつく、並々ならぬその手際。それも、一度や二度ではなく、四六時中ずっとである。
紫の指導は肉体面というよりもむしろ、精神面が鍛えられるといった方が正しくそれを言い表しているのかもしれない。
『きゅ、きゅうぅ……』
可愛らしい断末魔とともに気を失う藍の姿を思い出して、茜は改めて思った。
果たして文は一体、藍に何をしでかしたのだろうか。
妖力だけでいえば藍は相当なはずだ。文の才能も目を見張るようなものであるが、それでも藍に体力で勝った理由とはならない。
なにせあの紫の式神である。
力の強大さで言えば、見た目不相応なものなのだ。そこらの下っ端天狗など歯牙にもかけないような実力を秘めている。いくら藍がまだ発展途上であると言っても、ここまでの差は、生まれるはずがないのだ
紫が藍に下した命令、『文との相手をしろ』という内容には何かの意図が隠されているのではないか。
そんなことをついつい茜は勘ぐってしまっていた。
「一緒に遊んでもらったんですから、藍ちゃんにはきちんと、お礼を言ったんですよね? ……あ、でも私、なんだかいや~な予感が——」
「ありがとうっていうきもちをこめて、おもいっきりしっぽをだきしめました!!」
「やっぱり……」
嘆息する茜。どうやら彼女の想像通りであったようである。
「うふふ。らんも、とってもよろこんでいました……」
「ひえっ……」
一瞬、文の目からハイライトが消えたのは幻覚か。
娘の恐ろしさの一端を見たような気がした茜であった。
そして『本当に、文は何をしでかしたんですか!?』という、彼女の心の叫びは当然だが、文には伝わらない。
苦し紛れにあれこれと問うても、その後はにっこり笑ってばかりで要領を得ないものばかりであった。
とりあえず、茜は藍に対して心の中で合掌した。
なんとなく自分がやらなくてはいけない気がしたのだ。
「(振り回される気持ち、痛いほどよく分かりますよ! 強く生きてくださいね!)」
まるで自分のことを棚に上げたような物言いである。
無論、ある程度は茜自身も自覚しているのだが、彼女はこれから降りかかる、更なる災難にまだ気づいていない。
それを悟るのは、おそらく天魔の館で、公務に戻った時であろう。
茜が娘との雑談に花を咲かせていると、
「かあさまのおともだち、こわかったけど、やさしいかんじがしました……」
「え?」
文は不意に、今日会った紫のことを口にした。
「らんが、うれしそうにはなしてたんです……」
「(ああ、そういうことか)」
きっと藍から紫のことについて、聞いたのだろう。
式神である彼女が話せることなど、ほんの一部分にすぎないが、それでも印象は少しだけ変わったかもしれない。
「かあさまのおともだちにあうのは、まだすこしこわいけど」
「怖いけど?」
「また、“らん”にあえますよねっ!!」
強い眼差しで、義母に言う文。
茜は心の中で少し驚いていた。
あれだけ人見知りで、警戒心の強い文が『また会いたい』と言える存在ができたなんて。
たとえ、仲良くなった藍と会うためであったとしても、紫をすぐに拒絶せず、その恐怖を克服しようとしている。文は自分から勇気を出して、一歩を踏み出そうとしているのだ。
娘の成長の一端に茜は、口元を緩めた。
「はい。紫さんが良いと言ってくれるなら、また行きましょう。そのときはちゃんと、藍ちゃんの言うことも聞くんですよ?」
「らんのいうこと、ちゃんときいてましたよ?」
「あ、あはは……、なんとまあ……」
「?」
今後、きっと苦労するだろうな、などと妖怪の賢者の従者に声援を送りつつ、茜は前を見据えた。
機嫌よく胸の中ではしゃぐ文を抱きながら、茜は故郷が近づいてきたことに気づく。
——風に乗って、故郷の香りがした。
「ああ、帰ってきましたね」
まだ早いものの、秋が近づいて色づき始めた山々。
紅、黄、緑、茶。
まだら模様の山々は、ところどころ木々が枯れ、山肌が薄くなっている。雨が少ないことが影響してか、例年に比べると寂しいものであった。しかし、それでもこの山は人々の目を惹きつける何かを持っている。傷を負い、ところどころ剥げてしまった姿ですら、目を逸らさせない魅力を。
茜にとって、山は彼女の故郷である。
いや、茜だけではない。山に住む妖怪達にとってこの山は等しく故郷である。
「(ここを、戦場にさせてたまるものですか。文の故郷を、妖怪たちの故郷であるこの山々を、何としてでも守ってみせる——)」
愛しい娘を抱く腕に、力がこもった。胸の中から『く、くるしいです。かあさま』という声が聞こえたが、茜は構わず我が子を抱きしめた。
夕日で赤く染まる妖怪の山は今日も美しい。
そして切り裂く夕方の風は、心地よく暖かいものであった。
******
茜が去った後のこと。
ひとまず紫は、日課となっている修行を庭で伸びている藍に与えた。先程まで茜の娘、“射命丸文”の相手をしていたからであろう。彼女は身も心も疲れ切っている様子であった。
ぐったりとしながら『は、はぁい……』と、答える藍。
今の彼女は熱いお湯に浸かったお餅のように、そのまま溶けていってしまいそうである。尻尾が右へ、左へ緩慢な動きで行き来しているあたり、辛うじて意識は残っているらしい。
そんなだらしない自身の式神の様子には特に目もくれず、紫は一人、自室へと戻っていった。
自室へと続く暗い廊下は一本道であり、他の部屋の一切に通じていない。家屋の大きさに対して不釣り合いな長さであることから、この空間が拡張されたものであることは明白であった。
閑話休題。
紫の自室は紙と墨の匂いばかりが立ち込める、ある意味生活感のない空間であった。外からの光を取り込むための窓らしいものは一切なく、頼りないロウソクの火の灯りだけが、部屋を薄明るく照らしている。
だが木造家屋であるがゆえに、部屋の壁は特有の温かみがあり、ロウソクの仄かな光と相まって、落ち着きのある雰囲気を醸し出していた。
そして部屋の中にある、頭の高さほどに積み重ねられた無数の巻物には、それぞれ紫の字で題が記されいる。一体どれだけの時間をかければこれほどの山を築けるかなど、凡人には計り知れない。
歴史、地理、政治といった世界各国の情勢を著わしたものや、数学、天文学を主とする科学的な著作物も見受けられた。特に、紫のそばには天文学に関する書物が山積みにされており、傍から見れば、彼女の興味の比重が一目で分かる。
そうして今日も自ら筆を取り、紫は何やら巻物に書き込んでいる様子であった。それもかなり集中しているようで、彼女の筆は止まることがない。深い紫色の瞳は、筆の動きに連動して左から右へと繰り返し繰り返し、流れるように素早く動いている。
今、誰かが隣に立っていても、きっと紫は気づくことができないだろう。
それから小一時間ほど経った頃だろうか、突如として正方形の部屋の隅から、少女とも少年ともとれるような、中性的な声が聞こえた。
「もう少し、部屋を明るくしてはどうだろうか?」
まさに突然の来訪である。
はじめからそこにいたとは信じられないような存在感。
次第に声は大きくなっていく。
「随分と熱心なことだが、不健康極まりない」
木製の床がカツカツと無機質な音を響かせ、積み上げられた巻物の山の陰から、ゆっくりとその姿を露わにしようとした。
「まったく、困ったものだね。八雲紫、貴方はこの世界の情報を集めようと苦心しているようだが、本来はこんなことをする必要などないはずだ。私に全てを委ねさえすれば、すぐに真理へと到達できるのだから」
紫は答えない。椅子に座り、机に向き合ってただじっと自らの手元を注視し、作業を続けていた。
一見、微塵も動揺した素振りを見せない彼女の目の前で侵入者は立ち止まる。
「まだ全てを捨てきる覚悟ができていないということ?」
「……」
影がゆっくりと手を伸ばせば、白く細い指が、妖しく紫の頬へと迫った。
第三者からすればそれは、目を奪われるような光景に映るかもしれない。
だが同時に、瞬きする間にも容易く壊れてしまいそうな、危険な光景でもあった。
指先が紫の頬に触れようとした瞬間、
これまで何の反応も見せなかった紫が、はじめて反応を示した。
なにやらうすら寒いものを感じたのか、紫が視線を上げるや否や、伸ばしてきた手を振り払ったのだ。
「つれないものだな……。こうまで無碍にされると、いくら私とは言え少々傷つくのだが——」
振り払われた手をひらひらと空中に泳がせながら、口元は弧を描いたまま、至極残念といった表情をする影。芝居ということは分かりきっていた。
これはいつもの戯言なのだ。
彼女こそ後戸の神であり、八雲紫の協力者の一人、摩多羅隠岐奈。
究極の絶対秘神その人である。
「しかし、まあ……ふふ、私はいつでも貴方が心を開いてくれるのを待っているよ。なにせこの世界で貴方を真に理解できるのは、私ただ一人なのだからね」
「…………」
「……むぅ」
隠岐奈がキメ顔で言った台詞は空振りに終わった。
紫から空気と同等、いや、それ以下の扱いを受けている隠岐奈は不満だと言いたげに頬を膨らませる。
どうやら無視され続けるのは、不本意らしい。
まったく反応を示さぬ紫にいい加減、焦れてきたのか彼女はさらに一歩、紫に歩み寄って言う。
「月から戻ってきてもう五年も経つ。そろそろ頃合いではないか? いい加減、貴方の身も、心も、全部私に委ねればいい。全てを忘れてしまえば——」
——黙れ。
途端に辺りが凍り付き、隠岐奈は言葉をつまらせた。
どうやら彼女の言った、“忘れる”という言葉が癇に障ったらしい。
紫の目からは、隠岐奈ですら息が詰まるような殺気を放っていた。
「(ふっ——)」
しかし、それすら興奮に変えてしまう隠岐奈は、欲望にどこまでも忠実で——。
「(ふ、ふふふふふふふっ。いい……、いいぞ。安易に触れられず近づくことも許さないその態度、目にした相手を射殺してしまいそうなその視線っ!! すばらしいっ!! ……おっといかんいかん、気を抜くと頬が緩みそうだ)」
そして外面にはけっして出さない鉄仮面ぶりであった。
さすがは究極の絶対秘神。その名は伊達ではない。
「(はぁ……、やはり貴方は私を飽きさせない。何とも楽しませてくれるではないか……!!)」
内心、興奮冷めやらぬ間に足元に違和感を覚えた隠岐奈。
「(……ん?)」
視線だけ足元へ移す。
すると、足元から無数のしわがれた黒い手が忍び寄っていることに気づいた。黄泉の国、すなわち根の国よりおぞましい腕が隠岐奈の足を掴もうとしていたのだ。
紫が生と死の境界に位置する、根の国を自在に操ったのだろう。
多くの者が恐怖で逃げ出してしまうような状況であるのにも関わらず、『ようやく、私を構ってくれたなっ!』と、隠岐奈はそんな暢気なことを考えていた。
「ふっ——」
過去に、“綿月”の四肢を無惨に引き千切ったそれを、隠岐奈は軽く鼻であしらう。『やれやれ、手のかかるものだ』と、肩をすくめるや、腕を軽く振って足元から伸びる腕を消滅させた。
すると紫から放たれる殺気が、より濃密で重いものになった。それまでひっそりと静かであった空気が耐えきれずに軋んだが、殺気が部屋の外に漏れたりはしない。ただ隠岐奈に向かって一直線に向かっている。
これでは誰もが一触即発であると考えるかもしれない。
しかしこれくらいのやり取りは、彼女たちにとって、何時ものことであった。
人差し指と中指を口に当て、くすりと微笑む隠岐奈。
老若男女問わず、世の中の人間達を一瞬で虜にしてしまいそうな笑みを浮かべた彼女は、ゆっくりとした歩みで机のわきを通り、紫の背後まで来ると頬を両手で包んだ。
つい先ほど前に、伸ばされた手を拒否した紫であったが、今度はその手を振り払わなかった。
「まったく。あの茜とかいう娘に会う前にも一人、殺してきた癖して、何をムキになっているのやら」
再び、隠岐奈の口が弧を描き、眼光が鋭く光る。対して紫は、椅子に座ったまま、少しも動こうとはしない。否、動けなかったのだ。
隠岐奈が紫に金縛りをかけているのである。
彼女すら拘束するほどの強力な術をもって。
紫から逃げ場を奪った隠岐奈は、まるで紫の心を弄ぶかのように首元まで妖しく両の手を這わせ、
「あの娘は奴と似ていたか……?」
「っ……」
たった一言、問う。
一瞬だが、紫の瞳が揺れた。普段誰もが見ることのない、彼女を知る者であれば驚くような表情である。
黒く長い睫毛が影を落とす、二つの瞳。
桜色の唇はかすかに震え、今度はそれを隠そうと、健気にも横一文字に結んでいる。
隠岐奈の立ち位置からは本来窺えないはずであるのだが、彼女には全てお見通しらしい。紫の動揺する様を、楽しんでいるようであった。
隠岐奈の前に座っているのは、臆病で平凡な少女と、何ら変わりはない。
月の都で見せたような残虐性が嘘に見えてしまう、弱々しい姿であった。
「くふふっ、図星のようだな。しかし、一人、一人と、奴らを殺して回っては手遅れであると、貴方ならすでに気づいているはずだ。歪みはいち早く断たねばならない。今やそれは、貴方の周りにまでも広がりつつあるのだから」
“綿月”との戦闘を終えた直後、隠岐奈は紫と契約を結ぼうとしていた。
祝福されし子の例外として、紫は単体でかつ、神々と契約を結ばずに異分子を抹消できる。しかし八雲紫には、首輪を掛けるべきであると隠岐奈は考えていた。勿論、自分が契約すればより効率的に歪を正せるに違いない。
少なくとも自分の思惑のために、紫の存在が欠かせないものだと考えていた。
なにせ、紫は“切り札”である。手のつけようのない異分子たちを排除する者として。
そこで狙い通り、隠岐奈は紫に接触した。
しかし、事態は彼女の思惑通りとはならなかった。
ただ手を貸すよう頼まれるだけで、隠岐奈と契約を結ぼうとは一言も口に出さなかったのだ。
隠岐奈からすれば、これでは生殺しもいいところである。はじめこそ何らかの意図があるのかと思案した。偶々だと、そう思おうとしていた。
しかし、気づいてしまった。
「さて、ここでひとつ問いたい」
紫が強大な力を得た分、以前よりも脆くなっていることに。
肉体的にも、能力的にも記憶を取り戻す前を遥かに凌駕することは間違いない。
比例して、禍々しい妖力も増したが。
「今の貴方は、一体どちらなの? 境界の妖怪である八雲紫?」
あるいは。
「————それとも、マエリベリー・ハーンなのかしら?」
肩を少しだけ震わせると、紫の首元から体温が失われていく。
そのままどこまでも、彼女は冷たくなっていった。
彼女ほど異分子に恨みを持っている存在は、現状この世界にはいない。ゆえに、彼女が異分子を排除することに、躊躇するようなことはないと言っていいはずである。
だからこそ、この問いには隠岐奈の胸の内にずっと燻っていた疑問が込められていた。
「ねえ。一体、貴方は誰なの? いいえ……貴方は本当に、ここに存在しているの?」
記憶を取り戻すということは、その人物の自己同一性に大きな変化が生じるということ。彼女が人間であったころの記憶など、妖怪となってからの記憶に比べればほんの少しに過ぎない。
ただし人格、自我を形成する作用については例外だ。
——記憶が複雑に混じり合った結果、
——ただの大学生の少女であった頃の名残が、彼女を脆くしてしまったのだから。
「…………」
予想していたとはいえ、何も答えない紫に隠岐奈は歯噛みした。
「(やはり、この世界から干渉を受けていないのか? 多くの異分子達の“感情”、“記憶”を取り込んだはずだが、マエリベリー・ハーンとしての記憶と自我を強く保ち過ぎてしまっている。同時に肉体に存在していた八雲紫の残滓も、完全には消えきっていない……)」
全てが不可解だ。
「(あの女……最初の“八雲紫”はこの娘を生み、命を落としたはず。そうでなければ私がこの娘に干渉できるようにはなっていない。しかし干渉が可能になったにしては、自我が強すぎる。まるで何かまた別の存在のように。……ありえない。それでは今私の目の前にいるこの娘は、誰だ?)」
どれだけ思案しようとも、答えは出てこなかった。
「(ちっ、ヘカーティアと神綺の奴らに先を越されるのだけは御免なのだが——)」
紫の、現在の交友関係をじっくりと観察していれば分かる。幽々子、妖忌、萃香、茜、博麗。思い返せば、彼女の行動には不可解な点が複数ある。
第一に。なぜこちらを裏切る可能性をはらんだ、西行寺幽々子を斬り捨てないのか?
監視を行っている彼女は、大きな敵対行為にまでは及んでいないものの、ときおり不審な動きを見せている。紫はそのことに気づいているはずなのに、それを問いただそうともしない。しかも、幽々子は紫が記憶を取りもどす前に知り合った者である。今の彼女が幽々子に執着する理由などないのだ。
第二に。なぜ天魔である茜と、必要以上の接触を行っているのか?
確かに天狗の頭領たる射命丸茜と友好を結べば、周辺の妖怪たちに対して手を出しやすくなる。いくら紫とはいえ、世界全体の隅々まで目を凝らすことはできないのだから。だが、彼女との“距離感”に、隠岐奈は違和感を覚えざるを得ない。彼女に“誰か”の面影を重ねているようにも思えるのだ。
第三に。なぜ萃香を守り抜く必要があったのか?
彼女が月面で力尽きる運命は、確かに存在していた。紫はそれをわざわざ、傷を負うまでして助けた。幽々子と同様に、萃香に対する義理などなかったはずなのに。さらに現在、萃香は運命から大きく外れようとしている。それを咎めようともせず、ましてや抹殺しようともしていないのは何とも不自然である。
最後に、なぜ博麗の巫女という“鍵”に手を伸ばそうとしないのか?
アレは福とも災いともなりうる玉手箱だ。自分たち古の神ですら予想がつかない、まさにパンドラの箱。開けられる者は紫の他にいないというのに、彼女はそれを躊躇している。
しかし、
「……まあ、いい」
終始余裕のある表情をしていた隠岐奈は、ここにきてはじめて、真剣な顔で溜息をついた。
これ以上詮索をしても、何も得られないと断じたのだ。
月面で隠岐奈は確かに、“マエリベリー・ハーン”という切り札を自分の手中に収めた。ゆえに焦ることもないのである。彼女が何かを企んでいたとしても、今やそれほどの脅威とはなりえないのだから。
「貴方が自分の使命をちゃんと理解しているのなら、私は別に構わない……」
隠岐奈がそう言うと、同時に金縛りが解ける。
紫は拘束から解き放たれた。
したがって今、彼女が隠岐奈を拒絶することは容易い。それにも関わらず、紫は自身の胸元に置かれていた手に自分の手を重ね、
「隠岐奈……」
秘神の名を呼んだ。
「(…………はぅっ!!??)」
隠岐奈が己の名を呼ばれたのだと認識するまでには、少々時間を要した。
これまでほとんど口を開かなかった紫が、大変珍しいことに己の名を呼んだのだ。それも、手を握って。
「(え、えええええと。これはつまりそういうことでいいのかしら、いいのよね!! あああ……ようやく、ようやくこのときが来たのね……!! 待った甲斐があったわ、私は今日ここで————)」
紅潮する頬を両手で抑え、生唾を飲む隠岐奈。この一瞬で、期待は最高潮まで達した。
しかし、
「直に新しく結界を張る。そのときはまた、結界の管理をお願いするわね」
「………………え?」
「準備は着々と進んでいる。それほど時が経たぬうちに、幻想郷は創立されるでしょう」
上げて、落とされた。彼女の期待した展開など、訪れるわけもなかった。
「だから、貴方にはこれからもうしばらく、結界管理に努めてほしいの」
「あ、えっと」
隠岐奈自身、ちょっとだけそんな気はしていた。
「……なにかしら?」
「他に何かあるでしょう……、ねぇ?」
「ないわ、それだけよ」
「……ほ、本当に? ほ、ほら私も貴方を影ながら支えてきたでしょう!? だから、そろそろ褒美というか、労いというか……。こ、これ以上は言わなくても分かると思うの——」
「貴方と契約せずとも、私はこの手で異分子を排除できる。今以上の助力は、必要ないでしょう? 貴方は一体何を言っているの?」
「…………そう」
がっくりと肩を落とす隠岐奈。
彼女の感情は秘されることもなく、完全に露わになっていた。さすがの秘神とはいえども、今の彼女は意気消沈した様子の、ただの少女にしか見えないことだろう。
「……そっかぁ…………」
どうやら大分、傷ついたらしい。
「(想像はしていけど、やはりこうなっちゃったか……)」
紫は最近になって式神を“後継”として迎え入れた。
それはある意味、隠岐奈との関係における線引きとも言える。
以前に、紫を試したことが原因であることは明白であった。
『貴方は全てを忘れても良い。どれだけ後悔しようとも、ツクヨミはもう帰っては来ないのだからね。あの女は最後まで粘っていたが、結局は運命に抗えなかった。貴方もいずれ、そうなるんだよ』
あのとき、張りつめていた糸が切れたように、紫は暴走した。
それは、隠岐奈ですら予想だにしていなかった。
『『師匠!! だ、大丈夫ですかっ!!?』』
そして、童子たちに心配されるほどの大怪我を負い、危うく消滅しかけた。紫の暴走を招いたことは完全に失策であったが、それと同時に彼女自身の決意のようなものを感じ取ることができたのである。
彼女、いや、マエリベリー・ハーンは自らの記憶を捨てようなどとは考えていない。必死に抵抗を続け、日々抜け落ちていく記憶を、感情を、必死に繋ぎとめようともがいているのだ。
隠岐奈にとっては、それがたまらなく愛おしかった。
先に散ったツクヨミの後を追うでもなく、歯を食いしばりながら使命を全うしようとするその姿。
——ああ。
“八雲紫”はこれまで排除してきた異分子を含めた、全ての者たちの記憶をその身に取り込んでしまう。すなわち、異分子を抹消するたびに自我という原始的な境界が失われていくのだ。
そして彼女は混沌としたスキマの中を、一人溺れそうになりながら、それでも泳いで。
——ああ、何と歪で何と愛しいことか。
彼女は異分子と呼ばれる者達と同じように、迷い、苦しみ、恐れ、戦っている。“祝福されし子”と“異分子”に明確な線引きが存在しないように、彼女は厚さ零のその境界で、ぎりぎりの均衡を保っているのだ。
「ふふふ、あははっ」
隠岐奈は嗤った。
「しかしそれでいい、貴方はそれでいいのだ」
その目は静かな狂気を孕んでいた。
盲目的なまでに紫の行動に手を貸し、自らの理想を実現しようと画策する隠岐奈の心情は、当の本人ですら理解できないような代物である。
「(そう。私はこの娘を手に入れた。誰にも渡さないわ。他の古の神々、射命丸、博麗、そして、西行寺の奴にもね……)」
そう固く決心する隠岐奈は頬を緩めながら、慈愛に満ちた表情で不意打ちに、紫のうなじに口づけをした。
途端、紫の肩がピクリと動いた。
一瞬のことに反応できなかった紫は、隠岐奈からでは表情を窺えないが、静かに赤面しているようにも見える。
年頃の少女らしい顔だった。
しかし、少々調子に乗り過ぎたようである。
「————ッ!!」
「くふっ、ふふふ。あっはっはっはっはっは————ふぎゅぅっ!!?」
隠岐奈の顔面に、紫の裏拳がめり込む。
「ふぐっ……う、うふふ。それでこそ、私の愛しい娘よ」
その痛みすら笑って受け入れながら、隠岐奈はまた、笑うのであった。
******
——博麗神社。
真昼の神社は日当たりがひと際よい。ここの巫女は普段、巫女見習いの少女とともに談笑しながらも掃除に勤しんでいる。
しかし今日は、様子が異なった。見習の少女の姿はなく、心なしか周囲の空気も重い。
その原因は境内にあった。
巫女の周りを近隣の村の数人が囲んでいたのだ。
だが彼らの表情からは、巫女に何かを問い詰めようとしている様子は窺えなかった。彼らはあくまで、博麗の巫女に相談を持ち掛けることを目的としていたのである。
「巫女様。隣の里も、またその隣の里も山に攻め込むってこちらの話を聞こうともしねぇ。このままじゃ戦にまた巻き込まれちまう」
「ただでさえ、これまでの戦で男手が減っていたっていうのに飢饉まで起きちまっているんだ。食う物が今以上に減ると、死人が出るかもしれん」
「ここも、直に戦になるでよ」
博麗の巫女が守っている人里は、他の人里に比べて男手が足りていないこともあり、飢饉の影響を強く受けていた。
そこで妖怪たちが立ち上がる。
妖怪はもともと食事の必要がないものが多い。人間を食すものいるが、それもあくまで人間の恐怖を目的としたものである。それゆえ、戦備えを解いた天狗をはじめとした妖怪たちは、神社を介した食料提供によって人里を支援していたのだ。
妖怪達の支援によって、確かに食糧事情は改善されたと言える。だがそれも、別の問題が浮上したことによって、限界が近づいてきていた。
「確かに山の妖怪たちのおかげで、こうやって俺たちは食いつなげているわけだがな。このままじゃダメなんだ……」
「そう、山の妖怪たち頼りになっちまうと、他の村々から怪しまれるのさ。最悪、他の人里からこの村が狙われるだろうな。もしそうなっちまったら、四方八方敵だらけ。この里は滅ぶしかない」
「だから、別の方法を考えなくちゃいけねえ」
「別の方法、ですか……」
妖怪との確執は、自分の想像よりもはるかに深い。博麗の巫女はそのことを十分に理解していた。それゆえ、他の里が攻め入ってくるかもしれないという意見には、もっともだと同意せざるを得なかった。
「巫女様。助けてもらってばかりで本当に情けない話ですが、私たちは、他に生きる道を探すしかないのです……」
赤ん坊を背中に背負った女性の一言に博麗の顔は曇る。
「……ごめんなさい。私が安易に取り計らったばかりに……私の所為で、いらぬ疑いを——」
「いいや、巫女様」
自分を責めようとした博麗の言葉を、熊面の男は遮った。
「貴方様の所為じゃあ、ねぇさ……。あちこちに掛け合ってくれた貴方様のおかげで、飢え死ぬ奴はまだうちの里からは出ていないんだ」
繰り返しになるが、彼らは窮状を訴えているものの、けっして、博麗の巫女を責めるつもりはないのだ。
彼ら自身もまた妖怪達を受け入れようと努力し、最近広がった噂にも、流されることはなかった。ある意味、博麗の巫女の理想はこの里が体現しているようなものだったのだ。
しかし、他の里は違う。博麗の巫女が管轄するこの人里以外では、変わらず人と妖怪の間の確執は残り続けている。いくら自分が遠出に赴き、人々の身近な危険を取り除いたのだとしても、傷跡がずっと横たわってしまうほどに。
「人と妖怪の間の溝っていうのは、うちと他の里じゃ比べ物にもならないほどさ。巫女様一人じゃ、他の里の奴等全員の心を変えるのは難しい。だからといって巫女様のやって来たことを馬鹿にすることなんてしねえ。巫女様のおかげで俺たちは、今まで知ろうともしなかったことに気づけた。妖怪たちは、俺たちが思ったような奴ばかりじゃなかったんだ。本当に感謝してる。だがな——」
熊面の男は続けて言った。
「これが現実だ。どうか分かってほしい」
「……っ」
博麗は唇を噛みしめた。ここにあの小鬼がいたら、どんな顔をするのだろう。そんなことを、ふと思った。
五年前に自分が口にした理想が今、無残にも砕け散ろうとしている。このままでは飢饉と戦によって、この人里は飢え死ぬだろう。それはつまり、あの鬼とした約束が果たされぬまま潰えようとしていることを意味していた。
「雨が……降ればなぁ……」
静まり返った境内で、髭面の壮年男性がぽつりとつぶやく。
此処にいる誰もが同じ思いだった。日照りによって乾ききった大地には、当然作物は育たない。運よく実ったものがあったとしても雀の涙のようなものである。もうそろそろ収穫の時期にもなるのだ。
人を食わせていくのには、圧倒的に“水”が足りなかった。
「……!!」
博麗はそこで、思いついた。
そうだ。自分には、まだやれることがあるではないか。
「皆さんっ! 私、雨乞いをやってみます!」
「雨乞い……? 巫女様が、ですか?」
「はいっ!! もしかすると、戦を止められるかもしれません。雨が降って水不足を緩和できれば、戦に参加する里も少なくなるはずです」
「ほ、本当かっ!!」
「……た、確かに巫女様の雨乞いが成功すれば、水不足は解消できますよねっ」
「いいのかい……?」
「はい。できるかぎりのことはやってみますっ!!」
この騒動の発端は、深刻な水不足である。ならばその水不足を解消すればよい。
髭面の男性が言ったように、雨が降れば水の供給が再開されるであろう。雨乞いは、単純だが強力な解決法であった。
ただし、雨乞いには時間がかかるうえに、近隣すべての人里に雨乞いの影響を及ぼすにはかなり大規模になる。そしてなにより彼女は、里の見回りが思うようにできなくなってしまう。この飢饉に際して人里を襲おうとする妖怪は少なくない。雨乞いに時間がかかり過ぎてしまえば、里に危険が及ぶ恐れもあるのだ。
三年前にやってきた、巫女見習いの少女に任せるという手もあるが、彼女はその性格ゆえ、下手をすると自ら命を捨てに行くかもしれない。どのみち博麗は不安になってしまう。
しかし、人里に残された時間も、そう長くないだろう。
「(あの娘は心配。でも、これ以外の方法なんて……)」
博麗は両手を握りしめる。これまでも与えられた使命を認識してはいたが、改めてその重さを痛感させられる。己の手には、人里の未来がかかっているのだ。
常人であれば押しつぶされてしまうような重圧。
しかし、彼女は責任に押しつぶされるほど弱くはなかった。
「えへへ」
里の者達を安心させるように、微笑む博麗の巫女。
そう、彼女は強かった。
「妖怪たちを恨まないって言ってくれて、ありがとう。私、頑張りますね」
「巫女様、アンタのおかげで俺たちは今生きているようなものなんだ。お礼を言うのはこっちの方なんだよ」
「ええ、うちの息子は、貴方様に救われました。巫女様がいなければ、どうなっていたことか……」
「貴方様は私達を妖怪だけではなく、熊や狼、野盗からも守ってくださいました。この恩は末代まで忘れることはありません」
「み、みなさん……」
人と妖怪の間にある溝はけっして浅いものではない。そうでなければ、こうまで多くの人里が戦備えをしているわけがないのだ。そんな中、彼らはここまで自分の理想に理解を示してくれている。
博麗にはそれがただ嬉しくて、目尻ににじんできた涙を指ですくった。
「(萃香お姉ちゃん……)」
あの小鬼の顔が脳裏をよぎる。目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
彼女は覚悟を決め、
「この異変、博麗の巫女が解決してみせますっ!!!」
その身に背負った使命と共に、異変解決へとついに動き出した。