……あれ?
わたし、なにをしていたんだっけ?
視界はどうしてか真っ暗だし、ぐわんぐわんと頭が痛い。けれど、何かに優しく包まれているからなのだろう。体がほんのりと温いし、いい匂いがして心地が良かった。ふと、すんすんと鼻で匂いを嗅ぐと、なんだか紫様がすぐ近くにいるような錯覚を覚えた。
これではまるで、紫様に抱擁されているような……。
いや、まってまって。
……まずは落ち着こう。深呼吸。状況を把握して、冷静にならなくては。
そうやってしばらくの間、自分の身に起きたことを思い返していると、だんだん冷静になって来るにつれ、自分で自分の顔が青ざめていくのが分かった。
私は今、紫様に抱きかかえられているのだった。
——えっと、机に突っ伏して眠っていらっしゃった紫様を寝台までお連れして、紫様が寝台でお休みになられたことを確認したところまではちゃんと覚えている。
だがしかし、その後、急に視界が暗くなってからは記憶がない。何一つ覚えていない。それはつまり、そういうことなのだろう。私は紫様に抱えられたまま、不覚にも眠ってしまったのだ。
「(……ひとまずは、ここからぬけだしましょう。けっして、おこしてしまわぬように)」
もぞもぞと身をよじって顔を上げてみると、紫様のお顔が見える。どうやら紫様は、私が一緒に眠ってしまっていたことには気づかれていないご様子。
ふぅ……。
「(な、なにをかんがえているのですか、わたしはっ!? おきていらっしゃらなくて、よ、よかったなどと……)」
気づかれなくて良かったと安心してしまっている自分に罪悪感というか、嫌悪感を覚えた。同時に、ずっとこうしていたいという心地よさを感じてしまっている自分にも。
これ以上は、いけない。
いつまでもこうしていたいという欲求に耐えながら、紫様の腕を静かに解き、寝台から離れる。起こしてしまっていないか恐る恐る振り返ってみると、まだまだ紫様がお目覚めになる様子はなく、今は安らかな表情をしている。
「(ゆかりさま、かおいろがよくなっていますね……、もしもくるしまれているようでしたら、どうしようかとおもっていましたが……)」
ほっとした。
ただ、自身の不覚を咎められないことに安堵したのではない。
もしも、紫様がずっと苦しまれていたのなら、今度こそ不敬を承知で起こすべきかと思っていたのだ。しかしこのご様子ならば、もうしばらくお休みになられていたほうが良い。
朝食は残念だが、作った私が責任をもって食べよう。
「……ん……」
横になったまま軽く身じろぎをした紫様のお口から、少しだけ息が漏れた。呼吸も安定しているご様子だ。少し前までの、あの苦しそうな様子はどこかへ消えていた。
「……いましばらくおやすみなさいませ、ゆかりさま」
こうして、普段見ることができないような主の一面を独り占めするのは、一種の罪悪感を覚える。傍に仕えている自分以外、誰も知らない紫様のお姿。恐らく幽々子様や茜様も知らないだろうその一面を、私のような者が見てしまっていいものかという罪悪感だ。
しかし、いましばらくは許してもらいたいものです。
こうしてすぐ近くで見守ることを。
私から見た紫様はいつだって格好良かった。
人間も、妖怪も、果ては神さえも手玉にとって博麗神社近隣の地域から有力な存在を遠ざけ、一つの理想郷を作ろうとするそのお姿
けっして紫様自らが表舞台に立つことはない。けれど間違いなく、“楽園”はこの御方のお力あってこそ作り上げられるのだと、私は思う。
そんな紫様は弱みなどを一切口にしない。ただひたすらに目的のために突き進んでいるようにも思われる。
怖く、ないのだろうか? 過去に疑問に思ったことがある。
自分が突き進むその道が、誤っていたらどうしようかなどと、過去を振り返りになられることはないのだろうか。式神となってまだ間もない頃、私は幽々子様に尋ねた。
『紫は、何かにとり憑かれているわ。まるで、自分がそうしなくてはならないと、誰かに命令されているようにね。紫をあそこまで突き動かすものが一体、何なのかまでは分からないけれど』
すると幽々子様は一呼吸おいて。
『彼女にとって、未来は“恐怖”足り得ないのよ。むしろ、過去を恐れるあまり、彼女の目は未来しか捉えていないのかもしれない』
ご友人であるからこそなのだろう。幽々子様は、溜息をつきながら言った。私は当時、幽々子様のお言葉の真意が理解できなかった。
だが、紫様のお顔を見た今ならば、少しだけ意味が分かる気がします。
我が主も時には、悩み、苦しむ。私が目にしてきたものは所詮、主の一面に過ぎないのだ。紫様がお強く見えるのは、邪魔をする者に弱みを握られぬよう、気丈に振舞っているからなのだ。
そう、思ったからこそ。
もっと紫様のことを知りたい。
もっと、お役に立ちたい。
……ここには私と紫様だけ。他には誰もいないのです。今、寄り添うことができるのは、私だけなのです。
だから、まだ、もう少しだけ——。
******
【長月 三日】
翌日の朝、これから雨乞いの儀式を行うと皆に改めて伝える必要があったから、空を飛んで神社を囲む広大な森を越え、人里へと向かった。
森は季節と日照りのせいで幾分か見渡しやすくなっているものの、険しいことには変わりなく、神社から歩けば相当な時間がかると思う。
しかし空を飛んでいる私はそんな道のりを、時間もかからず里の入り口まで辿り着くことができた。
「巫女様。遠い所をようこそいらっしゃいました」
「門番の皆さん、こんにちは。今日に限って皆さん総出でお出迎えをしてくれるなんて……一体どうしたんですか?」
「こんにちは……。まあ、今日はちょっとですね……」
いつも私が出入りする門で、“親父”さん——里の皆からそう呼ばれている——は、少し口ごもり、
「本当はいつものように巫女様とお話したいところですが、
「えぇ、あぁ、ちょっっ」
思わず伸ばした手は、行き先を失ってしまった。軽く挨拶しただけで親父さんがすぐに走って行ってしまったから。
呆けている私を、他の門番の人達が苦笑しながら中に入れてくれる。既に、門番の皆さんは里長から事情を聞いているんだろう。そうとは言っても、いつもならもっと気軽に私に接してくれるのに、今日の皆はどこか緊張した顔をしていた。
「巫女様、どうぞ里の中へお入りください。里長が待っておられます……ご案内しましょう」
「は、はい」
なんか、他人行儀な気がするなぁ。
いつもはもっと気楽に話しかけてきてくれるのに、今日は冗談一つ言わない。今さっき私に話しかけてくれた人なんて、私のことをいつも肩車して、『見てくれ! 娘ができたみたいだ』なんて揶揄ってくるのに。
「里長より、里の者達の前で説明する前に一度、館に立ち寄って欲しいと指示されておりますので」
「里長の館、ですか」
門番の人達の後ろに目をやると、里の寄り合いの場にもなっている、里長の大きな屋敷が建っていた。そこには何度か依頼を受けに行ったことがある。確か屋敷の前は広場になっていて、村の人たちが集まれるようになっていたっけ。
「ええっと……それでは私、屋敷の前でお話すればよいのですね」
「はい、そう聞いております」
「あ、あの……」
「ん、どうしましたか? 巫女様」
やっぱりダメ。違和感しかないよ。
「皆、いつもみたいに楽に話しかけていいですよ? な、なんか私、不安になっちゃうから……」
普段だらしない人まで身なりをしっかりとしているし、顔が真剣なんだもの。
特に理由が思いつかなかった私は、気を遣わなくてもいいという意味を込めて言った。けれど、門番さん達はかぶりをふって、
「お言葉はありがたいのですがね……、俺たちはあくまでただの門番にすぎませんので、巫女様になれなれしい態度を取るわけにもいかないんですよ、それに——」
こっそり、私の耳元でささやく。
「——領主様ん所からお役人が来てる。俺たちがアンタに下手な態度をとりでもしたら、巫女様の立場も危うくなるかもしんねぇ。だからアンタに迷惑を掛けねえように、って皆で決めたんだ」
ここからではお役人様の姿は見えない。ということは、どこかで隠れて私を監視しているか、それともすでに里の広場に行ってしまったかのどちらかになるだろう。
他の門番の人達と目が合う。
皆、真剣に私のことを心配してくれていた。
「(妖怪との戦の影響が、こんなところにも伝わってきているなんて……。まさか、いや、考えたくはないけれどお役人様が来たということは、私を監視しに来たのかもしれないなぁ……)」
漠然としていた。これまでのように、人里の守護者である私にまでわざわざ目を向けてこないだろうと思っていたから。
しかし、今回は違う。人間同士の戦ではない分、妖怪との接点の多い私は色々な意味で注目されているようだ。特に、領主様をはじめとした国を治める側に人達からすれば、私という存在はもしかすると“目の上のたんこぶ”ってやつなのかもしれない。
「新入り、巫女様を頼むぞ。ご案内して差し上げろ」
「はいっ!!」
門番の人が、そう言った。すると最近門番になったのだろうか、見たことない人が前に出てくるや、私を里長の館まで案内してくれることとなった。
「新入りさんですか? よろしくお願いしますね」
「は、はい! よろしくこちらこそお願いしますっ!」
前に立つ彼の身長は高い。自然と、会話するときは私が見上げることになりそうだった。女の中では身長が低い方ではないつもりだったけれど、こうして隣に並ぶと身長の差がよく分かるなぁ。
萃香お姉ちゃんなら、片手で抱えられそうだね。
……萃香お姉ちゃん、会いたいなぁ。
「巫女様? どうかしましたか?」
「っ!?」
いけないいけない。ついつい気が抜けてしまった。声に出ていなかっただろうか? 領主様のところからお役人が来ていると言うし、迂闊な真似はできない。萃香お姉ちゃんに迷惑がかかるどころか、里の皆にも、そして二代目にも迷惑が掛かってしまう。
「な、なんでもないです……。た、ただ、背が大きいなぁって思いましたものでしたから」
「えぇ……? まあ、よく言われます……」
てっきり歩幅が違うから置いて行かれてしまうかと思ったけれど、そんなことはなかった。彼は私のすぐ前に立って、私のことを待っていてくれていた。
背丈の大きい彼が、私の歩幅に合わせるよう、ゆっくり歩いてくれる。そんな彼の小さな気遣いが嬉しくて、私はこの人が心も体もきっと大きいんだろうなぁ、と温かい気持ちになった。
お役人様が来ていると聞かされて滅入っていた心が少しだけ安らぐ。
「うふふ」
自然と、笑みが口から漏れていた。
「へ?」
「いえ、ゆっくり歩いてくれるからついて行きやすいなぁ、っと思って。ありがとうございます。お優しいのですね」
「ああ、そういうことですか。なんだか照れるなぁ……にしても——」
一呼吸置いて、門番の人は何処か遠い所を見るようにして言った。
少し、彼は溜息をついた。
「先輩方はああ仰っていますがね、お役人様は本当のところ、もうすでに広場の方へ行っちまったんです。俺、この目でしっかりと見ていましたから。申し訳ないです、巫女様に変に気を遣わせることになっちまって」
「えっ!? ああ、そうだったんですか!? な、なんだ、私まで緊張していました……」
お役人様方は来て早々に、広場の方へと言ってしまったらしい。緊張していた分、肩から力が抜けていく。
「な、な~んだ、緊張して損しました」
「まあ、先輩方も張りつめているんでしょうよ。特に三年前の戦を経験している方々は、お役人様の怖さと恐ろしさってやつをよ~く知っているようですから……」
『ああ、三年前の戦といえば』と、青年は思い出すように言う。
「さっき巫女様がおっしゃったように俺、この通り体が大きいでしょ? それに力が強かったこともあって、昔から腕っぷしには自身があったんですが、お袋によく言われたんです。『周りに迷惑をかけるな、いつも人様が何を考えているのかを考えなさい』ってね」
「あら、いいお母様ですね」
「いえいえ、昔っから本当に口うるさいんですよ」
口うるさいなんて言っておきながら、彼は笑っている。ああ、きっといい親子なんだろうなぁ、と親子二人並ぶ姿がすぐに思い浮かんだ。
「ちょいと昔の話なんですがね」
心優しい門番の青年は言葉を紡ぐ。
「俺、この前の戦のとき、すぐに連れていかれそうになっちまったんです。年齢でいえば、まだまだそんな歳ではなかったんですが、体格がよかったものですから……そんな中、お袋は必死になって俺を家の中に隠しました。力じゃもう俺に敵わないってのに、少し腰の曲がった小さな体で、必死になって押さえつけたりして」
声を小さくして、悪戯をしているときみたいに人差し指を口に当て、『ああ、ここだけの話ですよ?』なんて仕草をしている。
彼よりずいぶんと背の低い私からでは、今、彼がどんな表情をしているのかよく見えない。しかし彼は本当に楽しそうに、そして嬉しそうに言っていた。
「お袋は言いました。『いいかい、絶対に外へ出るんじゃないよ。アンタを人殺しにするものか』ってね。……俺は、お袋のあまりの剣幕に何も言えずに、ただ頷くことしかできなかった」
「……」
「……ね? 俺のお袋は本当にもう、口うるさいんですよ。体は巫女様よりうんと小さいのに、敵う気がしません。ありゃもう、鬼より怖いですわ」
「いえいえ。やっぱり、いいお母様じゃないですか」
そう私が言うと、彼は照れながら空を仰ぎ見た。
「戦の間、ほとんど外を出歩かなかった俺は、この前の戦のことを全然知らないんです。先輩方は酒に酔った時でも喋ろうとしないし。でもまあ、今はあれで良かったんだと思っていますがね」
「お母様に、感謝しなくちゃですね。『立派な息子さんを育ててくれてありがとう』って。私からも感謝の気持ちを伝えたいくらいです」
「そいつはぁきっと、喜ぶだろうなぁ……」
あれ、どうしてかな。
「うふふ、別に今から言いに行ったっていいんですよ?」
「それは俺が叱られるんで、ご遠慮願いますよ……でも、ありがとうございます。巫女様に褒められたなんて知ったら、お袋は飛んで喜びますよ、きっと」
なんのこともない世間話のはずなのに。
「あら、お母様、空を飛べるのですか?」
「あははっ、巫女様だって飛べるじゃないですか……それにお袋は飛べません。あくまで例えですよ、例え」
なのに、どうして。
どうしてこんなにも切ないのだろう。
理由は、すぐに分かった。
「あぁ~、久しぶりに笑った……。こうやって、巫女様とお話しできる機会があって、良かったです」
「——? それはどうして?」
「いやぁ、これが、最後になるかもしれないんです。俺はもう、この村には帰ってこれないかもしれないから」
ああ、そうか。私が感じていた違和感は、“これ”か。
どうしてこんなにも清々しい顔をしているんだろうなって、話し始めてからずっと気になっていた。
「俺、今度の妖怪との戦に、行くことになりました」
そうだ。三年前の戦で見た、たくさんの人達と同じ。
これから、命を捨てに行くときの顔なんだ。
「お袋は止めていたけれど、拒めば、家族の皆に罰が与えられるから」
やめてよ。そんな、顔しないでよ。
本当は、声を大にして言いたかった。
「行くしかないんです。だから、せめてこの里からいなくなって、そのまま死んじまう前に巫女様のお役に立てたらなって、そう思ったんです」
彼は、私と歳が変わらないくらいの若い青年だった。まだ、少年らしいあどけなさが残っていて、余計に胸が詰まるような思いだった。
私が言えるようなことじゃない。でもこんな若い人が戦に駆り出されるなんて。
やっぱり、分かっていても間違っていると声を大にして言いたかった。
けれど。
「巫女様が雨乞いをしてくださるとお聞きして、俺たちも、もうひと踏ん張りしようって決めました。俺たちみたいに兵士になる奴らは死ぬかもしれないけど、里を守ることならできる。里の皆は、巫女様のことを応援してます」
言えなかった。
私は本当に、中途半端に汚れてしまったから。
「戦をしたって、生活が楽になるわけじゃない。それなら皆で飢饉を乗り越えて、皆で笑おうじゃないかって」
そう言って、にっこり笑っているだろう彼の顔を見ることもできなかった。
いいえ。本当は私には見えているの。彼が今、どんな表情をしているのか。
「妖怪と交渉して里に食料を分けてくれたのも、巫女様のおかげでしょう? 他の里のやつらだって、本当は、心の奥底で分かっているんですよ。妖怪と戦したってどうしようもないことを——っと、そろそろ着きますね。これ以上は誰かに聞かれちまうかもしれない」
私が里長の屋敷の前に立ったことを確認すると、彼は立ち止まり、
「それでは巫女様。どうかお達者で」
一度礼をしてそのまま立ち去った。私は、ほんの少しの間だけどお話した彼の後姿をずっと見つめていた。けっして彼のことを忘れないよう、この目に焼き付けるために。
「巫女様。ようこそいらしゃいました。こちらからお伺いすることができず、申し訳ありませぬ」
「いえ、里長。これも巫女の勤めにございますから。元より、雨乞いを提案したのは私です。私の口から皆に伝えるのが筋でしょう」
「……巫女様の提案であらせられれば、皆も協力しましょうぞ」
屋敷の中に入ると里長が迎え入れてくれた。
里長はこの五年で、少しだけ老けた。
三年前の戦で多くの若者を連れていかれてからというもの、あれだけ勇ましかった里長も相当な衝撃を受けたんだろう。
無意味な戦でたくさんの人が亡くなって。それに隣の国との緊張は、いくら停戦したとはいえずっと続いたままだから。
「この里では飢饉による死者はまだ出ていないが、他の里は酷いことになっているようですな。流行り病までも蔓延しているのだとか……いずれにしても、長くはもちますまい」
「なおさら、私の出番というわけですね」
「しかし、巫女様のお身体は一つのみ。あまりご無理をなさらないようにしてくださいませ」
「お気遣いありがとうございます。けれど、里の一大事に私が黙って休んでいるわけにはいきません。それに、今回は前の戦の時とは違いますから。——博麗には、立派な後継ができました」
里長は『ふむ……』と顎の髭を撫でながら唸った。
「二代目というのは、あの娘ですかな」
「ええ、自慢の弟子です。私が離れている間、あの娘ならば必ず里を守ってくれるでしょう」
「先の戦を教訓として、被害を受ける者が少なくなるのならば、死んでいった者達も浮かばれましょうぞ……」
「……はい」
しばしの沈黙。里長は黙祷しているかのように、静かに目を瞑っていた。
すると、館の外が次第に騒がしくなってきた。里の人達が広場に集まって来たみたいだった。
「……さて、そろそろのようですな。ここからは私がご案内しましょう」
「よろしくお願いします」
里長が立ち上がったので、私もそれに続く。里長の館を出て周囲を見渡すと、里のほぼ全員が広場に集まっていて、人だかりができていた。仕事の途中に抜け出してきた人、農作業を終えて戻ってきた人、中には生まれたばかりの赤ん坊を背負っている人までいる。
そんな、皆の視線が私に向いた。彼らの視線には色々な感情が込められていた。
期待、羨望、怒り、憎しみ、不安、悲しみ。
人の数だけ、向けられる感情も様々。新入り門番の彼は、皆が私のことを応援してしてくれていると言ってくれたけれど、私は誰からも慕われているわけじゃない。
門番の人達や、以前神社に来てくれた人たちのように私を慕ってくれている人もいる。だけど、それ以上に妖怪に対して温和な行動をとって来た私に対して、憎しみや懐疑の目を向ける人だっている。
しかし、
だからって目を背けちゃいけない。ちゃんと、前を見る。私がしてきたことから私自身が目を背けてしまえば、もう誰も信じてはくれなくなるから。
「それでは、巫女様。お願いいたします」
里長に促されるまま準備された台に登ると、鼓動が高鳴る。やっぱり私、緊張しているのかな。
けれど深呼吸して、ゆっくり目を開ければほら、いつも通り。
大丈夫。雨乞いだって、成功させればいい。私なら必ずできる。
「皆さん、これから、大事なお話があります——」
人と妖怪と神の共存できる世の中へ。これはその大きな一歩になるに違いない。
だから、
ここで逃げちゃダメなんだ。
******
「それで、進捗はいかがでしたか?」
「いやぁ~、やっぱり……そう簡単にはいかなかったなぁ」
夜、神社に戻ってきた私を迎えてくれた二代目。彼女は相変わらず無表情だけれど、なんだかんだいいつつ、私の話を聞いてくれる。
大規模な雨乞いを行うと里の皆に伝えた後、私はそのままの足で里の有志の護衛の人達と一緒に儀式の場へと向かい、実際に雨乞いを行ってきた。
儀式の場は里から遠く離れていない小さな山。その山は妖怪たちの住処というわけでもなく、里の人達が自由に行き来することができる身近な場所になっている。
結局、その日のうちに儀式が成功しなかったため、数度に分けて行うこととして今日のところは解散してきたのだ。
「なるほど……結局、数度に分けて儀式を行うこととなりましたか。想定通りですね」
「うん、でも、時間がないわ。もっと、早く雨乞いを成功させないと」
「あまり焦っても仕方ありませんよ、巫女様。巫女様は肝心なところでドジを踏む悪癖がありますので」
「ぐふぅっっ!?」
思わぬ不意打ちを食らい、胸を抑える私。一応、私は師匠なんだよ……? 『私だってちゃ~んと考えているよ』という意味を込めて睨んだら、
「巫女様が神の声を聞くことができたとしても、神もまた巫女様の声を聞くことができるとは限りません。こちらの声に必ず答えてくれるわけではないのですから、当然のことでしょう。急いては事を仕損じます。慎重に事を進めてもよろしいかと」
「……んむぅ」
正論を叩きつけられてしまった。
雨乞いも、神様にお祈りをする過程でちゃんとこちらの声が届かないと成功しない。儀式は一方的なものではいけないし、何より神様というものは気まぐれで、いつだってこちらの声を聞いてくれるとは限らないのだ。
だからこそ、私たち博麗の巫女がいるわけでもあるんだけど。
「ふぅ……。分かった、分かったよ。貴方の言う通りだわ。ちょっと、里で色々とあったから、私も雨乞いを成功させなくちゃって気を張り過ぎていたかもしれない」
一日経つごとに大きくなる戦の影。今日だって、それを痛感させられた。
どれだけ急ごうとも、領土全体の規模で雨を降らせるためには、まだまだ時間がかかる。頭では分かっていてもやはり気が急いてしまうのだった。
そんな私の心の内を悟ったかのように、二代目は言う。
「……巫女様、まずは地盤を固めましょう。一度や二度でこの辺り全域に雨を降らせることは難しい。ならば少しずつ種を撒けばよいのです。
「一カ月、か……十分に時間があるようにも思えるけれど。実際はそうでもないんだろうね」
「あくまで目安です。しかし——」
二代目は手元に持っていた湯飲みに口をつけ、一息置いて続ける。
「戦の方はもう、いつ始まってもおかしくありません。伊吹が京に行ってしまった今、“鬼”には抑止力となる者がいない上に、奴が帰ってくるには時間がかかるはずです。四天王の内の一人である茨木童子が、京で討たれたとの報告が来ていますから」
「……萃香お姉ちゃんは無事なの?」
「さて、伊吹も討たれたとなれば京は今頃大騒ぎでしょうね。結論から申し上げれば、奴は討たれておりません。奴は今、後始末に追われている。詳しくは、後ほどお話しますが——」
『ひとまず話を戻します』と、二代目。
「戦が始まれば、犠牲は必ず出ます。鴉天狗の連中が被害を少なくするなどと言っていますが、奴らも戦を挑んできた見せしめに、必ずや数多の兵の命を奪うでしょう。それだけは、巫女様にも覚悟していただきたい。貴方様は人間の味方として、此度の戦に参加しないとご決意なされたのですから」
「……うん。分かった」
真っ直ぐ、私の目を見る二代目は湯飲みをお膳に置く。
静かな神社には、虫の鳴き声と、私と二代目の息遣いだけが響いた。
——ぐるるるる。
急に、私のお腹が鳴った。どうやら私のお腹には節操というものがないらしい。
…………。
……恥ずかしい。
「夕餉の準備ができております。あまり、遅くなっては巫女様のお体にも障りますゆえ、いただきましょう」
「~~っ!?」
おそるおそる二代目の顔を上目で見てみると、
「——ふっ」
二代目が……あの、表情をほとんど変えることのない二代目が笑っていた。なんと、今日はお赤飯を炊かなくちゃいけない。
でもでも、二代目が初めて笑ったその原因が、私のお腹の虫っていうのもなぁ。
「巫女様。そのお顔、傑作でございます」
「む、むぅ~!!」
恥ずかしさのあまり熱くなってきた頬を抑えながら、思う。
ここ最近、彼女は奪われていた人間性を取り戻してきつつある。
少し前までは冗談一ついわない堅物で、目つきは冷めきっていたし(主に私の失態の所為)、表情もほとんど変化がなかった。それが今、こうやって笑うことができるようになってきたのだ。きっと、これは彼女自身の努力の成果なのだろう。
「(最近はつらいことばっかりだったけど、嬉しいこともあるもんだね)」
二代目との夕食は静かに、和やかに終わった。
食後、二代目は『明日には妖怪を退治しに遠出をいたしますので』と言って早々に寝に行ってしまったので、私は一人、物思いに耽っていた。
今日一日を通して、ふと思うことがあったのだ。
「(振り返ってみると、私は本当に、恵まれている……)」
何も知らず野に生きていたときに、ばったり萃香お姉ちゃんに出会うことができたこと。未熟だった私に紫ちゃんや茜ちゃんといった妖怪達が手を貸してくれたこと。器が広くて優しい心の持ち主がたくさんいる、あの人里の皆に、巫女になってほしいと頼まれたこと。
そして、こんな私を師として敬ってくれる、博麗の後継者が現れてくれたこと。
昔、愚かな失敗をしてしまった私に、『恵まれているから、誰かを助けようと思えるのよ』と紫ちゃんが言った。当時の私は惨めな思いをしただけだったけど、今なら素直に『その通りだ』と思える。
「(だからこそ)」
お腹が減ると、人は余裕を失って、余裕を失った人々はやがて戦に身を投じていく。そして、戦によって田畑は荒れていき、また、お腹を減らした人々が生まれていくのだ。
この負の連鎖を完全に断ち切ることは難しく、私一人でどうにかできるものではない。そう、私のように恵まれている者ばかりじゃないのだから。
実質、今の私にできることは雨乞いだけ。しかし飢饉による被害を少なくできるよう、ほんの少しの手伝いしかできないと思うと、それだけで歯痒くなってくるのも確かだった。
「ままならないものだよね……」
これ以上は泥沼に嵌まっていく気がして、お茶を一飲み。すると今、隣には誰もおらず、自分が一人きりで縁側に座っているのだと改めて感じさせられた。
そういえば夜、こうやって縁側に一人の時間を過ごすのにも慣れちゃったなぁ。少し前までは、萃香お姉ちゃんが隣で寝ころびながら私の愚痴を聞いてくれたのに。
巫女になった当初は何もかもが初めて尽くしで、不満なんか口にする余裕もなかった。けれど少しずつ巫女としての仕事に慣れてくるにつれ、自分のやり方や、国の在り方に疑問を覚えるようにもなった。そんな私の小さな不満に耳を傾けながら、『あははっ、アンタってば、本当に馬鹿だねぇ~!!』なんて言って笑い飛ばしてくれた。
日に日に変わってしまう私を、萃香お姉ちゃんは咎めることもなく、受け止めてくれた。
そんな彼女に、どれだけ救われたことか。
今から思うと、萃香お姉ちゃんに会った頃の私は本当に何も知らなかったのだ。
ただ、こうしなくちゃいけないという、心の声に突き動かされていただけで私は生きていた。
最近は、めっきり聞こえなくなってしまったけれど。
「ふぅ」
そろそろ寝ようかと縁側を発って寝室まで歩き、襖の前に立ったところで、ふと萃香お姉ちゃんの寝息が聞こえたような気がした。だらしくなく布団もかけずに手足を伸ばしているいつもの光景が、ありありと思い浮かんだ。
「(ま、まさか……ね)」
おそるおそる襖を開けてみると、やっぱり、彼女はそこにいなかった。しかし、妙に布団が膨らんでいるような気がしないでもない。
「(あれ……?)」
布団を少しめくると、予想外なことに、二代目が丸くなって寝ていた。疲れて、寝る場所を間違えたのだろうかと思っていた私に、
「……ん、巫女……様……」
どうやら寝ぼけているようで、よく聞き取れない寝言を言いながら腰に抱き着いてくる二代目。『なんだか寒い冬の日の猫みたいだね』なんて思いながら私は苦笑し、彼女の背中に腕をまわし起こさないように抱き上げて、布団に横になった。
……翌日の朝、二代目の顔が少し赤かったのは、また別の話。
******
【長月 二十一日】
「護衛?」
儀式を始めてから十八日後の朝。早くから来客があって珍しいなと思っていたら、お侍様が来ていた。領主様が私のする雨乞いが無事に成功するようにと、護衛をつけてくれることになったみたい。これまでお役人様から護衛を送るなんてお話を、聞いたこともなかったけど。急にどうして?
少し変だなと思いながらも、お侍様たちを神社の中に通す。
「どうぞ、中へ」
「これはこれは。どうも失礼いたしますぞ、巫女様」
「いえいえ、何にもない神社ですが、わざわざご足労いただきありがとうございます。まさか私にまで護衛をくださるとは思ってもいなかったもので」
「驚くのも、もっともでございますな。我々も通達されたのは本日未明でございますれば」
そう言って微笑みかけてきたのは初老にかかろうかという灰色の髭を蓄えた男性。穏やかな見た目だけど目つきは武人のそれだと思う。後ろにあと五人、お侍様が控えているものの、きっとこの男の人が一番偉いんだろう。恰好と風格が他のお侍様達とは違った。
「領主様は、巫女様の雨乞いを支持しております。よって我々は巫女様の護衛を務めさせていただき、儀式を無事に終えられるようにと」
「それは大変ありがたいことです。儀式中はどうしても無防備になってしまうので」
「そうでございましたか。我らが主の懸念は正しかったようですな。この身を挺して貴方様をお守りさせていただきましょう」
——ん? 瞬だけど、隊長さんの目が揺れたような。揺れるっていうのも違うか。何かはっきりとしていなかったものに、確信をもったみたいな感じ。
特にこれといった理由はなく、私は気になった。
「懸念、とは?」
「いくら妖怪の住処でない山であるとしても、いつ妖怪達が巫女様を襲うか分かりません。我らが主は巫女様の身を案じておるのです。巫女様の御力あってこそ、この国は飢饉を乗り越えられるですから、万全を期すのは至極当然でありましょう」
ありがたいことなのは間違ない。
私はそれ以上追求しないことにした。
「これまでは里の有志が巫女様の護衛をしていたと聞き及んでおりますが、我々が来ましたからには彼らには里の警護に戻ってもらうこととします。よろしいですかな?」
「は、はい」
「それでは、我々は外で待っておりますゆえ、準備ができ次第、声をかけてください」
そう言って、神社から出ていくお侍様達。有無を言わさぬような物言いだったから、少し怖かった。恰好もだけど、纏っている雰囲気が張りつめているから、やっぱりお侍様って怖いなぁ、なんて私は思っていた。
ふと、
「……行かれるのですか?」
ぼんやりしていた私に、後ろから声をかける二代目。
どうしてだろう。二代目にしては珍しく、不安そうな声色だった。
「当然。毎日やらなくちゃ、意味がないでしょ?」
以前二代目が言ったように、広域に雨を降らせるのならば継続して雨乞いを行う必要がある。一日たりとも休んではならないし、一日の大半を儀式に費やさなければならない。
「しかし、なぜでしょうか。胸騒ぎがするのです」
「胸騒ぎって貴方……」
胸に手を当てる二代目。
何だってこんな時に不穏なことを言うのだろうか。
「私は、巫女様の身を第一に考えます。二カ月の間、継続して儀式を行うよう提案したのも、巫女様の身を案じたゆえでございますので。しかし、これでは……」
そうか、領地全土に式神を放している二代目は、領主様が私のことを良く思っていないという噂を耳にしていてもおかしくない。だから今回、護衛をつけてきたことがきな臭いと考えているんだろう。
「やはり、伊吹が帰って来てから奴の手を借りるという手もございます。今日は神がお怒りになられているという偽りをあの侍達に伝え、早々に引き取ってもらってからでも——」
いや、違う。それだけではない。きっとこの娘は、三年前の戦のことを思い出しているんだ。武装した、お侍様達の姿を見て。
「——
「っ!!」
心配性な愛弟子の真名を呼び、私は彼女を落ち着かせるよう抱きしめた。
彼女は微かに、震えているようだった。
「あの人たちは、戦の折、貴方に乱暴をした侍達とは違うわ」
「はい……」
「貴方の言う通り、これは罠かもしれない。でも拒めば必ず怪しまれる。萃香お姉ちゃんの手を借りるにしろ、ぼろが出る可能性が高い。貴方にしては、少し短慮じゃないかしら」
「……」
ただし、この娘が不安を覚えているということだけは胸の内に置いておこう。私も、あのお侍様達がこの機会に護衛として遣わされたとは思っていない。まず裏があるとみていい。
どちらにせよ油断しないに越したことはないのだから。
「それに大丈夫。私の身に何かあったとしても、この博麗神社には、頼れる二代目がいるじゃない」
「しかし」
「未熟者。たまには師匠のことを信じてよ。絶対に、雨乞いを成功させて見せるから」
私はそう告げ、名残惜しそうな二代目を離して草履を履く。
「行ってきます」
「……どうかご無事で」
私は何も言わない。前を見据えて、神社の鳥居をくぐる。
「お待たせしました。博麗の巫女、準備が整いました」
十九日目の雨乞いが始まった。