“八雲紫”の誕生から、時は少し遡る。
暗闇の中に、身動きしない小さな影が一つ。
“ゆかり”だった。
全身泥だらけの彼女は、しばらく真っ暗な空を見つめていた。光が消えた瞳で、ただ虚ろに月明かりのない夜を見つめるのみであった。
辺りは暗くて凍えるように寒かった。
寒くて、寒くて、ゆかりはすでに肌の感覚を失っていた。
春とは到底信じられないようなこの寒さは、一重に深い暗闇がもたらしているに違いなかった。ならば寒さを、闇を生み出したのは新月か? それとも彼女の能力か? それを判断する者も、知覚できるもの残念ながらどこにもいなかった。
「っ——!!?」
ふいに硬い鈍器で殴られたような、鈍い痛みがゆかりを襲った。喉がからからに乾いているせいか、その痛みは声にならない。強烈な吐き気がしたが、胃の中が空っぽなせいでろくに吐くこともできず、ただただ苦しくむせることしかできなかった。
しかし同時に、痛みはゆかりに対してこれまでに起きた出来事を思い出させてくれた。
「(ああ、そう……これはゆめじゃない。だれも、いない)」
虚空に伸ばした手は、酷くやせ細っていた。骨と皮だけになってしまったと見間違うほどに、酷く弱り切ってしまっている。
一体どれほどの時が経ってしまっていたのだろうか。しかしそんなごく当たり前な疑問ですら、今のゆかりにとってはどうでもいいことであった。
「(なんだ……そうか。ひとりに、なったんだ)」
力無く垂れる腕に、ゆかりは自分の命がそう長くないことを悟った。
「(——いたい、いたいよぉ……おかあさん……)」
ゆかりは頭を小さな両手で抱えてうずくまった。
「(……ここは、くらくてさむいの…………)」
寒さに、寂しさに、ゆかりは震えた。
どれだけ体を丸めようとも暖かくはならない。じわじわと体の芯から凍えそうになった。
そう、少女の心身はまさに限界に達しようとしていた。
今まで生きていた小さな、小さな世界。母が作り上げた幻想は終わり、母の幻影はこの世から消失した。それが何も知らなかった幼い少女の心を深く抉った。
常に、ゆかりの傍には母がいたのだ。
いつも何かに挑戦するときは応援してくれて、失敗したときは慰めてくれた母。意外とどじなところがある母。いざというときに頼りになる母。
一番身近で、自分を形作ってくれる人。
他に人間がいなかったからこそ、少女にとって、母という存在は大きすぎた。母を失うことは、自身の身体を滅茶苦茶に切り刻まれるのと同じくらいに苦しいものであった。
「(……きえていっちゃうの……ちいさいひかりが。ひとつ、またひとつって……)」
ゆかりは、夢と現の間を何度も何度も行き来していた。
母と共に暮らした日々の夢を見ては、寒さに目を覚ます。その度、記憶が薄れていく。
あれほど輝いていた思い出が、一つ、また一つと黒く塗りつぶされ、消えていく。
夢とは、一度醒めてしまえば徐々に忘れゆくものだ。
必死につなぎ留めようとすれば、両者の境界は曖昧なものになる
挙句、夢と現の境界すら分からなくなってきた頃、ぼんやりとした意識の中でゆかりはおびただしい数の目に囲まれていることに気づいた。
前後左右だけではない。上も下も、ゆかりの周囲全てを目が囲んでいるのだ。
——ねえ、聞こえる?
今のゆかりは、“声”を認識することすら億劫に感じた。だが、他に誰もいないはずのこの世界で、自分以外の声がしたのだ。無視できるわけがなかった。
それに、思い出せそうで思い出せない、どこか懐かしい声のような気がした。
「(なんだろう……?)」
混沌とした光景に、不思議と恐怖は感じなかった。
常人では発狂しかねないというのに、ゆかりは安心感すら覚えていた。またここへ戻って来た、あるいは、
「(あなたは、あなたたちは、だれ……?)」
佇む目玉たちは、ゆかりに何かを訴えているようにも見える。
一つ一つその視線に籠められている意志は独立していて、以前、無数の妖怪達に見つめられたときとはまったく異なる感覚であった。怒り狂った感情を孕んだ視線もあれば、悲しんでいるもの、喜んでいるもの、怯えているもの、はたまた無関心なもの。
この混沌とした空間であれば、ゆかりは自分が“一人ぼっち”ではないと感じたのだろうか? 少なくともゆかりは、あらゆる感情全てが混ぜ合わさる様に心惹かれていた。
——私は貴方よ。ずっとずっと眠っていたの。
「(……?)」
なおも声は響く。そして親しげだった。まるでゆかりの問いに答えるように。
——そう、貴方は私よ。貴方が忘れてしまっているだけ。
そして、不可思議なことを述べた。
「(あれ?)」
ゆかりは疑問に思った。
途端に自分という存在の、“境界”が曖昧に感じたのである。
「(“わたし”ってなんなのだろう? わたしはいったい——?)」
しばらくすると周囲に並んでいた“目”の輪郭は薄まっていく。そして目が一つ一つ閉じていくにつれて、周囲はどんどん暗くなってしまう。
また、あの暗闇が自分を覆い尽くすのだ。
言いようのない恐怖がゆかりを襲った。もうこれ以上、一人ぼっちになるのは耐えられそうになかった。
「(まって。おいて、いかないで……)」
ゆかりは手を伸ばそうとしたが、伸ばす手がないことに気づいた。
追いかけようとするが、走る足もない。
「(どうして! おいていかないでよっ!!)」
どれだけ叫んでも、声にはならない。声すらも、奪われたというのか?
ゆかりがもがいている内にも次々に瞳が閉じていき、最後に一つが残るのみになった。
最後の一つ。
遠くで、巨大な目がこちらをじっと見つめている。
ゆかりはその目に見覚えがあった。それは、間違えようもないある人の眼差しであった。
「(ああ——)」
歌が、聞こえた。
その人がよく歌ってくれた子守歌だった。自分が眠るまで何度も歌ってくれた、聞くたびに安心してしまう彼女の歌。
「(————。きこえる……わたしは、このうたをしっている……)」
彼女の心が完全に壊れてしまうことはなかった。それは救いであったのと同時に、これから来る苦しみの幕開けとも言えた。
まさにこの時、彼女は後戻りのできない境界を乗り越えてしまったのだから。
——さあ、行きなさい。私が目を覚ますまで。少しだけ、力を貸してあげるから。
『——大丈夫。あなたは強いわ。あなたは賢い。あなたは優しい』
「っ!!」
心の奥から響いてきた母の声に、ゆかりは徐々に体が暖かくなってくるのを感じた。震えは治まり、弱気な心が少しずつ溶けていく。もういないはずの母の声は確かにゆかりの中から響いたのだ。
「(おかあさん——!)」
淀み切ったゆかりの目に光が灯る。
渾身の力を振り絞り、水たまりまで這って口をつけた。
「(だめっ、死んではだめっ! 振り返ってはだめなの! 生きなくちゃ——)」
水たまりの濁った水を少しずつ舐めるように口に含み、喉を潤す。
もうゆかりの目には恐れの色は映っていなかった。代わりに宿ったのは、
生への強い渇望であった。
******
あれから少しして体を起こせるようになったけれど、身体が妙に重く感じた。
ふらふらと立ち上がれば視線はいつもより高いし、歩くと歩幅が想像以上に大きくて、驚くあまり転んでしまった。
まるで、自分の身体じゃないみたいに思い通りに動かない。
何かがおかしい。私は自分の身体の確認のため、声を出そうと喉に手をやった。すると、
「あぅっ…………あ、あれ?」
記憶にある自分の声とはまったく違う。
どうやら声も変わってしまっているらしい。どこか大人びてしまったような気がするし、なんというか、お母さんの声に似ている。ふと、下を見ると濁った水たまりに自分の顔が映った。そしてこの時、初めて私は自分の姿が変わっていることに気づいた。
水たまりに映った私の姿は、すっかり成長してしまっていたのだ。
水が濁っているから分かりづらいが、手足がこんなにも長くなっている上に、身体も起伏に富み大分成長している。さらには髪の色までもが変わってしまっているのだ。こんな有様では、一周回って以前の自分の身体がどのようなものであったかさえ思い出せないくらいだった。
多くの疑問が湧いたが、それらは簡単に解消されるものではない。ひとまず私はおぼつかない足取りで、転げ落ちるように丘を下って、森の中に入った。食べるものも飲むものもあそこにはないが、きっと森の中になら何かあるだろう。
とはいえ、何とか森に入ったところまではいいものの、おそらく私はこの数日何も口にしていない。頭ではこのままではいけないと分かっているのに、空腹でだんだんぼんやりしてきてしまう。ここで焦ってはいけない。むやみやたらに動けば、必ず途中で力尽き倒れてしまうからだ。
そこで森に到着した私はひとまず木の幹に体を預け、少し休んで冷静になることにした。ひとまず次の目標としては食べ物の確保。そして暖をとれるような拠点を見つけることだろう。ただ、雨風をしのぐのと、暖をとるぐらいであるなら、まだあの廃屋を使うことはできそうだし、優先順位は低い。だから食べ物の確保が最重要だ。
大丈夫。私は今、やらなくちゃいけないことをちゃんと把握している。
すると再び、母の言葉が頭の中で響いた。
『——大丈夫。あなたは強いわ』
空腹で今にもどうにかなりそうだった思考が、一気に冴えてくる。そう、私は折れるわけにはいかない。私はきっと“引き返せない”。どうしてかは分からないけれど、そんな確信めいたものが私の中にはあった。
「(何かが、やって来る……?)」
呼吸を整え、しばらく目をつむって休んでいると何かが近づく気配がした。私は木陰に体を隠し、息をひそめる。地面に生える柔らかい草を踏みしめる音。この音から察するに、近づいてくる何かはそれ程大きくないだろう。
「(来た……!!)」
現れたのは、一匹の野兎だった。それは私に気づくことなく、ひょこひょこと無警戒に近づいてくる。
格好の獲物が目の前に現れ、飢えが最高潮まで達した私は本能に逆らえなかった。
——そうよ、殺して食えばいい。
素早く腕を伸ばし、兎を掴もうとした瞬間。私の腕は何かに飲み込まれ、離れたところにいた兎の首を掴んでいた。今更驚くこともなかった。
当然だ。だって私には“それ”ができるのだから。鳥が空を飛ぶのと同じように、魚が川の中を泳ぐのと同じように、私は当たり前に“これ”を操ることができる。
苦しそうにもがく兎を絞め殺す。そして兎を空間の狭間から引きずり出し、少しずつ抵抗しなくなってきたそれの、首に嚙みついた。私の歯はすんなりと兎の皮を突き破り、溢れ出てくる濃密で甘い血が喉を潤す。肉は柔らかく、けれど食べ応えがあって、飢えた私の食欲を満たしていく。
——貴方はあの日見た蜘蛛と同じ。
「(もう、こわくないからね……)」
——一緒に、なりましょう?
森の中の泉で再び喉を潤した後、しばらくしてようやくまともに体が動くようになった。まだこの身体に慣れているわけではないけれど、多少は思い通りに動くようになってきている。
それならば、次にやるべきなのは、あの家……廃屋に戻ることだろう。もとより身体を動かせるようになった時から、そうするつもりだったのだ。私は迷わず丘を登って、廃屋の中に戻った。
「ただいま。おかあさん……」
当然返事はなかった。そのくらいのことは分かっている。でもどうしても期待してしまうのだ。家に帰れば『お帰りなさい』と迎えられるのではないか、と。
食欲を満たして少しだけ立ち直っていた私を、再び深い深い喪失感が襲った。
私は母に依存していた。母がいなければ寂しくて、不安で死んでしまうくらいに弱くてちっぽけな存在だった。だから、だからこそ私はここにいてはいけない。母が最後に望んだように、私は一人で生きていけるようにならなくてはいけない。
とはいえ、母の亡骸をこのままにしてここを離れたくなかった。せめて、母の墓を自分の手で作り、きちんと埋葬してあげたかった。これは私にとって、けじめにするためにも、必要なことなのだ。
そう自分に言い聞かせ、私はひたすらに地面を掘った。
骨を埋めるための穴はある程度深くてはならないため、今の身体に完全に慣れているわけではない私にとって、それはかなり重労働だった。しかし、土がそれほど固くなかったことがせめてもの救いで、土まみれ、砂まみれになってもどうにか穴を掘れそうだった。
「——あれっ……?」
しばらく無心に手を動かしていると、土だらけの私の手の甲に、涙がこぼれ落ちた。急に、母がお祝いしてくれたときのような、懐かしい感覚が胸いっぱいに広がった。私はなんだか胸の奥がきゅっと苦しくなって、我慢していたものが再び溢れ出しそうになってしまった。
あれだけ絶望しても、もう戻れないと分かっていても、母と過ごしたあの日々は未だに変わらず、私にとっての宝物だったから。
「(そうか……そうか、わたしは……私達はきっと一つになったんだね)」
すっと胸に落ちるものがあった。ようやく私は何があったのかを少しだけ、理解できたような気がする。なおさらこんなところで死ねないな、と強く思った。
「……でも、今日ぐらいはいいよね。今日で最後だから……私、もう泣かないから」
今までありがとう、お母さん。
それからたくさん、たくさん泣いた。
土と涙で顔中ぐちゃぐちゃになったけれど、気にしなかった。だってここには私しかいないんだから。この世界で心を許せた人は、母ただ一人だった。でも母はもういない。いるのはきっと私の命を狙う、妖怪たちだけ。
降りかかった理不尽と、この身を押しつぶそうとする喪失感もみんな含めて好きなだけ泣いた私は、少しだけすっきりした。
母の墓は木の塚を地面にさしただけの粗末なものになってしまったが、許してほしい。なにせ今の体にまだ馴染んでいないので、上手く動かせなかったのだ。それに母ならきっと、『私はそんなに豪華なお墓はやぁねぇ』なんて言うに違いない。
母の姿をいとも容易く想像できてしまって、思わず私はくすりと笑ってしまった。
そうして時間をかけて母の墓を作り終え、私はここを離れるにあたって、二つ形見を貰っていくことにした。
一つ目は紅い紐でできた母の首飾り。ただ、首飾りとは言っても装飾など全くついていないので紐をほどいて髪を束ねるのに使おうと思う。“能力”を使って紐を分割し、髪を束ねてみるとしっくりきた。何の変哲もない紐だけれど、母が使っていたというだけで不思議と安心感が湧いてくる。それから余った分は首に結んだ。
そして、二つ目。母の名から一字を貰う。もう私はただの“ゆかり”ではいられないから。
これから私は——八雲紫と名乗ろう。
今日が私の生まれた日。
「行くわ。おかあさん」
一人でも生きてみせるから。そのために私は強くなるから。どうか見守っていて。
「(私、強くなってみせるね)」
母の墓の前で、夕焼けに染まった空を眺めながら私は誓った。
******
あれから気の遠くなるような歳月が流れ、私は何度も何度も向かってくる妖怪たちを殺した。皆私を見て言うのは同じ。
——“祝福されし子”、と。
その言葉が何を意味しているのかは分からない。ただ分かったのは、私をそう呼ぶ妖怪達が皆、私に救いを求めているという事実だけである。“救い”とはいったい何なのか、謎は深まるばかりだった。
そんな謎も解明される前に、私を“祝福されし子”と呼ぶ妖怪もここしばらくは遭遇しなくなった。
彼らが何者だったのかは分からず終いとなってしまったが、収穫が何もなかったわけじゃない。私があれから世界を歩き続け、分かったことを三つにまとめよう。
一つ目、私は固有の能力と結界術を行使できるということ。私の能力は物事の境界を曖昧にしたり、つなげたり、切り離したりすることができる。つまり、多少の制限はあるがそこに“境界”があるなら、私はそれを操作できるのだ。この力は強力で、特に空間に裂け目を入れられるのはありがたかった。おかげで奇襲は確実に決められるし、逆に奇襲に会うこともない。移動にも便利で、私はこの空間の裂け目のことをスキマと呼んでいる。
そして結界術。そんな術は母から教わっていなかったが、知らぬうちに使えるようになっていた。
二つ目、私は人間ではなくなり、妖怪となったという事実である。これは恐らく、私が過去に妖怪に襲われたとき、膨大な量の妖力が私の体内に取り込まれてしまったからだと考えられる。そして母が消えたあのとき、同時に彼女の魂を吸収したようだ。これによって母の記憶の断片が時折、頭に流れ込んでくるのだと私は解釈している。つまり、厳密にいえば“私”はゆかりの人格を保ったまま、母の魂を取り込んだ存在のようだ。母の魂を吸収したことにより、母の知識と経験を引き継ぎ結界術が使えるようになったのだと思う。結界術は境界を操る能力が制御できない頃に大変重宝した。これ以上は、割愛する。
三つ目。これが一番気になっているのだが、母という人物についてだ。私は旅の中で多くの人間を見ることができたが、明らかに私の知るそれに比べて、技術や知識が遅れていた。というより、そもそも文明が違うような気すらする。私が読んでいたような書物は一切見受けられなかった上に、言語もまったく異なっていたのだ。これはどの地域に行っても同じ事だった。
母はこの世界の住人ではなかったのではないか、というのが今のところの仮説である。かなり突拍子もない仮説だが、思えば母の行動は不可解な部分が多い。だから可能性として捨てきれなかった。彼女の記憶はまだ完全に把握できていないため、確信は得られないがいつか分かるだろう。
こうして、私は長い時を自分が何者であるかを知るべく費やした。
当初の目標であった強さを得るために、そしてこの世界を一人で生き抜いていくために。
しかし、私はこの期間で自分の生き方に疑問を覚えるようにもなってしまった。
人としてではなく、妖怪として生きていかなければならないことに、気づいてしまったからである。
「はあ……」
スキマの中を漂いながら、溜息をつく。
ここ最近、溜息の回数が多くなった。何をするにもやる気が起きず、雲の上を漂いながら一日を無為に過ごしたこともある。
自らの生き方に対する葛藤は、正面から向き合おうとしていなかっただけで、ずっと前から薄々感じていたことでもあった。しかし逃げる私に矛盾を突きつける、ある妖怪との出会いがきっかけとなって私は立ち止まってしまっていた。
きっかけ。それは突然の、ある花妖怪による襲撃だった。正直不意打ちもいいところで、私が咲いていた花を愛でていただけなのに、空気を切り裂く勢いで日傘が飛んできたのだ。まあ、ここまでは別に何ともなかった。襲われるのはいつものことで、もう日課とも言えるようなものだったから。
その妖怪はなかなか筋がよく、花妖怪という割には力を持っていた。しかし私の命を奪うには遠く及ばない。殺すのもどうかと思い適当に相手をしてあげていたところ、つらそうに緑色の髪をかき上げながら彼女は尋ねた。
「貴方は、何のために……強く、なったの?」
どきりとしてしまった。息も絶え絶えの、花妖怪の言葉に私は少なからず動揺してしまった。
この時点で、ある意味私は負けていたのかもしれない。
長い長い時を旅してきた私だが、ずっと孤独だった。かつて人間であったがゆえに、私は妖怪でありながら人間に対して害意を持つことなく、むしろ友好的でありたいと思っていた。
妖怪と人は、きっかけさえあれば分かり合えるものだと、そう思っていたのだ。
しかし過去に人間の里に近づこうとしたとき、
『近寄るんじゃねえ!!!』
『妖怪め、貴様を里に入れるわけがないだろうっ!! 立ち去るがいい!!』
その反応はひどいものだった。正体がばれるとすぐさま刃を向けられた。危うく退治されかけたこともあった。
母と二人で暮らしていたせいか、私はこの世界の常識をよく知らない。初めは訳も分からず困惑したが、小さな集落で見知らぬよそ者を中に入れるなんてことは普通ないのだ。まして私は人間の天敵たる妖怪である。後々になって分かったことだが、当時の人間の反応としては当然と言えるだろう。
どうやら、私という存在そのものが得体の知れなさ、ある種の不快感を人間に与えているらしい。能力で人間に成りすましても、どこかで怪しまれ、結局人間達に近づくことはできなかった。
そして驚くべきことに、普通の妖怪達も私に近づこうとはしてこなかった。
人間を見かけるようになってから、妖怪たちも質が変わったように思われる。例えば、“在り方”といったところか。
人の“畏れ”が妖怪達の存在理由となっているのだ。
ゆえに人間も妖怪も私を恐れ、近づこうとしない。
正直に言ってしまえば、寂しくはある。私の知るモノが全て消え去ってしまったこの世界で、必死になって生きるために力を追い求め、強くなったというのに、これではあんまりじゃないかと思った。あの日の誓いを忘れることなんてなかったけれども、誰かが恋しくなるほどには長かったのだ。一人はやはり、寂しい。誰かと話してみたい。誰かと触れ合ってみたい。
そう私が思ってしまったのは必然のことだったのだろう。
「……さあ、何のためでしょうね?」
少し間を置いた私の返答に、花妖怪は心底不思議そうな顔をした。
「——その力で、貴方は何をなすというの?」
「……」
花妖怪に出会う少し前のことだ。
人の住む里の近くで、私は妖怪に襲われている幼い少女を見かけた。息を切らせながら妖怪に追われている姿が、昔の自分と重なって放っておけず、私は彼女を助けた。
恐ろしい思いをしたためか少女は気を失ってしまったので、腕に抱えてその場を離れた。このとき、彼女の体はとても軽くてちゃんと食べているのか不安になるほどであった。
ここで、気づくべきであったのかもしれない。
少女を親元に返そうと人間の里の入り口まで行くと、人間の大人たちに武器を向けられた。そこで私は極力相手を刺激しないように近づき、里の外で少女を見つけたので預かってもらいたいと交渉をした。
例え私がどれだけ忌み嫌われていたとしても、この状況なら、話せば分かってくれると思っていた。
しかし私の予想に反して大人たちは何の躊躇もなく、少女ごと、私を槍で突き刺した。
少女は一瞬目を見開いてびくりと体を震わせると、私の胸の中で冷たくなっていった。気を失ったまま、彼女の意識が再び戻ることはなかった。
『どう、して……??』
『そ、その娘もお前の仲間なのであろう!?』
『この里には近寄らせんぞっ! 妖怪めっ!』
『その薄汚い骸を持ってここから消え去れ!!」
少女は私が救わなくても、妖怪によって殺されていただろう。しかし、この少女が例え里の中で盗みを働くことで生きていたとしても、里の皆から忌み嫌われていたとしても。
それでもこれは。
これはあんまりではないだろうか。彼女は同じ人間なのに、殺す必要などなかったではないか。私は必死に訴えた。せめて、彼女の身体だけでも受け取ってくれはしないか、彼女は私と関係ない。どうかここで弔ってやってくれないかと嘆願した。だが、受け入れられなかった。
気づけば私を囲む人間達。彼らは手にもつ石を、私に投げつけた。私を侮辱するのはまだいい。私は、人間が忌むべき妖怪、それもとびきり恐ろしく感じるだろう化け物だから。しかし私の腕の中で眠る、彼女まで侮辱することは許せなかった。
だって、同じ、人間なのでしょう?
そのとき、私の腕の中の少女めがけて石が投げつけられた。
『————!!』
どうしても、許せなかった。
その日、私は初めて人間を殺した。
あれから、私の憂いは晴れない。いつまでも、いつまでもあの少女が冷たくなっていくときの感覚が忘れられない。
初めて人間を殺したときの、手から滴り落ちた血の感触、そして臭いが忘れられない。
——強くなると誓いながら、どうして他者を求めるの?
花妖怪の言葉に私の強くなるという決意は揺らいだ。同時に頭の中で響く声は、矛盾を抱えた私を糾弾した。まったくもって声の言う通り。そう、強くなって、どうする? 強くなった後、何があるというのだ?
——一人で生きていけるように強くあろうとしたのではなかったの?
なのに、どうして。どうして私はあの少女を忘れられない? あの子が死んで腕の中で冷たくなっていくあの感覚を。そして人間を殺したときの、光景を。
「貴方は、強い。でも……貴方からは何も感じないわ……」
花妖怪の最後の一言がとどめだった。
だから私は反射的に花妖怪の意識を奪った。これ以上、耳を傾けていたら自分がおかしくなってしまうと思ってしまったから。しかし、もう手遅れだった。
生まれたひびからは、ゆっくりと泥水が流れ込んできていたのだ。
私は花妖怪を放って、逃げるようにその場を立ち去った。
スキマの中で膝を抱えてうずくまり、彼女の言葉を反芻する。
『貴方は、何のために……強く、なったの?』
『貴方は、強い。でも……貴方からは何も感じないわ……』
耳を塞いだところで意味がない。彼女の言葉は何度も何度も、繰り返し私に矛盾を突きつけてくる。
一人で生きていけるよう強くなりたいと誓いながら、他者とのつながりを求めている私。この先ずっと一人で生きていくことを恐れているのだ。力ばかりが強くなっているだけで、根本は“あの日”から何にも変わっていない。母がいなくなって泣いてばかりだった、あの頃と。
「(私は何のために強くなろうとしたんだろう。この力はなぜ私を選んだんだろう?)」
髪を束ねている紅い紐を撫でてみる。昔聞こえた母の声はもう、聞こえなかった。
「(……あのときは生きるのに精一杯だった。でも今は違う……どんな敵とだって戦えるし、策に嵌められるなら、逆にやり返すくらいの自信もあるわ)」
私は強くなった。生きていくだけの力を手に入れた。それでも何かが足りない。
今の私は空っぽだ。
「(私は一体、何をしたいんだろう……)」
そんなこと考えながら、悶々とした日々を過ごした。
******
気づけばもう、桜の季節。
何度繰り返しても忘れもしない、夢から醒めたあの日の季節。
その日、私はたまたま気まぐれで人の気配がない大きな屋敷の中に入った。本当に、気まぐれだったのだ。境界操作の力をある程度まで制御できるようになってからは、人間に気づかれずに忍び込むことなどたやすいことだったが、今まであえてすることもなかった。
しかし。
「綺麗な桜。随分と大きな屋敷だけれど、誰もいないのかしら……」
庭に咲いていた桜。私は目の前の桜に見惚れてしまった。
その桜の発する妖気に馴染みがあったからというべきか。
だからこそ、彼女が近づくのに気づけなかったのかもしれない。ただ、もし私が気配を察知して姿を消していたならば、彼女に出会えなかったのではないかと今では思うのだ。
後悔なんてしていない。したら彼女に失礼だ。
たとえ、あの結末を迎えるのだと分かっていても。
それだけは揺るがない。
「ねえ、あなた誰?」
振り向けば、そこには桜色の着物を着た美しい少女が立っていた。その微笑みはとても可憐で優雅なのに——、
人は誰しも死に焦がれている。生を欲するのと同じように。
しかし気づけない。気づこうとしないから。
咲いて、そして散った。
墨染の桜。
桜の章 始