それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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人の章:雨音来たれども

【長月 二十九日 深夜】

 

 騒がしいほどの虫の鳴き声が響く博麗神社。頼りないロウソクの光で照らすことができる範囲など、たかが知れており、部屋は少し距離を置くと顔をかろうじて認識できるかというほどに薄暗い。

 そして部屋が、空が暗いのには理由があった。

 

 この国に久方ぶりの()()()()()()()

 

 しとしとと地面を濡らす雨。雨が降ったことを歓喜するように木々は大きく葉を広げ、全身で受け止めながらみずみずしい音を立てている。そして、境内には大きな水たまりが幾つもできていた。

 乾いた大地に、潤いがやってきた。

 

「おい、急に呼び出したりして、一体どういうことだ……?」

 

 畳の上で正座したまま動かない二代目博麗の巫女の背後から、殺気混じりの幼い声がする。普段の天真爛漫な姿の彼女を知っている者からすれば、驚くほどにその声は冷めきっていた。

 

「説明しろ。雨乞いが成功したっていうのに、なんでここにアイツがいない?」

 

 彼女は伊吹萃香。妖怪の山の四天王の一角にして、博麗の巫女の友。

 萃香は二代目博麗の巫女の急な知らせを受け、京から飛んで帰ってきていた。

 細く艶やかな栗色の髪が今は雨に濡れて乱れ、大きな目の下には隈までつくっているところから、彼女がどれだけ憔悴しきっているのかが分かる。

 

「……なんか言えよ」

 

 萃香の問いに二代目は答えない。振り返る素振りすら見せず、正座したまま微塵も動かなかった。

 

「おい——」

 

 なんの反応も見せない二代目に萃香はとうとうしびれを切らし、

 

「アイツが帰ってこないって……どういうことだ……? 聞いているのかっ? 私は今、お前に聞いているんだよっ!!」

 

 彼女の肩を引っ張り、自分の方へ向き直らせると、絶句した。

 

「——っ」

 

 二代目が、涙を流していた。

 初めて会ったときから人形のように表情を変えることなく、常に冷たい瞳で己を見つめていたあの二代目が、である。

 彼女は下唇を噛み締め、必死に嗚咽を抑え、涙をこらえようとしながら、震える手で萃香によれた白い紙を渡す。

 

 それは幾つものしみができていて、湿っていた。

 そして、軽かった。

 当然である。

 包みを開けば、入っていたのは一束の髪の毛だけなのだから。

 

 この黒髪は、誰のものなのか。そのような疑問はすぐに消える。

 かすかに感じる甘い匂い。そして何度も触れるうちに、何時かおぼえた絹のような手触り。

 問うまでもなく、萃香は察してしまった。

 単なる自分の勘違いであって欲しかった。だが、己の手に握られた数束の髪の毛は萃香に現実を突きつける。

 

「これは、いつ渡された?」

「……、今日の午後」

「これしか、返ってこなかったのか?」

「いいや。確認はできていないが、御体は今、里長の屋敷に」

「そうか……」

 

 萃香は大きく息を吸った。彼女なりに冷静になろうとしたのだ。

 だが、意味がなかった。あるわけがなかった。

 包みを握る萃香の手には静かに力が籠っていく。同時に、血の気が失せていった。

 

「確認してくる」

「……お前が行けば騒ぎになるぞ」

「——頭にドでかい風穴を開けられたくなきゃ、止めてくれるな」

 

 萃香の怒気のこもった声に、部屋の空気が軋み、ロウソクの火が風でなびく。いつの間にか、周囲から生き物の気配が消えていた。萃香の気に当てられて、何処かに息を潜めているのだろう。

 練り上げられた闘気は萃香の身体からゆらゆらと炎のように燃え上がっていた。

 しんと静まった部屋で、二代目は立ち上がる。

 

「……卑怯だ、お前は——」

 

 萃香の肩を掴む。

 血の気の失せた白く細い手だった。しかし萃香はその場から動けなかった。

 

「今だから、正直に話そう」

 

 それは、これまで語られることのなかった彼女の独白であったから。

 

「私は、お前が羨ましかった……。理不尽を打ち破ることができて、自分の思ったように生きていけるお前のことが、昔から大嫌いだったよ」

 

 ぎりぎりと、腕に血管が浮き出るほどに籠められた力が強まっていった。

 

「……私だって、巫女様の元へ行けるものなら行きたい。今だって信じられないんだ。こんな紙切れ一つ渡されただけで、信じられるとも? だというのに、私が今ここにいる理由くらい、お前ならば分かるはずだ」

 

 肩から手を離す。

 そして膝から崩れ落ち、顔を手で覆う二代目。

 

「私は、今やこの世界でただ一人の博麗。二代目“博麗の巫女”なんだよ」

 

 彼女の瞳は揺れ、平時のような毅然とした姿は最早、面影すら残っていない。自身を“博麗の巫女”だと彼女は述べたが、そこにいるのは“二代目博麗の巫女”ではなく、ただの齢十六の少女に過ぎなかった。

 

「だから私は、お前を止めなくてはならない」

 

 しかし、事実として彼女はただの“少女”と異なっていた。彼女は、その身に人間を越えた力、神通力を宿していたのだ。

 

「人里の守り手として、鬼であるお前を人里の中にいれるわけにはいかない。そして、お前がこれからやろうとしていることを、止めなくてはならないのだ」

 

 いつの間にか、二代目の両手には退魔の札が握られていた。

 反応すらさせない。ゆえに避けることなど不可能。

 瞬間、萃香の身体が九の字に曲がり、遥か後方へ吹き飛んだ。

 

 神社の境内へ投げ出された萃香は空中で態勢を立て直し、右手をついて着地する。ぬかるんだ地面が勢いを殺し、辛うじて後方の大木をへし折るには至らなかった。萃香は口元の血を、左手で拭った。

 人間の身体でいうところ肝臓の辺りにねじ込まれた一撃は、鬼である萃香の身体を穿ち、腹部を中心に大きな裂傷を与えた。驚異的な再生能力をもつため、すぐさま傷跡は消えていくが身体の臓器に与えられた衝撃は後からじわじわと萃香の臓器を蝕む。

 

「ゴホッ……」

 

 血を吐きながら雨で濡れた萃香はゆらりと立ち上がった。

 口元に付着した血を拭いながらも、萃香の視線は真っ直ぐ二代目博麗の巫女へと向かっていた。

 

「そうか……、これがお前さんの答えか」

 

 彼女は、二代目の一撃を敢えてくらった。彼女が取る行動は予期していたものであったからである。

 もとより、萃香と二代目は仲が悪かった。間に初代がいたからこそ二人は対立しつつも、命の奪い合いにまでは発展しなかった。だが、初代のいない今、彼女たちの間に立つ者はいない。

 となれば、これから起きる未来も分かったようなもの。二人が衝突することは明白であった。

 

「アンタ……元々、この世の全てが憎かった質だろう? その目は、そういう奴等がする目だ」

 

 言葉を皮切りに、二代目の眼光が紅く光る。今の二代目はおよそ人間がしてはならないような形相を浮かべており、例えるならば、鬼人のそれとでも言うべきか。

 

「……侍どものことを、大層嫌っていると見た。それなのに、どうして——」

 

 萃香は続く言葉を発することができなかった。次の瞬間、間合いを詰めた二代目が萃香の顔面に膝を入れていたのだ。

 が、萃香は体勢を崩さない。慣性などまるで無視したかのような一撃に怯む様子すら見せず、二代目の胸倉を掴んだ。

 そして余裕たっぷりに笑う萃香。

 

「ほうら、図星だ。お前はそのご自慢の鉄仮面で隠していたつもりだろうが、無駄なんだよっ!!」

「かは」

 

 地面にたたきつけられ血を吐く二代目。この時点で形勢は完全に逆転した。

 初撃を与えたという点では二代目が有利であるかのようにも見えた。だがそれは否。萃香が手を抜いていたにすぎないのだ。

 

「おら、どうした? こんなもんか? いつものお前なら、私の腕の一本や二本、吹っ飛ばすのだってわけないだろう?」

「……」

 

 二代目の唇が僅かに動く。

 

「っ!?」

 

 見逃してしまうだろうその行為に、萃香は紙一重で気づいた。すぐさま手を離し後方に飛ぶと、

 

 ——ずるり。

 

 萃香が先程までいた位置に、空間の亀裂が生じた。あの亀裂に捕まったら最後、問答無用で真っ二つにされてしまっていたに違いない。

 

「(はっ、いつぞや紫がやってきたのと同じやつか……、とっ!?)」

 

 息をつかせる間もなく足元が爆発する。見れば二代目の手には起爆の印が記された札が無数握られていた。

 それだけではない。

 萃香は、自分の周囲を無数の式紙が囲んでいることに気づいている。はじめから、この神社に己が来たときから二代目の方もこうなることを予期していたのだ。

 

「はんっ、お互い様ってやつか。だが舐められたもんだ。私を止めるにゃ、これだけじゃ不十分。本気ならあの剣士か、天狗のとこの頭か、紫を呼ぶんだったね」

「何を——」

 

 萃香の身体が霧となる。

 二代目は背筋に悪寒を覚えた。だが、もう遅い。

 

「お前は、まだまだ半人前だ。“私ら”を相手にするにはちょいと荷が重い」

 

 気づけば二代目は首を締め上げられていた。

 自分よりも背の低い小鬼の片腕に、なす術もなく締め上げられ、挙句に死なぬよう加減すらされている。

 実力差は明白であった。

 

「ぅっく、ぁぁ゛あ゛あ゛あ゛っ」

「吠えてろ、今のお前はただの獣さ。好きなだけ吠えればいい」

「はなせえええええぇ゛ぇ゛、い゛ぶぎぃぃぃィィっ——!!」

 

 周囲に展開していた無数の式が二代目の命令によって萃香に群がり、彼女の体を切り刻もうとする。しかし強靭な肉体を前にして傷一つ付けることができなかった。むしろ萃香は、甘んじて二代目の攻撃を全身で受け止めていた。

 まるで、彼女の思い全てをその身で受け止めようとしているかのように。

 

 だがしばらくすると、二代目の目から力が失せていった。

 式による猛攻も、萃香の拘束に対する抵抗も弱まり、身体から力が抜けていく。萃香が、『密と疎を操る程度の能力』によって二代目の身体から霊力を雲散させ、空にしてしまったのだ。

 この時点で勝敗は決してしまった。

 

「流石のお前も、もう動けないだろう。お前じゃ私に勝てないんだよ。相性とかじゃなく、実力でな」

「ぐ、ぅぅっ」

 

 宙に浮いていた二代目は地面に投げ飛ばされ、泥だらけになりながら受け身を取ることすらできずに転がった。大の字になって仰向けになった二代目の表情は、神社の境内の土まみれになった彼女の髪で窺い知ることはできない。

 ただし、萃香はすでに察していた。

 否、共感に近い。自分がもしも彼女の立場にあれば、きっと同じことをしていただろうと。

 萃香は二代目を見下ろし、言った。

 

「後は射命丸か、紫を頼れ。奴等なら上手くやるだろうさ。悪いようにはされないだろう」

「……初代様は——」

 

 立ち去ろうとした萃香の背中に、二代目は言葉をかけた。

 

「巫女様は……、お前がこれからするだろう行いを望んでいなかった」

「そうか……」

「だが、私は……本当は……お前を止めたくなかった」

「……、そうか」

 

 半ば独白に近かった。

 はじめは抑揚のない何時もの調子であったが、次第に熱がこもっていった。

 

「教えてくれ……私は、どうすればよかったのだ……? 侍たちと共に、儀式に向かうのを力づくでも止めればよかったのか? それとも、雨乞いをすると御決意なされたあの日に、私は——」

「——もういい。私が悪かった。少し休め」

「わたしはっ!! あの侍たちを殺すべきだったというのかっ!? この思いに身を任せてっ!! この国の領主を敵に回してっ!! 全てを相手取ってなお、里を守ればよかったのかっ!?」

 

 二代目の燃えるような目つき。

 対して萃香の目は、穏やかであった。

 

「——もう、いいんだ……。お前が手を汚すことなんか、ないんだよ。ここからは、妖怪ある私の出番さ。汚れ役は、私が買う」

「だから、巫女様はそれを望んでいないっ!! お前は自分のやることを、本当に理解しているのかっ!?」

「ああ、そうだな……私は、アイツとの約束を破っちまう。これから私は、一番ついちゃいけない嘘をつくことになっちまうんだ。それでもな、たとえ鬼として、その行いが失格であったとしても、通さなきゃいけない筋っていうものがある。だから……止めてくれるな」

「っ——」

 

 萃香は無理やりに二代目の意識を刈り取る。これ以上はさすがに憐れだと思ったのであろうか。

 そのまましばらく萃香は二代目をじっと見つめていたが、やがて空を仰ぎ、その場を立ち去る。

 

 一方、その場に残された二代目の瞼は閉じられていた。

 雨はただ淡々と、彼女の顔に打ち付ける。

 

 ただ、雨に紛れて。

 

 枯れたはずの涙が彼女(二代目)の頬を伝い、地面を濡らした。

 

 

 

 ******

 

 

 

「——そう」

 

 彼らは護衛のはずであった。しかし今、彼らは次々に抜刀し、切っ先を守る対象である博麗に向けている。このような狼藉、冗談などではすまされない。つまり、はじめから本来の目的が別にあったということである。

 鬱蒼とした森を抜け、背の低いススキが生えた視界の良い草原で、博麗は目を細める。虫の鳴き声が今だけは煩わしく感じた。

 

「この私を、消しに来たのね」

 

【長月 二十八日 雨乞い、二十六日目】

 

 侍たちの正体、それは全員が対神通力保持者で構成された部隊。領主が放った刺客であった。

 神通力をもつ者達は国の領主から大変重宝されるが、過ぎた力を恐れるあまり排除されることも多い。御しやすい者であれば利用され、手に余れば排除される。それが神通力をもつ者の宿命である。

 

 無論、博麗の巫女も例外ではない。

 

 博麗の巫女は、国の領主が民衆からの指示を得るために作られた役職なのだ。

 元来、幾つもの人里を保有する国の領主は、民衆から不満を買いやすい。武力をもってしてその不満を押さえつけることは容易いが、いずれ不満は限界を迎え、最悪、国の崩壊へと繋がってしまう。

 そこで生み出されたのが国の領主が“認める”神通力の保持者である。認可された範囲で力を行使するのなら国にとって、領主にとって不利益とはなり得ない。だからこそ領主は博麗の巫女の存在を許した。

 

「貴様は、確かに幾つもの人里を救った。そして何より得難い民衆からの信頼を勝ち取った。貴様の成した功績は認めよう。ただし、これまで貴様が妖怪たちに情けをかけていたことが調査により、先日明らかとなった。そして、あろうことか奴らから援助まで受けていたことが分かった。これは領主に対する許されざる叛逆である」

「……」

「そう睨むな。我々があの人里を潰すことはない。だが、もはや戦は止められぬ。人里は、妖怪たちの手によって滅びるのだ」

 

 “国”を統べる者達は人々の不満の捌け口を妖怪に向けさせ、自分達に敵意が向かないようにと画策していた。しかし、彼らの想像以上に不満は膨らみ、とうとう戦にまで発展することとなってしまったのである。そこで、領主は考え付いたのであろう。

 これは絶好の口減らしの機会であると。

 

 まともに戦をすれば妖怪達に打ち負けるのは確実。出兵すること自体を渋っている人里も多い。だが、人里の守護者たる博麗の巫女が、妖怪に殺されたとなればどうなるであろうか? 

 

 結果、妖怪への敵意は爆発し、多くの人里が戦へと参加する。

 彼女の仇を打とうと総力を挙げれば、その数は今の倍にものぼると見込まれ、絶望的な戦力差を覆すことも可能である。

 

 つまり、博麗を叛逆者として始末することは、あくまで建前。確かに彼らは“里を潰さない”。だが、儀式の最中に襲われたように見せかければ、民衆の妖怪への憎悪を掻き立てることができる。

 博麗を慕っていた者達を妖怪達との無謀な戦にけしかけ、口減らしを行うことこそが本当の目的であろう。

 

 どれだけ被害を受けようとも、運よく人里が勝てば、資源豊富な山々をはじめとして領主は支配圏を広げることができる。そして、仮に負けようと飢饉による食糧難の中、口減らしができる。もともとは雨が降らず土地は荒れ、さらには病と飢饉によって疲弊した民。

 おそらくは停戦した隣国の領主と既に話はついているのであろう。二代目から、最近隣国から人の流れがあるとの報告を受けている。

 

「(みんな——)」

 

 数日前に戦場へと向かって行った男たちの顔が浮かんだ。彼らはこれから、無謀な戦で使い捨てられてしまうのだ。

 博麗の握り拳に力が籠った。

 

 一体六という絶望的な状況でありながら、不気味なほどに落ち着いた様子を見せる博麗の巫女。彼女の大きな瞳は真っ直ぐに侍達へと向けられ、先頭に立つ侍には彼女が人間ではない化け物のようにも見えた。

 

「素直に首を差し出してくれるならばこれ以上楽な仕事はないのだが——」

「自分たちの領土を守るっていうのがさ、大事な仕事なのはわかるよ。そのために人の数を減らそうというのもね。精々私を殺して、戦の大義を得ようとでも考えているんでしょう?」

「……ほう、人里の希望であられる博麗の巫女殿は存外、現実主義者のようだ」

「でもね、打てる手立ては他にもあったはず。そもそも、はじめから他国と戦をする必要なんてなかった。戦でまた人がたくさん亡くなったら、今以上に田畑が荒れるでしょう……以前の領主様ならもうとっくのとうにやめていた。今の領主様は何を考えているの? ねぇ、本当の狙いは何?」

「……」

 

 侍は答えない。ある意味それこそが答えであった。

 

「これから死ぬものに語ることなかろう?」

 

 一人の侍が突如として、右脇構えのまま疾走し、彼女へ斬りかかった。当然とも言えるが、博麗の注意はその侍へと向けられる。

 独断先行した侍の行動を咎めることもなく、他の侍たちもまた、博麗を殺すべく速やかに行動に移す。

 流れるような連携だった。踏み出す一歩目は、ほぼ同時。

 

「(馬鹿め。こちらの時間稼ぎにまんまと引っかかりおったわ。所詮は過ぎた力を持った、ただの小娘か——)」

 

 博麗に向かって単騎で切り掛かりに行った侍は思う。

 先ほどの会話は仲間が博麗の後方に爆破の術式を設置するための時間稼ぎであったのだ。自分が真正面から突貫していったのも、博麗に自分が単独行動に移ったと思わせるためのブラフ。

 なにも正面から博麗を仕留めることなどない。最小限の被害で済ませるのなら、まともな戦闘は避けねばならない。

 

「くっ」

 

 咄嗟に印を結びながら博麗はつま先に力を込め、距離を取ろうと後方へ下がる。予備動作なしでかなりの間合いを離すあたり、反射神経は人間のそれを軽く凌駕していた。

 だが、それは博麗にとって仇となった。視界の隅、自らの足元で発光する複数の術式。博麗が刺客たちの意図に気づいた時には既に遅かった。

 

「(爆破の術式!? しまっ——)」

 

 即座に防御の結界を張る初代。

 

「づぅっ!?」

 

 しかし、そう簡単に防ぐことができるような代物ではなく、左腕に酷い火傷を負うにいたった。

 さらには爆発と同時に飛散した鉄の破片が頰と肩を掠め、出血までしている。刺客からすれば奇襲を失敗したことになるが、負傷させた時点で大きく有利な立場に立てる。形勢は明らかに初代が不利であった。

 

「はぁ、はぁ……。っく、本当に問答無用なんだね」

 

 これでは回復術をかける暇もない。

 博麗に対応を指せる暇を与えず、仕留めきれなかったとわかるや否や、侍たちは巧みな連携によって博麗を包囲し、鋭い踏み込みと同時に間合いを詰め、一刀のもとに斬り払おうとした。

 

 先程まで博麗と会話をしていた老齢の侍は、博麗の正面に立った。

 しかし自らの刃が博麗の到達しようとしたそのとき、不意に彼は違和感を覚えた。長く戦いに身を投じてきた彼にとって、その違和感は何よりも尊ぶべきものであった。

 

「!? 各自散開っ!」

 

 すぐさま彼は散開を指示した。その直感は正しい。博麗の体から眩い閃光が放たれようとしたのだ。周囲に光を放つ粒子が見えたと思ったら、それは斬撃を受け止め、あっという間に膨張を始めている。報告されていた博麗の能力とは全く異なる様に、彼は舌を巻いた。

 

「(くそっ、役人どもめ。いい加減な仕事をしおって……)」

 

 博麗の能力は未知の部分が多く、油断ならない。それは前から分かっていたが、博麗の能力を把握するために役人をわざわざ人里まで送ったというのに得られた情報はごくわずか。可能な限りの対策はとったつもりであるものの、完全とは言い切れない。

 結局侍たちは散開するには間に合わず、十分な間合いを取れなかった。

 

「くるぞっ!」

 

 大地を震わす轟音。

 光が発散した。

 それと同時に体にかかる斥力によって、足を地につけて踏みしめているのにもかかわらず体ごと持っていかれそうになる。これはあくまで殺傷を目的とした技ではない。自分たちの足止めであると侍たちはすぐに気づいた。

 

「(呼吸を、連携を乱された!?)」

「(早く体勢を立て直さねば、逃げられる! くそ、これが狙いかっ!)」

 

 しかし博麗も手負い。傷を庇おうとして体の各部位に余計に力が入り、重心が崩れ、とても万全な状態であるようには見えない。

 現に彼女から発生した斥力はごく短時間であった。

 

「あぁもうっ、陰陽玉を持ってくるんだったわ!!」

 

 まだ動く右腕で印を素早く結び、地面を軽く踏む。ぼんやりと博麗の身体が光を帯びると、

 

「なっ!?」

「地面がっ!!」

 

 彼女を中心に地盤が沈下していった。そのまま恐るべき速さで侍たちを含んだあたり周囲一帯の地面が沈下し、閉鎖された空間が出来上がる。

 先程の斥力を生じさせた術によって地盤を緩め、陥没させたのだ。つい先ほどの術は、博麗が即座に考え出した布石のうちの一つであった。

 

「(わざわざ逃げ道を断っただと? いや、奴は空を飛べる。我々をこの大穴に取り残して足止めをしようという魂胆か。だが、もしもそうであるならば詰めが甘い)」

 

 地面が陥没し、円状の大きな窪みの中で戦闘するとなれば、逃げ道は自ずと限られてくる。飛ぶことができる博麗からすると、飛べぬ侍たちを窪みの中に取り残して足止めできるだろうが必ずしも良い策とは言えない。

 確かに自分たちは博麗のように空を自在に飛ぶことはできないが、だからと言って対抗策がないわけでもないのだ。もともと博麗を殺すために集められた部隊。彼らは皆、対空用の術を持っている。

 そう簡単には逃さないし、むしろ空間が狭められたことは好都合だった。

 

「各自、神通力はまだ使うな。いいな?」

「応っ!!」

 

 短く指示を出す老齢の侍。

 六人のうち四人が二人組を作って両面から博麗を挟み撃ちにすると、残った二人は得物を弓に持ち替え、素早く矢をつがえた。

 博麗に飛ぶ余裕を失わせ、かつ確実包囲して攻め切る。たとえ先ほどのような妙な力を使ってきたとしても、十分に間合いを取った二人が力を使い果たした博麗を弓で射るのだ。初撃で仕留めきれなかったときから、彼らは慢心を排除している。

 

「ふんっ」

 

 侍たちは足元に纏わせた霊力によって爆発的な瞬発力を生み出し、瞬く間に風を切り裂き、間合いを詰めた。

 四人の侍が振り下ろした刀は博麗が施した結界に阻まれる。しかし、あっけなく結界にひびが入った。それは博麗にとっては驚愕すべき事実であった。

 瞬間的には最高硬度をもつ結界であったはずなのだ。

 

「(太刀に霊力を纏わせてる……ま、まずいっ!?)」

 

 結界が破壊された。

 息をつかせる暇を与えず、待っていたと言わんばかりに博麗に向かって霊力を纏った矢が飛来する。矢を回避しようにも、周囲の侍が再び刀を振り下ろそうとしているため、簡単に斬殺されてしまうだろう。

 こうなれば腹を括るほかなかった。

 全身に意識を巡らせ、綱の上を渡るかのように繊細に、かつ大胆に体を使う。

 

「しっ!! あ゛ぁぁっ!!」

 

 人間離れした反射神経で侍たちの一太刀を回避していく博麗の巫女。しかしそれでもすべてを避けることかなわず、左肩に二本の矢を受け背中を斬られた。

 ただし、カウンターで正面に立っていた一人の侍の鳩尾に掌底をめり込ませ、そのまま吹き飛ばすと左足を浮かせるや踵で背後の侍の顎を打ち、前方へと駆け抜け飛翔した。

 

 命拾いしただけで儲けもの。戦闘の経験が豊富でなくとも普段から妖怪相手に修羅場をくぐってきただけはあった。侍たちの内二名が戦闘不能となっている中、残った四名だけでは逃げに徹した博麗を追うことはかなわない。

 侍たちからすれば、傷を負わせたものの包囲を突破された時点で致命的な失態となったのだから。

 

「逃がすか!」

 

 当然、逃すまいと次々に矢をつがえて放つが、今度は結界を破るには至らない。ここぞというときのために、博麗はずっと防御結界の詠唱をしていたのだ。

 侍たちが彼女を包囲して来たときから逃走だけを目的として。

 

 ゆえに空を飛べない侍たちは陥没した地面から土の壁をよじ登らざるを得なくなる。博麗に絶好の逃走の機会を与えてしまった。

 

「くそっ」

「落ち着け。奴はそう遠くへは行けぬ。刀には蛇の毒を、矢には毒草の汁を塗ってある。いくら奴の体力が無尽蔵であろうと、人間であることに変わりはない。いずれ力尽きるだろう」

「それでは、わざと泳がせたということですな」

「ああ、被害は少ない方がいい。このまま後を追うぞ。空を飛べたところで足跡はつかないだろうが、匂いは必ず残る。それも血の臭いだ。いくらでも手段はあるだろう」

 

 役人たちが人里に来た時点で捜索に必要な物資は全て準備できている。さらに逃げられようと自分たちの神通力の前では無意味。

 

「神通力の使用を許可する。奴を逃がしてはならん」

「はっ。するとつまり——」

「そうだ。妖怪によって殺されたように見せかけ、死体に工作をする必要がある」

 

 ただ切り殺した彼女の遺体をただ人里へ送り届けるのでは、里の者達はこちらの言い分を信じるわけがないし、領主の計画に支障をきたす可能性がある。

 あくまで彼女は、人々を救おうと立ち上がり、道半ばで非業の死を迎えなければならないのだ。それも、妖怪たちによって無残に殺されたように見せかける必要がある。

 

「(小娘め。思いの外、手こずらせよって。それにしても、いくらこちらが能力の使用を避けていたとはいえ、彼奴の方もこちらを本気で殺そうとしてこなかった……)」

 

 老齢の侍は、自身の心の内に迷いが生じかけていることに気づいた。

 

「(はっ、何を今更。いずれ罰を受けることなど、とうに分かり切っているというのに)」

 

 彼も、自分の孫と同年代の年端もいかない少女に手を掛けることに気乗りはしなかったのだ。しかし、侍として、領主の命令は絶対である。

 そして彼はこれまでに、命令に従い何人もの命を奪ってきた。はじめは後悔し、自分が手にかけた者達が夢に出てきて眠れない日々を過ごしたりもしたが、“そういうもの”と捉えるようになってしまってから、彼はどこか、壊れてしまった。

 

「(俺も、そろそろ焼きが回ってきたか……きっと碌な死に方をしないだろうよ)」

 

 本当は分かっているのだ、彼も。そして、此処にいる侍たち皆も。

 博麗を殺めることが愚かな行為であることに気づいている。たとえ口減らしが功を奏して飢饉を乗り越えたとしても、この国に未来はない。戦で若い衆がいなくなれば今より多くの多くの田畑が荒れ、深刻な食糧難からは脱却できないのだから。

 それに博麗の雨乞いの儀式をなぜ妨害する必要があったのか? せめて雨乞いが成功した後でもよかったのではないか? 

 博麗は言った。領主の本当の狙いは一体何なのかと。

 彼自身も分からなかったのだ。長年この国の領主に仕える彼ですら、領主の行動は異常だとしか考えられなかった。

 

「(ああ……この国の終わりは近いのかもしれない。こんなことをしでかしたのだ、もう後戻りはできない。酒呑童子……伊吹萃香を相手にする日もそう遠くは……)」

「——全員、抜け出しました。すでに準備は整っています」

「…………そうか。では行くぞ」

 

 柄にも無く考え事をいていたらしい。

 彼は溜息をつくと夜空に浮かぶ月を一瞥し、博麗を追うために森の中を駆けて行った。

 

 

 

 ******

 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 萃香お姉ちゃんは、はじめて会ったとき、こんな苦しい思いをしていたんだね。

 頭がとってもぼんやりするし、まともに呼吸するのも億劫だ。

 だんだん、手足の感覚もなくなってきている。なんだか眠たい。でも眠ってしまえば二度と起きられないことが分かっていた。

 きっと、さっき当たった矢と、斬りつけた刀には毒が塗ってあったんだろう。あの人たちは、本当に私を殺す気なんだと、決して逃がすつもりがないのだとよくよく理解した。

 

 近くにあった切り株に背を預ける。

 流石に、これ以上は歩けないなぁ。毒が回ってきたのか視界もぼんやりしてきたし、頭がぐらぐらする。

 

 どうして、あのとき二代目の言う通りにしなかったんだろう? 

 ……いいや、言う通りになんて、できなかっただろう。どのみち私は雨乞いをしていたに違いない。何もしていなければ、きっと今よりずっと後悔していた。

 それでも……覚悟していたはず、だったんだけどなぁ。死ぬのは怖いよ。

 

 やりたいことが沢山あった。紫ちゃんや幽々子ちゃん、茜ちゃんとこれからのことについてもっと話したかった。萃香お姉ちゃんともっと一緒にいたかった。

 二代目に、もっと色々教えたいことがあった。

 

 なんでだろう? 

 こうして後悔するのは、初めてじゃない気がする。

 そうだ、これが初めてじゃない。

 ずぅっと前にもこうして、たくさん後悔したんだ……。

 

 その証拠にほら、こんなに胸が痛いのに、懐かしいと思えるの。

 

 ……ねぇ、私が眠っちゃう前に教えて。

 

 貴方は一体、どこの誰? 

 

 どうしてさっきから私を見下ろして、泣いているの? 

 

『ごめんなさい』って言われてもさ……、何のことだか分からないよ……え? 

 

 探している人が見つからなかった? 

 

 そっかあ……。でもごめんね、私は今とっても眠くて、手伝ってあげられそうにないや。

 

 どんな、人だったの……? 

 

 へえ。大切な友達だったんだ。

 

 いつも一緒にいてくれて、よく一緒に旅もしたんだね。うふふ、なんだか夫婦みたい。

 

 それで、どうして、突然連れていかれちゃったの? 

 

『私の所為』って、『貴方は生まれるはずじゃなかった』って……。

 

 それじゃあ、まるで、私を生んだのは貴方みたいじゃない? 

 

 ————いや……。なるほど、そうか……。

 

 間違いないわ。貴方から、私が生まれたのか。私は本来生まれるはずのない、貴方から作られた仮初の命。

 

 つまり、私は、貴方になり損ねたのね。そして博麗を作り上げるため、貴方の祈りのために、私は月から此処へ遣わされた。

 

 限りある命をもって生まれてしまった私は、穢れそのものだものね。

 

 ようやく、全部が繋がった。道理で私には記憶がなかったわけだ。これが、運命。あのとき、萃香お姉ちゃんに出会ったのも、全ては——。

 

 ——いいえ。でもね、私は貴方を恨まないよ。だって、貴方のおかげで、私は大切な人たちに出会えた。いっぱい笑ったし、いっぱい泣いた。上手くいったこともあったし、そうじゃなかったこともあった。良いことも、悪いこともみんな、大切な大切な思い出なの。

 それにね。何より、貴方のおかげで、萃香お姉ちゃんに出会うことができたんだよ? 

 

 ありがとう。ここからは、私の番だよ。貴方の祈りは、確かに聞き届けたわ。博麗の巫女として、そして、貴方の——として。

 

 

()()()()()()()()()()()()()——。

 

 

 影は何時の間にか、消えていた。

 そして影が消えてしまった方を向くと、私の前に、数人ものお侍様達が立っていることに気づいた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「……、見つけたぞ」

 

 侍の言葉に周囲を捜索していた他の侍たちが集まって来る。手負いとはいえ油断ならない神通力の持ち主。博麗を囲うように距離を詰めていく。

 

「毒が回っているようだ」

「ええ、奴も所詮は人の子だったということですな」

 

 すぐ目の前まで近づいたというのに、博麗は半開きの虚ろな目でこちらを見つめているだけ。もう、虫の息といったところだろうか。

 口元が僅かに動いているが、何か戯言を言っているようにしか見えない。毒が全身に回って幻覚でも見えているのだろうか。

 あまりに哀れな姿であった。

 

「終わりにしよう……」

「はっ」

 

 二人の侍が博麗の両腕を拘束する。ぐったりした様子の彼女はすでに抵抗する力も残っておらず、されるがままに首を垂れた。

 

 すると、目の前に立っていた老齢の侍の右腕がみるみるうちに獣のそれに変質する。

 鋭く尖った爪に豊かな毛並み。

 まるで人狼のように太くたくましい腕は、目の前の少女など軽々と両断してしまうような威圧感を放っている。

 

「最後に、言い残すことはないか? 博麗の巫女」

 

 半ば戯れに、侍は問うた。

 答えなど期待もしていなかったが驚くべきことに、博麗は口を動かした。

 

「——む……そぅ……ん——せ、ぃ」

 

 しかし耳を澄ましても聞こえないような呟きは、たったの一言で消えた。

 

「言葉にもならんか……」

 

 せめて今わの際の言葉ぐらいは聞き届けてやろうと考えていたが、手遅れであったようである。隣に立つ侍が咎めるように言った。

 

「早く終わらせてやりましょう。あまり、苦しませても仕方ありません」

「それも、そうだな」

 

 腕を振り上げて勢いをつけ、巨大な爪を振り下ろす。

 

「——さらばだ、博麗の巫女」

「す……ぃ……ぉ……ねぇ……ちゃ——」

 

 博麗の巫女の身体から、鮮血が舞った。

 

 

 

 ******

 

 

 

 アイツは、本当に危うい。

 理想はいいんだ。けっして否定はしないし、アイツには自分の言い分ってやつを押し通すだけの力もある。それに紫や射命丸みたいな、規格外の実力をもつ連中が協力しているんだ。理想はけっして、理想のままにはならないだろうさ。

 

 それなら、何処が危ういのかって思うだろ? 

 

 違うんだよ。アイツの近くで時間を過ごして、アイツのやることを遠くから眺めていたからこそ分かるんだ。世の中が乱れれば、何時だって真っ当な奴から割を食う。

 そんでもって、まともじゃない奴が最後に笑っちまうんだよ。

 

 私たち鬼は、自分達の思う真っ当な生き方をしてきた。だからこそ、嘘を嫌い、真正面からしか物事にぶつかれない私達は、この世界の摂理の格好の餌食になった。

 華扇の言ったことが、いまなら理解できる。

 そうだよ。アイツの言った通りだった。過去に私に忠告した張本人である、茨木華扇が討たれたという知らせを聞いて、私はようやくアイツの言ったことを理解した。

 本当に私たち鬼っていうのはどこまでも不器用なんだろうね。道理で割りを食うわけだが。

 まあ、こんなご時世だからこそだね。

 私はアイツから目を離すべきではなかったんだ。きっと、あのときの私はどうかしていた。

 

『うふふ……、またこんなところで寝たりして。そういえば何時かも、同じことをいったよね』

 

 目を離したらいけないとずっと分かっていた。そうさ、私は分かっていたのさ。

 

『……今じゃ、見た目だけなら私の方がお姉ちゃんみたいになっちゃった』

 

 ああ、もう。

 あんなに、大きくなっちゃってさぁ。少し前までは私と同じくらいの背丈で、私が保護者みたいだったっていうのに、最近じゃ私の方が色々と叱られる始末。お転婆だったあの頃が懐かしいね。たったの五年前だよ? 信じられるもんかね? 

 アイツも、私の背を追い越して、責任を負うことになって、周りから大人になることを求められて、寂しい思いをしていたのかもしれないな。

 

 だから、しょっちゅう『アンタは私の母親だって言うのかい!』と言って、茶化してやった。そしたら胸を張って、『そうだよ』なんて言いやがるから、頭突きをお見舞いしてやったけど。

 自信満々に言うのがまた、腹立つんだよなぁ。

 でも、ちょっと嬉しかったりして。そんな自分に気づいて、照れ隠しのつもりだったのに不覚にも深酒してしまったことがあったりした。

 

 ——あれ、おかしいな。二代目に紙の包みを渡されたときから、覚悟していたはずなのに。自分からお前のところに行くって言ったっていうのに。

 

 ……、感傷に浸っているのか? この私が? 

 

 なんでだろうな、年かな? いや、そういうのでもないね、これは。

 

『……おやすみ、萃香お姉ちゃん』

 

 分かっている。誰かに、奪われたくなかったんだ。もう失いたくなかったんだ。

 月での戦、私は確かに、何かを失った。それは胸を抉られたような気分だったはずなんだ。だっていうのにさ、今でもあのとき私が、一体何を失ったのかを思い出せないんだ。

 けれど気味の悪いことに、肩の傷が抉られたみたいに疼き、右肘から先が無くなったみたいに感じて。さらには右目が貫かれたみたいな痛みを覚えるんだ。

 ここまではっきりしているっていうのに、何を失くしちまったのかが分からない。だから、こんな思いをするのが嫌だったんだ。

 

 まったく、打たれ弱くなっちまったのかねぇ? 

 一昔前の人間との戦のときだって、こんな思いはしなかった。同族を率いて正面から人間と戦をして、騙された挙句仲間を何人も死なせちまっていうのに。

 仲間が殺されても、なんとも思わなかった。そいつが満足して死ねたのならそれも良し。そうでなかったのなら、そいつの無念は私たちが晴らしてやろうと、精々それくらいのもんさ。怒りはしても、こんなに胸にぽっかり穴が開いたような思いはしなかったんだ。

 

 なあ。何か言っておくれよぅ。

 ……白い布を被せられちまってさぁ。左腕なんて、穴ぼこだらけ。焼け爛れている上に関節のあちこちが壊れて原型をとどめていなかった。特に、左肩から右腰にわたる大きな傷。深く、心臓まで到達している。

 明らかに、この一撃が致命傷だったんだろう。

 何か、大きな爪でやられたような傷跡だった。人間によるものではないと、里の奴らはそう思ったんだろうよ。確かに、その傷跡からは人間が本来もつ霊力というよりも、私ら妖怪が放つ妖力が感じられた。里の奴等が信じてしまうのもしょうがないくらいだ。

 

 だが、これは巧妙に似せられているに過ぎない。

 

 辛かったよなぁ。痛かったよなぁ。

 何よりも、無念だったよなぁ……。

 ごめんな、お前の大事に駆けつけてやれなくて。それとごめん、私はお前との約束をこれから破ることになると思う。

 

 お前は、私の笑顔が好きだと言ってくれた。でも、今は無理なんだ。

 お前の今の姿を見たら、堪えられなかった。冷静であろうとしたんだ。けど、駄目だった。

 

 みんな、雨の所為だ。これはお前が最後の力で降らせた、雨の所為なんだ。

 じゃなきゃ、どうしてこんなにびしょ濡れになるんだよ? 

 どうして、こんなに冷たくなっちまっているんだよ? お前さんはいつもあんなに温かったじゃないか。にこにこ笑って、私を迎えてくれたろう? 

 なのに、こんな、ずぶ濡れの、泥だらけの酷い格好でさ。

 

 外で里の奴らが泣いている。皆、お前のことを思って泣いている。大人も、子供も、この人里の里長だって、大声で泣いてる。どうして人と妖怪を繋いでくれたお前がこんな目に遭わなければならないんだってな。

 本当は雨が降って嬉しいはずなんだけどなぁ。これじゃあ誰も喜べないよ。

 

 だって。

 

 どうして死ななきゃならなかったんだ? 

 お前さんの頭は、一体何処へ行っちまったんだ? 

 どうして、頭だけが持ち去られているんだ? 

 

 ……。

 

 ***

 

『ねぇねぇ聞いてっ!! 今日ね、里に行ったらね——』

 

『いった~い!! 傷にお酒を塗ったくるなんてひどいよぉ~』

 

『うぇ? 怪我? 大丈夫だよ、ほら私ってば頑丈だから』

 

『ねえ……萃香お姉ちゃん聞いて欲しいことがあるの』

 

『私って、人望ないのかなぁ……。私のやっていることは、間違っているのかなぁ?』

 

『ひっく……も~やってらんないよぉ……、何で分かってもらえなんだろう……』

 

『むぁ!? や、やさしくしないでよぅっ。そんなこと言われたら、私——』

 

『ぅくっ……ふ、ふぇぇ……』

 

『はなみず……ついちゃった……。ごめん……』

 

『ありがとう、なんか元気出た。萃香お姉ちゃんのおかげで、明日も頑張れる……』

 

『いってらっしゃい、萃香お姉ちゃん』

 

 ああ、私はあのとき、やっぱり此処を離れるべきではなかった。もしくはすぐにこちらへ帰って来るべきだった。

 

 夜、隣で寝ころんでアイツとよく他愛のない話をした。

 里の仕事が上手くいって、楽しそうに語ることもあった。ぼろぼろの姿で傷を我慢していた時もあった。巫女の仕事への、不安を語ることもあった。

 ごく偶に、愚痴を聞いていたら、いつの間にか泣き始めたこともあった。

 だけど、朝になればそんな姿は跡形もなく、綺麗さっぱり消えていて。

 目を覚ませば、いつも先にアイツが起きていてさ、やれ朝食の準備だ境内の掃除だなんて、忙しく働いていた。包丁がまな板を叩く音、境内の落ち葉を箒ではく音。そして、アイツがドジして皿を割る音……。

 私は賽銭箱の上に座って目をつぶり、そんな騒がしい音を楽しんでいた。

 特に、あの小娘が来てからは余計に騒がしくなって。やれ弟子ができただなんて私に向かって報告してきたときは、一緒になって喜んだ記憶がある。

 

 ***

 

 ……。

 

 今はよそう。もう、どうせ帰ってきやしないんだ。

 

 それに私にはもう、あの日に戻る資格なんてない。だから未練を捨てろ、甘さを捨てろ。余計なことは考えるな。

 

 やることは決まってるんだ。この国の領主の居城へ行って、侍どもを、領主を殺す、それだけだ。

 

 皆からアイツ(希望)を奪ったんだ。それ相応の報いを受けてもらう。

 

 

 初代、ごめんね。

 

 愚かな私をどうか叱ってくれ。

 

 お前との約束を破る、私を憎しんでくれ。

 

 許しは乞わない、恨んでくれ。

 

 これからやることは馬鹿な一匹の鬼の、ただの暴虐にすぎないんだ。

 

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