『ねえ。萃香お姉ちゃんって、前は京にいたんだよね?』
『ん? ああ、そうだよ。ま、随分前の話。色々と悪さをしてね、遂には退治されちまったけど』
『……ふ~ん。なんか、信じられないや』
『おいおいアンタ、また何か失礼なことを考えていないだろうね? 言っとくが、ほんとだからな。私は当時“酒呑童子”と呼ばれてて、人間達に恐れられていたんだ』
あまり間に受けてなさそうだったが、
『うん、それは知っているよ。悪いことを沢山して、最期にはお侍様に討たれたって』
『ぐぬっ、なんだい。知っているんじゃないか……』
『でもさ。今、私の膝の上で寝っ転がっている萃香お姉ちゃんはね、きっと別人だよ』
『どういうこと?』
『うふふ。そうだなぁ……それはあれだよ。秘密ってことで』
『——え?』
思わず呆気にとられた。『一体なんだいそれは』と私はアイツの身体を揺すり、ねだった。
『おいおい、そこまで言っておいて秘密だなんて、よしておくれよぅ。な?』
『ええ~、どうしよっかなぁ……』
けれど結局、アイツは最後まで答えてくれなかった。
あれは、吐息が白くなるような寒い冬の日の記憶。
『今の生活は少し退屈、かな?』
『……そうさなぁ』
私は少し思案するように宙を見つめてから、『ちょっとだけね』と苦笑しながら答えた。
『でもさ。今はね、こうしているのも悪くないかもって思い始めている。喧嘩も好きだし、賑やかなのも大好きだ。だけどそれだけじゃあ、ない』
伊吹瓢を煽り、続ける。なんだかその日は妙に口が軽くなっていて。
喋らなくてもいいことまで口に出してしまったのを覚えている。
『なんだかさ。紫とお前を見ていたら、案外私も変われるんじゃないかと思った』
後日、自分の言ったことを思い出して恥ずかしい思いをした。
これは、風が仄かに香り始めた春の日の記憶。
『なあ、初代』
『なあに?』
『……私は、昔自分がやったことを後悔してはいない。私は、鬼として、妖怪としての性に従ったまでだ』
『……うん』
このとき少し強張った声を発したのは、果たしてどっちだったんだろうか。
『私は、お前と会うまでに、たくさんの人間を喰らった。喰う目的以外でも、たくさん殺した。こんな私を、お前は軽蔑するかい……?』
『……なんで、そんなことを聞くの?』
『——お前になら、殺されてやってもいいからさ』
『やめてよ。そんな悲しいことを言うのは』
私は、このとき本気で言っていた。けれどアイツは悲しそうに俯くばかりだった。
これは、私が京に向かう前日の記憶。
月面での戦が終わってからだと思う。私には、何かが足りない気がしていた。紫や、初代が持っていて、私にないもの。一度、確かに私はそれに気づいたんだ。
そして、必ず手に入れてみせると決意したはずなんだ。
それなのに。
それが一体何だったのか、思い出せなかった。
***
【神無月 一日】
曇天の空。
湿気を帯びた空気が辺り一杯に広がり、もう少し気温が低くなれば、霧でも発生しそうである。頑強な外壁に覆われた城下町に、朝が訪れようとしていた。
そんな早朝特有の柔らかな雰囲気とは裏腹に、外壁の外に広がる平地に築かれた大規模な陣営には数多の兵士が集まっていた。城下を守る兵士たちは甲冑姿に槍をもち、またある者は弓を携え、まるで、これから大きな戦が始まるのかとでもいうように物々しい様相を呈している。
博麗の巫女が命を落としたという知らせは、まだ国全体にまで浸透しきっていない。
されど、すでに三日が経っている。伊吹萃香が都を襲撃しに来るのなら、そろそろ頃合いであろう。ことの真相を知る一部の者達、本陣で机を囲む四人の侍は、そのように見込んでいた。
「——外壁の前に陣を敷いたとはいえ、奴が果たして素直に正面からやってくると思うか? 多少の兵力を裂いてでも、ご領主様の周囲の警備を固めるべきではないだろうか。万が一、奴がこちらを欺いて暗殺をしかけて来たならばどうする?」
「然り。まして、奴一匹でやってくるだろうか? 聞いたところによれば数百の魑魅魍魎どもが妖怪の山から下りてきたとの知らせを受けているが……」
「いいや、奴は鬼だ。鬼という種族上、単騎で、しかも正面からしか挑んできやせんさ。こちらが前もって陣を敷けば、奴は無視できまい。それに奴を仕留めれば、あとは雑兵のみ。打ち破るのは容易い」
「しかし——」
「まあ、そう焦るな。たかが妖怪一匹の襲撃など、大したことはないのだ。それにこちらには神通力をもつ者達がいる。所詮は奴らも、人よりは獣に近い。褒美を用意すれば、件の鬼や妖怪どもと存分に殺し合ってくれるだろう」
萃香への対策だけではない。彼らは来たる妖怪の軍勢から城下町を守るために配置されている。つい昨晩、妖怪の山に火矢が放たれたことで、人間による妖怪への宣戦布告がなされた。人間と妖怪の間での戦が、とうとう始まったのだ。
ただ、妖怪の山への進行は先手をとったことによって、現在優勢との知らせを受けているし、領主の城へ進軍してきているという妖怪の軍勢についても、十分な戦力を用意することができている。さらに、士気も悪くない。
博麗の巫女が凶悪なる鬼、伊吹萃香によって打ち取られたのだと宣言したことで、それを信じた兵士達の士気はこれまでないほどに高まっているからである。
「今泉、か……。確かに化け物とも称された博麗を打ち取るほどの技量をもつあの者たちならば、鬼にも引けを取るまいな」
城下町の防衛部隊には領主直属の護衛である、今泉の血筋を引く者達が控えている。彼らは皆、希少な神通力を保持しており、一部からは力を持った妖怪を相手にする際の頼みの綱とも称されていた。しかし、今泉の者達から何故、本来希少であるはずの神通力保持者が多く輩出しているのか? それは領主のみが知るとされており、この場にいる者は誰も目にしたことがない。
それゆえ彼らを不気味がる者も少なくなく、此処にいる者もまた、例外ではなかった。
「まあ、奴らの力を頼るというのは極力控えたい。何を考えているのか分からん連中だ。奴らの出生にしても怪しい点が多すぎる。いくら領主様から全幅の信頼を得ているとはいえ、無条件に命を預けられん」
「なに、我等のみで十分よ。所詮は時代遅れの妖怪一匹。手古摺りはしても、敗北などありえん」
たしかに、それを担保するだけの戦力は充実していた。
そもそも都に妖怪が襲撃してくるのはこれが初めてでない。自尊心が強く狡猾な一部の妖怪たちは、監視の目を掻い潜ってこれまで幾度となく都で暴れまわろうとしてきた。被害を抑えようと考えた人間達は、対抗して城下町の防衛力を増強してきたのである。
そして、城下町に直接攻め入って来る妖怪達を返り討ちにするために派遣されたのが、今陣を敷いている彼らなのであった。その数は五千。隣国からの援軍が到着すれば一万にも及ぶ。数百の妖怪の軍勢といえども、並大抵の戦力では都を滅ぼすことなどできない。
しかし、忘れてはならない。それは
「……それにしても、本当にあの酒呑童子がやって来るのだろうな? 随分前に京で討たれたと聞いたのだが」
「たしかに奴を目撃した者は少ない。だが、京での証言は信ずるに値するものだ。ならば打ち損じたと考えるしかなかろう? 大江山の鬼どもは、住処を変えただけであったということだ。困ったものだが、この国の山奥に潜んでいるとの報告を受けている。まったく、奴らには手を焼かされてばかりだな。なんとしてでも、ここで打ち取らねばならぬ」
「鬼退治、か……」
「ああ、そうだ。残念ながら、これは御伽ではない。これから行うは正真正銘の、“鬼退治”だ」
領主の城から見える小山の遥か向こうでは、妖怪の山——普段、彼らは呼んでいる——への襲撃が続いていることだろう。報告を受けた時点では、妖怪の山へ攻め入るのは人里から集められた六千五百の兵と聞いている。しかし、この数はあくまで現時点のものにすぎない。これからまだまだ増えることが予想されていた。
どうして彼らが強気でいられるのかといえば、二つの報告によるところが大きい。
第一に彼らの士気を高めたのは、宣戦布告後の初戦の結果であった。
なんと人間側が大勝利を収めたのだ。これは領主たちが予想した数を超えた兵力が集まり、妖怪たちの軍勢を押しのけてしまったことによる。
そして、忘れてはならない報告がもう一つ。
『博麗の巫女が行っていた雨乞いが、成功を収めた』
この報告関しては内密にされる予定であったが、既に彼女の雨乞いの成功は、飢饉に見舞われていたこの国の人々の目に、雨天という形を持って晒されている。もはや隠し立ては無用であった。
「まさか、本当に雨乞いが成功してしまうとは……」
「領主様にとっては誤算であったかもしれんが、我々からすれば、僥倖とも呼べる」
だが、かえっていい結果をもたらしたとも言えよう。ここにいる者の多くは、雨乞いの成功に安堵していた。
領主が隣国と交わした密約もあったので、妖怪との戦に今更不満などない。博麗の巫女の生死にも興味はないが、ただ雨乞いの成功前に暗殺するという指令には、疑問を覚えていたのだ。いくら自身の身が保証されていても、土地が荒れてしまえば回復するまでには時間がかかってしまう。
「ときに幸運というものは、続くものですな」
「ああ、貴殿の言う通りよ。嬉しい誤算もあるものだ」
「すると、残りは件の鬼退治のみになる。奴さえ仕留めれば、長年苦しめられてきた妖怪の山へ、我々本隊が進軍することも夢ではあるまい。この好機を逃すわけにはいかぬな」
「あの兵士達の怒りようからすれば、兵糧の問題など、心配いらぬでしょう」
——続く僥倖に活気立つ本陣であったが、そこに伝令がやってきた。
歴戦を経てきたベテランの伝令は落ち着き払った様子ではあるのだが、その目に僅かな狼狽えを孕んでいることに四人は気づいた。『件の妖怪がやって来たのだろう』と、彼らはすぐに察した。
「“今泉”より報告。丑寅の方角より、敵影ありとのことです」
「ご苦労。いやはや、奴にしては遅かったな」
その敵影というのは、酒呑童子のことであるはず。本陣に机に座る者達の間には、確信に近いものがあった。
座っている四人の侍のうちの一人、都の防衛を司る総大将は告げた。
「すぐに全体へ知らせろ。鬼退治の始まりだ」
城下町前の平原にて、総力をもった人間と、一匹の鬼との戦がはじまった。
******
伝令が本陣に辿り着く丁度その頃。
陣の最前線ではすでに、物見が萃香の姿を捉えていた。開けた草原の彼方から、小さな人影が近づいてきているのだ。
「何か、いる……。今泉様の報告があった奴か……?」
「何人だ?」
「一人。ああ、やっぱり。奴は、鬼だ……とうとう来やがった……」
頭には二本の捻じれた角。栗色の髪をなびかせ、それはやって来た。
「なんだ、ありゃあ。角が無ければ里にもいるような、ただの娘っ子じゃないか……」
遠目から見れば、童女にしか見えないその姿に、物見の隣に立っていた男はどうやら拍子抜けしていたようだった。彼は鬼の襲撃という話を聞いて、もっと怖ろし気な外見を想像していたのだろう。
彼の言うことは決して間違ってはいない。萃香の外見は、確かに幼気な童女である。だが彼を含めて、此処にいる者達は皆、知らないだけなのだ。人間の記憶からゆっくりと消えてしまった鬼という存在。萃香は紛れもなく、その鬼という種族のそれも頂点に立つような存在であることを。
対して萃香は、人間達が自らの存在を捕捉したことなど気にも留めず、悠々とただ城下町へ向かって歩いていた。
元より彼女に逃げるつもりなどなく、己を打たんとする外壁前に展開した防衛部隊を、はなから粉微塵に捻り潰すつもりであった。
「随分なお出迎えじゃないか……。ま、どうでもいいけどさ……」
大規模な軍勢を前にして、独り言をつぶやく萃香。彼女の視線は今、真っ直ぐに領主のいる館へ向けられており、目の前に広がる人間達の軍勢ですら、気に留めていない。
単騎で城に攻め入ること自体は、これが初めてではなかった。京にいた頃は、何度も行ってきたことであった。だが、今回は今までと少しばかり違う。彼女には、この戦いに臨む明確な目的があったのだ。
「目の前に立つ奴は、一人残らず、潰す。これは、ほんの挨拶だ」
相手に聞こえなくてもいい。彼女は小さな声で、宣言した。
萃香の右拳に青い炎が灯る。それはただの鬼火だった。大きさで言えばロウソクの灯り程度で、萃香の立っている位置からだと、余程目の良い者でない限り肉眼で確認することはできないだろう。
——にも関わらず、彼女の一挙一動に兵士達は固唾を呑むばかりであった。
萃香をただの童子と見て油断をしているわけではない。さすがに彼女の異常さに気づけぬままであるほど愚かな者は、守備隊にはいなかった。
ではなぜか? 動けないのだ。
頭では分かっていても、身体が言うことを聞いてくれない。都の防衛にあたっている兵士達は日頃から訓練され、うち多くが実戦を幾度も経験してきた者達で構成されている。そんな彼らが怯え、震え、逃げ出したい衝動に駆られている。
それでもなお彼らが逃げないのは、単純に理解したからである。
退却など許されないのだろう、と。
彼らが動けない間に、萃香は炎を纏った拳を鋭く地面に突き刺し、ひび割れた大地からは青色の鬼火が吹き上げた。吹き上げた無数の火の粉は天高く昇るとやがて守備隊の頭上に降りかかっていった。
この痛烈な一撃は曇天の空を穿ち、戦いの始まりを告げた。
「く、来るぞぉぉぉっ!! 歯を食いしばれぇぇっ!!!!」
「前衛っ!! 盾を構えろぉ!! いいから早くしろ、死にたいのかぁぁっ!?」
「ひ、ひ、ひ——!?」
「死にたくない奴は俺に続けぇぇぇ——!!」
まず第一陣は、数列に並ぶと隙間なく盾を構え、来る火の粉から後衛を守ろうとした。密集した陣形を取り、防壁を築こうとしたのだろう。飛来してくる火の粉から身を守るには、確かに有効だ。よく訓練されているがゆえに、彼らはすぐさま指揮されるがまま盾を構えた。
人間を相手にするのであれば、彼らの行為は決して誤りではない。
そう、
「っ!! いかん!! 退けっ!!? 呑み込まれるぞっ——!?」
異変に気づき、後方に控えていた味方が必死に叫ぶも虚しく。
「——っ」
突如、彼らを襲った地割れに半数が呑み込まれ、辛うじて生き残った者も灼熱の鬼火で焼き尽くされた。後衛の者達が唖然とする中、萃香は目視するまでもなく、大軍へと飛び込んだ。
「怯むな!! 矢を放てっ!!」
あっけなく陣形の懐に入り込まれ、混乱する中でも彼らを叱咤し、勇敢に指揮をとる者がいた。
「弓兵、放てぇっ!! ——ぐえ゛っつ!?」
しかし勇気も虚しく、彼は飛来した鎖に首をからめとられ、そのまま捩じ切られた。萃香がその腕に巻き付く鎖を、圧倒的な鬼の膂力をもって振り回したのだ。ただでさえ、かなりの重量がある鎖を萃香のような者が全力で振り回せば、それは十分に凶器となり得る。
「あ、あ、ああぁ……!?」
兵士達の目の前に転がる、彼らの仲間であった者達の首、胴体、腕、足。傀儡の人形のように体をばらばらにされ、血飛沫と共に、雨の如く兵士達の頭上に降りかかった。
現実感のまるでない一方的な虐殺が目の前で繰り広げられていた。
「くそ……、俺たちをゴミみたいに……!?」
残された者達が懸命にも己を奮い立たせて矢を放つも、飛来した矢は全て萃香の咆哮によって勢いをそがれ、そのまま落下していく。運よく萃香の元まで辿り着くことができたものも中にはあったが、それらは皆、鬼の強靭な肉体を貫くことはできず、全て弾かれるに終わる。萃香の華奢な体に傷一つ負わせることができなかった。
人ならざる者、強者たる“鬼”の咆哮。
それは動揺をもたらすに十分であり、兵士達の士気を徐々に削いでいった。
「ひぃっ!?」
「ば、化けものっ!?」
多くの兵士達の心が折られる中、どさくさに紛れて撤退しようとする者を萃香は見逃さない。再び右手に巻き付く巨大化させた鎖を強引に振り回し、勢いをつけるやいなや横に薙いだ。
運悪く鎖に絡めとられた者達は体を両断され、運良い者ですら複数人まとめて吹き飛ばされていく。逃げず槍を構え、突撃しようとしたものはいざ知らず、その背後に構えていた兵士達も含めて。
まず、一般の兵士達では萃香に近づけなかった。
しかし当然である。どれだけ数を揃えようと、今の統率を失った彼らでは大妖怪相手であればただの案山子でしかないのだ。精鋭だろうが何だろうが、彼女にとっては雑兵と変わらず、何の脅威にもなり得ない。
大妖怪とは、地形を変えるほどの天変地異を起こす存在である。
だから、萃香がまとめて彼らを一網打尽にしようとするのも、また当然の帰結であった。
「ただで死ねるとは思うなよ? お前たち……。アイツの夢を奪った罰は、その身で償ってもらう」
地面にたたきつけられた彼らに待っていたのは特大の鬼火。萃香が左手に作り出した鬼火は、放射状に広がっていくにつれて数を増し、やがて弾幕となる。
理不尽の権化たる鬼を前にして、兵士達は足が竦んで逃げる選択肢すら取れなくなっていた。
「(初代。お前なら、こんな私を止めてくれただろうか)」
彼女は飛翔し、広がる軍勢を見下ろす。眼下で己を恐れ、慄く大勢の人間達に萃香はかつて彼女が誓った博麗との約束を思い浮かべる。
自分のやっていることは、けっして許されることではないのだろう。自分が取るべきであった行いは、こんな形での復讐ではなかった。二代目の言ったことは間違っていないのだ。
初代はきっと、自分を許しはしない。
「(——いいや。どちらにせよ、もう引き返せないんだ)」
萃香は迷いを無理やりに振り切った。
彼女の目に戦いを愉しむような気配はまったくなかった。わざわざ手間をかけるつもりなど毛頭ないのだろう。ゆえに彼女は行使できる、最大級の火力をもって一掃する。
本陣を中心とした、広大な範囲に向かってその技の名を告げた。
「『百万鬼夜行』」
彼女の一言は死の宣告に他ならなかった。
その後、大火が軍勢を襲い、陣を敷いていた平原は焦土と化した。
******
「——ああもうぅっ、人間たちはどうしてこんなときに限って愚かなことをするんですかっ!?」
本当に、信じられません。彼女が命を落としたなんて。
できることならば、その報告が誤りであってほしい。妖怪である私がそのようなことを願ってしまうのは誤りかもしれません。けれど私は、計画に協力してくれた彼女に対して個人的な恩義も感じていましたし、何よりも良き友人であると思っていました。
しかし、私に連絡をよこしてきたのは二代目博麗の巫女を名乗る人物。連絡をしてきた式紙に記されていた術式は、確かに博麗が使うものでした。非常に残念ですが、この情報の信頼性は高い。確認のために部下を派遣したいのもやまやまですが、現在彼女の死体が安置されているという人里は緊張状態にあるとのこと。『不用意にこれ以上彼らを刺激しないように』と二代目は記していました。
現時点では情報は正しいものとして扱う他はなく、さらに事をこれ以上荒立てるわけにもいかないでしょう。
しかし、二代目博麗の巫女からの連絡が来てもなお、疑問は依然として残ったまま。
どうして、彼女の命を奪う必要があったのでしょう?
そもそも、初代博麗の巫女はその功績を認められて民からの信頼を得ていたはず。そんな彼女を排除し、我々の仕業に仕立て上げることにそれほど利益があるとも思えない。
それに、萃香様が黙っていないでしょう。すでに部下から萃香様が領主の居城に襲撃を仕掛けたと聞き及んでいます。これではこの国の城下町はよくて半壊。もはや、壊滅は避けられないのかもしれません。
正直分からない。組織の上に立つ者として、領主の行いは愚かとしか言いようがないものです。
初代は雨乞いを行っていました。彼女の雨乞いは飢饉に苦しむ人里にとって、頼みの綱でもあったのでしょう? わざわざ自らが治める国の民を困窮させようなどと、誰が考え付くものですか。よもや、自国の民を傷つけることを覚悟したうえで我々妖怪に対する憎悪を掻き立て、戦に向かわせようとしているのでしょうか?
どこかあからさま過ぎるのです。
まるでこれでは、我々に愚かな領主だと認識させて、誤った対応を取らせようとしているのではないか、と。
人間と妖怪の争いを大規模なものにしようという意図が感じられる上に、状況を判断するための情報がいささか少ないことも気がかりです。何か領主が何か企んでいるのは間違いない。
宣戦布告からの初戦をふまえると、何か不気味な気配も感じます。
人間達は、想像以上に強かった。偵察に向かわせた使い魔によれば、一兵卒であろうと異常な怪力で妖怪をなぎ倒し、四肢をもがれても戦い続けていました。何か、異常な力を帯びているみたいに。
警戒を怠るわけにはいきません。博麗の巫女の暗殺からこの戦まで一連の出来事は、繋がっている可能性がある。
すくなくとも今、相手にしなければならないのは一国のみ。そのはずなのですが、隣国も怪しい動きをしているため現状何とも言えない。二国を同時に相手取るわけにはいきませんし、情報は継続して収集する必要がありそう。
いけませんね。
こうなってしまうと、当初予定していた方針はとれないでしょう。悠長に停戦の交渉を持ち掛けようものなら、交渉役の覚り妖怪の皆さんを危険に晒してしまう。
あちらの思惑にわざわざ乗ってやる必要もありません。
「(本当に、ここで博麗の巫女を失ったのは大きい。妖怪と人の橋渡しである彼女を失えば、我々の人里への介入は行いづらくなりますし。二代目博麗の巫女は……残念ながら初代に比べて交渉に持ち込みにくいでしょう)」
つい、そんなことを考えてしまう。
私は、彼女が死んだという知らせを受けて友人として彼女の死を悼むよりも先に、これから先における人間との交渉について不安を覚えてしまったのです。天魔となった私は、友人として死を悼む気持ちすら忘れてしまったというのでしょうか?
「(私も、変わってしまったのかな……。あの頃のように、自分の気持ちに素直には生きられなくなった……)」
悲しい。寂しい。そして何よりも、怖くなりました。何時の間に私の心はここまで冷え切ってしまっていたのかと。こんな姿を、まだ幼い文に見せるわけにもいかない。そう思ってもなお、意識しなければ自覚できない自分が、殊更に恐ろしくなりました。
「(駄目です……。今はまず、この戦の処理から取り掛からねば——)」
初戦で敗北したのは痛かったのですが、まだ我々の山に立ち入らせたわけではない。相手方の戦力を見誤ったこともあり痛い目にあったというだけで、まだまだ立てなおす見込みはあります。
切り札を早い時期に切っておくこととしましょう。ずっと控えていても自体は好転しませんからね。
「大天狗、覚り妖怪へに交渉役を依頼するのは止めです。おそらく向こう方の領主は停戦には応じない。彼女たちにはすぐさま避難するよう伝えるように」
「はい。……しかし、領主の正気を失ったとしか考えられないような采配、我々としても、迂闊に相手をしてはならぬのでしょうな」
「ええ。非常に残念ですが、こちらも全力をもって応戦する必要がありそうです。至急、白狼天狗に通達をしなさい……それと、筆の準備を」
「承知いたしました。……、茜様。まさか——」
「ここは、紫さんを信じる他ありません。今から鬼の皆様を抑えることなど不可能です!! ならばこちらは打てる手立てを先んじて打つだけ。これ以上、私達の山で好きにはさせない……!!」
紫さん、信じていますよ。
これより妖怪の山は人間達の襲撃に対して徹底抗戦をします。幻想郷の創立の前に、これ以上禍根を残すわけにはいきません。厳しい防衛戦となるでしょう。
しかし、このようなところで足踏みをしているわけにはいきません。後もう少しのところまで、ようやくこぎ着けたのですから。
恐らく貴方は今、表立って動けない。だからせめて、私は私のできることを——。
******
城下町からすぐ傍の平原は、焼き尽くされていた。
鉄でできた槍も鎧も。そして、人間は言うに及ばず。本陣にいた侍たちなどは、刀を抜くことも、断末魔を挙げることすら許されず蒸発した。
そこに生命の気配はない。
しかし未だ焔の立ち昇る真っ黒な焼け野原を、何事もなかったように歩く小鬼が一匹。
この光景を作り上げた張本人、伊吹萃香であった。
彼女は淡々と焼け野原を歩いて行く。
そしてすっかりと風通しの良くなった城下町の大門をくぐり、萃香は町への侵入を果たした。
大門をくぐった先には城下の街並みが広がっている。門に特殊な結界術が施されていたのか、外壁の中は無傷でないとはいえ、まだ原型を留めていた。
「ふんっ」
萃香はその様子に鼻を鳴らした。
あれほどの火力を受けてなお形を留めているのだ、余程の使い手がいるのかもしれない。そして、あの場には自分の“獲物”がいなかったのであろうと、彼女は察したのだ。
すると、
「——早かったな」
続く大通りから、しわがれた男の声がした。
既に住民の避難は追えたのであろう。すっかり寂しくなった城下町の大通りの中央に、彼は立っていた。
博麗の巫女を討伐した主犯であり、領主の護衛にして神通力を保持する初老の侍。彼は今泉と呼ばれる、領主直属の護衛筆頭であった。
そして、初代博麗の巫女を討ち取った張本人でもあった。
「……この匂いだ。お前だね、アイツを殺ったのは?」
大通りには風の音がやけに大きく響いていた。
辛うじて互いの声が聞こえるほどに、今日の風はどこか五月蠅い。
「——ああ、その通りだ」
暫しの沈黙の後に、今泉は答えた。
「そうか。やっぱり、そうなんだな」
答えを反芻するようにして、萃香は押し黙る。
一方、あれほどの軍勢を相手にしたのにも関わらず、萃香の身体に傷一つない様子を見て、今泉は嘆息して呟いた。
「……音と気配で大抵予想はできていたが、その様子では、味方はなす術もなく壊滅したのか?」
「答えるまでもないさ」
「やはり……」
瞬間。
これまで騒々しかった風がぴたりと止んだ。
——今泉は刀を抜いた。萃香の右拳が既に目の前に差し迫っていた。
「ぐっ、おおおおおおおおっ!!」
両腕にかかる衝撃。耐えきれず手を離してしまえば、その時点で命はない。だが容易く受け止められるほど、萃香の一撃は軽くはない。
結局彼は身体にかかる衝撃を地面に逃がし切れず、民家へと吹き飛ばされた。脆くはないであろう民家の壁を何件も貫き、遥か後方で噴煙を上げた。
しかし刀を抜いて防いでいなければ、上半身もろともに消し飛ばされていたかもしれない。そう考えれば彼は十分に持ち堪えてみせた方であろう。並みならぬ戦闘経験を活かし、彼は伊吹萃香の一撃を受けて生き残ってみせたのだ。
「づっ……規格外の化け物め……」
「後は、お前だけだ。お前……この国を見限って、仲間を逃がそうとしただろう? 残念だったな、奴らは既に私が始末した」
何時の間に今泉の老武士の前に移動していた萃香は、彼を見下ろして言った。萃香は元より、自らの分身を国境に配置していたのである。隣国へ逃げ延びようとする者を逃がさぬために。
ここに来るまでに初代の暗殺に関わった今泉の者達を始末したことは、分身を介して既に確認していた。
「全員、か……?」
「ああ、そうだ。お前以外の五人、確かに私が殺した」
「そうか、だがこれだけは言っておく。我らは、この国を見限ったのではない。あくまで領主様の命令に従ったまでだ」
「……」
萃香は口を噤んだ。この老武士言葉に、偽りを感じなかったからである。だが同時に、彼女は不思議に思った。老武士の顔に、仲間を殺した己への怒りが感じられなかったのだ。
「……どうした、私が憎くないのか? 私は、お前の仲間を殺したんだぞ?」
「いいや。我々は殺したのだ、殺されもする。その覚悟をもって、私達はあの娘を手にかけたのだ。貴様を恨みはしない。もとより我々に、貴様を恨む資格などないさ」
彼はその手に握る刀を杖にして、ゆっくりと立ちあがった。
「だが貴様は、憎いのだろうな。そもそも、先に手を出したのは、我々だ。懇意にしていた博麗の巫女を殺し、お前たちが掲げていた理想を潰した我々のことを、さぞ憎んでいるだろう」
「……」
「憎め」
彼は萃香の目を真っ直ぐに見つめ、言った。
途端に彼から発せられる力が変質した。
姿は人のそれとは違う。そう、それはまるで、一匹の狼だった。
「——許しは乞わない。恨むがいい。それはお前の、正当なる権利だ」
狼は再び吹き上がった風ととともに、鬼へと向かって行った。
******
萃香が城下を襲撃した前夜のこと。
【長月 三十日 深夜】
「おい、まだ起きていたのか?」
妖怪の山の麓、初戦を終えて本陣に帰還した兵士達は、焚火を囲んでいた。中には次なる戦に向けて仮眠を取る者もいる。しかし、博麗の巫女が通っていた里の新人門番である青年はなかなか眠りにつけないでいた。
「……俺、まだ信じられないんです」
彼は手に持った槍を強く握りしめる。粗末な槍の柄の表面は荒く、ささくれが指に刺さり、血が流れた。しかし彼はそのようなことなど気に留めず、ただ歯を食いしばり自責の念にかられていた。
——なぜ彼女が?
彼を含めて、ここにいる誰もが思わずにはいられない。
三年前の戦に赴いた者は、あまねく帰ってこなかった。だから、自分もいずれそうなるのだろうと確信を抱いていた。
最後に博麗の巫女と話す機会があってよかった。案外悪くない人生だったと、そうやって自分の人生に諦めをつけようともしていた。
必死に自分を止めようとする母親を振り切ってもなお、である。
「悔いなんて、なかった……」
あの日の彼女の表情が、彼の頭には焼き付き、離れなかった。
共に笑った一時が、彼の人生の宝物だった。
「——死ぬのは……俺だけでよかったのに」
ミシリと、手の持った槍が軋んだ。その様子を見た隣の男は、青年を諫める。
「
隣に立つ男性もまた、青年と同じ里の出身で、同じく門番を務めている者だった。それゆえに青年の心が痛い程よく分かったのだろう。深いしわが刻まれた彼の目には涙が滲んでいた。
「何にも、返せなかったなぁ……」
「はい」
「俺たちで、支えてやれなかったなぁ」
「……はい」
「最後まで巫女様は、俺たちの希望だった……。なのに、何の恩返しもできなかった」
「…………はい」
数時間前、集められた兵士達に向かって初代博麗の巫女の死が告げられた。
それからの記憶は青年にはない。ただ、全力で妖怪と戦ったという疲労感のみが体には残っている。他の者達もきっと、自分と同じなのだろう。
誰しもが皆、疲れ切った表情をしていた。肉親を失ったときのような、心に穴が空いたような感覚を覚えているに違いない。
しかし同時に、彼らの目に確かな怒りが灯っていることに青年は気づいた。自分達が慕う博麗の巫女が殺されたという知らせは、同郷だけでなく、他の里の兵士たち皆を憤慨させるに十分であったのだ。
別にそれ自体が誤りであるとは思わない。しかし青年には、初代が自分たちの行いを望んでいるとは到底考えられなかった。
「(誰よりも人と妖怪の共存を望んだ巫女様が、こんなことを望んでいただろうか……? そんなわけ、ないだろうな)」
自分達の行いは、初代が望むものではない。それは十分に理解している。しかしどれだけ悔やもうが、今の彼には何もできない。
月明かりのない暗闇が、今日の夜空には広がっている。
青年がぼんやりと見つめる篝火の焔はまるで、自分たちの行き先を暗示しているかのように儚く揺らめいていた。