それでも彼女は美しかった   作:ふぇるみ

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人の章:生じた疑念

 ——疾風の如く。

 

 今の彼を一言で表すならば、まさにそれが相応しい。

 豊かな毛並みに覆われた筋骨隆々な体躯からは、それに応じた瞬発力が生まれる。狼の姿と化したその身は巨体に反して身のこなしが増し、大地を蹴れば土煙が上がり、風を切り裂き、音すらも置き去りにするような勢いで萃香に接近した。

 

「ガァァッッ」

 

 地鳴りのような唸り声を上げながら、“今泉”の頭領たる老武士は萃香の喉元に襲い掛かる。

 萃香が立つ場所までの僅かな距離でも、助走をつけ、体重をのせて飛びかかればそれなりの威力になる。ましてや今の彼が飛びかかれば、たとえ鬼の身体に傷をつけることは十分に可能と言えよう。

 

 対して萃香は、咄嗟に反応できなかった。元々、鬼という種族はあまり避けるという動作を行わない。鍛え上げられた己の身体で相手の攻撃を受け止め、そして力業で打ち勝つという場合が多いからである。それゆえ、今泉のような特に速さに長ける者には少々、迎撃という観点で分が悪かった。

 彼以外の五人を始末する際は萃香が先制を取り、そのまま勝利するに終わったが、先制攻撃を切り抜けられ攻勢が転じた今の状況は、彼女にとって都合が悪いのだ。

 

「ふんっ」

 

 かろうじて萃香の拳が今泉の頬へ放たれるも、空を切る。空振りに終わるやいなや、萃香は即座にその場で身体を反転させ、左回し蹴りで追撃を行う。

 その後に続いて踵落とし、拳突き、頭突きと連撃を行う萃香であったが、どれもが紙一重で回避された。

 

「こいつ、ちょこまかとっ」

 

 距離を離すべく巨大化させた拳をもって一気に押しつぶそうとすれば、流水のように軌道を読ませる間を与えず、合間を縫って近づこうとしてくるのだ。傍から見れば苦戦を強いられてるようにも映る。

 だが、老武士に接近を許した瞬間、萃香の表情にはまだ余裕があった。

 

「——ふっ」

 

 短い呼吸とともに萃香の輪郭がぼやける。

 萃香は濃密な妖力の霧と化し、今度は今泉の咬みつきが空振った。

 

「グゥウ……」

 

 素早く後退して距離を取り、周囲を警戒しながら唸る老武士。

 辺りを見回しても、萃香の姿は見当たらない。だが、萃香の妖力はそこかしこに感じ取られる。おそらくは疎を操り、自らの身体を霧へと変え、辺りに潜んでいるのであろう。

 この状態で彼女を仕留めきるのは難しいが、逆に彼女がこちらの命を奪うこともまた、難しい。

 霧のままだと決定打を与えられない萃香は、必ず霧化を解く。

 彼はその機会を油断せず待っていた。

 

 ——果たして、彼の予想は的中した。

 

「ソコダァァ゛ッッ!!!」

「ぐっ!?」

 

 萃香の脇腹を、爪が引き裂いた。

 背後から迫っていた萃香の一撃をすんでのところで回避し、今泉は前足で切り裂いたのである。まさか完璧に対応されるとは予期していなかったのか、萃香はもろに一撃を食らってしまった。

 

 彼の大狼の爪は、鬼の表皮を切り裂くまでに鋭利で頑丈である。

 だが、どれだけ鋭い一撃であろうと、それだけでは鬼を怯ませることなど不可能。

 ゆえに彼は攻勢を仕掛けた。

 

「ガゥッ!!」

「ぐ、こなくそっ!」

 

 前足で萃香の身体を押さえつけ、すぐさま肩に咬みつく。

 ぶちぶちと嫌な音を立てて肉が裂け、牙が深く突き刺さった。そのまま鋭い牙で首を引き千切ろうとする老武士に、抵抗する萃香。

 

「ち、鬱陶しいっ!!」

 

 萃香は巴投げの要領で無理やりに彼を空中へ放り投げると、食い千切られた方の肩を手で押さえながら、手に巻き付いた鎖を妖術によって伸ばし、今泉めがけて飛ばした。一度拘束してしまえば対処するのは容易い。身のこなしが己より勝る相手であろうと一気に脅威を削ぐことができるはずだ。

 対する彼もまた、捕まるまいと全力で疾走し迫りくる鎖を紙一重で回避する。

 

 相手に息をつかせてはならない。思考する余裕を与えてはならない。

 

 萃香と老武士はまったく同じことを考えていた。

 両者の駆け引きは短時間で数えきれないほどまでに及び、じりじりと互いに消耗を強いていた。

 

「だぁァァァァァァァァッッ!!!!」

 

 痛む肩を庇うこともなく、萃香は妖力を纏わせた鎖を強引に掴み振り回した。

 妖術によって引き延ばされた鎖は城下に立ち並ぶ屋敷を次々となぎ倒しながら、恐ろしい速度で今泉へと迫った。彼女が全力で振り回せば、いくら老武士の目をもってしても対応できるものではなくなる。彼からすれば、もはや自分の運に任せるほかなかった。

 戦闘で培ってきた勘と、己を今まで生かしてきた悪運。それらは彼を一歩、そしてまた一歩と前進させた。

 

「ガァァァァァァァァァッ!!」

 

 自身の恐れを殺し、ただ前へと駆ける老武士。迫りくる鎖をすんでのところで回避し、彼は萃香のすぐ傍まで再び接近した。

 

「運のいい奴めっ!! しぶといっ!!」

「オォォォォォォッ!!」

 

 血に飢えた獣の咆哮。

 彼は全力疾走したそのままの勢いで萃香の首元に咬みつき、今度は首を左右に振って、咬み千切ろうとした。

 

「ぐっ、づぅっ!!」 

 

 萃香の首元から鮮血が撒き散った。

 再生力が間に合わぬほどに傷が深い。

 激痛に顔を歪ませる萃香であったが、彼女は無理やりに笑った。血にまみれた姿でなおカラカラと笑う様はまさに鬼気迫っている。暴力をさらなる暴力で押さえつけようとする、獰猛な笑みであった。

 

「——はっ、痛かないさ!! この程度、アイツの痛みとは比べ物にもならない!!」

「!?」

 

 完全に萃香を押さえつけてたはずなのに、気づけば己の身体が遥か後方へ吹き飛んでいた。

 

「(あの状態でもまだ動けるのか……)」

 

 空中で華麗に身を翻し、民家の屋根の上に着地する今泉の老武士。

 

「(……なんだ、この“重み”は……?)」

 

 身体がいつの間にか重くなっていた。つい先ほど勝敗の天秤は彼の方へと傾いたはずであったが、彼はその実、かなり疲弊していた。

 彼が一瞬感じてしまった、『優勢になった』という意識。その一瞬の油断こそが致命的となっていたのだ。

 彼は、反応が遅れてしまったのである。

 その結果、全身が圧縮されるような、不思議な力が彼に働いていた。

 

「(伊吹め……何をした……?)」

 

 後方に吹き飛ばされ意図せずして距離を取ることができたものの、未だ己に働く謎の力は判明しないまま。先ほどから眩暈がする他、戦いの最中というのに、集中力がどうにも欠ける。これでは己自身の速度に思考が追い付かなくなってしまう。己の速さというアドバンテージが失われたも同然である。

 

 毒か? いや、そのようなはずはない。毒を盛るような仕草など見受けられなかった。

 混乱する彼は萃香の能力の汎用性の高さを認識していなかった。

 

『密と疎を操る程度の能力』

 

 先ほど、萃香はその能力により周囲の空気の圧力を変化させていた。そして周囲が急激に加圧された結果、彼は肉体に不調をきたしていたのだ。

 視覚、聴覚ともに負担がかかる中、彼は必死に打開策を考えていた。

 

「(このままでは、不味い……)」

 

 刻一刻と症状は悪化の一途をたどっている。

 無論、彼のもつ知識からでは、自らの症状が周囲の気圧の変化によるものであると結論付けられない。原因を突き止め、直接的な打開策を講じることは不可能である。

 しかし、現状から脱却しうる手段は有していた。

 ただ、それを本当に使用するべきかで彼は悩んでいた。

 

「(だが領主様より与えられたこの力。使わない手はない。しかし——)」

 

 彼は一瞬たりとも萃香から目を離さず、唸りながら呼吸を整えた。

 

「(そもそも領主様は、本当に私達を信じておいでなのだろうか? なぜ、領主様は私達を前線に立たせなかった? さすれば、防衛部隊が全滅するなどという悲惨な結果にならなかったはず。城下も壊滅を免れたはずだ……)」

 

 彼は萃香の前に立つ直前に、領主からある力を受け取っていた。使い方にもよるが、この状況を打開することはできるかもしれない。しかし領主の与えた力の内容はあまりに不可解。

 与えられた力を使うべきか、使わざるべきか。無自覚に領主への不信感を抱いていた彼は迷ってしまった。

 

 普段の彼なら戦闘中、そのようなことに気を取られることはない。だが、萃香によって意識を半ば混濁させられている今の状況で、潜在していた領主への不信感が意識の表層へ浮かび上がってきてしまっていたのだ。

 

「(……いや、落ち着け。今はなりふり構っておられん。まだ頭が働くうちに、手を打たねば——)」

 

 老武士はゆっくりと息を吐き、呼吸を整えた。

 その一方で、萃香はその様子を窺いつつも、徐々に違和感を覚えはじめていた。

 けっして己が追い込まれているというわけではない。しかし、彼の老武士はまだ何かを隠していると自身の直感が訴えていた。

 

「(今ここで潰すべき、か。やっぱり下手に考える時間を与えるもんじゃない)」

 

 相手の全てを引き出し、それを受けてなお勝利する。それが鬼としての誉れである。しかし萃香はこれまでの失敗を含めて、他の鬼とは異なる行動原理に従うようになっていた。

 特に、月での失敗は彼女を大きく変えたとも言える。

 あれから萃香は、ときに狡猾さを伴うような行為にも忌避感を覚えなくなっていた。

 ゆえに、先に動いたのは萃香だった。

 彼女が導き出した結論は早期に決着をつけること、ただ一つであったのだ。

 

「おらぁぁァァァァッッッ!!!」

 

 踏み出す一歩は鋭い。

 今泉が完全に呼吸を整える前に、隙をついて萃香は攻めた。

 彼が立つ民家の屋根までの距離を一息で詰めると、己の身体を敢えて重くし、高密度になった拳で地面を突き破った。

 城下町の大通りが大きな音を立てて割れた。

 地割れの底から“山”を思い起こさせるような大きさの岩盤が突き出てくる。萃香はそれの端をむずと掴むと、無理やりに引き千切って持ち上げ、老武士に向かって放った。

 

「『戸隠山投げ』」

 

 人間でいう“常識”そのものを覆すような、まさに天変地異。

 この光景を目にした者は誰でも『大地が空から降って来る』と、そう評するだろう。

 大小様々なおおきさの岩、そのどれもが、形を崩すことなく標的めがけて落下する。萃香の『密と疎を操る程度の能力』によって空中での軌道が微調整され、放り投げた岩すべてが彼へと向かうようにしたのだ。

 見掛けでは大雑把で荒々しい技であるが、その実、繊細さも兼ね備えていなければ成立しない。それゆえに、周囲に与える被害は凶悪であった。

 

「(——なるほど、外の防衛部隊が全滅するわけだ。直前に領主様が張られた結界で守られていなければ、都は既に焦土と化していただろう)」

 

 迫りくる圧倒的な暴力に対して、今泉は奇妙なほどに冷静だった。すでに、彼の意識は領主の“能力”によって、影響を受け始めていたのである。

 彼は自覚していないが、先程まで萃香の能力によって麻痺させられていた感覚器官は既に回復していた。

 

「(訂正しよう。貴様のような化け物を、私一人で打ち取ることはできないかもしれん)」

 

 徐々に、彼の背中が光を帯びていく。

 

「(だが——)」

 

 己を襲う巨大な岩盤は現実であるが、それも所詮は“ただの岩”。ならば打ち砕いてみせればいいのだ。

 

「(たとえ私が破れようとも)」

 

 背中から発っした光の奔流が放射状に広がり、次第に今泉を包む。

 

「(たとえ、この国が滅びようとも。勝つのは我々だ)」

 

 すると、豊かな黒色の体毛に覆われた狼の身体はさらに巨大なものとなった。

 

「——ォ」

 

「オオオオォ」

 

「オ゛オ゛オ゛オオオオオォ!!!!」

 

 黒狼は吠えた。

 まさに獣の咆哮であった。

 そして彼の背中に存在する“扉”が、彼の咆哮に呼応して、眩く輝いた。

 

 間もなく空中の大岩は、けたたましい音と共に割れた地面へと衝突した。

 城下町の約七割が呑み込まれる中、立ち昇る砂埃は天高く昇っていく。以前、紫と萃香が一騎打ちをしたときと同様、辺りの景色は一変した。

 

 もう、この町に再び住みたいと考える者などいないだろう。

 城下は、現時点をもって完全に壊滅した。

 

「——はぁ、はぁ……」

 

 さすがの萃香も息が上がっていた。素早い今泉の老武士を相手にする中で、彼女はほとんど呼吸をしている間がなかったためである。

 長時間潜水を行った後のような疲労感が彼女の身体を襲った。

 

「(さすがに、()()()避けられないだろう……)」

 

 今泉が『戸隠山投げ』を回避するのは想定内。彼女はそう考えていた。しかし、無傷では済まないとも考えていた。

 彼に向かって飛来した岩は、萃香が引きずり出した巨大な岩盤が目を引くものの、他にも多数の大小さまざまな岩が降り注いでいる。大きなものでは人の住む住居に匹敵し、小さなものでも人の頭ほどの大きさはある。直撃はせずとも負傷くらいはするだろう。

 

「(アイツは、他の五人とは違った。たしか頭領って言ってたか? まだ何か隠しているのかもな)」

 

 すると、

 

 町の一角から広がっていた土煙が、渦を巻いて空へと巻き上がり、徐々に景色が鮮明となっていく。

 

「……これは驚いた」

 

 萃香の栗色の髪が風でなびいた。

 無論、この風は自然のものではない。彼が巻き起こしたものであろう。

 

「二回戦ってところかい……。本当にしぶといね、アンタ」

 

 萃香は不敵に笑った。

 立ち昇った渦の中心には、黒い狼が一匹。その紅い双眼で、こちらを鋭く睨んでいた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 萃香が城下町を襲撃している最中のことである。

 

「茜様」

 

 大天狗は茜の屋敷へ報告をすべく、足を運んでいた。

 

「鬼の皆さま方に、動きがありました」

「……入りなさい」

 

 部屋への入室を許可されると、大天狗は静かに扉を開け、入室した。

 中では茜が、机に重ねられた書類と睨めっこをしている最中であった。視線は相変わらず大天狗の方へ向けられてはいないが、彼は構わず報告する。

 

「使い魔からの報告によりますと、彼らが人間達から離れていくように移動を開始したとのこと」

「なるほど、続けなさい」

 

 朗報、にも聞こえる。

 しかし、依然として彼女の目は厳しかった。開戦してからまだ間もないが、情報は彼らに伝わっているとみて間違いない。いくら鬼が人間から遠ざかるように移動しているとはいえ、それが交戦しないことを担保するわけではないのだ。紫がしくじるとは考えにくいが、このとき彼女は最悪を想定した。

 

「さらに星熊勇儀殿から、『この戦には不干渉』という書状を受け取りましてございます」

「なんですって?」

 

 大天狗の方へ首を向け、茜は思わず素っ頓狂な声を上げた。次いで、恐る恐る大天狗から書状を受け取る。

 すると確かに勇儀の筆跡で、今回の戦に不干渉の立場を取ること、また、住処を別の場所に移すという内容が記されていた。紛れもなく、これは紫の働きかけが上手くいったことによるのだろう。書状を読み終えた茜はそっと、胸を撫でおろした。

 

「良かった……」

 

 しかし、彼女は不思議に思った。

 

「(一体どのような手で鬼の皆様を鎮められたのですか、紫さん? 申し上げにくいですが、貴方は方々と特に相性が悪かったはず……)」

 

 紫は、周囲に対して無自覚に“畏れ”を振り撒く。

 彼女の特性として、それは抑えられるような代物でない。ゆえに慣れぬ者からすれば、彼女は自身の思い描くものの中で最も恐ろしい存在として映ってしまう。人間ならばいざ知らず、妖怪でさえもその限りではない。さらに厄介なことに、彼女自身がその気になってしまうと、対象に対して根源的な死の恐怖を呼び覚ますことすらできてしまうのだ。

 

 人間であれば肉体的な死を想起させることができるが、鬼にとって最も恐ろしいものとは、肉体的な死ではない。それならば、鬼が彼女と相対した場合、どうなるのか? 

 

 人間を相手にしたときよりも壮絶な光景が作り出されるのだ。

 まさに地獄絵図と化す。

 鬼すらも恐れる“虚無”として、八雲紫は認識される。心を保てなければ発狂し、暴走してしまうことだろう。すなわち紫が鬼の集団の元を訪れると、下手をしてしまえば大規模な暴動が起きかねないのである。

 

「(今、それを気にしても仕方ないですね……。事実として上手くいったのですから、私から言うべきことはないでしょう。それに——)」

 

 茜は、大天狗の報告が終わっていないことに気づいた。

 

「……まだ、何かあるようですね」

「はい。鬼の皆さま方が戦に参入する危機はひとまず脱しましたが、人間たちの襲撃は以前続いたままでございます。現在は襲撃が止んでいるところですが、麓より離れた場所に戦力を結集し、なおも兵力が増大しているとの報告を受けています。今のままでは、押し切られまする」

「そうですか……」

 

 はじめ、茜と大天狗は人間を相手にしても十分に勝機があると考えていた。しかし、いざ蓋を開けてみれば、想像を超えた圧倒的な数に加えて、強力な兵士達を相手にすることになった。戦線は未だ崩れていないものの、被害は少なくない。

 そこで根本的な問題を解決すべく、人間達の身に働いている不可思議な力について部下に調査を命じているが、状況は芳しくない。

 当初の予想を遥かに超えて、大苦戦を強いられていた。

 

 勿論、茜や大天狗など、有力な者自らが前線に立って蹴散らすという手段もとれる。彼らが加われば戦況を大きく変えることも不可能ではない。だが、一度前線に出てしまえば、もはやこの戦に歯止めはきかなくなる。

 既に人間と妖怪の間での全面的な戦となってはいるが、どちらも未だ主力を投じてはいない。どちらか一方が主力を投じれば、歯止めが利かなくなり、互いに大きな消耗を強いられることとなるだろう。

 そして、この戦を大規模にできない理由はもう一つある。それは、京に存在する陰陽師や、妖怪退治専門の侍達の存在だ。彼らは数が少ないものの茜や大天狗からしても脅威となり得る。何より彼らの恐ろしいところは、遠方まで嬉々として出向いてくる点である。東国の、それも小国ではあるが、この国に京から討伐隊が派遣されるとも限らない。

 それゆえに、茜は未だ有効な手立てを打てなかった。

 

「(何にせよ、このままではいられないですよね)」

 

 茜は額を手で覆い溜息をつくと、大天狗の方を向いて言った。

 

()()()への依頼は既に済みました。彼女たちはこちらの依頼を聞くなり快諾したので、すぐにでも前線へ出張って来るでしょう」

「……恐れながら、奴らを登用するのは、やはり危険を伴うかと。確かに今のままでは不味いと申し上げましたが、これをきっかけに奴らが勢力を伸ばすやもしれませぬ」

「前にも言ったでしょう? こうなってしまうと、他の手段を選んではいられないのです。彼女たちのように目立たず裏から戦力を削ぐ存在が、今の私達には必要なのだから」

 

 大天狗は唸った。

 土蜘蛛と呼ばれる者達。彼女たちは強力かつ無慈悲な妖怪として、周囲から恐れられている存在の一角である。鬼や鴉天狗ほどの大きな勢力を持っているわけではないが、妖怪の山において、無視できない勢力の一端でもある。

 大天狗が顔をしかめたのは、単純に彼女たちの気質が危険であるためだった。基本的に土蜘蛛は狡猾で、手段を択ばないような者が多い。気を抜けば、天狗ですら出し抜こうとする連中である。そんな彼らを登用することに、大天狗は不安を覚えていた。

 しかし、

 

「……いや、仕方ありませぬか。これ以上の被害を拡大させるわけにもいかず、そして人間達を刺激しすぎることもまた、危険ですからな。目立たず戦力を削げるのは、天魔様のおっしゃるように、土蜘蛛の他おりませぬ」

 

 大天狗は結局、茜の案に従うことにした。自分が前線に立つわけにいかないことを彼は理解している。表立って行動できる者が少ない中、確かに土蜘蛛の協力は欠かせない。

 

「ええ、彼女たちなら上手くやってくれるでしょう」

()()()()()、ですか?」

「……そうです」

 

 その名を口にした瞬間、茜の顔が曇った。

 

「こう言っては差し出がましいかもしれませぬが、あの者をあまり信用しすぎないよう」

「分かっていますよ。私だって、天魔の役目くらいちゃんと理解しているのですから。しかし、私は彼女を信じたい」

「そうでございますか……」

 

 大天狗は逡巡した様子であったが、

 

「……それならば、私はこれにて」

 

 やがて何も言わずに去った方が良いと結論付けたのか、静かに退出した。

 それを見送った茜は深い溜息をついた。

 届いた土蜘蛛からの書状によると、早ければ今晩からでも活動を開始すると書かれていた。襲撃してくる人間達の相手をしっかりと努めてくれると、彼女は期待している。

 だが、懸念事項は妖怪の山のみではなかった。

 

 大天狗が部屋を訪れる前、彼女はずっと書類に頭を抱えていた。

 それは、萃香の件である。

 

「(萃香様が領主の城を襲撃してから、使い魔からの連絡が途絶えた……)」

 

 紫が勇儀をはじめとした鬼の集団を戦から遠ざけてくれたものの、伊吹萃香という大駒は依然として盤面に残ったままだ。

 妖怪の山への襲撃に使われる戦力を分散させてくれてはいるが、彼女が城下を壊滅に追い込めばもはや人間と妖怪の間の溝は修復不能となる。

 

 奇跡でも起きなければ、この地域一帯の人間は疲弊し、やがて死滅してしまう。あるいは京から大規模な討伐隊が派遣されるだろう。そうすれば、幻想郷の創立などもっての他で、自分達妖怪も住処を変えなければならない。

 現状は、常に綱渡りなのだ。

 一歩でも踏み外せばもう後戻りはできない。多くの生命が死に絶え、地獄は魂であふれかえることになる。

 

「(ん……?)」

 

 茜は何やら背筋に鳥肌が立った。

 

「(これを、紫さんは狙っていた……?)」

 

 これまでの紫の言動がつながる。

 

 ***

 

『星熊勇儀は私が抑えに行くわ。丁度、鬼を含めた荒くれどもを詰め込む()()()が見つかったの』

『ゆ、紫さん自らですかっ……!?』

『ええ、だから鬼に抑止については私に任せなさい。ただ、しばらく私は方々に手を回すことになるから、人間達の相手は頼むわよ。活かすなり、殺すなり、貴方の好きにしなさいな』

『て、天狗の里は争いませんっ!! やっと平和を取り戻したんですからっ。それにまた人間達と争いでもしたら、紫さんの計画にだって影響が——』

『私が何も想定していないとでも? 貴方がどちらを選ぼうとそれは些細なこと。だから私は貴方に“選択肢”を与えたのよ。貴方が思う、“最良”の選択をなさい』

 

 ***

 

 茜の選択に関わらず、紫は未来を予測しているかのようなことを言った。さらには最良の選択をせよ、とも言っていた。

 

「(まさか)」

 

 急に立ち上がったため、座っていた椅子が倒れた。

 

「(そんな……)」

 

「(——()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!?)」

 

 

 

 ******

 

 

 

【神無月 一日 昼】

 

 あれから、数度に及んで城下町の破壊が起きた。

 お互いに一歩も退かず、全力でぶつかりあえばそうなってしまうのも頷ける。特に萃香の攻撃は周囲に影響を与えやすい。彼女が暴れまわれば、地は割れ、屋敷はあまねく燃やし尽くされるのだから仕方がないだろう。

 

 老武士はよく耐えた方であった。あくまで“人間”に分類される彼が、伊吹萃香という大妖怪の領域を超えるような存在に、一時とはいえ咬みついたのだ。

 無論、相性もある。萃香に対してはその素早さが有利に働いたが、それがかえって仇ともなってしまったのだ。他の者であれば異なる結果になりえたかもしれない。博麗の巫女に対しては十分に力を発揮し、討ち取るまでに至った。茜や妖忌であろうと、勝利までとはいかずとも、撃退くらいならば可能であったかもしれない。

 

 しかし、結果は結果として、無慈悲であった。

 伊吹萃香は正真正銘の化け物だった。

 

 

 ***

 

 

「はぁ、……はぁ」

 

 肩で息をする今泉の頭領。

 あれだけ大暴れすれば、もう精も根も尽き果てただろう。右腕は根元から奪ってやったし、身体のあちらこちらは火傷に裂傷だらけ。もうコイツにこれ以上、戦う気力など残っていないに違いない。

 

 コイツは姿を狼へと変え、私に差し迫る勢いで応戦して見せた。それに『戸隠山投げ』を切り抜けたのは、さすがに驚いたよ。

 きっと状況が状況なら、私が殺した他の五人と一緒に挑めば、あるいは勝機があったのかもしれない。そんなことをぼんやりと思った。

 

 だけど、今更どうでもいい。目の前に入る奴が格下だろうが、格上だろうが、そんなことは関係ない。ただこの身を怒りに任せている方が、私は苦しまずに済むんだと分かっていたから。戦いを愉しんでいるよりも、ずっと。

 

「殺すがいい……。もはや、悔いはない」

 

 一時は不気味なくらいに威勢がよかったが、何だか放心しているようだった。今やっと、正気を取り戻したみたいだ。途中からおかしいとは思ったけど、やっぱり自我に何か負担をかけていたのかもしれないね。

 だが、それにしてもさ。

 なんだろうね、この虚しさは。

 

「そうか……悔いはない、ね……」

 

 抵抗する気力もないんだろう。今なら楽にやれる。

 なのに、一思いにコイツを殺せない私がいた。

 

「ほんと、勝手なもんだよ。自分の番が来たら、潔く死ぬのかい……」

 

 不思議な気分だ。この怒りは嘘偽りのない、本物だったはずなんだ。

 なのにどうして、こんなにも虚しいんだろう? 今、私の目の前にはアイツを殺した張本人がいるっていうのに。

 

「どうしてさっ……」

 

 もう抑えきれなかった。

 

「どうしてアイツは死ななきゃならなかった! どうしてアイツだったのさっ!?」

 

 分かってる。こんなことを言ったって無駄なんだ。

 コイツにいくら怒鳴っても、私の満足いくような答えなんて返ってくるはずもない。

 

「一生懸命働いたのに、割を食わなきゃいけないっていうのかい? おかしいよ、そんなの」

 

 でも、言葉にしなきゃおかしくなってしまいそうだった。

 

「博麗の巫女は、民からの支持を集めすぎてしまったのだ。国を守る領主様にとって、彼女の存在は危険にほかならかった」

「そんな理屈が通るものかっ!!」

「すべては国を守るため!! 民が死のうと、城が落ちようと、国を守らねばならぬっ!!」

 

 血反吐を吐きながらそう叫んだ今泉は、私を見据えて言った。

 

「鬼の頭領よ。これが人間だ。人間が築く国というモノなのだ。我々は貴様らのようには強く生きられない。罪なき者が、いわれなき理由で死なねばならぬ時がある。国の礎となるために」

「それが偶々アイツだったと?」

「……そうだ」

 

 まるで話にならない。

 ああだめだ。

 こんなに憎いのに。殺意が、敵意が静まってしまう。

 まるでこの男は殺してはならないのだと訴えかけてきているみたいに。

 

「……ああ、やっぱり私はお前を許せない」

 

 思えば紫のときもそうだった。紫が憎くて憎くてどうしようもなくて、私は毎日血眼になってアイツのことを探し回っていた。

 だけど、あの戦いの後、私の中から憎しみは綺麗さっぱり消え失せていた。今ではどうして憎かったのかすら、思い出せない。

 

 月の都を攻めたときもそうだった。そうだ、私は綿月とかいう月の都の武将に完膚なきまでに敗北したんだ。本来、私の死地はあそこだったんだろう。散々痛めつけられて、死んでもおかしくはなかった。それで、紫に助けられて……。

 

 ……紫に助けられて? 

 

 ふと我に返った。身体の奥から熱くなっていたものが急に冷めてきて、次第に背筋が凍りつきそうになった。

 

「(私は、何かを忘れている……? 紫に助けられて、それからどうなった?)」

 

 何かが隠されている。

 

「(私は、あの後、一体どうなったんだ? ……くそっ、思い出せない!)」

 

 何かが、なかったことにされている。

 なぜ今まで気づけなかったのだろうか。

 私の記憶は、恐らく誰かによって一部を秘匿されている。私だけじゃない。幽々子も、妖忌も、茜も、そして初代だって。

 

「(皆、何かを忘れさせられているんだ……。その証拠に、誰もあの戦のことを自分から話そうとはしなかった……まるで何事もなかったかのように——!!)」

 

 途端にある仮説が思い浮かんだ。

 

「(誰かが、私らの動向を監視していた……?)」

 

 それは、紫なのだろうか。いや、わざわざ自分で自分の計画を邪魔立てする理由が見つからない。

 すると、幽々子か? 茜か? それとも——。

 いいや。まだ、分からない。どれもこれもが不確かだし、今現在、私にそれを判断する情報が整っていないんだから。

 すると今、目の前のコイツには、聞かなくちゃならないことがある。

 

「今泉、お前は確かその頭領だったよな? ……いつからこの国の領主に仕えている?」

「……貴様……何故、そのようなことを——?」

「いいから、質問に答えろ」

 

 片腕が焼き切れた今泉は、時折、血の混ざった咳をしながら私の質問に答えた。どうやらコイツは、私の予想通りもっとも長くこの国の領主に仕えているという。

 それならなおさらだ。

 

「お前たち……いや、お前たちの背後にいるのは、何者だ……?」

「背後……とは? 私達が忠義を尽くすのは、ご領主様ただ一人……何を、戯けたことを言うておる?」

「今の領主は、本物なのか——?」

「なっ!?」

 

 今泉が目を見開き、そのまま固まった。

 負傷した右腕のことを忘れたみたいに、何かこれまでの記憶をつなげ合わせようとしている様子だった。

 コイツも、薄々感じていたのかもしれない。

 そもそもコイツが領主に仕え始めた理由というのが、なんでも神通力をもってしまったその身を匿い、果ては一族を庇護してもらった大恩があったから。そんな男ですら己の領主に疑念をもっているんだ。どう考えたって、今の領主が異常なのは間違いないだろう。

 

「(初代。アンタを殺したコイツのことを、私は許せそうにはない。人間達を殺したのだって、後悔していない。けれど、それでもね)」

 

 ——私はアンタのいない世界に、何を見出せばいい? 

 

「……私は、この憎しみを誰にぶつけたらいい? 沢山侍達を殺した。城下を潰した。逃げ惑う奴等だって、容赦なく、叩き潰した」

 

 でも、このままじゃ終われないんだ。

 

「私は、敵を見誤っていたのかもしれない……。ここに来る前から」

「貴様っ!!? 今更、何を——!!」

「ああいや、後悔なんぞしていないよ。お前たち侍が初代を殺した。それは紛れもない事実だ。それだけでこの国を潰す理由は十分にある。だがな——」

 

 不愉快だ。私は怒りで我を見失っていた。

 

「今回の騒動、誰かが裏で糸を引いている可能性がある」

 

 危うく再び過ちを犯すところだった。すぐにコイツの命を奪っていたら、気づけないままだったかもしれない。

 

「(すると私は……嵌められたのか。二代目の言ったことは、つまり——)」

 

 あの小娘の言ったことは、こういうことだったというのか? だが、小娘が知っていたとは思えない。いくら式神を使って情報を得ることができると言ったって、限度がある。それも警備が厳重な城下の、それも領主の居城に潜入することは容易くないだろう。

 それなら、二代目がずっと感じていた“違和感”の正体は? 何かが繋がりそうなんだ。

 

 考えろ。今までの過ちを忘れたか。

 まず落ち着いて状況を整理するんだ。

 

 始まりは、隣国との人間同士の戦。

 人里を襲った飢饉と疫病。

 初代の雨乞い。

 そして、初代の殺害。

 ほぼ同時期に始まった妖怪の山との戦。

 最後が、私の城下町への強襲。

 

 これら一連の出来事が誰かに仕組まれていたとしたら? 二代目は言っていた。『初代の雨乞いの進行に応じて戦備えが進んでいるようだった』と。初めから初代を殺めるつもりでいたのなら、この事態を狙っていてもおかしくない。

 つまりはどれもが計画的だったんだ。

 この国の領主は、この地域一帯を滅ぼそうとしているのかもしれない。それも、ただ滅ぼすんじゃない。人も、妖怪も区別なく、隣国までも巻き込んで。

 ダメもとで、聞いた。

 

「お前は、領主が何を企んでいるのか、知っているか?」

「……分からん。だが、あの方は、聡明なお人であった。ときに御自らが先頭に立って戦い、ときには里を訪れ民の話を聞いてまわった。そんな彼女が隣国との戦から、どこか変わってしまったのだ。まるで、別人のように」

 

 思った通り、だ。

 

「お前も知らないのか。隣国との戦が始まったのは確か、三年前だったな……」

 

 あれから、両国が停戦するまで多くの人間が死んだ。中には、巻き込まれて滅んだ小国だってある。だが、この国と隣国は生き残った。狙いすましたかのように、二国だけだ。

 人間達の戦が始まった最中、紫は言った。

 

『いずれ此処に、“楽園”を作る。だから、どうか貴方達の手を貸してほしい』

 

 初代は迷うことなく紫の言う“楽園”の計画に手を貸すことを決めた。茜も幽々子も、妖忌も、そして私も、結局計画に一口噛むことになった。

 この計画に必要なのは、まず土壌だ。人と、妖怪の間の溝は深い。だからまず、互いに理解し合えるような土壌から作り上げなくちゃいけないって紫が言っていた。

 もっともだと思う。だが、

 

 もしも、この地域一帯から人も、妖怪も皆死んでいったのだとしたら? 

 

 計画は、破綻する。全てが無に帰するだろう。

 つまり、この国の領主の目的は、私達の計画を潰すこと、か? それとも、その領主の背後に、何者かがいるっていうのか? 

 

「……お前を、今ここで殺すのはやめだ」

 

 先に確認しなくちゃならないことができた。領主に問わねばならない。コイツを殺すのは、その後だ。その前に勝手に死ぬのなら、それはそれでいい。

 私は領主の居城を目指して歩いた。

 この国の領主と呼ばれる、得体の知れない何かがこの先にいると信じて。

 

 

 

 ******

 

 

 

【神無月 一日 夕刻】

 

「ゆ、ゆかりさま。あれで、ほんとうによろしかったのでしょうか?」

 

 紫を見上げる彼女は、不安そうな顔をしていた。

 

「おそれながら、“おに”は、ほんとうにこちらのいうことをきくとはおもえません……」

 

 これまで再三、鬼の住処へと赴いては情報収集を行いながら交渉の場を整えてきた。そして今回、ようやく鬼の頭領の元へ直接交渉をもちかけるまでに至ったが、もちろん彼らは快諾するはずもなく、一部の者達が襲い掛かって来た。その場で大規模な戦闘に発展したのである。

 

 しかし、最終的にはこちらの要求を受け入れさせる結果と相成った。

 

 結果だけ見れば成功したとも言えよう。だが藍が懸念しているのは、事態が簡単に進み過ぎている点である。

 藍の指摘はけっして見当違いなどではなかった。

 

「そうね……、ところで藍。貴方は、急に自分の縄張りを誰かに奪われたとき、どんな気持ちになるかしら?」

「ふえっ?」

 

 質問にまさか質問で返されるとは思っていなかったのか、藍は素っ頓狂な声を上げた。しかし、よくよく思い出してみれば、このようなやり取りは今回が初めてではない。そう思いなおした藍は、紫の質問への答えを考えた。

 幾ばくかして出てきたのは、

 

「えっと、いやな……きもちになります」

 

 無難な答えであった。

 というより、当然である。誰だろうと自分の縄張りを荒らされたらいい気持ちになるわけがない。

 

「なるほどね。ならば、奪うのが人でなく、必然的な事象であればどうかしら?」

「……?」

 

 人ではない、ということなら他に何があるのだろう? 藍は考え込んでしまった。

 

「もしも、誰かの仕業と言えるような人為的なものでなく、不特定多数の要素が絡んだ逃れようのない“悲劇”であったら……? 誰も恨むことはできないでしょうね。なにせ対象がいないのだから。きっと、納得はできなくとも、受け入れざるを得ないでしょう」

 

 未だ答えが分からず考え込んだままの藍の頭を、紫はそっと撫でた。

 

「まあ、私は誰から恨まれようと、気にしないけどね」

 

 いつになく優しく微笑む主人の姿は心なしか泣いているようにも見えた。しかし藍はぐっと堪え、口に出さなかった。

 

 数時間前。

 紫は妖怪の山の一角の、鬼たちがねぐらとする洞穴へと足を運んだ。当然、道中彼らに囲まれ一触即発になり、一部の発狂した者に襲われたが全てを返り討ちにした。

 とはいえ、彼女の目的はあくまで交渉。まともに相手をするでもなく、再起不能になる一歩前まで叩きのめしただけであった。

 

 その光景は隣に控えている藍ですら、畏怖するくらいであった。襲い掛かって来た強大な鬼を、有象無象を相手にするかの如く薙ぎ倒したのだ。しかし何よりも藍が驚いたのは、萃香が不在の中、鬼を率いていた星熊勇儀の言動である。

 

「(ほしぐま、ゆうぎ……。まさか、たたかいもせずに、まけをみとめるなんて……)」

 

 彼女だけは、紫と事を構えなかった。

 紫を目にした途端、それまでの剣呑な表情が消え、戦意がなくなっていたのだ。紫が鬼に対して要求したのは人間への不干渉。人間を大層恨んでいたはずの彼女が、どうしてそのような要求を受け入れたのだろう? 

 二人は、たいして言葉を交わさなかった。にも関わらず、去り際に『いつの日か、また会おう』という言葉を残して、彼女は鬼を率いて何処かへ行ってしまった。

 

「(まさか、おしりあい、だったのでしょうか?)」

 

 藍には分からない。彼女の知る限りの交友関係は、西行寺幽々子をはじめとした面々である。もしかすると伊吹萃香を介して勇儀と顔を合わせていたのかもしれないが、事実は依然として明らかにならないまま。紫本人が口に出さない限り、藍は知ることもできないだろう。

 俯きながら考え事をしている最中に、紫は藍に語り掛けた。

 

「初代博麗の巫女は、本当に残念だった。彼女を説得できなかったのは痛いけれど、それをあまり気にすることはないわ、藍」

 

 藍が俯いているのを見た紫は、何やら勘違いをしたらしい。

 彼女が悩んでいる理由が、博麗の巫女の説得失敗にあると考えているようである。

 

「計画は少しずれたけれど、概ね上手くいっている。ああそれと、これから、四季映姫にも会いに行くことになるわ。私の傍を離れないように、ね?」

 

 もう一度、紫は藍の頭を軽く撫でた。藍の『なぜ』という質問を遮るように。

 

「……はい。ゆかりさま」

 

 ゆえに藍は抗えない。

 自ら能動的に思考することは大切であるが、主の計画の障害となってはならない。今は命令に忠実に従うべきだと判断したのであろう。彼女は恭しく礼をすると、前を歩く紫の斜め後ろに控えた。

 

「さてさて、()()()()()()()()()()。怨霊に溢れかえるその場所を、そろそろ明け渡してもらおうかしら」

 

 此処にはいない誰かに向かって、紫は言った。

 

 

 


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